4.
マーニ行きのシャトル『月女神の駿馬』号の内装は、その黒い外観と違って白く、清潔さを保っていた。が、それは特別清掃に力を入れていると言うよりも、単純に乗客が少ないというだけであろう。ムーンラッシュも過去の話であり、貧民街のイメージが付いてしまった昨今では観光客も余り行くまい。
事実シャトル内に居る乗客は、ハンス・エーヴァルトだけだった。それなりに広い船内を独占するというのは、お節介焼に合わずに済む半面、複雑な気分でもある。最近は一人で出歩く事も稀な事だったから。
それを思った時、ハンスの右腕が軋んだ。彼女の細腕を絡ませていた辺りが。彼は眉間に皺を寄せると、左手でそっと、ただ垂れ下がっているだけの袖ごと右肩を掴んだ。腕と共に彼女を失ってから、時折幻痛が迸る。無い筈の腕が、ある様に痛みを訴えるのだ。
彼はふぅと吐息を零すと、座席の背凭れに深く埋もれて痛みが引くのを待った。
暫く待ってようやく傷みが薄れると、彼は体内の機械を操作、今や冥王星の衛星都市にまで広がっている、文字通りの世界情報網羅網へと接続した。
お決まりの様に表示されるウィンドウを持って検索し、閲覧する情報は、ハンスが追い駆ける者について。資格者のみが開く事の出来るサイトには、多くの賞金首同様、『彼女』に関する事が細かく明記されていた。
本名イルザ・ヴォルフ。
性別女性。年齢二十七歳。
身長約百八十センチ。体重凡そ六十五キロ。西方欧羅巴地区所属。
性格は傲岸不遜であり、その家名及び能力同様、狂犬そのものの凶暴性を持つ。
旧独逸はハルツ山地方で産まれた後天的変異種。
変異進行ランクは神話的怪物級で特質は巨狼への変化。この時の詳細は不明。
現在の賞金額は、後々の増加を見越しての非表示。
幼い頃に両親を事故で失い、孤児院に入れられるが、仲間と共に施設を抜け出す。伯林にて窃盗等、小犯罪で幾度か少年院へと送られる。刑期を終えて出てからも同種の事件を繰り返し、逮捕されては釈放される日々を過ごす。そのいずれかの過程で変異を発生。巨大な狼に変化する特質を獲得し、以降、世界各地で軍警察職員を含む計三百五十一人を殺害。その他数十件に及ぶ強盗の罪により『生死不問』として全星域手配され、二ヶ月前、黒い森に潜伏していた所を、狩人ハンフリー・ブレインが『捕獲』した。
が、今後の処置を決めるべく伯林に輸送されていた所を脱走。逃走中に更なる被害を及ぼしつつ行方を暗ますも、直ぐに匿名の情報提供が入り、月都市マーニに居る事が判明。しかしその都市性、また恐らく協力者の存在(エドワード・ベイツは簡単に言ったが、その実、密航海は非常に難しいのだ)があってか、それ以上は何も解らず、誰も捕らえられぬまま今に到っている。余りに早い情報提供に、これは本人からの提供、挑発では無いかとまで言われている。
その様な、いささか常軌を逸した説明と共に走査機械上の写真(二十歳前後で更新が止まっているが)と、捕獲時の簡易牢獄での写真、それからマーニの人垣の中を歩く写真が添えられていた。顔立ちや服装こそ違うが、銀色の長髪に緋色の瞳をした体格の良い女性であるのは共通している。そこに刻まれた、犬歯剥き出しの笑みもまた変わる事が無い。
変化後の写真もある。
毛と目の色こそ人の時と一緒だが、その身の丈は五メートル以上に膨れ上がり、表情以外は狼と化して、人型戦車を吹き飛ばしている姿が捉えられていた。
それから動画もあった。
これまでの犯罪映像から捕獲時の会話、そして最新の事件映像も載せられている。
伯林での逃亡場面だ。
偶然素人が撮影したそれは、ぶれが激しく、時間も短かったが、決定的な一瞬を映している。猛然と旧道路を疾走する巨狼によって薙ぎ払われる人々。そして突進、弾かれる市営バスの姿。人型戦車すら一撃だったのだ、旧世代的なバスなど一たまりも無かったろう。
更に映像が途切れる瞬間、横転するバスから投げ飛ばされる人影が見えた。
ハンスはその場面で一時停止すると、食い入る様に影へと視線を送る。
この動画がニュース公開されてから、彼は何度も何度もそれを見て来た。
何回何十回、何百回と、だ。
右腕が再び軋み始める中、ハンスは動画を見続けた。ずっと。シャトルが発進するまでの間。発進し宇宙空間を進んで行く間。やがて月へと近付き、入港するまでの間。
ずっと。
宇宙港『月の犬』(何て縁起の悪い名だ)に、ヴァルハラ程の活気は無かった。かつては人の気に溢れた港も今は何処。人よりも物、物資運搬こそが主である為、一般人は殆ど居らず、少数の事務員と、多数の自動機械の姿ばかりが目に付く。知ってはいても地球でのそれと全く変わらない月への第一歩にいささか拍子抜けしたハンスだったが、港の殺風景さによって直ぐに我を取り戻した。結局の所、月は地球の衛星なのである。
ただ、下界へ降りる為の反重力リニア搭乗手続きも兼ねた、受付での換金処理には戸惑ってしまった。マーニでは、未だに物質としての通貨が意味を成している事位、知識としてはあったけれど、実際の貨幣を手に取るのは初めての事である。こんなもの、近代史博物館で見た覚えがある程度だ。
後々必要になる額がどれだけかは解らないが、しかし現在使用出来る資産の半分を換金したハンスは、分厚い札束を幾つも渡される羽目になり、困惑しながらもそれをポケットに押し込んだ。昔の連中は、良くもまぁこんなものを抱えて、平然と街中を歩けたものだと感心しつつ。
そうしてリニアの搭乗資格を得たハンスは、マーニへと向かった。
軌道リングを支える支柱の一つを高速で下り、その周辺に築かれた街並みの中へ。
その都市で、彼がまず抱いた印象は、伯林の外人街のものだったが、直ぐにその感想が違う事に気付いた。マーニの混乱具合を例えるのに最も相応しいのは、東方亜細亜地区の世界大都『無秩都市』香港であり、二十世紀後半までその地に存在した九龍城砦である。だが、辺りに漂う無国籍、無人種ぶりは、地球上の都市のいずれとも違う。最初期に造られた宇宙都市ならではのものだ。
ハンスは、これが月唯一の都市かと半ば呆れ、半ばで感心しながら歩いて行く。建造物のそれは所謂亜細亜的混乱を思わせるもので、月を訪れた連中は、先人の教訓を全く生かしていない様だ。そんなだから荒廃を極め、貧民街化を進め、犯罪者の逃亡先になるのだと、ハンスは憤りを覚えつつ、だがその状況に感謝もしていた。
彼が求める二つのものを、ここは有しているのだから。
その一つは憎むべき仇の存在であり、もう一つは仇を討つ為の力であった。
狩人と称される者達は、重犯罪者に対する殺傷権とその為の武器入手権を持った民間人であるが、それ以上の融資を得られるという訳でも無い。木乃伊取りが木乃伊になる事を恐れ、購入出来る銃火器も、一般歩兵用の型落ち品が関の山だったし、肉体に手を加えても、精々一流アスリート止まりである。勿論、『ただの』重犯罪者なら、それでもなかなか悪くは無かったけれど、今回は相手が違い過ぎる。ハンフリー・ブレインはその為に捕獲止まりだった。殺そうとしたが出来なかったのだという。
故に、ハンスが欲したのは、資格際限を超えた威力を有する武器だった。地上では入手困難なそれも、行政の手が行き届いていないマーニでは入手可能だと言われている。もう人体とはとても言えぬ状態にまでする人体改造も、同様だ。同じ穴のムジナとなる事に少しばかり抵抗はあったけれど、逆に言えばその程度で復讐が果たせるならば、安いもの。ハンスはそう考え、人ごみを掻き分けつつ、下層、下層へと向かっていた。
情報提供者、そして、武器販売者、改造手術者、もしくはその複合者を追い求めて。
結論を述べると、その試みは大失策と言っても甚だ間違いでは無かった。
北方亜米利加地区に並ぶ規模と実利を持つ西方欧羅巴地区に属し、中でも理路整然を尊ぶ典型的独逸人であるハンスにとって、このマーニという都市は、本質的に理解出来ないものだった様である。
妻と腕を奪った者を屠るが為に月へと来、それを行使する手段を求め、街を彷徨う彼の姿は、哀しいかな原住民から見ると命知らずな観光客と大差無いものであり、表層部から外れ、裏通りへと踏み込んだ所で、ハンスはあっと言う間に昏倒させられてしまった。
異邦改造されたスタンガンの類か。強い電流に崩れ落ちた彼の耳へ二人の男の声が届く。
「へへへ、こうも簡単にやれちまうと、ちょっとつまんねぇって思うねリチャード」
「違うぞフランク。何事も容易く行えるならば、その方がいい……見ろ、こいつ……」
「おいおい、ここは大宇宙の西部街だって事を知らないのかねこの片腕……幾らだ?」
「解らん。解らんという事は、つまり、ごまんとあるという事だ。凄いぞフランク」
「はは、確かに凄ぇ数だぜ。一山当てた訳だ、これだからこの家業は辞められねぇ」
定まらない視界の中で男達はハンスの元に歩み寄ると、ごそごそとその服を漁り、札束を見つけ出した。片目を赤く光らせるリチャードと呼ばれた男がそれを数え、頭に水牛の様な角を生やすフランクという男が、かんらかんらと貧の無い笑い声を上げる。
ハンスは起き上がろうとしたが、力が入らない。体内機械を操作しようとしても意識はふらつき命令を出せなかった。そもそも操作した所で、助けが呼べるとも思えなかったが。
がちがちと歯を鳴らしながら、彼はサングラス越しにきっと二人組の男を睨んだ。傍目にはただ見ているだけに感じられたかもしれないが、それでも睨んだ。その様子に気付いたフランクは彼の頭を掴み、
「あぁ悪いな兄ちゃん。あんたの金は貰って行くよ。何それ以外は頂かないから安心しな」
「これでも我々は良心的な方なのだよ。肉体の一部まで所有物と見なし、奪う連中と比べれば、の話だから、君には実感出来ないかもしれないがね」
リチャードがそう繋げると、彼は「まぁそういう事でよろしく」と吐き棄て、額を地面に降ろした。立ち去って行く二人の人影を見ながら、ハンスは右腕を伸ばす。自分が甘かった事は正に痛感しているし、金なんてまだ残っているから惜しくも無い(皮肉な事だが、その大半は彼女に掛けられていた保険金だ)けれど、それでも逃したくは無かった。
またか、またなのか。そんな想いが胸中に満ち溢れ。
そして、今しも爆ぜそうになったその瞬間に、彼女は颯爽と現れた。
颯爽と。そんな言葉を、この展開の中で使うのは、如何にも狙った様で余り好ましくは無かったけれど、しかし現にそうとしか言い様が無かった。彼女の登場と続く行動には。
まるで男性の様にスーツを着込んだ、長い白髪の少女が一人、ハンスを通り過ぎ、二人組の元へと近付く。彼は呆気に取られながらも、声ならぬ声で彼女を制止しようとした。クリアになり始めた視界の中だからこそ解るが、片方は変異種であり、もう片方は義体装着者である。そうで無くとも屈強な大人二人であり、少女との体格差は比較するのも馬鹿らしい程。何のつもりかは知らないが、早く離れるべきだ。
そうハンスが思った時、少女は飛び上がった。
張り付いた様な笑みを浮かべながら振り返ったフランクの頭部まで、殆ど垂直に、高らかに。そして体を捻らせながら伸びた脚は、正確な円弧の軌道を描いて側面へと注がれ、小気味良い音と共に水牛男の即頭部を蹴り抜けた。
んが、と間抜け顔を浮かべながら、フランクは倒れて行く。
恐らく何が起きたのかもちゃんと理解出来ていまい。
片方の角が折れて中空を舞い、ハンスの直ぐ側へと転がって来た。
残されたリチャードは、相棒の名を叫びながらに、懐へと手をやる。再び取り出された時には、一丁の拳銃が握られていた。月の希少金属で成形された証拠として独特の銀色を放っているその拳銃は衝撃を柔軟に吸収し、強装弾であろうと容易く発射出来る代物だ。火薬によって弾丸を射出する点においては、昔と殆ど進歩が無いけれど、その威力は折り紙済み。一人片付け、着地した少女もそれに気付くけれど、避けるには遅過ぎる。
死ねっ、というお決まりの台詞と共に赤いレンズの義眼を輝かせながら、リチャードは引鉄を引いた。いや、正確には引こうとした、だ。
彼が人差し指を掛けたその瞬間、銀色の光が片手に突き刺さり、銃身を取り落とさせる。
はっとリチャードが眼をやった先に、左手で拳銃を握ったハンスの姿があった。
痺れる体を奮い、袖の中から取り出したその拳銃は、マンストンピングパワーこそ少々頼り無いけれど弾速においてはピカイチのD&Y社謹製五ミリ電磁銃・M42オライオン。
地上にて一流アスリート程度に鍛えられたハンスにとっては、この程度の距離を外す事は無く、そうして、そこに生まれた隙を、少女もまた見逃さなかった。
リチャードが拳銃を掴もうと身を屈めたのと同時に、硬い革靴の踵がその片目へ飛び込み、サッカーボールの如く蹴り上げられた彼の頭は後方へと傾き、鈍い音を上げながら地面へとぶち当たる。赤いレンズの欠片を周囲へ散ばらせながら、ぐったりと倒れ込むリチャードの姿に、ハンスは少しばかりやり過ぎなのでは無いかとも思ったが、まだ息はある様だし、少女が成してくれた結果に変わりは無い。
強化されてはいるものの、まだ力の入らぬ体をどうにか起き上がらせると、彼は彼女を見た。少女は、髪ばかりで無く眼まで白かった。その視線をうんうんと唸っている二人へ注いでいたが、くるっと変えて、ハンスの方を見る。彼は一瞬ぎょっとしたけれど、努めて笑みを浮かべて言った。
「あ……ありがとう、助けてくれた……のだよ、ね?」
「……」
それに対し、少女は何も応えなかった。
ただじっとハンスを見続けながら、彼女は全身から煙を吹きかせると、前のめりに倒れ込む。行き成りの事に彼は慌てた。よろよろと側まで駆け寄り、少女の頬に触れ、そこで初めて気付く。おかしいと思ったのだ。余りに強過ぎると。
だがその理由も今良く解った。
少女は人では無かった。
触り具合こそ人間のそれに似せて造られてはいたものの、彼女の肌は冷たく、重々しく、血が通っていない。軽く手の甲で叩いて見れば、硬質な音が響き渡る。
自動人形だ。それも先の出力を見るに、戦闘用の。
そうハンスが考えたその時、少女の首だけがぐるんと百八十度回転させ、
「どういたしまして。もし宜しければ、私をここに連れて行ってはくれないでしょうか」
その白い眼の内に金の文字で住所を浮かばせ、驚くハンスを更に驚かせるのであった。