2.
埋められた在りし日の場所へ近付く程に、月は東から西へと昇り、時計の針は逆転する。
再び幕が上げられた物語の、辻褄合わせを語るが為に……
一年以上前の地球。
かつての旧独逸連邦共和国首都にして、世界統一連邦西方欧羅巴地区の主都市が一つ。
『機巧都市』伯林。
宇宙港『神々の住処』へと繋がる軌道エレベーター『恐ろしき神の愛馬』を始めとする超高層建築郡が聳え立ち、その間を反重力リニアが駆け抜けて行くこの街の様子は、神話を体現した光景であろう。だがそんなもの、地球や地球外の都市で幾らでも見受けられる。伯林が真に凄いのは、現代的装いを呈していると同時に、ある種の強迫観念にも似た不合理さによって、昔ながらの石と鉄の建造物をそのままの、殆ど完璧な形で残し、実際に活用している点である。これは全てが渾然一体と化した東京や、歴史が現在に組み込まれた倫敦、万古の時が永久保存されている羅馬などとは、全く違うものだ。新都と旧都はまるで二つの歯車の様に、互いにその個を主張しながら絡み合い、全体として見事な調和を築いている。合理主義であると同時に、浪漫主義であり、夢想家でもある独逸人ならではだろう。聊か変質的ではあるが。
その一環として今でも(プロペラと重力操作の混合機動が主たる地球上では、倫敦と並んで珍しい、ゴム製の車輪で)走っている市営バス乗り場に、何人かの客と共に一人の男が立っていた。
ハンス・エーヴァルトである。
彼は今、一見するとただ佇んでいる様だったが、その実は旧友との会話を楽しんでいた。
人体を含む物質の複製が比較的容易に行える様になった昨今、外部記憶は意味を持たず、個人そのものが己の証明となるべく、どの様な人間であれ、出生と同時に極小の走査機械を挿入している。
体内から人体の微細な情報(それが如何なるものかは秘匿されているけれど、有名な冗句に寄れば『生まれてから今までに食べたパンの枚数』を計測しているらしい)を取得、暗号データ化し、記録、保存するそれは、個人証明を個人それ自体に付加するものであるが、先にも記したアナログ情報のコピーが容易いという理由で個人資産としての意味も持ち、また各種通信端末機としての機能も備わっている。有体に言えば一人の生きた人間それ自体が身分証であり、財布であり、電話なのがこの時代だ。しかし、デジタル情報の危険性に対して懸念の声もあり、生理的嫌悪感から、唯一義務化されている走査機構のみを起動し、その他の機能はカード式の電子端末で済ませている人間も少なくはない。
尤も、多くの地球市民が半ば無自覚に科学の恩恵を受け取っている様に、或いはやはり独逸人的な物の考え方を持って、ハンスも自身に与えられた機能を存分に活用していた。
《やぁグレゴール。日本の様子はどうだった? ちゃんと海老天は食べただろうね》
《はぁん、当たり前の事を行って貰っちゃ困るね、ハンス。しっかり四本乗せて食べたさ。確かにありゃ腹一杯になれるがぁね。まぁ、東京自体は余り見られなかったが、なかなか面白かったぜ? 仕事で無く、旅行で行きたかった》
視界の片隅に表示される半透明のウィンドウ越しで、肩を竦ませて見せるグレゴールに、彼は笑みを浮かべた。勿論それは頭の中だけで、実際の表情には反映されない。こちらが見ている様に、あちら側が見ているウィンドウの中の自分が微笑むのだ。声も意識の内で発せられる。周囲の者達へは一切聞こえない。
《そうだな、私もカヤと一緒に行って見たいものだ……何かお勧め出来る様なものは?》
《そうさねぇ……外国人向けのガイドにある様な代物を紹介しても面白く無いよな》
《あぁ、ヴァーチャル腹切ショーとか?》
《典型例だぜ、正しく。今時の忍者や侍連中がそんな事する訳無いのにな》
グレゴールは苦笑いを作ると、切り揃えられた黒髪を弄りながら考え込む。その映像は、定期的に更新しなくてはならない写真を元に造られたもので、実際の彼は真面目腐った顔を装い、労働に従事している事だろう。グレゴールは、脳内表情と実際表情の乖離がすこぶる上手いのだ。暫くしてから、彼はにやりと口元を吊り上げ、
《……うんそうだ。お前、メイド喫茶は知ってるか?》
《確か……英国ヴィクトリア朝時代の女中の格好や言動を意識した給仕達が働いている喫茶店……だったか? 英吉利に行けば今でも本物の女中が見れるだろうに……》
《空想と本物はまた違うものさ。この広い宇宙、実際見て幻滅だなんてしょっちゅうだよ。イメージを元にして構築されたものだから、自分達の意に沿った形になるんだろうぜ》
《成る程。奥ゆかしい人種だな》
《応ともよ……で、そいつの類似店なんだが、統一宗教喫茶とかいうのに行って来たんだ》
《……何だって?》
《統一宗教喫茶。国家政府も地球規模で統一しているのだから宗教概念も統一しようというコンセプトの元、三大宗教は当然の様に、その他の有名民族及び地球外宗教の教義やら何やらをごちゃ混ぜにした喫茶店でね。尼さんに扮した女中の折衷っぷりと来たら、宗教戦争、星間戦争勃発もかくやと思ったぜ》
《……本当に奥ゆかしい人種だな》
うんうんと腕を組み、悦に浸る友人を見ながら、ハンスは何とも言い難い顔をする。余りにも予想外であった為に本当に顔を歪めてしまい、周囲から一瞬ちらと視線が飛ぶのを、彼は咳払いで誤魔化した。
と、その時、彼は石畳の道を来る人影に気付く。
揉み上げを残して短く整えられた艶のある黒髪に、その下で大きく見開かれた琥珀色の瞳。それと全く同じ色をした琥珀の耳飾を付ける、美しい顔立ちの中でも際立って素晴らしい曲線を誇る耳。ハンスと比べて頭一つも二つも小さくまた細身である癖に、女性としての象徴だけは随分と際立った体躯。それを包み込む緑色のタートルネックセーターから掛けられ輝いているのは、彼が何時か誕生日に渡した硝子細工の首飾りで、彼女自身の手を模し、握手する様に軽く指を曲げた形をしている。
そんな女性が片手を軽く振りながら歩み寄って来るのに同じく右手で応えると、ハンスは二つの顔に全く同じ笑みを浮かべながら、グレゴールに告げた。
《すまないグレゴール。カヤが帰って来た……そろそろ切るぞ》
《あいよ。奥さんによろしく伝えといてくれや》
喉を鳴らしてウィンドウから友人の姿が消えると、ハンスは改めて視線を女性に集中させた。若き彼の妻カヤ・エーヴァルトに。
「何やらしかめっ面をしてましたけど何かありましたの? ハンス」
彼女はそう言ってハンスの側まで寄り添うと、その筋肉質な右腕に細腕を回す。
見上げる視線と、ふくよかな感触を感じながら、彼はすっと微笑み掛けた。
「ちょっと通話をね。ほら、前に紹介しただろう? グレゴール・ゲルヴィーヌスだ」
「あの随分と口達者だった彼ですか。面白い人ですよね、貴方に少しは見習わせたい位」
そうしてカヤが猫の様に目を細め口元を上げれば、ハンスは大袈裟に肩を竦め、
「それはつまり、カヤ、あいつの様になれという事かね? 昔馴染みから言うのも何だが、あれはちょっと結婚には向いていない男だぞ。今グレゴールが世界各地に何人の女を作っているか知っているかい?」
「もう、やですわねぇ。堅物男が嫌だったら結婚なんてしませんわ、冗談ですよ冗談……半分ですけれど」
「半分かね……残りの半分は?」
「えぇ半分……それは内緒でしてよ」
表情を無くし暫く見詰め合った二人は、数秒後にくっと吹き出し陽気な笑い声を上げる。
「やれやれ全く、夫に隠し事とは困った妻もいたものだ」
ハンスはそう言うけれど、勿論本心では無い。まだ学生だった頃に出会い、付き合い出してから、カヤはずっと彼の心の拠り所である。灰色の髪に灰色の瞳をした、元来陰鬱で気難しげな男にとって、彼女が持つ暖かさ、明るさは癒しであり、喜びだった。カヤと居ると、思考に耽る暇も無ければ、苦悩に浸る暇も与えてはくれない
「あら、大学で教わりませんでした? 女にとって秘密は美容と健康の秘訣だって」
そう言って誇らしげな表情を浮かべるカヤに、ハンスもまた顔を崩した。
その間にバスが来れば、二人は腕を繋いだままに、大きく開かれた自動扉を潜る。一瞬迸る赤い閃光が極小機械を探知し、一年間のバス利用資格があるのを確認すると、何事も無く彼等は中に入った。
「まぁ、君が美しいままで居てくれるのなら、それはそれで一向に構わないのだが……」
扉が閉まり、製造こそ最近で動力もスターリングエンジンの、しかし内装自体は殆ど変わっていないバスがゆっくりと走り始めると、笑みも照れも無くハンスは言った。カヤは白い頬を少し染めて尋ねる。
「ま、真面目一直線はもうちょっと公私で言葉を使い分けて貰いたいですわね……だが?」
音を立て、コンクリートの道路をバスが進む隣を、自動車もかくやの速度で自転車が駆け抜けて行く。恐るべき速度で動かされる脚がちらりと視界を掠めたが、その色は光沢のある銀の肌をしていた。
後ろから前に、正に疾走する義脚の自転車乗りを、夫婦は共に見送ってから、
「隠されていい秘密と違う秘密があるという事さ……今日は何処へ行っていた?」
「嗚呼そういう……ちょっと、病院に行っていたんですわよ」
「病院? 何の為に。まさか、何か病気でも患ったか?」
ハンスは直ぐにカヤの方へ顔を向けると、細められた視線を彼女に送った。
今日、街に出ようと言ったのは妻の方からである。ちょっとした用事があるから、それが終わったらたまには外でも食事に行こう、と言い、夫もそれに承諾した。暫く近くの喫茶店で暇を潰した後、バス乗り場を待ち合わせ場所として。だがハンスは、一体何の用事とは聞かされなかったし、それがまさか病院とは気付きもしなかったのである。
そうしてにわかにうろたえる彼の様子を、しかしカヤはくすくすと笑った。
「馬鹿ですわねぇ。病院へ行ったからって、何処か悪いって事は必ずしも無いですわよ」
「では、どうしてまたそんな所へ?」
鈴の様に転がる声に、ハンスはますます困惑げに尋ねるけれど、
「それが本気で解ってない貴方の、そういう所が可愛い……って応えは駄目ですかね?」
彼女は微笑んだままにそう応えるだけであり、彼は呻き声を上げるより他ならない。
「まぁ……応えたくないのならば、それでいいさ、うん、私は構わない」
「はいはい、拗ねないの。もう少しはっきりしたら、言って差し上げますからね」
そんなハンスの灰髪を、カヤは体と腕を伸ばして、優しく、そっと優しく撫ぜた。
彼は甘んじてそれを受け入れるのだが、実の所、理由については察しが付いている。妻がどう思っているかは知らないけれど、そこまで鈍い男でも無い。
ただ少し唐突であった為に、幾分認め難かったというだけでだ。独逸人だろうと異星人だろうと、多くの男がそうである様に。
だから笑みを隠すのも大変だった。まだ変化の兆しは無いけれど、彼女の体の中にあって、複製の効かぬ、それでいてデータでは無い確たる存在が居るというのは、何事にも返る事の出来ぬ喜悦だったのだから。
けれどもその至福を、ハンスが心の底から享受する時はとうとう訪れなかった。
突然の衝撃がバスを襲った。
巨人か何かによって横合いから殴り付けられる様な、強烈な衝撃。
横転し、幾度も回転する車内で、乗客達は訳も解らぬまま押し倒され、悲鳴を上げた。
混乱の中で、ハンスは離れて落ちていったカヤの方に右腕を伸ばすもその手は届かず。
気付いた時に彼が居たのは中空であり、仰ぎ見たのは硬い大地だった。
次の瞬間には激痛が訪れ、地面に伏せれば爆音が耳に入る。
そして二度目の衝撃。震動。悲鳴。スピナーの飛翔音。銃声。咆哮。足音。
虚ろな視界の中でハンスは見るも無残にひしゃげた右腕を伸ばそうとし、そうして見た。
ビルの壁にぶつかり、黒煙を上げながら猛火を宿した旧式のバスを。
青黒い昼の月と無数の機影を背景にして駆け抜けて行く、一匹の巨大な獣の姿を。
それは白銀の毛並みに緋色の瞳をした狼で、人間のそれに似た笑みを浮かべ……
気が付くと、目の前には見慣れぬ天井、そして見慣れた旧友の姿があった。
「ようハンス、起きたかい」
「……グレゴール……」
ハンスは身動ぎした。白っぽい照明が嫌に目に突き刺さる。
思わず手で視界を遮ろうとした彼は、その時はたと気付いた。
利き腕の、右腕の感覚が無くなっている。顔を上げれば、自分は治療服を着て、白いシーツのベッドに寝かされ、そして右肩には柔軟プラスチック製のカバーが付けられていた。そこから伸びている筈の腕は無い。綺麗さっぱり。影も形も無く。
呆然と白い覆いを見詰めるハンスは、ふぅと顔を戻した。
右手の代わりに、左手で顔面を隠しながら、
「グレゴール、ここは何処だ……」
「伯林中央病院、集中治療科のとある一室だよハンス。お前が寝ているのはその寝具」
「グレゴール、何が起こった……」
「飛行護送中の重犯罪者が逃亡した。お前が乗ってたバスは奴さんの逃走経路上だった」
「グレゴール、私の右腕はどうしたんだ……」
「使い物にならなかったから取った。高額だが培養は出来るし、義手に換装したっていい」
「グレゴール、カヤはどうした?」
沈黙。
「……カヤはどうした、グレゴール……」
「……」
「カヤは、」
「死んだよハンス。彼女は死んだ」
「……嘘だ」
「それが嘘だったらどれだけいいかね、だが……」
ハンスの問い掛けにただただ応えていたグレゴールは、そこでふぅと吐息を零すと、やはり淡々とした様子で、だがはっきりと、絶対に覆りようの無い事実を彼に告げた。
「彼女はもう居ないんだよハンス、この世の何処にも」
数秒後、ハンスの左手の隙間から止め処の無い涙が溢れ出た。
面会が終わり、グレゴールが帰ると、医師達が訪れた。彼等はお悔やみの言葉を述べた後で、ハンスに右腕の再生培養手術か義体換装手術を行う事を提案したけれど、彼はそれを断った。代わりにハンスが言ったのは、妻の死体を見たいというものだったが、その願いはやんわりと、だがきっぱりと却下された。
お気の毒と思われますが、お見せする事は致しかねます。何分その、状態が酷いもので。
それでもいいから見たいと彼は嘆願したが、病院側がそれを承諾する事は無く、結局ハンスがカヤに逢ったのはその数日後、集中治療により右腕が無い以外は事故前の状態に戻ってからであった。
染み一つ、隙間一つ無い白亜の壁を操作して現れた棚の上に、彼女は寝かされていた。
完璧なエンバーミングが施されたカヤの姿は、まるで眠っているだけの様で、しかし触れた肌の冷たさは、もう二度と、琥珀色の瞳が開かれはしないという事実を、情け容赦無くハンスに告げている。
生命は去ってしまった。
今の技術を、いや如何なる方法を持ってしても、それは二度と戻らないだろう。
彼は静寂の中で、妻であった肉体を見下ろした。
どうしてもこれがカヤには思えなかった。認めたくなかった。
自分が失った右腕を、新たに得る事を拒んだのと同じ感覚によって。
死体安置所を出たハンスは、そのまま病院の外へ行き、空を見上げた。
そこにはあの時と同じ、半機械的に改造された月が、黒々とした光を浮かべている。
カヤと彼の右腕を奪った者が逃げ去ったという月。
ハンスは唯一の腕をそれに伸ばすと、掌を広げ、そしてぐっと握り締めた。
その二ヵ月後の深夜。
自室で眠っていたグレゴールは、自らの脳から迸る不快感で、強引に目覚めさせられた。
誰かから通信が入っている。それも緊急用の回線で。
一体何処の馬鹿だこんな夜更けに、と彼が目元を掻きつつ、瞼の内側に浮かび上がるウィンドウを見ると、そこには葬儀の日以来連絡の取れていなかった旧友の名前が表示されている。グレゴールは、慌ててアラーム代わりに垂れ流れる脳内ホルモンを停止させると、回線を開いた。
映像は無くその同意確認も無く、ただ雑音交じりの音声だけが、彼の耳の奥に響き渡る。
《夜分にすまないな、グレゴール。起こしてしまったかな?》
《嗚呼眠って……そんな事はどうでもいい。どうしたハンス、一体何があった……》
その声が送受信の乱れで無く肉声である事に背筋を震わせながら、グレゴールは聞いた。
ハンスは、少しばかり黙った後、やはりあの掠れた声で持って、
《旅行に出ようと思うんだハンス……何時帰るかはちょっと解らないが一応挨拶を、とね》
《旅行? 今までだっててっきりそうかと……何処へ行こうって言うんだい?》
《……月だ》
《あん? 何だってまたあんな治安最低の所に……》
そう言われた声にグレゴールは小首を傾げた。だが直ぐにはっとし、
《お前……まさか、》
《狩人の資格は手に入れた。私にも軍警察と同じ程度の権利がある。正義の剣の担い手だ》
《馬鹿言え賞金稼ぎとは名ばかりの殺人鬼どもだぞ……いや、いやいや待て、そうじゃない。違う、早まるなよハンス。そんな事したって奥さんが帰って来る訳じゃないし望んだっていねぇ。まして、相手はレジェンド級だ》
《嗚呼らしいな。テレビで見たよ》
《神話とか伝説に出て来てもおかしくない化け物なんだぜ、無駄に命を磨り潰すだけだ》
《……そうだ……カヤも……もう一人も……きっと何が起こったのかも解らぬまま、》
《思い込むなっ……頭を冷やせよ、おい。気持ちは解るが、馬鹿な事考えるんじゃない》
《……》
「《ハンス》!」
グレゴールは思わず寝具から身を乗り出し、頭と唇から同時に言葉を発した。幼い頃から良く知っている、一度思い悩むと止まる事を知らない友人を、それでもどうにか考え直させる為に。
《……すまないグレゴール、もう行くよ》
だが返って来た言葉は、それが意味を成さなかった事を如実に伝えるものだった。
そうしてハンスは、グレゴールの叫びを中途で切断すると、すっと上に顔を向ける。
そこには旧き時代への畏敬を感じさせる巨大な塔が、遥か彼方の天空まで伸びていた。