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1.

夢幻を目指して宇宙を飛べば 浪漫の為に十人続き

追って百人利益を求め 残りの者等はパンを欲する

かくて天地の境は消え去って 果てと中心変わり無し


                冥王星の衛星都市外壁部に書かれた落書きより


 月の半分を覆い尽くし、この星から神秘と魔性を完全に奪い去った都市。

 世界大都(メトロポリス)月構都市(ルナティックシティ)』或いは『月狂都市(ルナティックシティ)』マーニ。

 そこは今日も誕生以来、何一つ変わる事の無い荒廃具合を示している。

 そもそもが月自体からして問題だった。全体を囲う様に、縦横に走って交差する二本の軌道リング、そこから発生し、月全体を覆っている低重力フィールドは、敵対異星人を含む人類にとって有害なものを大抵遮断し、その逆に、人類にとって必要不可欠な空気を確保して、月を生存可能衛星に簡易改造する役目を果たしているが、内部からの排気をどうにかしてくれる訳でも無い。都市上空の大気は特に淀み、彼方に見える地球光も霞んで見えてしまっている。と、言う事は反対も同じであり、地球から見た月はとても美しいとは形容出来ない。リングを支え、地盤を安定化し、且つ内一つは宇宙港の役割も持つ四本の大支柱及びその周辺には、地球やその他の惑星から採取して来た月の地質に合う植物が植えられているけれど、日々深度を増す大気汚染の前には焼け石に水であり、専ら観賞目的として扱われている位である。

 ただそれも、天に向けて刻一刻と進んでいる秩序無き拡大(スプロール)化現象に比べれば大した事でも無い。元々マーニは、人類の宇宙進出期に置ける囚人用の流刑地として建てられたのだが、強制労働として半ば無益に行われていた月裏面での採掘により、月に多数の希少金属、そして地球上では数少ない場所でしかもう出ない、そのまま飲めるレベルの浄水、月の水が採れる事が確認されてから、急激な人口増加が巻き起こったのである。俗にムーンラッシュと呼ばれるその歴史的行事により、マーニには数多の人々が集まって、都市としての機能も充実し、後の外宇宙躍進期への大きな足掛かりとなった。

 しかし、月の面積は地球のそれと比べて狭く、とてもでは無いが流入し続ける人員を受け入れるだけの土壌は存在しなかった。ただでさえ採掘用に土地を確保する必要がある以上、居住区画は更に減るものであり、マーニは横では無く、縦への拡がりを余儀なくされた。夢見がちな連中ばかりが集まり、子供が造った様な無計画な増設が、科学技術の無粋な氾濫の元に成された結果、大規模な貧民街(スラム)化が侵攻、数百年が経つ頃には、最早都市の全容を知る者は殆ど居なくなってしまっている。多少整備が整えられた表層部ならまだしも、深部へと迷い込んでしまったら戻って来るのは容易では無いだろう。

 加えて厄介なのが、建築物の中という中、間という間にて暮らす市民達だ。低所得の中で人種と国籍の垣根が容易く払い取られた為、所謂月の民という連中には、地球上に存在する数多の民族的特徴を見出す事が出来る。更に、昨今著しい進歩を遂げている科学的技術の影響もある。義体への換装、機械の挿入、薬物の投与、環境の悪化、そして宇宙線による変体。これらはマーニが月の半分を埋める様に、人間から生身の体を奪い去り、何かもっと、別の存在へと変化させてしまっている。地球上でもその傾向は強いが、半ば無法地帯である月ではもっと顕著だ。道端を歩いていても、異形と言って何ら差し支えない様な外見の者が大勢居る。マーニの奥深くには神話の時代の怪物に酷似した存在が眠っていて、誤まって踏み入ってしまった人間を貪り喰らっているという噂まである程だ。その真偽は定かでは無いが、恐ろしい限りである。何と言って、それが真実なのではと疑いたくなる雰囲気を街全体が有している事が、だ。


 けれども、ハンス・エーヴァルトは知っている。

 この淀んでしまった月の上に、無秩序に佇む街の下に、畸形的な人々の群れの中に。

 人ならざる恐るべき怪物が本当に潜んでいるのだという事を。

 少なくとも、そうだ、一匹は確実に居る。

 私から大切なものを奪い去って行った、あの、一匹だけは。

 肌に粘着く、奇妙に生臭い臭いが充満するマーニの一街路で、彼の右肩が鋭く痛んだ。

 ハンスは黒い長靴に包まれた脚を止めると、左手でそれを掴む。

 その手の下には何も無かった。ただクロームメッキの肩当てが付いているだけであり、肩から先は何も無い。ハンスの長身痩躯に合わせられた右袖の無い黒の耐熱ラバーコートに左手だけの黒手袋と、艶の無い色をした肩当ては違和感無く溶け込んでおり、まるでそこには最初から何も無かったかの様に見えてくる。

 だが彼はそうでは無い事を知っているし、またそうなった理由も良く覚えていた。

 いや、忘れられる訳が無い。脳髄に刻まれた記憶が苦痛と命令となって迸り、過去を忘却に沈める事を決して許さないのだから。

 突然立ち止まったハンスの姿を、鬱蒼と群れた人々が訝しげな視線を送りつつ通り過ぎて行くが、彼は意に介さず、右肩を抑えていた。

 この呪いにも似た痛みが治まってくれるまで。

 暫くしてようやく痛みが去り、小さく吐息を吐けば、彼はまた歩き出す。『角を曲がればワープホール』と揶揄される、入り組んだマーニの道を、下へ下へ、奥へ奥へと向かって。

 お世辞にも舗装されているとは言えない、薄暗い道を進めば、明らかに周囲の様子が変わった。先程まではまだマシだった建築物も古く錆び付き、今にも倒壊しそうな、と言うよりも寧ろ、既に崩れていて隣の建物に寄り添う事でどうにか建っている程度の代物となった。人々の層も底辺から最底辺へ、外見上の人間味と合わせて落ちて行き、整髪剤で後ろに垂れさせた灰色の髪、高面積の黒いサングラスを掛けた下の落ち窪んだ瞳、痩せてこけてはいるもののまだ肌の色をした長細い顔立ちなどと言う、一見すると生の肉体を多く保有するハンスの容姿だって、住人達のそれからすれば逆に奇異に見える。兎的印象を強く打ち出した顔の少女と、同じく両生類的な面立ちの少年が、羨望か嫉妬か、或いはもっと別の感情を宿した瞳で、彼等の側を通り過ぎて行く男をじっと見据えていた。

 そんな場違いな空気の中、文字通り一瞥もくれる事無く、ハンスは深層へ降りて行く。

 高らかに、わざと靴音を聞かせる様な、威圧的な足取りの元で。

 やがて道に人の姿が無くなり、時折壁の向こうから囁き声やテレビの音が聞こえるだけとなった頃、彼の視界は開かれ、目的の場所へと到着した事実を告げた。

 折れ曲がった二つの鉄骨が門の様に繋がっている隙間の向こうに、巨大な竪穴が口を開けている。ちょっとしたクレーター程の広さに、何階層分もの深さを持ち、底には、降り積もった瓦礫の間に、月の地肌が覗いていた。こんな中心地には珍しい事である。最下層で、土台としてもう殆ど原形も残っていない程に潰れている建造物は、流刑地時代のものだろう。さしずめ、都市の遺跡という訳だ。

 ハンスは縁に立ち、無言で竪穴を見下ろした。広大な空間によって発生した風が、その肌を、髪を撫ぜ、体へと当たるけれど、身動ぎすらせずに彼は様子を伺っている。

《そんな所で何をしておる》

 と、背後からノイズ交じりのしゃがれ声が聞こえ、ハンスは振り返った。

 そこには、一人の老人が立っていた。それこそ月の最初期から居たのではと思える程に茶色く気色ばんだ肌に汚らしい顎鬚をした小柄な男で、その眼はバイザー型の義眼、喉首には声帯用の代理機械が付けられ、杖のつもりらしい赤錆だらけの鉄棒を握る手は疣と生傷、そして吸盤らしきものがちらついていた。

 ハンスが竪穴から老人へ視線を移し、黙ったままでいると、彼は、自分の声が良く聞こえなかったからと解釈したのだろう、よろよろと歩み寄りながら、再びあのしゃがれ声で、

《そこで何をしておるのだ、お若いの。その穴はな、滅多矢鱈に肉臭い奴が居るべき所じゃないぞ。迷ったのかどうか知らぬが、さっさと立ち去るがいい。何せ穴の下には、》

 言おうとした中途を遮る形で、ハンスが応える。

 サングラスを取り、暗く輝く灰色の瞳を老人に向けて。

「狼が居るのだろう、ご老体。飛び切り凶悪で、危険極まりない狼が」

《……お前さん、只者じゃないな……狩人かの?》

 老人はぎょっとしたが、直ぐに我を取り戻すと、赤いレンズを光らせながら歩み寄った。

《うぅむ、右腕が無いだけかと思ったがとんでも無い、中身を相当弄っとるな。解る限りでひのふの……おいおい、何て数じゃ。ここまでぶっこむ位なら義体に換装した方が楽なんじゃないかの?》

「義体を動かすには訓練が必要だ。精密に動かすにはもっと訓練が要る……時間もな」

《成る程のぅ、よぉく解った。解ったからさっさと立ち去るがいい》

 近くまで何とか進み出て、そう告げる老人に、ハンスは僅かに眉を顰める。

「何故? そのバイザーで私の体を調べたのなら解る筈だ。私が如何なる存在なのかを」

《それでも相手が悪過ぎるのさ、お若いの。確かにあんたの体は一級品じゃ。それだけの処置を何処で受けたのかは知らんがね、軍の奮闘孤軍(ワンマンアーミー)並だわい。だが、それじゃってお前さん、あの狼には勝てんよ。何せ奴さんはレジェンド級の変異種、地球じゃ散々暴れ回ってたらしいからな。人型戦車(ヒトガタ)ともやり合ってるて、とてもじゃないが適う相手じゃない》

 止めとけ止めとけお若いの。

 老人は黄色い歯を剥き出しにして笑うと、首を横に振って見せた。

 ハンスは黙ってそれを聞いていたが、老人のお喋りが終わるとさっと背を向けて言った。

「だがやってみなくては解らない」

 それに返って来たのは、ひやひやひやという妙に甲高く下卑た笑いで、

《そう言って何人も飛び込んでいったわな、穴の中に。誰一人、生きて戻って来やせんかったがの。馬鹿な連中じゃて、ちょっとばかしの銭欲しさに、代わりの効かぬ魂を投げ打つんじゃからな。まぁそのお蔭でわしら見たいな廃品回収屋(スカラベ)が儲かるんじゃが、ま、ちょっとばかし残っておる善意でもう一度言ってやるわ、お若いの。さっさと立ち去れ。そいで持って、日本式のさらりぃめんにでもなって、奥さんやら子供やら、家族やらと一緒に暮らすがいいわ》

「……家族は……そうだな、今はいない」

 老人の笑い声を耳にしつつ、振り返る事無くハンスは、自嘲気味にそう呟いた。

 吹き上がる風に我が身を晒す様に、竪穴の縁へと脚を掛け、

「妻もだ。もう死んだ……殺されたんだ、下の奴にな」

 老人は、鼻で息を吐くと、笑みを殺した。やれやれと、哀れみの篭った表情を作り。

《私怨か……ますます止めとけ。新しい女作るか人形でも買ってさっさと忘れるんじゃな……月並み、って正にその通りな言葉じゃがな、それが奥さんの為じゃろうて》

「……」

 そう告げられた一言によって、ハンスの脳裏に二人の少女の姿が浮かび上がった。

 それと同時にある一つの約束。

 ここに来る前に、彼女と交わした約束が胸中に沸き立ち、心臓を鈍く苦しめる。

 だが右肩の軋みと共に勢い良く頭を振った彼は、首だけ後ろを向いて老人の方を見ると、

「それも悪くないかもしれん。また考えておく事にするよ……これが終わったら、な」

 何時か何処かで言った様な台詞を吐き、たんと勢い良く縁を蹴って虚空へと飛び出した。

 見る間に竪穴の中へと落ちて行後ろ姿を見つめながら、老人は呆れた様に口にする。

《やれやれ馬鹿者めが。確かにわしは警告したぞ、止めておけ、とな》

 その言葉も、もう彼には届かない。

 コートの裾を靡かせながら、ハンスは落ちて行く。

 月の平均表面重力は、軌道リングの影響でを受けて地球より若干小さい程度だ。その状況下で、この高さから落ちるのは自殺行為も甚だしい所だけれど、それはただの人間であった時の話である。故に、着地に対しては何の心配も無かったが、地面が近付くにつれて、ハンスの心臓は早鐘の如く鳴り出した。

 それは恐怖では無く、歓喜の為である。

 これまで費やした時間が報われる。

 それで無くとも終わりを迎える瞬間が来るのを前にして。

 もう直ぐだ。もう直ぐ、もう直ぐ、もう直ぐ……もう、直ぐ。

 彼は口元を吊り上げると、何十メートルも彼方の地面に向けて滑らかに堕ちて行った。

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