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あの日の二人はもう居ない

作者: トニー


中学の時に好きだった女の子との思い出。当時愛用していたエレキギター。エリック・クラプトンへのオマージュ。・・・その他、今現在、自分が持っている引き出しのほとんど全てをつぎ込んでこれを書きあげました。疲れました。けれどもとてもいいものが出来上がりました。


約二年前、拙著「忘れ花火」を書いたとき、これより良いものは恐らく書けないだろうと思っていました。しかし人間、やれば出来るものなんですね。


今までいくつか書いてきた中で、断トツの最高傑作を自負しています。


       

   プロローグ



 2004年6月24日。

 この日、ギターの神の異名を持つ、エリック・クラプトンが愛用していた名器、通称「ブラッキー」が、チャリティー・オークションにて史上最高の95万9500ドルで落札された。このニュースが世界中のファンをあっと言わせた時、その一人である僕は、とある少女を否応なく追憶してしまった。

「あたしがいつか返してって言うまで、好きなだけ弾いてていいから」

 そう言って貸してくれたのが他でもない、クラプトンのシグネチャー・モデルのブラッキーだったからである。

 まだ初心者だった僕にも、そのギターがものすごく良い代物だという事ぐらい本能的に直感できた。そのとき僕が弾いていたのは、父が若い頃に買った安物のフォークだった。弦を強く張ったまま、ベランダの納屋に長い間放置されていたそれは、ネックとペグの精度がおかしくなっていた。どれだけ丁寧に調律しても、必ずどこかで音程が狂うやっかいなオンボロ。それでも初心者には弾けるだけ有難いと、タブ譜を睨み、コードを覚えていた時、美しい曲線を描くブラッキーを携え彼女はやって来た。ボロボロに刃の欠けたカッターナイフと、神聖な力によって研ぎ澄まされた日本刀を比較するような気分になったのは決して錯覚などではない。

 中学の頃、つまり彼女と同じ時間を過ごしていた頃、僕は自分の演奏技術に強い自信を持っていた。しかし高校へ通うようになると、自分よりも上手い人をちらほら見かけるようになってしまった。大学へ通うようになると、自分ぐらいの人間はいくらでもいると知ってしまった。やがてほとんどのロックキッズと同じように、音楽で成功したいという夢と情熱を失くしてしまった。別の言い方をするなら、彼女が望んだような人間にはなれなかった、という事だ。しかしそれを恥じてはいない。理由は主に二つ。今の進路を選んだのには、サヨナラも言わず、ブラッキーだけを残し、春風とともに海を越えてアメリカへと去って行った彼女の存在が非常に強く影響していたから。そしてもう一つの理由は、そもそもロックスターなんて、普通には叶わない夢だから…。ベストは尽くした。恥じる理由がどこにあると言うのだ。

 彼女は変わった名前の持ち主だった。宇宙と書いてコスモ。日本でも、そして彼女の母の生まれ故郷であるアメリカでも、同じ読みで通用するようにと名付けられたらしい。コスモは少年のような顔つきをしていた、しかしスタイルだけは母親譲りで、同じ年頃の少女達とは似ても似つかないほどグラマラスだった。

 白い肌。

 長い四肢。

 ミルクティーのような色の髪の毛。

 切れ長で、気の強そうな、けれど同時に少しだけ疲れたような眼差しの中に鎮座するヘーゼルの瞳。…光の加減で、瞳の縁が一瞬エメラルドグリーンに輝くのを何度か見た事もあった。

 そんなコスモに婚約者が出来たと、彼女の従兄弟から報告を受けた。従兄弟の名は(たけし)。当時の僕らを正しく理解してくれていた数少ない味方の一人である。ただし、毅さんとの交際が本格的に始まったのは、悲しい(かな)、彼女が日本を去った後の事だった。そう、言わば彼女の置き土産のような存在が毅さんなのだ。いざ交際してみると、彼とは非常に良く気が合った。同じバンドのメンバーとして、何度となく音を合わせてもきた。わけあって、同じ歳の男と親密な交友関係を結べずにきた僕に、親友という言葉の意味を身をもって教えてくれたのは他でもない、毅さんだった。母にも言われた事がある、「優太は昔から変に大人びてたから、少し歳上の人の方がちょうど良かったのよ」と。

 そんな彼と喫茶店で会う事になった。「話がある」と呼び出されたのだ。

「大学もそろそろ大詰めだって?」

 席に着くと毅さんはそう切り出した。僕は大学で心理学や依存症について学んでいた。

「うん、いま卒論に書く内容を色々と考えてるよ。そういや大学(うち)の軽音楽部で、クラプトンが落札されたブラッキーのお金を、自分で設立したアルコールや薬物依存症者の回復施設『クロスロード・センター』に全額寄付するって発表した話が話題になってるよ…」

 毅さんがジッポの蓋を開けると、赤い炎が爬虫類の舌のように伸び、煙草の先端を舐めた。僕には理解できない嗜癖だ。酒も煙草も、生涯やらないと決めている。そもそも毒だと思っているからだ。

「…コスモの婚約者が酒を飲まない人だと聞いた時、正直ホッとした。もうコスモには、アルコール依存症の家族に苦しんで欲しくない。そして同じ問題で苦しむ人たちを助けてあげたい。あの頃の僕は無力で、あんなに好きだったコスモの事を、ほとんど助けてあげられなかったから」

 煙草を持つ手が僕を指差した。

「何度も言ってるとおり、それは仕方のなかった事だ。あの頃お前はまだ中坊で、それだけの力がなかったんだ。でも、ガキはガキなりに精一杯やってた。それはこの俺が一番良く知ってる」

「毅さんが認めてくれるのは素直に嬉しい。でも、大学でカウンセリングを学ぼうと決めたのは、あの頃の体験があるからなんだ」

「確かにお前ら、コスモの親に振り回されて、一番幸せだった時に終わっちまったしな…」

 遠くを見るような目をしながら、毅さんは真上に向かって煙を吐いた。

「…あの頃のお前らは、嫌いで別れたわけじゃない。むしろあんなに強く惹かれあっていたのに、コスモの親父の酒癖が悪かったせいで引き離されちまっただけなんだ。が、自然な事だよ、七年も()ちゃあ、互いに新しく別の誰かを好きにもなるさ…」

 喫い終えた煙草を灰皿に押しつけると、毅さんは再び遠くを見るような目を天井に向けた。

「…特にコスモ、アイツは本当に可哀想だったよな。そしてその事に、当時まだガキだったとはいえ責任を感じているお前は、その十字架を背負ってカウンセラーへの道を進もうとしている。時間が経つのは早いな」

「…ところで話って?」

「実はコスモからこっそり"ユータにお願いがある"って連絡があったんだ。いくら俺の叔父に絶対的な落ち度があったとは言え、コスモの母親はあんな事件(こと)をしでかしちゃってるからな、実家(うち)とはほとんど絶縁状態になっちまってる、が、俺は個人的にコスモという人間が好きだ、アイツへの態度を変える気はない。結論を言う。

 …ブラッキーを返して欲しいそうだ」

「そっか、そうだよね、もともとそういう約束だったわけだし、返すのは構わない。でも…」

「分かってる。あいつは今、知ってのとおりアメリカだ。今すぐ返せとは言ってなかった。詳しい事はここにある手紙を読むといい。俺が今、女と暮らしてるアパートに届いたエアメールだ。コスモがどうしてもお前に直接伝えたいと思った事が書いてあるそうだ。宛名こそ俺名義だが、中身は紛れもなくお前宛だ、封は切ってない」

 懐かしいな、素直にそう思った。初めてコスモからエアメールを受けとったのは、中学の卒業式を終えた後の事だった。

 …お別れの手紙だった。

「話が中途半端なんだけど、先に手紙を読んでもいいかな?」

 封筒には、見覚えのある小さな丸い文字が書いてあった。



   ☆



 久しぶり。元気? 毅から聞いたよ。いま大学でカウンセラーになるための勉強してるんだってね。すごい、やっぱユータは頭いいや。

 あたしね、実はもうすぐ結婚するんだ。あたし今ロサンゼルスの日本語学校で先生やってるの。ダーリンも同じ学校で働いてる、…といってもダーリンは先生をやってる訳じゃないんだ、事務の仕事なの。日本語は少し話せるって程度で、読み書きが出来ないのよ。つまり先生になる以前の問題ってわけ。

 馴れ初めは友達の結婚式だったの。余興でバンドの生演奏をお願いされたんだ。なんといってもアメリカはロックの国だからね。あたしはもちろん、ド・ラ・ム♩。その時ギターを演奏したのが彼だったの。三年生お別れ会の時にみんなでライヴやったじゃん、あの時と同じぐらい、音が良く合ったんだ。すっかり意気投合しちゃったのよ。しかもすっごいカッコイイんだ。サングラスかけるとトップガンのトム・クルーズみたいなの(今、笑ったでしょ?)。

 付き合おうって言われた時、本当の事を全部正直に話したんだ、…もちろん、日本での事を。そしたらダーリンこう言ってくれたんだ。


 Thank you for telling me about things in Japan.

 But I won't change my mind with such a trivial matter.

 If I were kind of jerk, God wouldn't have brought you in front of me.


 ユータなら分かるよね。でも、一応念のために訳しておこうと思う。


 日本での事を正直に話してくれてありがとう。

 でもそんな事で僕の気持ちが変わったりしないよ。

 もし僕がそんな男だったなら、神様は君を僕の目の前に連れて来たりはしなかっただろう。


 いかにもアメリカ人らしい言い方だよね。プロポーズされた時も、「まだ日本の刑務所にいる君のお母さんも、僕の家族だと思ってる。君と一緒に帰りを待つよ。もう少しで出所できるのなら、それを待って挙式をあげよう」って約束してくれたんだ。嬉しくて泣いちゃった。


 ところで、カウンセラーになるのを選んだのは、あたしの事でユータなりに考えてくれたからなんだよね。嬉しく思う。あの手紙には夢がどうとかって書いたりもしたけど、あの頃のあたしはまだまだ子どもだったんだなって思ってる。ユータなりに頑張ってくれているのなら、あたしそれだけで幸せ。


 生まれて初めて好きになった異性(ひと)はあなたでした。そしてもう二度と、あんな風に異性を好きになる事はないと思ってます。もちろん、今のダーリンは一番大切な人です。でも、あたしにとってユータは特別な存在なんです。でもね、仮に今あたし達が再会したとしても、もうあの頃のような関係に戻る事は絶対にないと思ってるの。あの頃のあたし達の関係は、あの多感だった時期のあたし達だけにしか起こり得なかった、ある種の化学反応だったんだよ。

 世界のどこを探しても、あの日の二人はもう居ない。

 ちょっぴり寂しい気もするけど、あれは、ある日ある時、ある条件がそろった時にしか起こり得なかった化学反応(ケミストリー)だったのよ。そもそも同い年の男の子だったユータに、お兄ちゃんの代わりを求めて甘えていたあたしもあたしだったんだし。


 前置きが長くなり過ぎちゃった。お兄ちゃんの話題ついでに本題に入るね。今更もいいとこなんだけど、ブラッキー返してもらえる? ダーリンがどうしても弾きたいんだって。

 本当はね、アメリカと日本、離れ離れになった時点でブラッキーはあきらめてたんだ。「ユータにだったらあげてもいいや、天国のお兄ちゃんも、ユータが弾くなら喜んでくれるだろう」って。でも、ダーリンは全部、何もかもを承知の上で、結婚式の時にそのブラッキーを弾きたいんだって言って聞かないのよ。そしたらなんだかあたしもさ、急にブラッキーが恋しくなっちゃったんだ。あのギターは、なんと言ってもお兄ちゃんの形見だから。今すぐじゃなくていいの。結婚式には必ず呼ぶから、その時に持ってきて。絶対だからね。


 コスモ・J・ウィンストンより。もう一人のお兄ちゃんへ。


 追伸。もし良かったら、ユータの今の彼女も結婚式に連れて来て。その人にも会ってみたいの。待ってるからね。



   ☆



 幸せそうなコスモの姿が、ありありと目に浮かぶようで嬉しかった。しかし同時に、複雑な気持ちで胸がつかえそうにもなっていた。

「ブラッキーを返して欲しいという気持ちと経緯はよく分かった。いつでも返せるようにしておく。コスモには毅さんの方から連絡しといてもらえるかな」

「分かった。ところで一つ聞かせて欲しい。お前らが別れた後にやって来た最初の夏、俺、言ったよな、"お前ぐらい頭が良けりゃ、片言の英語でアメリカに渡ってコスモを探すぐらいできる筈だ。今ならまだ間に合う、夏休みのうちに行ってこい"って」

「言ってたね、よく覚えてるよ」

「覚えていると言うのなら、なおさら聞かせて貰いたい…」

 ほろ苦いコーヒーを啜ると、毅さんは言った。

「…お前、なんであの夏、コスモを追いかけなかったんだ?」


 …ふと、あの頃の思い出が脳裏に蘇った…。



   1・移民の歌



 …1996年、春。

 生まれ育った大都会・渋谷から、神奈川県は三浦半島の観光地・葉山へと移り住んだのにはいくつかの理由があった。が、人に理由を聞かれた時、僕は常にシンプルに回答する事を心がけていた。

「母が肺を病んだから」

 嘘ではない。生まれつき体が弱かった母にとって、結果的にそうなった父の転勤先が、空気の綺麗な土地だったのは理想的でもあった。しかしそれは前述のとおり、結果的に、というオマケがつく。引っ越しの最大の原因は、たとえ何をどんな風に質問されようとも、シンプルかつ最低限の受け答えだけをする寡黙な少年へと、当時の僕を変えてしまっていたのだった。

 最初父から、「海の近くに引っ越そう」と言われた時、僕の胸は多少なりとも期待に弾んだ。その言葉に嘘はなかった、が、引っ越した先はただの閑静な住宅街だった。結果、センター街へ徒歩で行ける所で生活していた僕は、たちまち退屈してしまった。都会(まち)へ行くには、バスと電車を乗り継がなくてはならない、しかし限られた小遣いで毎日行くには当然の事ながら限界がある。さすが観光地だけあって、足を伸ばせばお洒落な店がいくつも散見できた。だからといって一人で行く事に何の意味があるというのか。春休みのためまだ友人がいなかった僕は仕方なく、自転車で図書館へ行ったり、まだ見慣れない近所の山や川を散策したりする日々を過ごしていた。

 木や石を地面に埋め込んだだけの、階段、と言えば言えない事もない、急な坂道を登っていた時の事だった。その登り道のはるか先にある林の中から、木と金属がぶつかる硬質かつ規則的な音が聴こえてきた。テンポだけはそのまま、音の数だけが突然激しく増える事もある。近づくにつれ、スニーカーが地面を踏みしめる低く湿った音も聴こえてきた。

 階段を登りきると、林の拓けた空き地が見えた。どこの山にでもあるであろう、簡素なベンチやテーブルが設置されている休憩所だった。壊れたままのジュースの自販機。悪戯書きが目立つ公衆トイレ。その向こうに広がる青空には、極細の飛行機雲が一筋、筆で描いたかのようにすっきり真横に伸びていたのを今でもよく覚えている。真下に広がる大海原は、手を伸ばせば海水を掬えるのではないかと錯覚するほど近くに見えた。

 規則的な音の犯人は、ミルクティーのような色をした髪の毛を、男の子にしては長めにカットしている人物だった。ヘッドフォンから聴こえているのであろう音楽に陶酔しながら、ベンチに腰を下ろし、細長い木の棒を早く激しく振り回していたのだ。左腕の上に交差させた右のスティックが、テーブルをチ、チ、チ、チ、と小刻みに弾いている。体の正面に置いた、テーブルより低い位置にある円柱形の灰皿を、右腕の下に交差させた左のスティックで叩いている。コンバースの真っ赤なスニーカーが、まるでダンスのステップのように地面を踏みしめているのを見て、ドラムのイメージトレーニングをしているのだと気づいた。ドラムの演奏なんてテレビでしか見た事がなかった僕が、産まれて初めて目の当たりにした瞬間だった。

 ふと、「Hard rock cafe」とプリントされている白いTシャツの胸もとを、思わず凝視してしまった。歳の頃にしてはやけに大きく丸々と張り出しリズミカルに揺れていたからである。女の子だったんだ、今更になって気がついた。

 見るからに値段の高そうなボーズのヘッドフォンで耳を塞いでいる少女は、音楽が止んだのか、突然、手足の動きを止めると気の強そうな眼差しを見開いた。練習のせいか、少し疲れたような目をしていた。しかしアンニュイに見えたのは、実は家庭で日常的に心を病んでいたからであった(…それを知るのはもう少し後の事である)。茶と緑を混ぜたような綺麗な瞳が僕を捉えた。まだ穏やかな春の陽射しを反射し、瞳の縁が一瞬エメラルドグリーンに輝く。その閃光に、僕の心は鋭く貫かれた。瞳の色だけではない、顔の造作も、どことなく見慣れない感じがする。ほんの少し戸惑ってしまった。

「あたし君の事知ってる」

 少女はヘッドフォンを首に降ろしながら、出し抜けにそう言い出した。ヘッドフォンが除けた耳には、ガーネットと思われる(あか)いピアスが見えた。嬉しそうに微笑む彼女を見て、初対面の僕に対し、その屈託のない笑顔は一体何なのだろう、と思った。これではまるで兄に微笑む妹のようだ。

「三日前、あたしン()のすぐ近くに引っ越しのトラックが来てた。その時に君を見た」

 僕は警戒した。余計な事は言わないようにしよう、言えば言うほど疑われる、それがどれだけ本当の事だったとしても、誰も僕を信じてくれない、それなら最初から話さなければいい。…とある不運な出来事に遭遇して以来、半ば本気でそう思い込んでいたからであった。

「どこから来たの?」

 ひどく嬉しそうな表情で質問してきた。

「渋谷」

 受け答えはシンプルかつ最低限に、自分にそう言い聞かせながら返事をした。

「何年生?」

「中二」

「じゃああたしと一緒だね。名前は? あたしは美樹本(みきもと)宇宙(コスモ)

 コスモ? 思わず首を傾げてしまった。それではまるで、星座を模した眩しい鎧を身に纏い、不屈の闘志で戦う少年達を描いた漫画に出てくる架空の生命エネルギーの名前そのまんまじゃないか。

「ねぇ、こっちはちゃんと名乗ってるのよ。アンタも名前を言いなさいよ」

 僕は黙ったままでいた。すると突然、彼女の右腕が鞭のように鋭くしなった。信じられない事に、彼女はスティックを投擲してきたのだ、…それも僕の顔を狙って。慌てて避けると、スティックは林の中へと飛び込んでいった。

「もう、予備のスティックなんてないのにどっか行っちゃったじゃん。アンタが名前を言わないからだよ。アンタも一緒にあれを探して」

 知るもんか、予備がないなら投げたりせず大事にすればよかったんだ。…と言ってやりたいところだったが、やはり受け答えは最低限に、と判断し、「ヤダよ」と答えてそこから走り去った。

 新築ほやほやの家に帰ると、蒼白い顔をした母が、咳をしながら玄関で迎えてくれた。病弱なため、滅多な事がない限り、母が家を留守にする事はなかった。

「お友達が来てるわよ。まるで男の子みたいに元気な女の子。ベランダのウッドデッキで座って待ってる。ねえ、あの子ハーフよね? 肌白いのね、目も綺麗だし、髪の毛もミルクティーみたいな色をしてる。まるで人形みたい」

 アンタも隅に置けないわね、とでも言いたげな母に背を向け、ベランダへ走った。すると先ほどの少女が、アディダスのリュックサックからスティックを取り出していた。そこにはスティックが何本も入っているようで、中からジャラッと乾いた音が聞こえてくる。予備がないんじゃなかったのかよ、そもそもどうして僕より先にここへ来てるんだ? …狐につままれたような気分だった。

「優太、この女の子にドラムを教えてもらう約束をしてたんでしょ?」

「してないよ」

 その少女がありもしない事を言って勝手に家へと上がり込んだのがこれで明白となった。彼女は母の言葉を耳にすると、

「ふーん、ユータって名前なんだ。よろしくね、ユータ君…」

 バウムクーヘンの最後のひとかけらを口に放り込むと、彼女はすぐさま立ち上がった。

「…とりあえず、ユータの部屋でも見せてもらおっと」

「ちょっと待て。なんでお前ここにいるんだ?」

「あたし地元だよ。抜け道や近道なんていくらでも知ってる…」

 あんな山道の一体どこに、抜け道や近道があるというのだろう。そもそもそれ以前に、その台詞は、答えになっているようで全くなっていない。

「…あたしの事はコスモって呼んでいいから、よろしくね、ユータ…」

 彼女は階段を駆け上がると、

「…ここがアンタの部屋?」

 言うや否やいきなりドアを開け、勝手に部屋へ上がり込んだ。

「ふ〜ん、男の子の部屋ってこんな感じなんだ。もっと散らかってるかと思ってた。本読むの好きなの?」

 新品の家具ばかりが置かれている部屋を見渡した後、棚に並んだ数十冊ほどの文庫本を眺めながら彼女は言った。さらに今度はCDラジカセを見ながら、

「音楽はどんなの聴くの?」

 と尋ねてくる。僕は当時流行っていたルナシーや黒夢の名を口にした。すると今度は、

「洋楽は聴かないの?」

 と言い出した。

「いや、言葉の分からない音楽はちょっと」

「確かにアンタお洒落だけどさ…」

 そのとき僕は、ショットの派手なネルシャツを羽織っていた。彼女はそれを一瞥すると、

「…本当に渋谷から来たの?」

 と言いだした。カチンと来てしまった。

「悪かったね」

「ごめん、気を悪くした?」

「別に」

 ふいっと横を向いた。好奇心の強そうなヘーゼルの瞳が、僕の顔を正面から覗き込んできたからだ。

「なんか素っ気ないね」

「勝手だろ。余計な事は言わないって決めてるんだ」

「そうなの? つまんないの。ねぇ、やっぱりエッチな本とか持ってるの?」

「もっ、…持ってないよ! てゆーかお前、その、エッチな本がどうとか、知らない人の部屋にいきなり入って来たりとか、なんかちょっとおかしくない?」

「今、何て言った?」

 彼女は突然怒りだした。

「いや、だから、エッチな本がどうとか…」

「違うよ、その後だよ…」

 男のような口の聞き方をすると、彼女はリュックからおもむろにスティックを取り出しながらこう言い出した。

「…頭がおかしいとか、変とか、狂ってるとか、そういう事、もう二度と言わないで。もしまた言ったらこれで引っぱたく…」

 そしてスティックの先端を僕の鼻先に振りかざし、

「…痛いよ!」

 鋭い目つきで彼女は叫んだ。この時点ですでにもうじゅうぶんおかしいのだが、もし本当に叩かれたら一体どれだけ痛いだろうかと思うと怖くて声が出なかった。

「おかしいって言った罰として、明日までにこれ聴いといて…」

 彼女は新型の黒いウォークマンからカセットテープを引き抜いた。そして僕のCDラジカセに勝手にセットすると、巻き戻しのボタンを押した。

「…これの一曲目、『移民の歌』って言うの。レッドツェッペリンの曲。たぶんテレビとかでチラッと聴いた事ぐらいあると思う。あたしこのドラムが好きなの。ジョン・ボーナムって人。こんな感じの乾いた音が出せたらいいなって毎日練習してるってわけ。これを聴くんならさっきの事は許してあげる。明日また来るからそれまでに聴いといて。聴かなかったら月に変わってスティックでお仕置きだから。じゃあね」

 まるで口から火を吐く怪獣のように、自分の言いたい事だけを一方的にまくし立てると、手を振りながらウインクし、彼女は階段を駆け降りていった。

「おばさ〜ん! また明日遊びに来ますねぇ〜!」

 階下から、非常によく通るハスキーな声が聞こえてきた。するとすぐに母が部屋へやって来た。

「今の話、下まで聞こえてたわよ。大丈夫?」

「うん」

「よくよく考えたらお母さんもお母さんよね、うっかり家にあげちゃうなんてどうかしてた。あの女の子、元気なのはいいんだけど、ちょっと変わってるというか、危ないというか…」

 部屋にはまだ幼い少女特有の甘酸っぱい香りが漂っていた。



 その夜、レッドツェッペリンを聴いた後、僕は納屋にある古いフォークギターと教則本を引っ張り出していた。

 彼女がまるで地震が起きる時のように突然訪れ、夕立が止む時のように忽然と去っていった後、他にする事もなかった僕は再生ボタンを押した。するとイントロの後、確かにテレビで聞き覚えのある、「あああ〜〜〜〜〜〜ああ〜」というロバート・プラントの叫び声(シャウト)が聴こえてきた。ああ、これってレッドツェッペリンってグループの曲だったんだ、と思うと同時に、なんかこれカッコいい、と強く感じた。が、フォークを引っ張り出した理由はそれだけではなかった。「本当に渋谷から来たの?」という台詞が頭から離れなかったからだ。あんな道なき山道に、抜け道や近道があると豪語した田舎娘なんかにナメられてたまるかと思ったのだ。自慢じゃないが学力には自信のあった僕は、明日アイツの度肝を抜いてやると意気込み、一晩で代表的なメジャーコードと簡単なアルペジオを覚えた。

 つと練習に疲れ、カセットを取り出してみた。するとそこには「レッドツェッペリン3」と、まるで男が書いたかのような字が描かれたシールが貼ってあった。「何から何まで男みたいだ」と、思わず僕は(わら)ってしまった。

 …それが実は本当に男の字だったとも知らずに…。



 次の日の朝、徹夜でうつらうつらしていた僕の目を覚ましたのは、

「ユータく〜ん!」

 非常に良く通る例のハスキーな声だった。窓を開けると、朝日とともに階下からコスモの挨拶の声が飛び込んできた。

「ごめ〜ん。まだ寝てた?」

「うん。徹夜してたんだ」

「昨日のは聴いてくれた?」

「聴いたよ。上手く言えないけど、なんか良かった」

「起きたばっかで悪いけど、部屋に上がってもいい?」

「いいよ」

 階段を登ってくる音が聞こえてきた、そして更にノックの音。「どうぞ」と言うと彼女はドアを開けた。

「昨日はごめんね。勝手に家に押しかけたり、部屋に上がったりして。確かにあたし良くなかった。詳しい事は言いたくないんだけど、ちょっと浮かれちゃってたんだ。許して」

 ボーズのヘッドフォンを首に下げたコスモは、両手をもじもじさせながら、分別臭い謝罪の言葉を口にした。これではまるで昨日とは全くの別人のようである。そんな歳の離れた兄に注意されて反省している妹のような姿を、

「ま、別にいいよ」

 少々訝しく思いながら返事をした。すると昨日まで部屋になかったギターに気づいたコスモは、

「ひょっとしてギター弾くの?」

 フローリングの上にお姉さん座りをしながら尋ねてきた。

「昨夜始めたばかり。メジャーコードとアルペジオ、少し覚えた」

「すごい、1日で!? 聴かせて聴かせて」

 コスモがそう言うのと同時に、母が菓子と飲み物を持ってやって来た。コスモの背中をしばらく注視すると、母は僕に目配せし、階段を降りて行った。

 僕は言われるまま、覚えたてのコードを弾いてみせた。C、E、G、そしてまだ覚束(おぼつか)ないF。

「もうバレーコードも知ってるのね。まだ音が濁ってるけど、チャレンジするだけ立派だよ」

 女の子に煽てられ、思わず気分が良くなってしまった。しかしすぐに気を取り直し、昨日からなんとなく不自然に感じていた事を口にした。

「でもさ、なんかこのギター、音が少し()な気がするんだ」

 思わず()という言葉を使ってしまった。途端に昨日の恐ろしい記憶が蘇る。しかし彼女に、ドラムスティックで実力を行使しようとする意思は微塵も見られなかった。安堵した僕は、やはり覚えたてのアルペジオで、「トゥインクル・トゥインクル・リトル・スター」を演奏して見せた。

「確かに音程が変だね。貸して」

 コスモがギターを構えると、ギターの側板(サイド)のへこんだ部分が、大きな胸を押し上げるのが見えた。

「音叉」

 言われるままに音叉を差し出した。するとコスモは、受け取った音叉を煙草の灰を落とす不良少年のような仕草で弾いてA音を鳴らし調律をチェックし始めた。

「ギターも弾けるの?」

「ちょっとね。でもあんま上手くない。こんな狭い指板を押さえてるとだんだんイライラしてくる。それにドラムの方が好いてる。スネアぶっ叩くとスカッとするし。…うん、多分これネックが歪んでるのよ。フレットもすり減ってるし、ペグもグラグラ。修理しないとダメね。てゆーかアンタすごいよ。たった一日で音程がおかしい事に気づくなんて音感いい証拠、音楽やらないなんてもったいない。ねぇ、一つ聞くけど、一晩でこれだけ覚えたって事は…」

 少年のような鋭い目が僕を見た。

「…やる気あるんだよね?」

「うん」

「分かった。今からエレキギター持って来てあげる。30分くらい待っててくれる?」

「いや、何もそんな今すぐじゃなくても…」

「その方が都合いいのよ」

「都合がいいって、…どゆこと?」

「とにかくこれでも聴きながら待ってて。ジミヘン」

 男のような字が書かれたカセットテープを差し出すと、グラスと皿をトレイに載せ、コスモは立ち去って行った。

 言われるままに再生ボタンを押すと、「紫のけむり(パープルヘイズ)」の熱情的で強烈なビートが鳴り出した。その破壊的なグルーヴに雷が落ちる時のような衝撃を受けた。洋楽に心を完全に奪われてしまった瞬間だった。

 しばらくすると母が部屋にやって来た。

「名前、確かコスモちゃんって言ったっけ? 最初はちょっと警戒したりもしたけど、案外いい()ね。"ご馳走さまでした"って、グラスとお皿洗ってから帰ってったわよ」

「マジで!?」

 まさかあの女にそんな一面があったなんて、正直かなり意外だった。しかし母に嘘を吐く理由などあるわけがない。信じるより他なかった。

 しばらくするとコスモは、真っ赤な自転車を手押ししながら再びやって来た。前後の荷台を目一杯に使って様々な物を運んで来ている。黒いケースの中に入っているのは、大きさから見てエレキギターで間違いないだろう。他にもスピーカーのような物と、キーボードのように見えなくもない黒くて平べったい機器が見えた。

「重たいから手伝って!」

 窓の下から彼女は叫んだ。

「それ何?」

「いいからとにかく手伝って!」

 まさかこんな大荷物になるなんて、と思いながら階段を降りた。そして彼女に言われるまま、顎で抑えながら荷物を持ち上げた。確かに重たい。いくら自転車を使って運んできたとはいえ、女の細腕では大変な重労働だったに違いない。コスモはギターが収められているであろう黒いハードケースを、それはそれは大事そうに(いだ)き持ち、二人で共に部屋へ戻った。

「まずこれ、プリメインアンプ。エレキギターの音を出すために作られた専用のスピーカー。マーシャルっていう有名なメーカーの製品なの。この平べったいのはボスのマルチ・エフェクター。ペダルを踏むと音色が変わるの。ギターとアンプの間に繋いで使って。オーバードライヴにディストーション、ディレイ、コーラス、リバーブ、代表的な音はほとんど出せるし、自分好みの音を作って記憶させる事も出来る。ま、あたしの本職はギターじゃないから、詳しい使い方はマニュアル見て。もっともアンタの場合、まずはギターを覚える事ね。今すぐこれを使う事はないと思うけど念のために教えとく」

 ズラリと並んだペダルにボタン、そして電光掲示板。洗練されたメカニカルなデザインに、

「なんかこれ、カッコいいね」

 男心がくすぐられた。

「感心なんかしてないで話を聞いて。これ、ホンット〜にマジで、絶対に大事にしてね、約束だよ。フェンダーのストラトキャスター…」

 コスモはカチッと音を立てて黒いハードケースを開いた。すると中から、均整のとれた女性のウエストラインを彷彿とさせる、美しいプロポーションのエレキギターが姿を現した。その見るからに良い音を奏でそうなギターがキラッと黒光りするを目にし、思わず「すげぇ」とため息が漏れた。

「…エリック・クラプトンのシグネチャー・モデル、ブラッキーって言うの」

「本当に借りていいの?」

 ゴクリと唾を飲み込んでしまった。

「うん。あたしがいつか返してって言うまで、好きなだけ弾いてていいから。それとこれも…」

 リュックから白いジャケットのCDが出てきた。

「…クラプトンのスローハンドってアルバム。このギターは、ここに写ってるギターのシグネチャー・モデルなの。ちなみにこの人、ギターの神様って言われてるのよ」

 レベル1の勇者が、物語の序盤で、伝説の聖剣をいきなり手にした瞬間だった。



 その夜。

 僕は貸してもらったCDを、何度も何度も繰り返しては聴き続けていた。なんて素敵な音なんだろうと、恍惚としていたからであった。

 このCDで聴くクラプトンの音には、ジミー・ペイジやジミ・ヘンドリクスの様な荒々しさや激しさはなかった。が、「バランスが良いという概念をギタリストにすると、エリック・クラプトンという人間が生まれます」と形容するより他ない、清潔な構築美を感じたのだ。しかも、この人はこの音を、いま目の前にある物と同じ楽器で出しているのだ(むろん厳密には同じではないのだが)。僕もこんな音を出してみたいと思った。

 僕に訪れた変化はそれだけではなかった。英語が突然聞き取れるようになりだしたのだ。「ワンダフル・トゥナイト」を聴いていたときの事だった。途切れ途切れに聴き取れる英単語から、大人の男女の夜のデートの事を唄っているんだと、推測できてしまったのである。「言葉の分からない音楽」ではなくなってしまった瞬間だった。

 ホロリと一粒涙が落ちた。いつかこの曲の弾き語りをコスモに披露してみたい、ふとそう思ってしまったからである。それにしてもなぜ彼女は、知り合ったばかりの僕にこんなに良くしてくれるのだろう? …質問してみたくなった。しかし本当の事を知ったら、この甘い魔法が解けてしまいそうな予感がした。何故かしら、知らないままでいた方が、幸せでいられるような気がして仕方がなかったのだ。



 夕べの体験を話すと、

「英語が分かるようになった? 良かったね」

 コスモはそう言ってにっこり微笑んだ。

「前から聞きたかったんだけど、その、君ってもしかして、英語出来るの?」

「コスモって呼んでいいって言ったじゃん。アメリカじゃみんな"first name"で呼び合ってるよ…」

 大変流暢な英語だと思った。

「…英語ならまあまあ出来るよ。ママがアメリカ人なの。若い頃、横須賀の基地で海軍の兵隊さんにご飯を作ってたんだって。除隊する頃にはすっかり日本が気に入ってそのまま住み着いたって言ってた」

「お父さんは?」

 と聞くと、彼女の顔は途端に暗くなった。片親なのだろうか、そう思った僕は慌てて言葉を継ぎ足した。

「あ〜ごめん。言いたくないなら言わなくていいよ」

「うん。じゃあ言わない。ユータって、最初は冷たい人なのかなって思ってたんだけど、本当は優しいんだね」

「そうかな、普通だと思うけど」

 彼女は毎日部屋に来ては、僕のギターが上達するよう、様々な便宜を図ってくれた。春休みが終わる頃になると、

「あたしの本職はあくまでドラムなんだけど…」

 と前置きをした上で、

「…でももう、ギターはあたしよりずっと上手だよ。あたしに教えてあげられる事はもう何もない。正直に言うと、この短期間でここまで上達するなんて思ってもなかった。まさかこんなにギターのセンスがあったなんてね…」

 と言い、最後にポツリと意味深な言葉を独りごちた。

「…やっぱよく似てるわ」

「似てる? 誰に?」

「さあね」

 質問は、そこはかとなく哀しい声で、はぐらかされてしまった。奇妙な変化の兆しだった。最初の頃の、まるで太陽のような明るさは、休みが終わりへと近づくにつれて次第に(かげ)を帯びるようになり始めたのだ。特に最後の日の暗さは尋常ではなく、さすがに僕は心配になってしまった。

「明日から学校だね。クラスも一緒だといいな」

 努めて明るく話しかけた。しかしその翳が消えることはなかった。

「今まで本当に楽しかった。ありがとう。でももうこんな風に話せる事はないと思う。ギターは、好きなだけ弾いて。返して欲しくなったらそう言うから」

 物怖じするような性格には見えないし、返して欲しくなったなら、きっとハッキリそう言うだろう。だがしかし、そのお別れの言葉は一体何なのだろう、これではまるで今生の別れのようである。不安になったのは言うまでもない。

「大丈夫? もしかして具合悪い?」

 彼女は少し俯くと、

「とにかく、今までありがとう。帰る」

 突然立ち上がり、部屋を飛び出してしまった。するとすぐに母が来た。

「アンタ、ひょっとしてコスモちゃんに何かした?」

 少しだけ、疑うような目つきをしていた。しかし、男にとってその()の誤解が一体どれだけ大きな痛手となるか、母だって「あの一件」で嫌というほど解っている筈。フローリングの上に胡座をかき、太ももに乗せたブラッキーを弾いていた僕は、母の目を見て堂々と答えた。

「いや、何もしてない」

 事実、心当たりは全くなかった。

「それなら別にいいんだけど…」

 母とコスモ、女同士の親睦はその春急速に深まっていた。死産という悲しい結果を経て、二人目を永遠に望めなくなってしまった母の口癖は、「優太の次は妹が良かった」だった。…そう、例えば二人が昼食を準備したりする姿は、まさに母と娘のようだったのだ。「いつもご馳走になってすみません」と、コスモが持ってきてくれた手作りハンバーグを家で焼いて食べた事もあった。噛んでも噛んでも旨味が出てきた、正直母より美味いと思った。なんでも刻んだサラミが隠し味なのだそうだ。後になって知ったのだが、コスモの家庭は共働きのため、すでに家事はお手の物だったのである。…もう少しだけ正確に言うと、心を病んだ親のせいで、すでにコスモはあの年頃にしてはしっかりとし過ぎてしまっていたのだ。しかしそれには反動もある、幾つになっても大人になりきれない未来を招く危険性を孕んでもいるのだ。

「…あんなに明るくて元気だった子が、不思議ね、なんだかまるで幽霊が消えて居なくなるみたいだった」

「俺も不思議だった。"もうこんな風に話せる事はないと思う"って言われたんだ」

 もう二度と会えないなんて絶対に嫌だと思った。押し寄せてくる不安や寂しさを振り払おうと、しゃかりきになってバッキングの練習を繰り返した。すると不吉な事に、僕は何度も弦を切ってしまった。

 彼女への好意をはっきりと自覚した瞬間だった。



   ♩



 …新学期初日。

 事前に言われていたとおり、まずは職員室へ向かうと担任を紹介された。送ってくれた父は、「しっかりやれよ」と言い残し去って行った。

 先生と共に教室に入り、促されるまま自己紹介をした。しかし教壇から見渡したクラスメイト達の中に、見慣れたコスモの顔はなかった。現実はそんなに上手くいかないか、…そう思いながら席に着いた。

 一時間目の授業が終わると、さっそく皆から話しかけられた。

「…渋谷から来たってホント?」

「…家どこ?」

「…趣味は?」

「…クラブ決めてる?」

 僕はただ簡潔に返答した。疑われるくらいなら初めから話さない、心に強く決めていたからである。ひととおりの受け答えが終わるのとほぼ同時に、あの中学生の持ち物としてはかなりの高級品ではないかと思われるボーズのヘッドフォンを首に下げたコスモが教室に入って来た。しかもここは学校だというのに、紅いピアスを平然と着けたままだった。それだけではない、当時の女子高生達の間で流行していた、ミニスカートとルーズソックスまで身に着けていた(それはあくまで、『女子高生達の間』での話だった、…つまり中学の時点ですでにそういった格好をしていた女子は、渋谷ですらまだごく少数だったのだ)。校則違反の見本のような姿。暗く不機嫌そうな顔。これではまるで不良少女だ。初対面の時に見た、あの躍動的なまでの明るさは一体どうしてしまったのだろう。まるで別人のような彼女を見て、思わず「えぇっ!?」と声を出してしまった。

「お前、ひょっとしてアイツの事知ってるの?」

「家がたまたま近くで…」

 相手は女子だ、あまり下手な事を言うと冷やかされるかも知れない、そうでなくとも警戒していた僕は、極めてシンプルにそう答えた。

「アイツとは仲良くしない方がいいよ…」

 コスモの実情がどうであれ、同じクラスになれてまずは何よりだった、と思っていた僕の心は、その一言でたちまち真っ暗になってしまった。

「…アイツの親父、頭が()()()()んだ」

 小さな声で耳打ちされた。コスモには聞こえないように、という意図でそうしたのは明白である。しかし、どうやらそれは彼女の耳に届いていたようだった。その言葉を聞いた瞬間、思わず僕はコスモを見てしまった。彼女もこちらを見ていた。…刹那、コスモにも聞こえたのだと僕は察知した。



 小学校が同じだったという男子からそれとなく聞き出した話によると、彼女の父親は酒癖が非常に悪いとの事だった。運動会の時に学校で酒を飲み、よその親に怪我をさせて警察の世話になったとか、同級生の親が経営している居酒屋で暴れたため出入り禁止になったとか、あまりの酒癖の悪さゆえ、精神病棟に入れられたとか、ひどい醜聞ばかりなのである。もしその話が真実だったとしても、コスモはコスモ、父とは全く別の人格だ。頭では分かっていた、が、どうしたらいいのか僕には全く分からなかった。

 コスモはクラスで孤立していた。しかも、困った事に彼女は目立った。校則違反の制服とピアスはもちろん、ハーフゆえのルックスとスタイルは更に際立っていた。音楽について質問もあったが、どうやって話しかけたらいいのか迷いながら数週間が過ぎた。

 そんなある日、コスモが学校を休んでしまった。そのため担任からプリントを持って行って欲しいと頼まれ、彼女の家の場所を書いた簡単な地図を渡された。コスモや担任の言っていたとおり、確かに僕の家のすぐ近くだった。

 昭和四十年代ぐらいに建築されたと思われる木造の平屋、それがコスモの家だった。大きな洋風の家で、高価な楽器に不自由しない裕福な暮らしをしているとばかり思っていたので少々拍子抜けがした。

 見覚えのある赤い自転車が止まっていた、つまりコスモは中にいるのだ。呼び鈴を鳴らした、しかし反応がない。僕は庭の方に回り込み、窓に向かって声を出した。

「コスモ、俺だけど。先生からプリント預かってきた。いるんでしょ」

「帰って!」

 室内からコスモの声がした。

「プリントならポストにでも入れといて!」

「顔ぐらい見せてよ」

「いいから帰れ! どうせアンタもあたしの事頭がおかしいとか思ってンでしょ!」

「何を言ってんだよ!」

 部屋の窓が突然開いた、と同時に黄色い目覚まし時計が飛んできた、…それも顔面に。慌ててかわすとすぐ後ろの電柱にぶつかり、乾電池が弾け飛んだ。くまのプーさんが描かれた時計の針があり得ない位置を指しているのを目にし、ぶつかった衝撃で時がワープしたのだろうかと場違いな思いが頭をよぎる。それにしても以前のスティックといい、なんという精密なコントロールだ、もし男なら数年後、甲子園のヒーローかも知れない。そう思いながら振り向くと、彼女の頬にひと筋の涙が見えた。そして、その頬に痣がある事に気づいた、…と同時にピシャリと窓は閉じられた。



 その夜、コスモの母が我が家に初めて訪問してきた。往年のマリリン・モンローを彷彿とさせる、グラマラスな体型の女性だった。

「娘から聞きました。ごめんなさい…」

 濃紺のリーバイスがやけに様になっている金髪蒼眼の白人女性は、たどたどしい日本語でそう切り出した。

「…私の主人はタクシーの運転手をしています。二十四時間働いて二十四時間休むという変則的な勤務で、休みの日はひたすらお酒を飲んでます。娘が学校を休んだのは、酔った主人に殴られてできた痣を気にして行く気をなくしてしまったからなんです…」

 そう聞いた瞬間、精神病棟に入院した事があるという噂は、恐らく本当なのだろうと思った。

「…子どもに聞かせるような話ではないかも知れませんが、(アルコホリックス)(・アノニマス)(と発音する時、コスモよりも更に流暢になった)という、お酒を自主的に止めている人たちの自助会にも参加しているんです。けれども主人の酒癖は治らなくて…」

 AA。クラプトンが断酒した事でも有名な団体である。

「…やっぱり私たちのせいかしら、うちの娘は感情の起伏が激しいようなところがあって、ひどい事をしてしまったって泣いてました。許してあげて下さい。友達になってやって下さい」

 今の僕になら解る。これはもう典型的な機能不全家族だ。アルコール依存症の父。依存症者が引き起こす様々な問題行動の後始末に追われる、…換言するなら、依存症者から必要とされる事を必要としている共依存の母。そして、病んだ親に傷つきながらも、まだ無力ゆえに家から逃げる事すら叶わない子ども。

「うちの息子も…」

 一緒に話を聞いていた母は口を開いた。

「…コスモちゃんから音楽を教えてもらって活き活きしてたんです。料理も上手だし、食器を洗ってくれたりテーブルを拭いてくれたり、気が効くんで私も感心してました。それが春休みが終わった途端に来なくなったんで心配だったんです。うちは男の子ですし、私も体が悪いので泊めてあげる事は出来ませんけど、そういう事でしたらこれからも遊びに来させてやって下さい」

 …この日の事を思い出し、母と話し合った事があった。コスモが日本を去ってしばらく経ってからの事である。ふと聞いてみたくなったのだ。

「もし俺が女だったら、コスモとはどうなってたかな?」

 すると母は、

「何かあるたびにうちに泊まりに来て、大の仲良しになって、歌祈(かおり)ちゃん達とガールズバンドでもやってたんじゃないの。でも分からないよね、やっぱ優太は男だから。どうせお母さん長くは生きられないだろうし、コスモちゃんみたいに元気な子がお嫁さんに来てくれたら安心できるのになぁ、って、あの頃からボンヤリ思ってたの。()()()()になって本当に残念だった」

 そう言って、悲しそうな顔をした。しかし、()()()()にまつわる「真相」を、僕は母に話せずにいた。もっとも口に出さないだけで、本当は母も女の勘で、薄々あの「真相」に気づいていたのではないかと思っているのだが…。

  …ともあれこの日、僕は言った。

「明日の朝、コスモさんを迎えに行きます。そう伝えて下さい」

 部屋に戻り、購入してきたばかりのCD、クラプトンのラッシュを再生した。何度聴いてもこれは良い。部屋の空気が澄んだような気持ちになる。コスモにも聴かせてあげたかった。特に最後の「ティアーズ・イン・ヘヴン」は本当に良いと思った。

 音に合わせてブラッキーを奏でた。その頃にはもう、アンプもマルチ・エフェクターも使いこなせるようになっていた。コスモのおかげだ。母から「遅いからもうやめなさい」と言われるまで、ひたすらギターを弾き続けた。

 ホルダーに立てかけたストラトの美しい曲線を眺めた。すると不思議な事に、亡くなった人を悼むような気分になってしまった。今にして思えばそれは当然の事だった。事実あのブラッキーには、それだけの価値があったのだから…。

 窓から見える白い月が、やけに綺麗な夜の事だった。



「まさか本当に来ると思わなかった…」

 それがコスモの第一声だった。ドアを開け、顔を出してくれたまでは良かった。しかし制服を着ていなかった。

「…アンタ、ママから全部聞いたんでしょ? なんとも思わなかったの?」

「何も感じなかったわけじゃないけど…」

「あたしと一緒にいたら、アンタまで言われるかもよ、頭がおかしいって」

「そうかもね」

「そうかもねって、アンタ馬鹿じゃないの?」

「かもね、でもいいよ。言いたい奴には言わせとけ」

「もし、付き合ってるって言われたら?」

 正直、コスモの様なボーイッシュな顔は好みではなかった。が、とびきりの美少女である事に違いはない、スタイルだって抜群だ。本当ならすぐにでも付き合って欲しかったが、さすがにそれは言えなかった。

「シンプルに、付き合ってないって言えばいい。冷やかしてくる奴を相手にムキになってたらかえってソイツの思う壺だよ。淡々としてればつまんないヤツだと思って諦めるさ。とにかく、学校にだけはちゃんと行こう」

「アンタはいいよね。家だって綺麗だし、親とも仲がいい。うちなんて酒を飲むと親父がうるさくてさ、勉強なんかしたくてもできない。学校行って何になるのって思っちゃう」

「うちだって色々あるよ。引っ越したのだって、お袋が体悪くしたからとか、親父の転勤とかって言ってるけど、本当は少し違うんだ。うちの親父、疑われた事があってさ…」

「疑われた? 何に?」

「痴漢に」

 想定されうるあらゆる答えとも違う返答だったのだろう、彼女は明らかに動揺していた。しかしその反応は当然だと思った。なぜならコスモは、すでに父とも面識を得ていたからだ。

「親父と一緒に電車に乗ったときの事なんだ。切符買って駅に入った時、急にトイレに行きたくなって親父に待っててもらったんだ。トイレから出てきたら他の男の人達に取り押えられて駅員室に連れてかれてた。しかもすぐそばにいる女の人が"痴漢だ、痴漢だ"って騒いでた。そんな筈はない、何かの間違いだって、俺にはすぐ分かったよ。たった今子どもと一緒にいた人がそんな事をするわけがないじゃん、って。でも、どうしたらいいのか分からなかったんだ、お袋は入院してたしさ。しばらくしたら駅員室から親父が出てきた。その女の人、何度も何度も頭を下げてたよ、"すみませんでした、本当にどうもすみませんでした"って。なんでだと思う?」

「分かんない」

 コスモはドアに寄っかかり、腕を組んでいた。真剣に聞いてくれているのがはっきりと感じ取れた。

「その女の人が痴漢にあったのはどうやら本当みたいなんだ。電車の中で" この人痴漢です!"って叫んだ、その痴漢は電車から降りて駅の構内を走って逃げた、女の人は痴漢を追いかけた、逃げた痴漢はたまたま階段の近くにいた親父とぶつかってそのまま走り去った。…で、ぶつかった時に転んだ親父を、女の人は誤認したんだ、"この人痴漢です!"って…」

 しばらく息を整えた。僕は喋り過ぎている、自分でも、分かってはいたがもう止められなかった。

「…ところが、親父が持ってた切符と、女の人の証言が食い違っている事が分かって、親父の誤解はようやく解けたんだ」

「解けたんなら良かったじゃん」

「良くないよ。次の日学校で噂されたんだ。"アイツの親父は痴漢だ"って。親父を捕まえた人が、実はクラスの悪ガキの父親だったんだ。捕まえるだけ捕まえて、すぐにその場を去ったみたいで、事の顛末を知らなかったんだよ。だから俺は反論した。"痴漢じゃない、女の人が謝ってるのを見た"って。そしたら次の日今度はこう言われた。"昨日うちの親父に聞いたけど、近くに子どもなんかいなかったって言ってたぞ"って」

「えっ!? それって!」

「そ、いるわけないんだよ。だってトイレにいたんだもん。まるでアリ地獄にいるような気分だったよ、本当の事を言えば言うほど疑われてさ。仲良かった奴らも、"信じてる"って言ってはくれたけど、声と体が大きな奴には勝てなくてさ、表向きには付き合ってくれなくなっちゃったんだ。ちょうどその頃だったんだ、親父のやつ、上司からこう言われたんだって。"海の波を利用して発電する機械を葉山の事業所で開発している、家を建てるお金を会社で援助するから転勤しないか"って。東京二十三区内でマイホームなんて夢のまた夢だし、学校で俺の立場が悪くなってたのもあったし、退院したばかりのお袋も"空気の綺麗な所がいい"って言うしで、それならいっそ転勤しようか、ってなったんだ」

「それが葉山に()()してきた理由だったのね」

「移民は大げさだな…」

 僕は笑った。すると彼女も笑い出した。

「…それからだよ、いちいち受け答えするのも、反論するのも嫌になったの。最初に言ったろ、余計な事は言わないって。同じだよ。コスモの事で何か言われても、最低限の事だけ言えばいい。それに、量より質だよ、上辺だけの奴が何人もいるより、本当に解ってくれる奴が少しだけいる方がいい。だからコスモもさ、自分から壁を作らないで心を開いてみないか。クラスの全員から好かれてる奴なんているわけないんだって割り切っちゃえ。悪く言う奴には言わせとけ。きっと友達できるよ…」

 …話は前後するが、しばらくすると彼女に歌祈ちゃんという名の親友ができた。相対的に僕との時間は減っていったが、女同士の付き合いもあると思うとかえって嬉しかった。

「…親父さんの事はきっと本当なんだろうけど、料理が上手い事だって本当じゃん、俺に音楽教えてくれた、ブラッキーだって貸してくれた、コスモにもいいとこあるんだから」

「ブラッキーは、あれは、貸すというより預けてるのよ」

「預けてる?」

「そ。親父に売られそうになった事があったの。酒を買うお金が欲しかったのよ。全力で止めたけど、いつまた同じ事が起こるやら。アンタの家なら安全じゃん。近いからいつでも返してもらえるし」

 僕はあのギターを非常に気に入っていた。売ろうなんて夢にも思った事がなかった。クラスの友人に案内してもらい(本当はコスモにして欲しかったのだが)、楽器屋へ行った事があった。テレキャスター、ムスタング、ジャガー、レスポール、SG、…代表的なギターをひととおり試奏してみたかったからだ。でもやはり、ストラトの弾き易さと多彩な音色にかなうだけの魅力を、他のギターに見出す事は出来なかった。またそこでエレキギターがどれだけ高価か、再確認する事も出来た。

「分かった。あのブラッキーは大事にするよ。とにかく、学校にはちゃんと行こう」

「明日から行くよ」

「明日から?」

「こんな顔じゃ行きたくない…」

 どうしてこんなに可愛らしい女の子の顔を傷つけたり出来るのだろう。僕の心は激しく曇った。

「…アンタが何を考えてるのか、あたし分かるよ。顔に書いてある。"優太"って名前のとおり、優しいね」

 好意を持っている女の子に、面と向かって誉められて、思わず赤面してしまった。

「ねえユータ、今から海に行かない?」

 まるで兄に甘える妹のような声を聞き、そういえばまだ一度も葉山の海へ行った事がなかったな、と、今更ながらに思った。

「いいよ。ただし今日だけだよ。明日からは必ず学校へ行くって約束して」

 今日だけとは言いつつも、心はたちまち、学校をサボって海へ行くという無邪気なスリルでいっぱいになってしまった。

「案内は任せて」

 コスモの背中を追いかけ、自転車のペダルを漕いだ。アスファルトの敷かれた細長い坂道の下に砂浜が見えた。コスモは自転車を飛び降り乗り捨てた。主人(あるじ)を失くした赤い自転車は、しばらく慣性のまま青い水平線の方へ走り続けると、やがて白い砂の上、ハタリと倒れた。僕も真似して飛び降り、その勢いのまま二人で砂の上に倒れ込んだ。何がおかしいのかよく分からなかったが、とにかく笑いが込み上げてきて、大きな声で僕らは笑い合った。笑いの波が収まると、僕らの間をヤドカリがとおり過ぎていった。それを見送り、コスモと目を合わせると、再び僕らは笑い合った。パステルカラーの海と空が、目に痛いくらい眩しく輝いていた。そしてそれよりも更に眩しく煌めくコスモのエメラルドグリーンの瞳を見た。この綺麗な瞳に僕が写っているのだと思うと、自分は今、世界で一番幸せな人間なんじゃないかという想いで心がいっぱいになった。

「ユータが考えてる事あたし分かる」

「言ってみて」

 二人きりの答え合わせには、まだもうしばらく時間が必要な事にコスモは気づいていたのだろうか。返答は、

「I'm not telling!」

 まるで砂に書いた字を(さら)う気まぐれな碧い波のように、流暢な英語によってはぐらかされてしまった。



   2・スタンド・バイ・ミー



 小石が窓にぶつかる音がした。僕はギターを弾く手を休め窓を開けた。

「いま何時だと思ってんだよ」

「23時だと思ってるからこうしてるの。ちょっと付き合って」

 手の中で小石を弄びながらコスモは言った。また酒が原因で何かが起きたのだろう。家出したはよいが、夜に女一人では何かと物騒だから、そばに居てくれるボディーガードが欲しいというわけだ。しかし23時は遅すぎる。新記録は悪い意味で更新された。

「勘弁してよ。そろそろ寝っ、…待て! 分かった、分かったから投げるのはやめてくれ」

 野球少年のようにテイクバックするコスモを見て、慌てて前言を撤回した。コスモのコントロールは正確だ。針の穴すら通せるだろう。この暗闇で石をかわせる自信はない。僕は思った、この女と結婚したら、尻に敷かれるに違いない、と。

 5月下旬の夜。外はまだ薄ら寒い。すっかり着古したエイトボールの黒いパーカーを羽織ってから、窓の真下の柱を伝い降りた。そして一階でテレビを見ている父にバレないよう、細心の注意を払って庭の納屋に飛び乗る。さらにそこから道路へとダイブ。すっかり慣れたいつものやり方である。泥棒と思われ通報されるかも知れない、常に思う事だった。都会ならじゅうぶんあり得る話だ。

 二人で歩き始めると、コスモはおもむろに語り出した。

「うちってやっぱり何かおかしいよね。親父の奴が真面目に働いてるのは分かるんだ。酒さえ飲まなきゃそんなに悪い人間じゃないって事も。でも、酒でお金を浪費してたら、プラスマイナスゼロじゃん…」

 プラスマイナスゼロどころの話ではない。心を病んだ親に育てられた子どもが親になると、今度はその人が子どもを傷つけるようになるからだ。…何故そうなるのか。戦争から帰ってきた人が山にこもって暮らすようになったり、性暴力を受けた女性が売春したりするようになるのは、不幸にも心に傷を負ってしまった状況とそっくりな環境を、今度は自ら望む事で、乗り越えようとしているからだと心理学では考えられている。児童虐待が世代間で連鎖するのは、同じ力が働いているからなのだ。したがってゼロではない、親の負債を子どもに押し付けているのと同じなのだ。が、社会はその事にあまりにも無頓着すぎる。なぜなら社会はそもそも大人が作っているから。そう、社会全体が、自分たちにとっての「不都合な真実」に、気づかないよう、気づかないようにと子どもを洗脳しながら育てているのだ。そしてそういった育てられ方をされた子どもが親になると、親と同じ過ちを繰り返している事に無自覚なまま子どもを傷つけるようになってゆく。…こういった主張の正しさを裏づける証拠がある。「二十歳を過ぎたら自分の責任」という常套句だ。なぜ、まだ親になった事のない人間までこの台詞を口にするのだろう? この謎は、社会全体が親にとっての「不都合な真実」から目を背けているからなのだ、と考えると、絡まっていた糸がほぐれる様に解ける。親の影響から逃れられる人間は一人としていない。そしてその影響は、人の人生を一生左右する。この「不都合な真実」に、薄々とはいえ、本当は皆気づいているのだ。だからこそその「不都合な真実」から目を逸らそうと、「二十歳を過ぎたら自分の責任」という、一見さも正しそうに感じられる魔法の言葉で親としての責任から逃避しているのだ。物事は、弱者の側からも見て公平に判断しなくては正確には理解できない。本質的には、自分で望んで結婚し、自分で望んでセックスし、自分で望んで出産し、自分で望んで子育てをしているだけなのだ。にも関わらず、親とはなんて恩着せがましい生き物なのだろう。…むろん、当時の僕がそこまで深く考えていたわけではない、ただコスモの話を聞いてあげる事ぐらいしかしてあげられなかった。

「…車の運転だって下手な筈ないのに、家族のために運転した事なんて一度もない、飲み足りないから買いに行くって飲酒運転だけはするくせにさ。ママもママよ、あたしだったらとっくに離婚してる。あんな家には帰りたくない」

 あてどなく、二人で夜の田舎道を練り歩いた。すると耳慣れぬ音が聞こえてきた。

「このガ〜ガ〜ガ〜ガ〜って音は一体何?」

「カエルの鳴き声だけど? …あそっか、都会に小川なんてないもんね」

 そんなコスモの一言に、小さな声で笑い合った事も今は昔。

 コスモの家の様子を伺ってみた。すっかり静まっているようだった。

「落ち着いたみたいね、あたし帰る、ありがとう」

 そう、たとえ何がどうであったとしても、帰る場所はそこしかない、それが子どもの現実なのだ。



   ♩



 葉山海岸花火大会の日の事だった。一色海岸へ一緒に見に行こうとコスモから電話があった。それは「あの二人は付き合っている」という噂が一人歩きし始めていた頃でもあった。いくら家が近いからとはいえ、毎日のように二人で登・下校していたのだから、噂されるのも無理からぬ事であった。ともあれ必要最低限の応対で、僕はそれを否定し続けた。事実、当時はまだ付き合ってはいなかった。 

「ピンク色の風鈴が描いてある水色の可愛い浴衣を買ったの。朝っぱらから酒飲んで寝てやがった親父の財布から1万円抜いてやったんだ!」

 コスモは悪ふざけをする時の少年のように楽しげだった。映像(ヴィジョン)が素直に脳裏に浮かんだ。その浴衣は、ミルクティーのような色をした髪に、きっとよく似合うだろうと思った。

 待ち合わせていたバス停に向かうと、自販機の前でコスモは一人、酷く機嫌悪そうにしていた。話のとおり水色の生地の上にピンク色の風鈴が、大小様々にかつランダムに描かれていた。髪をオレンジ色の輪ゴムで束ねているのが、より一層可愛らしさを引き立てていてとても()いと思った。しかしせっかく素敵な浴衣を着ているのに、怒っていては台無しだ、そう思いながら声をかけた。

「ごめん、ひょっとして待ち合わせの時間間違えた?」

「違うよ。ママに花火大会に行くからお小遣いちょうだいって言ったの。そしたらくれたんだけどさ、まるであと出しジャンケンみたいにこう言い出したのよ。"歯医者の予約キャンセルしなくちゃ"、って。お金ないなら先に言ってくれれば良かったのよ。そうすりゃ無理にねだったりなんかしなかったのに」

 煙草の臭いがする事に、そのとき初めて気がついた。

「盗んだお金をとっとけば良かったんじゃない?」

 常識的にはそれが正しい、そう思った僕は思わず言ってしまった。

「そもそも盗むなんて良くないよ」

 言った瞬間、しまったと思った。父について強く言及される事を、コスモは酷く嫌がっていたからだった。

「アンタみたいな恵まれてる奴に言われたくない!」

「ひがむなよ。うちだって色々あるって言ったろ」

 突然、平手が頬に飛んできた。普段からドラムでスナップを鍛えているだけあって、信じられないぐらい頬が痛く、否、熱くなった。

「あたし親父に洋服の一枚買ってもらった事がないのよ!」

 そう言い残すとコスモは涙目のまま走り去って行った。

 カラスの鳴き声が、夕闇の空に泳ぐような波を描いて響き渡っていた。



 自宅の電話が鳴り出したのは、花火大会が終わった後の事だった。

「お前さ、つい今さっきバス停で美樹本にビンタされてなかった?」

 クラスの友人からであった。

「いや、されてないけど…」

 平静を装い嘘を吐いた。

「ふ〜ん、それならいいんだけどさ、あまりあの女とは関わるな。キレると危ないって有名なんだ。小学校の時に男を張り倒して怪我させたって伝説があるのを前にも話したろ? いくら音楽が好きでもよ、アイツとつるむのはほどほどにしとけ」

 部屋へ遊びに来た事がある友人たちは、あのブラッキーを僕の私物だと勝手に勘違いしていた。むろん春の一件を知らなかったからである。過去の経験上、話す必要のない情報だと判断していたのだ。特に何の説明もなければ、渋谷にいた頃から持っていたのだろうと推認するのも当然である。

 友人からの電話はそこで切れた。小学校の時の伝説。コスモならじゅうぶんあり得る話だ。家庭が病んでいれば情緒も不安定になる。

 電話から離れると再び呼び出し音が鳴り出した。

「もしもし…」

 苗字を名乗った。しばらく無言の状態が続いた後、電話は切れてしまった。その音は明らかに公衆電話からのものだった。…何故かしら、女性からのように感じられた、それも、大人ではなく僕と同じぐらいの年頃の…。

 受話器を置いて再び離れると、三度目のコールが鳴り響いた。

「さっきごめんね。痛かったよね。本当にごめん。許して」

 コスモだった。泣きながら赦しを乞うその声に、いっそガチャンと電話を切れば、どれだけせいせいするだろうかという思いが頭をよぎった。そんな気持ちを見抜いたのか、

「お願い! あたしを嫌いにならないで!」

 そう言ってコスモは激しく泣き出した。プライドをかなぐり捨てた要求である事は明白だった。拒否なんて出来るわけがなかった。

「分かった。ただし今回だけだよ。超痛かった」

「ありがとう。ごめんね、花火を見れなかったの、あたしのせいだ…」

 声にはまだ、涙の余韻が感じられた。

「…ねえ、うちに来ない? 花火セット買ったんだ」

 お詫びの印というわけだ。僕はすぐに彼女の家へ向かった。コスモは浴衣姿のまま僕を迎えてくれた。やはりコスモにとても良く似合っている、涼やかでとても可愛らしい、心からそう思った。

 地面にはすでに、水の入ったバケツと蝋燭が用意してあった。コスモは両手に花火を持つと、腕を広げて走り回った。その姿は、まるで光の翼を背に纏う天使のようだった。さっきまでの出来事を、忘れてしまったかのようにはしゃぎまわる姿をとても愛おしく感じた。仲直りして本当に良かった、もし電話を叩き切っていたなら、こんな風には思えなかった筈、コスモも激しく傷ついただろう、やはり短気はよくない、改めてそう思った。…と、その瞬間、

「どうりで金が足りないと思った…」

 背後から低い声が聞こえてきた、同時にコスモの顔が恐怖で凍りついた。

「…その浴衣は俺の金を盗んで買った。そうだな?」

 振り向くと酒臭い息を吐く男がいた。

「お前が例の娘にちょっかい出してるってガキか?」

 そう言うと「彼」は、胸ぐらを掴み、僕の体をものすごい勢いでドアに叩きつけた。ドアノブが背に当たり、痛みで一瞬呼吸が出来なくなった。

「お前みたいなガキがいるから娘が色気づいて金を()るようになるんだ」

 事実はまるきり逆である。児童心理学では常識だ。満たされない心を、チャンスさえあれば盗める親の財布から金を得る事で満たそうとしているのだ。つまり、それは愛に飢えているという子ども側からのサインなのである。それを、心理学を学ぼうともせず、反対意見に耳も貸さず、「愛ならじゅうぶん与えている」と自己主張ばかり繰り返し、非行だけを非難するのが世の親の常。これでは親子はすれ違っていく一方である。物事は、弱者の側からも見なければ正しく理解できないのに…。

 背中の痛みに耐えながら、「ひがむなよ」と口走った事を酷く後悔した。引っ叩かれたのはむしろ当然の事のようにすら思えた。事実、確かに彼女に比べて様々な点で僕は恵まれていた。しかもそれは本人の努力ではどうにもならない問題なのだ。この夜の出来事を思い出すたび、考えてしまう事がある。果たして本当に、親には必ず、いついかなる時も感謝しなくてはいけないのだろうか? 親の行為に対し、「間違っているものは間違っている」と批判してはいけないのだろうか? むしろ逆に、感謝しなくてはならないという「誤った常識」を防波堤にし、「親の過ちに対する正当な批判」という津波までもを防いでいるような社会を異常だとは思わないのだろうか?

 胸ぐらを掴む「彼」の手首を握り、強く睨み返した。たとえ力で勝てなくとも、気迫だけは負けたくなかったからだ。

「なんだお前やんのかコラ!」

「お父さん止めて!」

 勝てないにしても、コスモが逃げるまでの時間稼ぎなら出来る、そう判断し僕は叫んだ。

「警察を呼べ!」

 被害を被っている子どもが実の親を警察に訴える、それのいったい何が悪いというのか。こんな事で傷つく子どもの方が悪いと言うのなら反論する、それは大人のエゴだ、俺は間違ってない、…僕には強い確信があった。

 「彼」はチッと舌打ちすると、僕の襟から手を離し、家の中へと入って行った。アルコール依存症は否認の病、とはよく言ったものである。「彼」には病識がないのだ、つまり、人を傷つけているという自覚がないのだ。今日の事など明日の朝にはケロッと忘れているのだろう。

「大丈夫? なんか今日は本当にごめんね」

 この親子は似ている、…そんな思いが小さな痼りのように僕の心の奥底に遺った。



   ♩



 秋になると、「付き合っている」という噂は更に広く囁かれるようになっていった。コスモを良く思わないクラスメイトは決して少なくなかった。そうでなくとも彼女は目立った。そういう意味も含め、その噂には旨味もあったのだろう。ある程度は仕方ない、僕はそう考え割り切る事にした。そして交際の噂を淡々と否定し続けた。男子を張り倒したという「伝説」にしても、面白がる理由が僕には解らなかった。しかし張り倒した理由だけは嫌でも耳に入って来た。親を悪く言われてキレたのだそうだ。理由はどうあれ、暴力に訴えたコスモは確かに悪い。が、一体いつまで小学校の頃の事を言えば気が済むのだろう? あるいは腕力に劣る女子にやられた奴を蔑みたくてそうしていたのだろうか? いずれにせよ、僕にはそんな噂を面白がる同級生が幼稚に思えて仕方がなかった。なぜならすでにコスモの家庭の実情を知っていたからだ。少なくともその点においてコスモは被害者なのである。とにかく、「言いたい奴には言わせとけ」、その姿勢を貫き通した。

 そんなある日、コスモから連絡がきた。

「高校生の従兄弟がいるんだ。毅っていうの。文化祭でライヴを演るんだ。いい機会だから紹介したい。毅の家は車の整備屋さんをやっててガレージをスタジオ代わりにもしてるんだ。ついでにそこにも案内してあげる」

 以前から、コスモのドラムを聴いてみたいと常々思っていた。山の休憩所でのイメージトレーニングしか見た事がなかったからである。文化祭にコスモの出番があるとは言っていなかったが、そのガレージへ行けば聴かせてもらえるだろうと思い、招待を受ける事にした。それにもう一つ、実はコスモにとある疑義を抱いていた。つまり、尻尾を掴むチャンスだと考えてもいたのだ。

 文化祭へ行くと、話のとおり毅さんを紹介された。見るからに不良性のある風貌をした人物だった。そもそもその高校自体が非常に荒れていて、言葉は悪いが動物園のようだと思った。コスモの制服が乱れているのも、この人からの影響に違いない。そういう人種との付き合いが全くなかった僕にとって、毅さんへの第一印象はまさに最低最悪だった。今となっては笑い話だ、まさか年齢差という壁を越えて親友になるなんて、お互いこの時は夢にも思っていなかったのだから。人とは解らないものである。いずれにせよ、いくら密かに想いを寄せていた女の子からの誘いだったとはいえ、ここに来た事を僕はひどく後悔した。

「な〜、このモヤシみてぇなのがコスモの彼氏?」

 冷やかすような言い方が神経に触った。わざと悪ぶった言葉遣いをしているのは明白だった。

「彼氏じゃね〜って言っただろ!」

 コスモまでそんな言い方をし始めた。言葉遣いと言葉の意味が、僕を二重に傷つけた。

「でもコイツあのブラッキー…」 

「毅! 余計なこと言わないで!」

 コスモは稲妻のような声で話を遮った。

「へいへい」

 そのやり取りには、明らかに何らかの含みがあった。

「俺たちジギーのコピー演るんだ。俺はベースを担当してる。楽しんでってくれや」

「ジギーは僕も好きです」

 嘘ではなかった、が、社交辞令で言ったのもまた事実だった。

「そいつは良かった。よろしくな」

 毅さんは去っていった。演目は「アイム・ゲッティング・ブルー」「グロリア」「ドント・ストップ・ビリービング」の三曲。どれも好きな曲だったし、高校生にしてはかなり上手な演奏だと思った。しかし第一印象のあまりの悪さに、彼に対する評価には下向きの補正がかかった。

 予想していた出来事はその後起きた。休日の夕方までに限り、楽器の演奏が許されていると聞かされていた毅さんの自宅のガレージへと案内された時の事だった。確かにロックが「ウルサイ音楽」である事は否定できない。

 ガレージの奥の小部屋には、パールのドラム、ローランドのキーボード、ヴォックスのベースアンプ、オレンジのギターアンプ、マイクスタンドの頂点にはノイマンが設置されていた。

 壁には赤でスプレーされた筆記体の落書きがあった。


 Weekend.come hear to the Jone lennon,


 言語は違えど、いかにもコスモが考えそうな冗談に、思わず僕は笑ってしまった。週末っていつだよ、そもそもジョンはとっくに死んでる、来るとしたら魂だけだ。

 コスモと毅さん、そして彼の友人達がダーツをやり始めた。ダーツのルールは分からなかったが、コスモがあの精密なコントロールで圧勝している事だけは、悔しがる毅さん達を見れば嫌というほどよく分かった。

 それにしても、ここは一体何なのだろう、と思った。楽器やダーツはいい、英語の赤い落書きも、センスが良いので寛容する事が出来る。しかし、である。吸い殻がうず高く載った灰皿。床に転がっているアルコールの空き缶。これではまるきり不良漫画のたまり場だ。毅さんの前歯が少し溶けているのを見た時からある程度予想してはいたが、あのリポビタンDの瓶の中に入っている物は「揮発性の液体」に違いない。まさかコスモはそこまではやっていないだろうと信じたかった。

「よお、パンクでも演らね〜? 俺はピストルズを演りたい気分だ」

 そういえば毅さんの顔は、シド・ヴィシャスにどことなく似ていた。

「じゃああたし、『God save the Queen』がいい」

 コスモが流暢な英語を口にしながら手を挙げた。そして慣れた手つきでドラムの椅子を回転させ、高さを調整し始めた。更に、ベース、ギター、ボーカル、各々の準備が整ったのを確認すると、スティックをぶつけながら「one、two、three、four!」と声を出した。するとあのいかにも暴走族が好きそうな下卑たイントロが始まった。

 初めて聴いたコスモの生演奏は非常に良いと思った。特にタム回しのグルーヴには注目すべきものがあった。無駄な力みを感じさせない突き抜けるような音は聴いていて非常に心地良く、きっとコントロールが良い事と無関係ではないのだろうと思った。が、楽器隊はともかく、ボーカルが全くなっていない。これでは英語の授業でお馴染みのカタカタ・イングリッシュだ。他の人はともかく、コスモにそれが解らないわけがない、音を合わせる仲間として不満はないのだろうか。僕も、ギターはともかく歌は人並みだった、しかしこれなら僕の方がずっと上手いと思った。そもそもコスモには、こんな人達と付き合って欲しくなかった。

 演奏が終わると毅さんが煙草に火をつけた。

「あたしも頂戴」

 やっぱりそうだったか。そう思いながら、慣れた手つきで火をつけるコスモに近寄った。

「お前の勝手だけどさ、せめてそういうのは、二十歳まではやめないか…」

 部屋中がシ〜ンと静まりかえった。ポロリと煙草を落とす者もいた。「生徒会長?」と囁く声も聞こえた。

「…でないとコスモを嫌いになるよ」

 何故だか理由までは分からなかったが、花火大会の一件で、薄々僕は気づいていた、「コスモは僕に嫌われる事を酷く怖れている」、と。つまりこれは決め台詞だと承知の上で言ったのだ。コスモの手から煙草を奪うと、すぐ近くの水道で消火し、床に叩きつけた。すると毅さんはこう言い出した。

「白けンだけど」

 そんな彼に言い返した。

「クラプトンは、麻薬も酒も煙草もみんな止めてますよ。それでも白けますか?」

 そして子どものように怯え切っているコスモに、「悪いけど先に帰る」、と言い残し、ガレージを去った。



 その夜、僕は部屋でコスモから借りたままにしているカセットを、何度も巻き戻しては聴き続けていた。曲はジョン・レノンの「スタンド・バイ・ミー」。正直、この曲のジョンの唄い方は崩し過ぎているように感じられて好みではなかった。やはりベン・E・キングが唄っているオリジナルの方がいい。しかし何故かその夜だけは、無性にジョンの声を聴きたい気分だった。

「コスモちゃんから電話」

 母がコードレスの受話器を持ってやって来た(…当時はまだ携帯電話なんて子どもが持つ物ではなかった。つまり子どもは家の電話で連絡を取り合うのが普通だったのだ。たった数年で社会はずいぶん変わってしまった。今では中高生にケータイを持たせるかどうかで親が真剣に悩んでいる。当然と言えば当然だ。家の電話なら子どもの交友関係を伺い知る事も出来るのだから)。

 今は電話に出る気分ではなかった。「言わずとも解れ」と母を一瞥し、音量をさらに上げた。どうやらジョンの魂は、本当に降りて来てくれていたようだった。買い替えたばかりのコードレス電話は、そのとき聴いていた曲を、コスモに伝えてくれていたのだ。



 月曜の朝。

 学校に着くとコスモの友人・歌祈ちゃんが僕に近寄って来た。

「コスモと何かあった?」

「別に」

 仏頂面で返事した。歌祈ちゃんは怪訝そうな顔をすると、

「これ、コスモが渡してくれって」

 スヌーピーが印刷されているメモ紙を寄越してきた。振り向くと、珍しく僕よりも先に学校へ来ていたコスモが、見るからにバツの悪そうな上目遣いでこちらを凝視していた。メモにはいかにも少女らしい、小さな丸い文字が書いてあった。


 昨日は本当にごめんなさい。もう二度としません。たとえ二十歳を過ぎてもです。だから許して下さい。昨日あなたが聴いていた曲を承知で書きます。

 そばに居て下さい。


 ふと僕はある事に気づいた。このメモ紙の筆跡と、借りっ放しのカセットに貼ってあるシールの文字が明らかに違う事に…。



   3・チェンジ・ザ・ワールド



 一月、酷く寒い日の事だった。肺炎で入院するためコスモがまた学校を休んだ。理由は「彼」の酒だった。極度に寒い深夜に叩き起こされ、家を追い出されてしまったのだ。時間が時間だったため、僕の家に来るのは憚られたと後から聞いた。

 担任から、プリントを持って行って欲しいと頼まれた。正直、「またかよ」と思った。休んだ理由を知らない筈がないのに、臨時の家庭訪問をしようとか、行政に連絡しようとか、少しは思わないのだろうか? それとも本当に何も知らないのだろうか? そうだとしたら一体どこに目をつけているのだろう? 口にしたい思いはあまりに多く、重く、複雑すぎた。それが理由でかえって空回りし、けっきょく言葉は何も出てこなかった。

 制服のままバスに乗り、コスモの入院している病院へ向かった。流れる車窓をひたすら睨み続けた。大人達への不信感で胸がいっぱいになっていた。

 病室に着くと、真っ白な室内に、髑髏と蛇が一際目立つスカジャン姿の先客、…毅さんがいた。

「すみません。二人きりにして下さい」

 ポケットに手を入れフラリと立ち上がると、毅さんは何も言わずにそのまま部屋を去って行った。音楽をやっていると、日常の様々な音にも自然と敏感になる。不思議な事に背後から、本来なら遠ざかってゆく筈の毅さんの足音が何故か、聞こえて来なかった。

 さっきまで毅さんが座っていた椅子に腰を降ろすと、はからずも涙があふれた。それを拭った後、覚悟を決めて一気に喋った!

「俺、コスモが好きだ! でも、こんなに好きなのにどうしても助けてあげる事が出来ない。俺が泣いてどうすんだよな。でも、何にもしてあげられない。悔しい」

「アンタがあたしを好きだって事ぐらい、とっくに気づいてたよ」

 まるで鼻歌でも唄うような表情でコスモは言った。

「いつから?」

「学校サボって一緒に海へ行った時から…」

 ため息まじりに「そっか」と呟いてしまった。

「…アンタは隠し事が出来るような性格してないから。優しいし、真面目だし、それに、本当の意味での勇気もある」

 来る道すがら、「中学を出たら働く。だからあと一年だけ辛抱してくれ」と言おうかとも考えた。しかしそれだけはどうしても嫌だった。最低でも高校だけは出たかった。

「毅さんの家のすぐ近くに、県立のM高校ってあるの知ってるよね?」

「知ってるよ。確か偏差値が65あるかないかぐらいの学校でしょ?」

 これは僕にできる最大の譲歩だった。

「一緒に行かないか?」

「何を馬鹿な事を言ってンの!? アンタ私立の進学校へ行くんでしょ! だいたいM高なんてあたしの成績で行けるわけないじゃん! …それに、もったいないよ、好きだって言ってくれた事は嬉しい、でも、ユータはあたしみたいなのとは一緒に居ない方がいいよ」

 酷く暗い顔で言う彼女に、僕は強く反駁した。

「そういうコスモこそ、あの家には居ない方がいい。最悪の場合、M高なら毅さんの家からでも通える、むしろその方がいいぐらいだ。それに、コスモの成績が悪いのはコスモのせいじゃない、コスモの親が悪いからなんだ。その事を、コスモの親やコスモを見捨ててるとしか思えない先生達に証明したいんだ!」

 点滴の針が疼くのか、彼女はじっと黙ったまま、腕を凝視し続けた。焦れた僕は更に言葉を重ねた。

「コスモ、英語ならなんとかなるだろ。他の教科は俺が教える。一年あればじゅうぶん間に合う。コスモは音楽を教えてくれた、今度は俺の番だ。それに俺ならM高ぐらいコスモに教えながらでも必ず受かる」

「頭がいいの自慢してんの?」

 確かに、そう取られても仕方のない言い方だった。

「とにかく何とかなる。力を合わせて二人で世界を変えるんだ」

 意地悪く聞こえないよう、おどけて見せた。

「ユータって不思議だよね…」

 コスモは微笑みながら物静かに語り出した。

「…ねえユータ、ザードの『負けないで』って曲、知ってるよね。あたしあの歌好き。最初は日本の音楽なんて、って思ってたんだけどさ、"たまにはこういうのも悪くないかもよ"って、歌祈がCD貸してくれたんだ。クラスに友達ができるなんて、ユータに逢うまで夢のまた夢だった。言ってたよね、"友達は量より質だ"って。あたしを悪く思ってるヤツが根強く残ってるのは薄々気づいてる、でも、本当にユータが言ってたとおりになった。ユータがそうやって、"何とかなる"って言うと、本当に出来そうな気がしてくるの。まるで『負けないで』って、ユータの事を歌っているみたい。ユータってホント不思議…」

 しばらく窓の外を眺めると、傷む喉を労わるようにゆっくりと深呼吸をしてから、コスモは僕に振り向いた。その目はまるで、予言者のように神秘的な色をしていた。

「…ユータは将来、有名な人になるんじゃないかな?」

「何を言ってるの?」

 不思議なのは、むしろコスモの方だと思った。

「でもその時、あたしはユータのそばに居ないの。何処か遠く離れた街で、ユータの活躍を、まるで自分の事のように誇りに思いながら毎日を生きるの」

「だから、何を言ってるの?」

 僕は戸惑った。付き合うかどうかは別として、M高へ行くという話だけは、何としても今日中に言質(げんち)を取りたかったからだ。

「ごめん、悪いけど今日は帰って」

 気づけば予言者のような目は、妖しくも美しい輝きを失くしていた。綺麗な幻想を見ていた人が、突然、現実に目覚めたかのようだった。

「分かった、帰るよ。でも、今の話ちゃんと考えといて」

 最後に「約束して」と強く言い残し、病室を出た。

 はっきりとした返事こそ聞けなかったが、言いたい事はひととおり言えた、それだけでも良かった、そう思いながら廊下を一人静かに歩いた。すると通りかかった喫煙所に、スカジャン姿の広い背中が見えた。ひと言だけ挨拶しようと、彼に近づいた。

「あの、帰ります、失礼しました。…ていうか、どうかしました?」

 毅さんの目は赤くなっていた。

「見りゃ分かんだろ。煙が目に沁みてんだ。とっとと帰れ」

 この台詞が、不器用な優しさから生まれた嘘だったと気づくまでに一年以上もの歳月を無駄に費やすようになる事を、当時の僕は全く知らずにいたのだった。



「これ何?」

 薄ら寒い朝の事だった。いつも僕が食事をしている席の前に、派手な包装紙に包まれた小さな箱が置いてあった。

「今日が二月十四日なのは知ってるでしょ? お父さんが、"新聞取りに行ったらポストに入ってた"って。コスモちゃんもう退院したの?」

 告白の返事だ、そう思いながら包装紙を開いた。中には無地のメモ紙が入っていた。そしてそこには、まるで見覚えのない筆跡の文字が綴られていた。


 早く私に気づいて下さい!


 僕にはそれが悲痛な叫び声のように感じられた。

 学校へ行く準備を済ませ、ドアを開けた。すると外には、制服の上からでもはっきりと分かる大きな胸の前に、包装紙に包まれた小さな箱を持つコスモが立っていた。

「正直に言うからちゃんと聞いて…」

 上目遣いのコスモの頬は、寒さとは明らかに違う理由で、ほんのり赤くなっていた。考えてもみれば、ポストにこっそり入れておくなどという行為が、コスモの仕業である筈がなかった。

「…あたしも本当は学校サボって一緒に海へ行った時からずっとユータが好きだった。でも、あたしなんてユータと全然つり合い取れてないし、迷惑かけるかも知れない、今までずっとそう思ってて素直になれなかった、怖かったの。でももう意地を張るのに疲れた。病院でユータに好きだって言われた時、すっごい嬉しかった。ユータと付き合おうって決めたら、自分でも不思議なくらい気持ちが楽になった。歌祈にも言われたの。"つり合い取れてないと思うんなら、取れるように努力すれば"って。あたしなんかで良ければこれ受け取って…」

 彼女はまっすぐ腕を伸ばすと、僕の胸に小さな箱を押しつけてきた。

「…M高の事、よろしくね」

 真剣な眼差しで僕の目を見るコスモに、「これを受け取るのは実はこの日二つ目なんです」、とはとても言えなかった。



 永暦元年。源頼朝によって建造された葉山郷総鎮守の森戸大明神は、相模湾、江ノ島、天気が良ければ富士山までもが一望できる絶好のスポットとして、地元の若者達から絶大なる人気を博していた。大山祗命おおやまつみのみこと事代主命ことしろぬしのみことを御祭神とする由緒ある神社で、天下を収めた頼朝が祈願成就の謝恩を表すため、鎌倉に近い葉山に聖地を歓請したのが始まりとされている。

 春休み、僕らが知り合ってちょうど一周年の記念すべき日の事だった。森戸神社へ詣でる事に相成ったのである。むろん僕らの縁結びと、悲願のM高合格を祈願するために馳せ参じたのだ。

 お詣りを済ませた後、手を繋いで境内を歩いた。水天宮と書かれた祠を二人で見ると、子宝石と書いてある、卵によく似た石がいくつも置いてあった。僕は顔が真っ赤になるのを感じた。コスモも「ヤダッ」と顔を背けた。

 しばらく無言のまま境内を歩いた。石原裕次郎の碑や千貫松を見た後、境内の隅にあるみそぎ橋と書かれた鮮やかな(あか)い橋を渡って砂浜へと向かった。

「修学旅行のとき日光東照宮へ行ったんだけど、これと似たような橋が近くにあったな」

 橋にはマリンスポーツのブランドと思われるロゴが描かれたステッカーがいくつか貼り付けてあった。

「あたしも見覚えある。修学旅行は日光だった」

 砂浜には、テトラポットに似たコンクリートブロックが真っ直ぐ沖の方へと施設されていた。そのやや足場の悪いブロックの上を、先端目指して二人で歩いた。別名、「裕次郎の塔」と呼ばれている灯台が、海の向こうに見えた。名島と呼ばれる小さな島の上に建てられた朱い鳥居が、青い水平線の中に小さく綺麗に映えていた。

 繋いだコスモの右手に、ドラムスティックのタコが出来ているのを感じた。人差し指の親指側だ。

「ユータの左手。指先にギターの弦ダコがあるね。当たり前っちゃ当たり前なんだけど」

「俺も今、同じこと思った」

 二人でクスリと笑い合った。

「でも、しばらく楽器はお預けかな?」

 彼女は少しつまらなそうに尋ねてきた。

「息抜きは必要だよ。それに指が動かなくなっても困る」

 繋いだ左手をいったん離し、指をパラパラ動かしてみせた。するとコスモは朗らかな声でこう言い出した。

「そうだよね。少しはドラム叩いてストレス解消しなくちゃ死にたくなっちゃう。それにしても、あたし生きてて本当に良かった。あたしがここに来ようと決めたのには実は理由があったの…」

 コスモはまるで、「昨日テレビで見た動物の赤ちゃんがすっごい可愛かったの」、とでも言う時のような、底抜けに明るい笑顔を浮かべていた。

「…実はあたし、この海で死のうと思った事があったんだ!」

 言葉の意味とはまるきり逆の、あまりにも楽しそうな話し方に、思わず顔が引きつってしまった。詳しい理由を聞く気にはとてもなれなかった。軽々しく触れてはならない心の傷に違いないと思ったからである。いつかきっと話してくれる日が来るだろう、そう思いながら再び手を繋いだ。

「でももうあたし死にたくない! ず〜っとユータと一緒に居たい!」

「うん。俺も一緒に居たい」

 コスモの柔らかい手を強く握った。

「この海のず〜っと向こうにママの産まれたロサンゼルスがあるんだ…」

 コスモは左手で正面の水平線を指差した。ここは三浦半島の内側だ、…つまりその方角にロサンゼルスはないのだが、敢えてそこは言及しない事にした。

「…またアメリカ行きたいな、今度はユータとウッドストックの野音を観に行きたい」

「俺はイギリス行ってみたいな。そんでクラプトン・イズ・ゴッドって書かれた壁の前で一緒に写真撮りたい」

「なんか新婚旅行の予定を立ててるみたい」

 コスモは心底から嬉しそうだった。

「なあコスモ、言ってもいい? あの、俺も子宝は困るんだけど、その…、いつかコスモとエッチしたい」

 恥ずかしそうにコスモは俯いた。

「…いいよ。ただしM高に受かったらね。それまでみっちり勉強教えてもらうんだから。それとちゃんと避妊はしてよね」

「分かってるよ。子宝は困るって言ったろ」

「こっちは一人でも困ンだよっ! お前ちゃんと責任取れよな!」

 コスモは僕の頭を叩いた。

 海が朝陽を照り返し、視界全体が青と銀だけで塗りたくられた絵画のように眩しく輝いていた。コスモの綺麗な瞳を見ると、カモメがまるで僕らを冷やかすような鳴き声を上げて飛び去っていった。押しては返す波の音。潮の香り。ふと振り向いた砂浜に、人影はなかった。それを認めた瞬間、心臓が16ビートを演奏する時のドラムのように激しく鼓動し始めた。

 コスモは(いざな)うような笑顔で僕の目を見ると、やがてゆっくり瞳を閉じた…。



 運が良いのか悪いのか、病弱なため、滅多な事で母が家を留守にする事はなかった、…そう、僕の部屋はコスモの個別指導の塾として最高の機能を有していたのだ。僕の理性は掌の上の孫悟空のように、慈悲深い母によって完璧に制御された。学校の行き帰りに手を繋ぐか、誰もいない公園でキスをするか。僕らの性交渉はそこから先へと発展する事はなかった。

 微々たる唯一の進展は、二学期、窓から紅葉した木々が見え始めたとある日曜の事だった。町内会の用事で、数分ほど母が家を空けた事があった。コスモが思っているほど真面目な人間ではないという事を自ら証明するまたとないチャンスの到来だった。僕はコスモに断った上で、服の上からその膨よかなる胸に手を伸ばした。柔らかかった。今までに触れてきた事のあるあらゆるものとも似つかない、優しさに満ち満ちた感触に、頬が秋の夕暮れ時の空のように赤くなるのを感じた。キスをすると、コスモの舌から飴の香りを感じた。間もなく階下からドアの開く音が聞こえてきた。体を離すと、コスモはまるで子どもに微笑む母のような表情で僕を見た。

 ブラッキーは、そんな僕らをただ静かに見守り続けていた。



   ♩



 神社に詣でた甲斐あってか、三年になっても僕らは同じクラスだった。席替えのクジも、コスモのズルで常に隣だった。毅さんから授かった「英才教育」のおかげである事は言うまでもない。知性と悪知恵は全くの別物だという事を僕は知った。そうして得た地の利を最大限に活用し、授業で分からない事があるとコスモは直ちに質問してきた。

 僕等の真の目標を知ろうともしないクラスメイト達に冷やかされる事もあった。

「部屋に連れ込んでヤリまくってンだろ?」

 やりまくっていたのは勉強なのだが、どうせ言っても信じては貰えないだろうと判断し、「そう思いたければ思ってくれ」と言い返すのみに留めた。

 相合傘の落書きをされた事もあった。


 優等生

 不良娘


 ガキと黒板消しの扱いは先生の方が上手いに決まっている。僕は無視(シカト)を決め込んだ。コスモが抱える事情を思えば、気にしている時間すらもったいないと思ったからである。

 そんなある日。「澄ました態度が気に入らない」と言いがかりをつける不良グループから体育館の裏に呼び出され、僕は激しく殴られた。

 教室へ戻ると、

「なんで毅の事を言わなかったのよ!?」

 水に浸したハンカチで、コスモは頬を冷やしてくれた。

「話したでしょ。毅は中学ンとき滅茶苦茶悪かったって地元で有名なのよ。毅にはあたしから言っとくから、またやられそうになったら名前だしな」

 しかし僕はそうしようと思わなかった。きっと連中の背後にもそういった手合はいる筈だと判断したからだった。だいたい「俺の彼女の従兄弟に言うぞ」なんて、カッコ悪いにもほどがある。信用できない大人達を頼るのは嫌だったが、痛い思いをするよりはマシだと考え先生に話した。すると次の日再び体育館の裏に呼び出された。

「お前先公にチクったろ?」

「本当の事を言っただけだ。これからも何かあるたびに先生に言うからな」

「調子に乗ってんじゃねーよ!」

「調子に乗ってるのは人に向かって調子に乗ってるって決めつけてるお前らの方だ! 言われたくないんだったら、そもそも俺を殴ったりなんかするな!」

 それ以降、彼らの標的は違う人物へとシフトした。その人には気の毒だが、いい勉強になったと思った。アイツらは、絶対にやり返してこない相手を選ぶ嗅覚だけは一人前の下らない連中なのだ、どんな方法でもいい、やられたらやり返せ、僕のように腕力に自信がないなら先生に言ったっていい、とにかく何かやり返す事だ、そうすればもうニ度とやられる事はない、と。

 想像力の欠如した者の陰湿な趣味、それがイジメの本質である。嫌がらせを楽しめるのは、人の気持ちを想像する力がないからなのだ。どうしてそんな事のために自分の貴重な時間を浪費させられなければならないというのだろう。僕にはその時間を、勉強や音楽、有意義な事に使う権利がある。イジメとは、その権利への干渉だ。僕は彼らを心底軽蔑した。

「また呼び出されたんでしょ。毅の事は言った?」

 教室に戻るとコスモに聞かれた。

「言ってない。でももう平気。それより勉強しよっ」

 僕は努めて明るい声を出した。



 もちろん、勉強ばかりでは疲れてしまう、息抜きだって必要だ。僕はお金を出し合ってスタジオを借りないかと提案した。しかし彼女に反対された。

「何もお金を出さなくたって、毅の所へ行けば済む話じゃん」

 けれども毅さんにだけは頼りたくなかった。何故なら彼は、以前僕を呼び出し集団で殴る蹴るをしてくれた奴らと同じ種類の人間だからだ。それにあの不良漫画のたまり場のような場所で演奏が楽しめるとも思えなかった。

「だったら俺がお金を全部出すからさ、とにかく一度スタジオで音を合わせてみようよ」

 その折衷案にコスモは折れた。

 彼女は唯一の自前セットであるスネアを、僕は借りたまま、ほとんど自分の物のようにしてしまっているブラッキーとマルチ・エフェクターを持ち、電車とバスを乗り継いで横須賀へ行った。そして貸し切りにしたスタジオでレッドツェッペリンとクリームを演奏し楽しいひと時を過ごした。むろんギターとドラムしかいなかったが、他人に迷惑をかける心配のないグラスウールの密室で大音量をブチかますのは本当に気持ちが良かった。しかしコスモは心の奥で、フツフツ不満を押し殺していたようだった。帰りの電車の中で再びその事を口にし出したのだ。

「毅ン所ならタダなのに」

 金を出したのは俺じゃないか、…喉元にきた言葉を、ギリギリの所で呑み込んだ。ブラッキーを借りたままの身分で、お金の事をとやかく言えないと思ったからだった。先ほどの大音量に満足し、せっかくいい気分でいたのに、すっかり嫌になってしまった。

「もう、毅さんの事を言うのはやめてくれないか?」

 親族を冷たくあしらわれ、彼女は彼女で不快に思ったのだろう、その事が発端となり、月曜日、学校で喧嘩をしてしまった。

 授業中、コスモから小さな声で数学の質問を受けた時の事だった。

「自分でやりなよ」

 それは先週一度教えた内容だった。僕としては、その言葉が意味するとおり「自分でやりなよ」と言いたかっただけなのだが、短気なコスモは棘を感じたらしく、いきなり声を上げて怒り出した。

「お前まだ毅の事を言ってんのかよ!?」

 コスモが僕以外の男の名を口にした事に、スキャンダルの香りを感じ取ったのであろうクラスメイト達から、視線の集中砲火を一斉に浴びた。まさか毅さんの名前が出てくるとは思わなかったので、

「違うよ! 自分でやりなよって言ってるだけだ!」

 つい僕も大きな声を出してしまった。

「そこ、静かにしなさい」

 先生から注意を受けた。不快な感情を抱えたまま、しばらく黙って授業を受けた。するとコスモが再び同じ事を質問してきた。

「わざとやってんの?」

 思わず睨んでしまった。すると、

「ふざけンなっ!」

 彼女は更に激しく声を荒げた。すると先生から、「二人とも、後で職員室に来なさい」と言われてしまった。

 授業が終わると、

「さっきの騒ぎは何が原因だったの?」

 さっそく職員室にて事情聴取を受けた。

「分からない所を教えてって言っただけなのにいきなり怒られたから」

 コスモはそう答えた。

「怒ってないよ。先週教えた事を質問するな、自分でやりなよって言いたかっただけだ」

 僕が反駁すると、先生は「待て待て待て待て」と、両方の手の平を大きく押し広げた。

「先週教えたって話は恐らく本当なんだろう。しかし人間忘れる事もある。そうだろ?」

 確かにそれはそのとおりだ。仕方なく首肯した。

「で、確か"タケシ"って言ってたな。その人は一体誰だ?」

「従兄弟」

 すかさずコスモはそう答えた。そして、お金を払ってスタジオを貸りるなんて無駄遣いだ、ガレージへ行けばタダだったと主張し出した。しかしその言い分には、僕が全額負担したという事実や、僕にとって毅さんが一体何者なのかという真実がいっさい含まれていない。大いに不満だった。ところが、先生は僕を指差すなりこう言い出したのだ。

「そりゃお前が悪いよ。知り合いの所で安く演れるなら、そこへ行けばいい。美樹本が言うように無駄遣いだ。勉強だって、分かるまで教えてあげたらいいじゃない」

「でも!」

 僕にも言い分があった。しかし先生は話を遮ってこう言いだした。

「とにかく授業中に大声で喧嘩するな。もしまたやったらお前たちを隣には座らせないからな」

 ひどい、何も分かってないじゃん、こっちの言い分を聞きもしないでそれはないだろう、…僕は強く思った。コスモがもっとも苦手としていたのは数学だった。僕らが席を隣り合わせにして以来、コスモの成績が目に見えて良くなっているのは、担任かつ数学担当の彼が一番良く知っている筈。にも関わらず、「もしまたやったら隣には座らせない」はあんまりである。だいたい毅さんのようなタイプの生徒は、アンタ達を一番手こずらせている類の人種じゃないか。…しかしコスモの前でそこまで強く言及するのは流石に躊躇われた。

 僕らはひと言も交わさずに教室へ戻った。次の授業は音楽だった。時間が迫っていたので教科書を持って慌てて音楽室へと向かう。すると黒板に相合傘が書いてあった。


 タケシ

 オトコオンナ


 温厚な僕も、それを見た時は流石に頭に血が上り、あやうく床に教科書を叩きつけてしまいそうになった。

 それから三日ほど、僕らは一切口を聞かなくなってしまった。コスモはうちに勉強をしに来なくなった。すると母が「コスモちゃんは?」と心配しだした。思わず僕は「うるさい!」と怒鳴ってしまった。一緒にM高へ行きたい、コスモの成績を良くしてあげたい、…本心ではそう思っていた。しかし金を払った僕の方から謝るだなんてとてもじゃないが承服出来る話ではなく、僕の気持ちは荒みに荒んでいた。

 転機はその週二度目の音楽の授業の後、突如起きた。星野という名の女教師から、「二人だけちょっと残って」と呼び止められたのだ。音大を出たばかりのその先生は、当時売り出されていたアイドルに非常に良く似ていたため、男子の間でたいへん人気があった。また身長が低い事から、「同じ制服を着て私たちの間に紛れたら分からないんじゃない?」と、女子からも支持されていた。

「担任から聞いたけど、あなたたちスタジオの事で授業中に喧嘩したって本当?」

 ピアノ用の椅子に腰をかけて脚を組むと、穏やかな声で彼女は質問してきた。僕らは「うん」と答えた。

「スタジオでは何を演ったの?」

  まだ若い星野先生は、意味深な笑みを浮かべながら更なる質問を投げかけてきた。

「レッペリとクリーム」

 僕が答えると、

「まあすごい!」

 彼女はいかにも音楽の先生らしい朗らかな声で滔々と語り出した。

「若いのに渋い趣味してるのね。草創期の頃のロック私も好きよ。今の時代、音楽の授業はクラシックばっかりじゃ駄目だと常々思ってるの…」

 ふと、壁に飾ってあるベートーベンの肖像画を見てしまった。気難しそうな彼の顔が、その一言で更に気難しくなっているように感じられた。ところで星野先生は、どうして僕らを呼び止めたのだろう? なんだか無性にオーバードライヴを目一杯効かせてブラッキーで第九のメロディーを演奏したくなってきた。

「…ちなみにね、私の彼氏もクリームとデレク・アンド・ザ・ドミノスをよく聴いてるのよ」

「クラプトン好きなの?」

 コスモがプッと吹きだした。…そういうお前だってジョン・ボーナムを贔屓にしてるじゃないか…。

「そ。彼氏もクラプトン好きなのよ。ところでこの前の授業の時、黒板に落書きがあったわよね。あの意味が知りたくてあなた達の担任に質問したの…」

 他人の恋愛ごとに対する女の嗅覚は非常に鋭い。そして、オトコオンナなんて言葉に該当する人物はこのクラスに一人しかいない。

「…それで授業中の喧嘩の話を聞いたんだけど、どうしてそうなったのか詳しく聞かせてもらえる?」

 コスモはすかさず、「無駄遣いだ、毅の所ならタダだった」と主張し出した。僕も僕で、「嫌らしいけどお金は全部俺が出した。それに、毅さんの所へは行きたくない」と、この前担任が聞いてくれなかった話を口にした。

「そのタケシさんの所へはどうして行きたくないの?」

 下手にあれこれ話したら、コスモがまた怒り出すかも知れない。それに自分達の実情を必要以上に話したくもない。そう思い、僕は言い澱んだ。

「言いたくないなら言わなくていいのよ。とにかく、付き合ってたら喧嘩の一つや…」

「付き合ってない!」

「付き合ってない!」

 僕らは同時に大声を出した。声の高い僕と低いコスモ。はからずも完璧にハモってしまった。互いに顔を見合わせた後、僕らは「フンッ!」とそっぽを向いた。そんな僕らが、大人の(ひと)には可愛く見えて仕方なかったのだろう、

「分かった分かった。付き合ってないのね…」

 軽くいなされてしまった。

「…とにかく、授業中に大声で喧嘩するのは良くない。そうよね?」

 それは全くそのとおりだ。

「ところで楽器は何をやってるの?」

「ギター」

「ドラム」

「なるほどね。第二音楽室(ここ)は吹奏楽部も使うし、あなたたちは受験生だから毎日ってわけにはいかないけど、事前に言ってくれるんなら週に一回くらい使っていいわよ。ただし、もう二度と授業中に喧嘩しない事、それと、今ここで仲直りする事。この二つ、約束出来る?」

「約束してどうなるの?」

 僕が訊ねると、

「まずは約束しなさい。いい? 出来る?」

 先生は強い口調で繰り返した。ここは音楽室だ、もしかしたら期待できる何かがあるのかも知れない。思わずコスモと目配せしてしまった。

「はい。します!」

「はい。します!」

 今度は完璧なユニゾンになった。

 僕らは音楽室の裏部屋へと案内された。先生はポケットから鍵を出すと、その更に奥にある倉庫のドアを開けた。そんな倉庫があっただなんて、転校生だった僕はもちろん、コスモですら知らなかったと後から聞かされた。中には埃を被ったタマのワンバスドラムと、ヤマハの大きなプリメインアンプが置いてあった。どちらもかなりの年季物だったが、まだまだ使えるのは明白だった。お金のない中学生にとって、あるだけで充分有り難い代物に、僕らは思わず顔を見合わせてしまった。

「灯台下暗しとはまさにこの事だね」

 僕らは共に笑いあった。そして星野先生にお礼を言い、二人で一緒に教室へ戻った。

「俺、本当は勉強しに来て欲しかったんだ。それを馬鹿みたいに意地はって言い出せなくて、ごめん」

「こっちこそごめんね。あたしも本当は不安だったんだ。M高はユータだけが頼りだから。ありがとう」

 コスモは「彼」から、塾へ行く事を反対されていた。「学校だけで事足りる」と、聞く耳を持たなかったのだそうだ。あるいは教育費より酒代の方が大事だったのだろうか。皮肉にも、それがかえって僕らの絆をよりいっそう強くする一助ともなっていた。

「それにしても、ドラムがあるなら山の休憩所で練習する必要なかったな」

「でもあたしがあそこで練習してなかったら、あたし達きっと付き合ってなかった」

 さらりと口にしたこの一言には、実は非常に重大な意味が含まれていた事を、その時まだ僕は全く知らずにいたのだった。

 ともあれ、こうして倦怠期を乗り越えた僕らの絆は、いよいよ強く親密に結ばれてゆくようになっていった。卒業式の直前、突如起きたあの事件。そして突然訪れた、痛いぐらいに悲劇的な別離(サヨナラ)。まさか僕らにあんな最後が来ようなどと、互いに想像すらしていなかったのだ。



   ♩



 やがて夏休みがやって来た。

 ヘルマン・ヘッセの小説、「車輪の下」の主人公ハンスのように、青っ白い顔をしてまで受験勉強なんて真っ平御免だ。去年は行けなかった海岸花火大会を見に行く事になった。例の水色の生地にピンク色の風鈴が描かれた浴衣姿のコスモは、何度見ても本当に可愛かった。

「去年はホントごめんね…」

 コスモはあの日ビンタをキメてくれた左の頬にキスをした。

「…そういえば去年、帯の結び方を間違ってた事にあたし今更になって気づいたの。鏡を見ながら思わず自分で笑っちゃった」

「そうだったの? 全然分からなかった」

「浴衣着るのってけっこう大変なのよ。去年は会うなりいきなり喧嘩しちゃったからそんな話したくても出来なかった」

「喧嘩じゃないよ。コスモが一人で勝手に怒ってただけだ」

「えぇ!? そうだったっけ?」

 屋台で綿菓子を一つだけ買った。そして一色海岸の芝生の上にレジャーシートを敷いて座り、綿菓子の絡みついた割り箸を二人で一緒に持ちながら食べた。お金がなかったからではない、

「片方ずつのイヤフォンで一緒に音楽聴いてるみたいで楽しいじゃん」

 コスモがそう言って聞かなかったからである。

 やがて花火が始まった。それまで僕は夜空に咲き開く花火しか見た事がなかった、…つまり海面に乱反射する花火を観るのはこれが初めてだったのだ。最高に綺麗だった。特に船から海に投げ込まれる水中花火の美しい閃光と迫力に満ちた炸裂音には、胸が熱くなるような激しい感動を覚えた。

 ところが、である。花火が終わり帰ろうとすると、嫌なものを立て続けに目撃してしまったのだった、…酔っ払いである。馬鹿騒ぎをしている若い男女。道端にサイケデリックな色彩のゲロをまき散らしうずくまっている人。制服が似合う恋をした事のない者のやっかみだったのだろうか、「ガキが恋愛の真似ごとしてやがる!」と、僕らを指さし大声で嗤う中年の男もいた。当時の僕らの関係が、恋愛の真似ごとだったとはどうしても思えないのだが…。

 いま目の前にある花火だけを純粋に楽しめばいいだろうに、なぜ人は酒を飲むのか? そもそも人の心身をこうも容易く傷つける事のできる飲み物が、どうして普通に販売されているのか? その答えは至って簡単である。飲酒は良い事だと、社会全体が間違った考えに洗脳されているからだ。証拠は「お酒は二十歳になってから」という常套句だ。この台詞には、「二十歳を過ぎた者には飲酒する権利が自動的に認可される」というニュアンスが多分に含まれている。つまり、この常套句の存在それ自体が、酒の正体を誤認させているのだ。…酒の正体は毒だ、そして毒に適量はない、たとえ少量でも心身を蝕む薬物であり麻薬なのだ。

「酒って嫌だね」

「産まれた時から飲んでる人なんていないのに」

 僕らは呟きあいながら、人ゴミの中をバス停へと歩いた。


 

 夏休みにも関わらず、僕らは週に一度学校へと通った。「みんなには内緒ね」と、星野先生から彼氏の伊藤さんを紹介された事がきっかけだった。アイドル似の彼女に相応しい、眉目秀麗な人物だった。

「中学生にしちゃずいぶんギターが上手いと聞いててさ、前から会って見たかったんだ」

 楽器屋さんでのギターの講師を生業としている伊藤さんに促され、コスモのドラムで、「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」「ホワイトルーム」、そして「レイラ」と「ベル・ボトム・ブルース」を披露した。すると伊藤さんはすっかり大喜びし、「独学で覚えた若い子が短期間でどれだけ伸びるか興味がある」と、特別にレッスンをしてもらう事になったのだ、それも、なんと、無料で! それ以来、第二音楽室へ行く事がすっかり僕らの習慣になったのである。

 正直、僕のギターはコスモのドラムよりも練度が低いという自覚が以前からあった。小学生の頃からやっていた彼女と比べれば、キャリアの違いは悔しいぐらいに明確だったのだ。また、コスモと比較する以前の問題として、自分のギターの上達に壁を感じ、伸び悩んでもいた。そんな風に少しばかり焦りを感じていた僕にとって、明解な理論に裏づけされた伊藤さんの運指は、まさに目から鱗だった。特に、伊藤さんが聴かせてくれたジミ・ヘンドリクスの名曲、「ブードゥー・チャイルド(スライト・リターン)」の巧みさには舌を巻いた。しかも、夏休み最後のレッスンが終わると、ジムダンロップのワウペダルまでプレゼントされてしまった。「お礼をしなくちゃならないのは僕の方なのに」、と、涙が出そうにすらなった。



 もちろん勉強も怠らなかった。夏休みが始まる直前、

「コスモの進学に寄り添いたい。だから本来の成績よりも下のM高へ行く。コスモの成績が悪いのは本人のせいじゃないと証明したいんだ」

 きっぱり両親に打ち明けた。確かに僕も、当初は私立の進学校を望んでいた。それを理由に父から反対された。

「だからって優太までM高へ行く必要はないだろう。お前に何のメリットがあると言うんだ」

 もっともな言い分だった。しかし僕は譲らなかった。

「でも、実際二人で一緒に勉強し始めてからコスモの成績は良くなってる、今更やめられない、それじゃコスモを裏切る事にもなる。コスモとは高校を卒業するまで一緒ならいい。大学には必ず行くと約束する。だからお願い、高校だけは好きにさせて」

 父は半ば呆れたような顔をしたが、最終的には受け入れてくれた。

 僕はその年、塾の夏期講習を辞退した。コツコツ勉強してさえいれば、M高には必ず受かるという自信があったからだ。そしてその分の時間を、コスモと二人、僕の部屋で自習に励む事へと充てた。

 そんなある日。バレンタインデーに誓い合って以来、硬いフローリングの上に座布団を敷いて勉強し続けてきたコスモを、恐らく母は以前から、ずっと不憫に思っていたのだろう。二人並んで座る事が出来るワイドデスクを新聞のチラシで見るなり、

「夏期講習を辞めた分の浮いたお金で、いっそ机を買い換えちゃおっか!」

 唐突にかつ楽しげに言い出した。次の日僕らは父の車で家具の量販店へと向かった。そしてコスモと共にワイドデスクの使い勝手を確かめた。そんな僕らを店員はみな怪訝そうな目で見ていた。一人だけやや毛色の違うコスモを目にし、「変わった家族だ」と思ったに相違ない(なお、その夜コスモの母が礼を言いに我が家へやって来た。しかし「彼」は来なかった)。

 思わぬ新兵器の登場は、勉強の効率を飛躍的に向上させた。二学期が始まる頃には、じゅうぶんな勝算が期待出来るだけの学力がコスモにつき始めた。こんなにも充実した夏休みは、後にも先にもこの年だけだったと断言してもいい。コスモの弁を借りるなら、化学反応(ケミストリー)が起きた、至りつくせりの夏だったのだ!



   ♩



 やがて二学期…。

 中間テストでコスモはいきなり、まるで別人に生まれ変わったかのような高得点(ハイスコア)を叩き出した。しかし本人は納得がいかないようであった、結果にではなく、態度に。隣の席へ戻って来るなり、ぶつぶつ文句を言い始めた。

「ムカつく。先公に"カンニングしたんじゃないだろうな"って言われた。ビンタしてやれば良かった」

「やめとけ、内申に響くぞ、それにお前のビンタはマジで痛い」

 コスモは苦笑いしながら舌を出した。

 期末テストでは更なる高得点を叩き出した。中には僕が解答を誤り、コスモが正解している箇所さえあった。うかうかしていられないと心底思った。授業中、教えてくれと話しかけて来なくなってきたのもその頃からである。受験当日インフルエンザにでもならない限り、まず間違いなく受かると確信を深めた。しかし油断は禁物だ。気合いを入れ直す意味も込め、初詣には再び森戸神社を訪れた。

「結婚式ってここでも出来るのかな?」

 コスモは唐突にそう言い出した。繋いだ手は、僕が着ているN3ーBのポケットの中に入っていた。みそぎ橋を渡って砂浜へ向かうと、痛いくらい冷たい風が、海から強く吹き荒んできた。

「出来る筈だよ」

 初めて二人でここへ来た時、「新婚旅行の予定を立ててるみたい」と、コスモが笑った事をふと思い出した。

「海が見える神社で挙式って素敵じゃない? まるで映画みたい」

「いつかそんな風に結婚出来たら素敵だよね。そのためにも、まずは受験を頑張ろう…」

 その頃にはもう、未来を真剣に意識し始めるほど、僕らの絆は深く強くなっていた。

「…でももし本当に結婚するなら、コスモの親父さんの問題は俺にとっても他人事じゃなくなってくるんだよな」

 まだ幼かった僕にも、「彼」には何らかの医療が必要な事ぐらいはっきりと分かっていた。将来はそういった職業に就こうかと初めて思ったのはこの時だった。

 家族の問題について言及すると、ここぞとばかりにコスモはニヤニヤ意地の悪そうな笑顔を浮かべて言い出した。

「毅から逃げる事だって出来なくなるよ? 文化祭に来なかった事、残念がってたんだから」

 …毅さんの事が原因で、再び喧嘩した時の事を思い出した。十月、空がやけに高く綺麗な日曜の朝の事だった。いつものように勉強しに来たコスモが、部屋のドアを開けるなり、

「毅が"高校最後の文化祭にユータを招待したい"って」

 と言い出した事がきっかけだった。

「悪いがそれだけは勘弁してくれ。だいたいなんで毅さんが俺を招待したいと言うのか理由が分からない」

「じゃあ理由を聞いとくよ」

「別に聞かなくていいよ。とにかく、毅さんみたいなタイプの人苦手なんだ。あの高校だって、まるで動物園みたいだと思って辟易してたんだから」

「動物園なんて失礼だよ」

「知り合って間もない頃、痴漢だって誤解された話をしたのは覚えてるよね。クラスでそう言って騒いでた悪ガキと毅さんは同じようなタイプの人間だ」

「そんな簡単に一緒くたにしないで。あたしも彼氏として改めてユータを紹介したいの」

 しつこく食い下がるコスモに、昔の話を思わず蒸し返してしまった。

「あれ? 確か去年の文化祭の時、"彼氏じゃね〜っ"って言わなかったっけ?」

 思えば僕も小さな男である。まだ来たばかりだというのに、コスモは怒って階段を駆け下りてしまった。するとすぐ、寝間着姿の父が隣の寝室からやって来た。ドアが開いていたため、喧嘩の声は筒抜けだったのだ。

「コスモちゃんの事を証明したいのなら、優太から謝れ。女と本気で付き合うなら、負けるが勝ちって事を学んどけ。謝る方が偉いんだ…」

 父はコードレスの電話を差し出してきた。

「…もし文化祭が嫌なら、今すぐは無理だけど、受け入れられるように努力すると言うんだ。今一番大事なのは何なのか、分かってるなら出来る筈だ」

 電話をするとコスモはすぐに戻ってきた。

 …その時の事を思い出しながら僕は言った。

「前にも言ったとおり、少しずつ受け入れられるように努力するよ。俺ももう毅さんの事で喧嘩したくない、というより、時間を無駄にしたくない。けどさ、すぐに結婚するわけじゃないんだし、そもそも結婚するって決まったわけじゃない。だからせめて受験が終わるまでは時間をくれよ」

「分かった。でもM高へ通うようになったら、自然と毅の家に寄る機会も増えるようになると思うの。だから時間をくれなんて言って問題を先延ばしにするような真似だけはやめてね。今のユータが毅の事をちゃんと理解しているとは思えないんだ」

 突然、コスモがこれだけ毅さんについて言及するのにはそれだけの理由があるからなのだ、という事に僕は気づいた。クラスの一部にコスモを良く思わない者がいるが、それはコスモの悪い面ばかりを見て、良い面を知ろうとしないからだ、それと同じ事を毅さんに対してやっているのではないだろうか、と。

 大人になるという事の意味を、冬の海を見ながら深く思った。



 そして二月…。

 ついに悲願は成就した。合格者の数字が書かれたボードの前で、感極まったコスモは涙を流して喜んだ。

 特筆すべき事実が一つあった。正直、英語以外の点数は、僕の方が上になると思っていた。ところがコスモは、社会の点数も僅かながら上を行っていたのだ。無理やり稼ぎ出した成績で進学しても、その先の高校生活が続くという保証はどこにもない、むしろ破綻する可能性さえ考えられる。つまり、いくら毅さんの家が近いからとはいえ、僕は無理な条件をコスモに強いていたのだ。しかしこれなら先の心配はない。むしろこれが彼女本来の学力だったのだ。そんな話をしながら帰路に着いた。

 結果を報告をするため、職員室へ向かった。コスモによると担任は、

「現実を見ろ。お前の成績でM高は無理だ」

 二者面談でそう言い放ったらしい。僕はコスモを励ました。

「結果で見返してやろうぜ。現実を見ていないのは先生の方だと教えてやるんだ!」

 …ついにその日がやって来たのだ!

「美樹本、お前はこの一年間本当に良く頑張った。おめでとう」

 僕らは勝利した。最高にいい気分だった。親のせいで不利益を被っているだけで、コスモはやれば出来るのだという事がこれで証明されたのだ。

 世界は変えられる、改めてそう思った。



 校舎を後にすると、コスモは言った。

「ちょうど今、家に親いないんだ。あたしならもう構わないから、うちに来て」

 彼女の表情は非常に大人びていた。コスモの家にあがるのは、もちろんこの日が初めてだった。

 僕を部屋に案内すると、

「ちょっと待ってて」

 小さな声で言い残し、コスモはいったん部屋を出て行った。

 ふと、一枚の写真を視野に捉えた。背景に、毅さんの家のガレージが映っている写真だった。スティックを兎の耳に見立て、可愛らしいポーズを取る小学生の頃のコスモが中心に写っている。コスモの左側には、ベースギターを持ち、見るからにヤンチャそうな笑みを浮かべる中学時代の毅さん、そして右には、そこはかとなく薄命そうに感じられる美青年が、ブラッキーを愛おしそうに抱きしめながら涼しげに微笑んでいる姿が見えた。

「あたしのお兄ちゃんなんだ…」

 振り向くと、その唇には桜色のルージュが引いてあった。

「…病気で急に死んじゃったの」

「うん、きっとそうなんじゃないかって、ずっと前から思ってた」

 ボーズの高価なヘッドフォン。最新型のウォークマン。男のような字が書かれたカセット。そして何よりブラッキー。…コスモの身辺(まわり)には、そうでなければ説明のつかない物があまりにもあふれ過ぎていた。

「ギターが上手で、隠し事が下手くそで、優しくて真面目で、本当の意味での勇気があって、何から何まで誰かさんと笑っちゃうぐらい瓜二つだった…」

 部屋には呼吸の音だけが静かに響いていた。

「…お兄ちゃんが死んだ日も、親父は酒を飲んでた。休みと言えば酒ばかり、病院へ見舞いに行った事もなかった。親父が飲んで暴れても、守ってくれる人はもう居ない、それならいっそ、後を追って自分も死のう、…ちょうどそう思ってた頃だったの、初めてユータを見たのは。引っ越ししてるユータを見て、お兄ちゃんに似てるって思った。姿形が似ているとは思わなかった、でも、雰囲気はすごくよく似てるなって思った。仲良くなれるかも知れない、だからあともう一日だけ死ぬのを待ってみようと思う事にした。次の日も、更にその次の日も、あともう一日だけって、けっきょく三日同じ事を考えた。そしたらあの山の休憩所で知り合った。友達になれるチャンスかも知れないって馬鹿みたいに浮かれちゃった。あの時、あたしをウルサイ女だなって思ったでしょ?」

「そんな事もあったね」

 思わず笑ってしまった。

「最初は、お兄ちゃんの事を教えるつもりなかったんだ。軽々しく話せるような事じゃないもん。形見のブラッキーを預かってさえくれたら、それでじゅうぶん満足だった…」

 コスモは薬指で涙を拭うと、僕の顔を真正面から見つめて再び話し出した。

「…同い年の男なんて、最初は子どもみたいだと思ってた。でも、気づいたらあなたはあたしよりもずっと前を歩いてた。ううん、あたしが気づいてなかっただけで、そもそもあなたは最初から、前を歩いてたのかもね。友達になれたらなって思ってたのが、気づいたらこんなに大好きになってた」

 薄暗い部屋の中で、桜の花びらが艶めかしく揺らめいた。



   4・ティアーズ・イン・ヘヴン



「あたしバンドの生演奏がやりたい!」

 手を挙げると、快活な声でコスモは言った。各学年で三十分ずつ、体育館のステージで披露する演目を決めなくてはならない、そのための話し合いが行われたホームルームでの事だった。

 その頃コスモはすっかり明るくなっていた。その瞳は自信に満ち、キラキラ宝石のように輝いていた。性格が変化したわけではない。どんなに眩しい太陽も、雲があったら地面を照らす事は出来ない。コスモを取り巻く不幸が、彼女本来の輝きを曇らせていただけなのだ。

 相変わらず、冷やかしてくる輩もいないではなかった。一人、僕よりも偏差値が低く、足だって遅いくせに、やたらと見下すような発言をしてくる奴がいた。が、すでに身も心も結ばれている彼女を持つ僕にやっかんでいるのは見え見えだった。人を見下すのは、自分に自信がないからだ、幻想の優越感に浸ってチープな安心感を得たいだけだ。そんなもの、相手にするだけ無駄だと思い、常に聞き流していた、むしろ憐れにすら思いながら…。

 ともあれ「三年生お別れ会」の催し物は、コスモの鶴の一声でバンドの生演奏に決定した。ボーカルは、コスモの親友・歌祈ちゃんにお願いした。名は体を表すという諺どおりの歌唱力と美貌を持ち、なおかつピアノまで演奏出来る、まさに音楽の申し子のような少女だった。歌祈ちゃんの強い要望で、当時人気絶頂だったザードのコピーバンドをやる事になった。

「本当は洋楽やりたいんだけど、歌祈が英語歌えないのに無理してもかえってカッコ悪いもんね」

 僕らは学校で話し合った。

「でも一曲ぐらいは洋楽やりたいな。ボーカルの問題があるならギターのインスト曲はどうかな?」

「トップガンの『アンセム』とか?」

 コスモはトップガンが大好きだった。ただし、トム・クルーズとサントラ音楽に興味があるだけで、映画の内容は全く理解していなかった。母親が、むかし米海軍で兵站業務に就いていた筈なのに、だ。とにかくひたすら、トムと音楽だけをロック・オンしていた。

「賛成。スティーブ・スティーブンス大好き。でも楽譜がない」

「それなら大丈夫。毅に相談する」

 週末、僕らは歌祈ちゃんの親が経営する、「シーサイドメモリー」という名の窓から海が見えるお洒落なカフェで毅さんと待ち合わせた。初心者マークをつけた白い180SX(ワンエイティー)に乗った毅さんは、丁寧に手書きされた楽譜とともに潮風のように現れた。本来ならフェードアウトで終わるあの曲を、生演奏でも問題がないよう自然な形で締めくくっている非常に完成度の高い楽譜だった。しかも、ギターでの演奏にも支障がないようタブ譜まで書いてあった。

「毅さんが書いてくれたんですか?」

「いや、知り合いに音大でピアノを教えてる絶対音感の持ち主がいるんだ、その人にお願いした」

 彼のような不良少年に、そんな知り合いがいただなんて、何かの笑い話のようにしか思えなかった。が、事実手書きの楽譜がある以上、信じるより他なかった。

「ところでベースいないんだって?」

 毅さんは、やけにフレンドリーな笑顔を浮かべながら尋ねてきた。嫌われていると思っていたので、正直かなり意外だった。

「俺に任せろ!」

 楽譜を援助してもらっている以上、あまり強く断れなかった。…ともあれメンバーはそろった。平日は第二音楽室で、土日は例のガレージで毅さんを混じえ練習を重ねた。

 僕は毅さんの目を盗み、壁に赤いスプレーで落書きをした。


 禁酒

 禁煙

 禁薬


「まだ未成年のボーカリスト、歌祈ちゃんの喉を考慮して下さい」

 毅さんは折れてくれた。そして主にコスモと歌祈ちゃんの働きにより、灰皿も空き缶もリポビタンDの瓶も、全て綺麗に掃除された。

 第二音楽室からザードの曲が漏れ伝わるのを皮限りに、我が母校にはちょっとした社会現象が流行し始めた。…コスモに対する一年生女子達の人気が、ジェット戦闘機のような速さで急上昇し出したのである。

 少年のような顔だち。

 美樹本宇宙という派手な名前。

 ハーフゆえのルックスとスタイル。

 ドラムが上手いという解りやすい能力。

 宝塚のような魅力が、今更ながらに発掘された結果だった。第二音楽室には毎日のように、飲み物やお菓子などの差し入れが届いた。ファンクラブが結成されたという噂を耳にした事もあった。むろん、この僕が噂話などを軽々しく信じる筈がない。が、たとえ事実がどうだとしても、酒癖の悪い「彼」を思い悩み、友達がいないと苦しんでいたのが、まるで嘘のような出来事だった。

 バンドは歌祈ちゃんの発案で、「桃色ウインドベル」と命名された。

「ステージ衣装に浴衣を着たい」

 突如そう言い出した歌祈ちゃんに、コスモがあの水色の生地にピンク色の風鈴が描かれた浴衣を見せたのがきっかけだった。歌祈ちゃんは一目見てそれを非常に気に入り、それがそのまま名前になったのだ。

「バンド名はいいとして、まだ三月の体育館で浴衣なんて寒いんじゃないか?」

 僕は懸念を口にした。

「リハーサルの日、念のため本当に寒くないか確かめた方がいいよ」

 僕の意見を受け入れ歌祈ちゃんは浴衣を着た、そしてなんら心配のない事が確認された。…結果、ボーカルの着る浴衣が、バンド名の由来だという事が一年の女子達に知れ渡った。

 リハーサルが終わると、以前、僕を呼び出し殴る蹴るをしてくれた不良グループから、三度(みたび)体育館の裏へと呼び出された。

「お前何であの人と知り合いなの?」

 開け放たれた非常口から、彼らはステージ上の毅さんを指差した。

「何でって、何で?」

 思わず反問してしまった。

「お前知らねぇの? あの人には昔、敵対してた中学の三人組に木刀で襲われてたった一人で返り討ちにしたっていう伝説があるんだ!」

 話半分だとしても、それは凄いと素直に思った。しかし、興味の持てる話ではなかった。

「喧嘩が強いからなんだって言うのさ。もしどうしても乱暴な事がしたいならリングの上でルールを守ってやって欲しいんだよね。だいたいあの人春から社会人だよ」

 すると彼らは口々に言い出した。

「…絶対丸くなったんだって!」

「…苗字が違うけど美樹本の従兄弟って本当なの?」

「…てゆーか何で教えてくれなかったの?」

「…頼む! 紹介してくれ!」

 仕方なく言うとおりにすると、彼らはまるで任侠映画の俳優のような声で挨拶をした。

「先輩の低音に(おとこ)を期待してます! 頑張って下さい!」

「おう! 本番当日は楽しんでくれや。ところでお前ら、ユータに下手なマネはしてねぇだろうな?」

 すると彼らは一斉に声を合わせた。

「してません!」

 したやんけ! ツッコミを入れたくなった。だがしかし、意地が悪いかも知れないけれど、毅さんに対し厳しく訓練された警察犬のように振るまう彼らの従順な態度は見ていて正直楽しかった。もう時効だ、あの一件は黙っておいてあげようと思った。なお、大勢の前での演奏の経験を持つのは、メンバー内で毅さんだけだった。彼らを前に堂々と振る舞う毅さんの姿に、やはりキャリアが違うのだなと、尊敬の念を抱き始めていた。



 そして当日。

 平日のため決して多くなかったが、保護者の姿もちらほら見えた。病弱な母も珍しく学校へ来ていた。僕はもちろん、実の娘のように愛でていたコスモの晴れ舞台を観に来てくれたのだ。夏にギターを教えてくれた伊藤さんも、応援のためわざわざ有給を取って駆けつけてくれた。更なる飛躍を期待してくれているのは明白だ、いいところを見せたい、僕は大いに張り切っていた。前日、新品の弦に張り替えてすでに慣らし終えていたブラッキーの調律を再チェックし、下ろしたてのバンソンの派手なシャツを着て出番を待った。やがて、一年・二年の演目は滞りなく終了した。

 舞台での立ち位置は、観客側から見て一番右側が僕、真ん中よりやや右側がボーカル&キーボードの歌祈ちゃん、やや左側がコスモ、一番左が毅さんだった。各々の位置に向かうと、コスモのファンクラブの存在を信じたくなるような光景が体育館中に広がっていた。水色の生地に、ピンク色の文字で「桃色ウインドベル」と書かれた手作りの(のぼり)があったからだ。それだけではない、体育館中にリンリンと金属的な風鈴の音が鳴り響いてもいたのだ。しかもその自前で染めたと思われるピンク色の風鈴を持つ一年女子達が、「コスモ先パ〜イ!」と口々に名を呼びながら目を輝かせてこちらを見ていたのである。クイーンがライヴでバイシクルを演奏する時、ファンが自転車のベルを鳴らすというお約束があったと聞くが、まさにそれと同じような状態だと思った。

 演目は、「マイフレンド」「きっと忘れない」「君がいない」「心を開いて」「サヨナラは今もこの胸に居ます」の五曲だった。皮肉な話だ、今思うとどれもみな、二人の未来を暗示しているかのような歌詞(うた)ばかりである。

 演奏はほとんどなんのミスもなく大成功に終わった。リズム隊の相性もとても良かった。幼い頃から一緒だったからか、血縁者同士の阿吽の呼吸があったからか、コスモと毅さんが作り上げるビートは非常に安定していて、僕や歌祈ちゃんはのびのびと安心してプレイする事が出来た。

 バラード曲「サヨナラは今もこの胸に居ます」の後の演目は、僕の出番であるトップガンの「アンセム」だった。ハイハットを刻むコスモを見ながら、歌祈ちゃんがキーボードを弾く。そんな彼女達(ふたり)の息の合ったイントロを注意深く聴きながら、僕は初めてコスモと知り合った日の事を思い出した。そして青いスポットライトを浴びながら、あの山の休憩所で見た、極細の飛行機雲が一筋、真横に伸びていた青空をイメージしながら演奏を始めた。名曲「アンセム」が持つ、大空を自由に飛ぶイメージを表現する喜びに、僕の心は大いに昂ぶった。気分はもう本当に最高だった。

 定められた三十分が過ぎ、歌祈ちゃんの「ありがとうございました」という声がマイクを通して体育館中に響く。袖に帰るとコスモの名を呼ぶ声とともに、実はお約束的に最初から予定されていたアンコールの声が鈴の音と共に体育館中に響き出した。「最後の曲は『負けないで』がいい」。コスモの強い要望だった。水分補給の後、僕らは再び舞台に戻った。

「今日はありがとうございます。最後の曲になります」

 歌祈ちゃんがマイクで言うと、女子達の「えええ〜」という残念そうな声が聞こえた。しかし歌祈ちゃんが口にした次の言葉に、たちまち熱狂的な大歓声が沸き起こった。

「聴いて下さい。負けないで!」

 女の子に特有の金切り声のようなシャウトで歌祈ちゃんは曲名を叫んだ。と同時にコスモがスネアを連打しイントロが始まる。さすが絶大な人気を誇る名曲だけあり、体育館のボルテージは最高潮に達した。それも終わってもう本当に演目は終了。再び袖に帰ると思ってもいなかった二度目のアンコールの声が響いた。

「どうしよう。もう演奏できる曲なんてないよ」

 歌祈ちゃんが呟いた。僕は少し考えた後、男は度胸とこう切り出した。

「最後に俺一人で弾き語りをしてもいいかな? そうすればみんなも、これでもう本当に終わりだって諦めてくれると思う。それに、みんなにこのブラッキーを紹介したいんだ」

「よし行ってこい!」

 バンマスの毅さんは言った。

 一人きりで舞台へ向かうと、コスモの出番を堅く信じて疑っていなかったのであろう女子達の、「えええ〜っ」と言う声が聞こえてきた。きっとそうなるだろうと予測してはいたが、正直少し傷ついた。

「皆さんごめんなさい。もう本当に演目がないんです…」

 マイクを通した僕の声が体育館に響いた。みんなが僕を見ている。やっぱりボーカルは目立つんだなと、改めて思った。

「…実はこのギター、僕の私物ではありません。とある亡くなられた方の大事な形見なんです…」

 それまで静かだった会場が突然ザワザワと騒がしくなった。僕は人差し指を唇に当ててそれを制した。

「…僕はその人を直接には知りません。なぜならこれが実は形見だったと聞かされた時、その人はすでにもう、天国へと旅立っていたからです。ただ、その人はとても良い人だったと聞いてます。その人を想って唄います…」

 マイクの位置と角度を唄い易いように直した後、僕は祈るような想いで瞳を閉じ、深呼吸した。

「…聴いて下さい。『ティアーズ・イン・ヘヴン』」



 その後、僕ら桃色ウインドベルの面々は、一年の女子達に囲まれてつかの間のスター気分を味わった。

「始めたばかりのコイツにギターを教えたのはあたしなんだ。最初はホントに下手くそでさ、一時はどうなるかと思った。一弦と六弦を逆に張るヤツなんて初めて見たよ」

 ある事ない事コスモは喋りまくった。そのたびに女子達は笑った。毅さんが表情だけで、「逆に張ったってホント?」と尋ねてきた。やはり僕も表情のみで、「ンなわけないっしょ!」と否定した。

 それにしてもコスモは饒舌だった。あれやこれやと喋っては、女子達を笑わせ続けた。…何故かふと、「死を間近に控えた者は饒舌になる」という、不吉な逸話を思い出してしまった。

「先輩達って付き合ってるんですよね?」

 僕らが目配せすると、すぐに歓声の声が上がった。

「ツーショットの写真を撮っていいですか?」

 僕は例の写真に写っているコスモの兄を真似てブラッキーを胸に抱いた。女子が写ルンですのシャッターを切るとコスモは言った。

「I’ll decorate it beside my brother photo」

「I see」

 と僕は答えた。

「えっ、今なんて言ったんですか?」

「ナイショ。聞かれたくないから英語で言ったの」

 コスモはそう言って舌を出した。すると女子達は「すご〜い!」と更なる歓声の声を上げた。それを遠巻きから見ていた不良グループの連中が、毅さんの名を口々に呼び求め出した。

「俺たちも一緒に写真撮らせて下さい!」

 ベースギターを肩に下げ、屹立し、カメラに向かって毅さんは親指を立てた。不良グループの面々は、そんな毅さんを取り囲んでうんこ座りをし、威嚇するような表情をカメラに向けた。スーツをビシッと決めつつも、ネクタイだけはわざと崩して締めている毅さんは、さながら矢沢永吉のようであった。

 そんなコスモと毅さんの姿に、思わず笑みが込み上げてきた。どうもこの家系には、同性のファンを惹きつけてやまない独特の魅力(オーラ)があるようだと思ったからであった。かくいう僕も、会った事すらないコスモの兄には熱烈なる憧れを抱いていたので、みんなの気持ちは痛いほどよく解った。そう思いながら再びコスモに目を向けた。

 様子が変だと思うほどの饒舌は、その後も止む気配を見せなかった。



 放課後、僕らはバンドが結成された記念すべき場所であるシーサイドメモリーで打ち上げをした後、歌祈ちゃんをお店に残し三人で毅さんの車に乗り込んだ。するとコスモが言い出した。

「ねぇ毅、家の近くのコンビニで降ろして。もういい加減二人きりになりたい」

 僕も同じ気分だった。

 …ちなみに警察は、このとき車から降りたのは僕だけで、コスモはそのまま毅さんの家に行ったと認知しているそうである。翌日コスモは飛行機で日本を発っているにも関わらず、調べたらすぐに判るこんな穴だらけの供述が、不思議な事にまかり通っているのだ。警察は事情をそれとなく察して、敢えてコスモを見逃してくれたのだろうか? それともやはり警察なんて、そんな程度なのだろうか?

 手を振りながら毅さんの車を見送ると、コスモは不満げに口を開いた。

「『ティアーズ・イン・ヘヴン』はクラプトンが死んでしまった息子の事を想って書いた曲なのに」

「言われなくたって知ってるよ…」

 静かな夜だった。ついさっきまでのお祭り騒ぎが嘘のように感じられた。僕らは手を繋いで歩き出した。コスモは空いている左手で、季節外れの浴衣が入った手提げ袋を持っている。獅子座が浮かぶ綺麗な寒空を見上げながら、澄み切った心持ちで僕は言った。

「…そうだとしても死んだ人を悼む気持ちは同じだよ。それに最後はしんみりと終わらせたかったんだ。いいだろ」

「ま、歌はともかくギターは良かったよ」

「お前に言われたくない」

 彼女はその流暢な英語からは思いもよらぬ欠点を持っていた、…実はひどい音痴だったのだ。いつものごとく怒ったコスモに、僕は頭を叩かれた。すっかり慣れたお約束と、他愛のない会話を、僕らは心から楽しんでいた。

「いいライヴだったね」

「天国のお兄さんも喜んでくれてるといいな。俺、コスモのお兄さんに会ってみたかった」

「きっと仲良くなれたと思うよ。あ、そうだ、毅が"桃色ウインドベル、もう少し続けてみないか"だって」

「オリジナルをやるって事? 確かに俺たち音は合うんだよなぁ。ま、考えとくよ」

 コスモから、「毅は女ボーカルのガレージロックをやりたがってる」と聞かされた事をふと思い出した。歌祈ちゃんのコケティッシュな声が気に入ったのかも知れない。コスモとは、打って変わったスレンダーな体型。浴衣を衣装に選ぶという、大胆奇抜なファッションセンス。ギターを弾きながら見た歌祈ちゃんの背中には、艶やかなる華があるのを僕は感じていた。対角にいた毅さんが同じ思いを抱いていたとしても、何ら不思議な事ではない。

「ところでさっき思ったんだけど、コスモのファンクラブがあるって噂、やっぱ本当なのかな?」

「知らないよ。自分から聞くなんて恥ずかしいし」

「まあそうだよな。てゆーかコスモ、今、家って誰もいないの?」

「いないけど? あ、したいんでしょ?」

「…う、うん」

「やっぱり。でも今お腹痛くて、ライヴ終わって気が緩んだせいかな。多分そろそろ来そうなんだ。ごめん」

「別に謝らなくていいよ」

 男ってそればっかり、と思われないよう平静を装った。慌てる事はない、バンドもデートもこれからいくらだって出来る。

「じゃあまた明日ね」

 僕らは軽いキスをして別れた。

 突然、強烈な胸騒ぎを感じた。コスモがあの浴衣姿を見せた時に起きた一連の出来事をふと思い出したのだ、「なぜか決まって酔っ払いから嫌な思いをさせられるんだよな」、と。僕は何故この時の嫌な予感を信じなかったのだろう? そしてコスモを引き止めなかったのだろう? 振り向くと、そこにはまるで遠近法をまるきり無視して描かれた、シュールリアリズムの絵画のような光景が広がっていた。浴衣の入った手提げ袋を持つコスモの後ろ姿だけが、信じられないぐらい小さく遠ざかって見えたのだ。

 それが最後に見たコスモの姿だった。



 風呂に入ると、消防車のサイレンが聞こえてきた。最初は他人事だろうとタカをくくっていた。風呂から上がると、「火事はコスモちゃんの家の方じゃないか」と父から聞かされた。そんなまさかと思いながらも、様子を見に行く事にした。

 角を曲がった直後、まさかの光景を見て僕はすぐに走った。すでに火の消えているコスモの家が、黄色と黒のしま模様のロープで囲まれていたからだ。ついさっきまでの不自然なほどの饒舌を、今さらになって思い出した。黒々と焼け焦げた家、立ち入り禁止と書かれた看板、消防車、救急車、パトカーも来ていた。

「すみません、この家の人と友達なんです!」

 警官から、「まだ危ない、近寄らないで」と肩を押し返された。と同時に焼け焦げた家の中からヘルメットを被った白衣の男が現れた。その男の言葉を耳にし、僕は力なく、その場に膝をついた。

「焼死体が一つ発見されました」


 

 泣きながら眠れない夜を過ごした。気づけば朝が来ていた。朝日が眩しい、という事実を残酷だと思った。朝日から逃げたいと思った。現実から逃げたいと思った。逃げたいと思っている事それ自体から逃げたいと思った。

 リビングへ行くと、

「今日は学校休んでいいから、ゆっくりしてなさい」

 母はひどく優しく僕を慈しんでくれた。父も父で、

「コスモちゃんの両親だって見つかってない。本当の事はまだ何も分かってないんだ。いいか、間違っても早まるなよ」

 と言い残し、会社へと向かった。するとすぐに電話が鳴り出した。毅さんだった。

「近くのコンビニにいる。今から来れるか?」

 僕はすぐに上着を羽織った。

 昨日の饒舌だったコスモを思い出した。やはりあれは虫の知らせだったのだろうか。そう思いながら、立ち入り禁止と書かれた看板が、まるで僕をあざ笑うかのように突っ立っているコスモの家の前を通った。黒々と焼け残った残骸を眺めながら、この中で初めて抱き合った後、コスモが言った言葉を思い出した。

「ユータ、ずっと一緒に居ようね」

 泣きながら、コスモは何度もそう言い続けていた。

 人前ではいつも強がり、悪ぶった事ばかりしていたが、本当はひどい泣き虫で、寂しがり屋で、甘えん坊だった。しかしそれは僕にしか見せない素顔だった。そんな彼女が自慢だった。僕らの仲を悪意で批判されても、屁とも思わなかった。むしろ逆に、「今に見てろ。いつか必ず認めさせてやる」と思っていた。「距離を置いた方がいい」、善意の忠告をする人もいた。本気で付き合い始めると、むしろ逆に僕から距離を置くようになった者もいた。それならそれで構わない、そう思って諦める事にした。気づけば友達なんて、片手の指くらいにまで減っていた。量より質だと自分に言い聞かせた夜は、一度や二度ではなかった。正直、むしろコスモと付き合っていなかったら、もっと友達は多かったかも知れないと思った事が何度かあった。だがしかし、悩んだところで結局いつも、「貫いてやる!」という結論しか出てこなかった。ほとんど意地になっていた。今はどんなに辛くても、二人で一緒に笑い飛ばせる未来が必ずやって来ると信じていた。ようやくその兆しが見えてきたと思っていた。恋人が死ぬ、まさかそんな恋愛小説のような悲劇が、自分の身に降りかかってくるなんて夢にも思っていなかった。

 コンビニに着くとすぐに毅さんと目が合った。その刹那、自分の中にまだこんなにもたくさんの涙が残っていたなんてと思うぐらい、僕は激しく泣きじゃくってしまった。毅さんは僕の髪を鷲掴みにすると、涙を顔ごと肩に引き寄せ、耳元で囁いた。

「落ち着け。コスモは生きてる…」

 ハッと彼の顔を見た。

「…事情があって今はまだ詳しく話せないんだ。でも、とにかくコスモは生きてる、その事だけは心配するな。…とりあえず車の中で話そう」

 促されるまま車内へ入ると、毅さんは煙草に火をつけた。少し落ち着きがないように見えた。

「いいか、よく聞け。もし万が一警察がユータの所へ来て、夕べの事を尋ねてきたら必ずこう答えろ。"毅さんに送って貰った後、僕は一人で車から降りました。その後毅さんとコスモがどこへ行ったかは知りません"。誰に何を聞かれても、それ以外の余計な事は一切言うな」

 …幸いついぞ最後まで、警察が僕の所へと来る事はなかった。



 次の日学校へ行くと、コスモの安否を知りたがっていた一年の女子達が、「ユータ先輩!」と口々に僕を呼び求めてクラスへと押しかけてきた。しかし、彼女達が知りたがっている答えは、そのまま僕が知りたいと望んでいる事でもあるのだ。…毅さんに言われたとおりの説明をし、席に戻ると、涙で目を真っ赤にさせた歌祈ちゃんが僕に近寄って来た。

「まるでデジャヴを見てるみたい。昨日はあの子たち、"歌祈先輩!"って、私に同じ事を質問しに来てたのよ」


 

 二日後の新聞に、信じられないような事が書いてあった。火事の原因は放火だったのだ。火をつけたのはコスモの母だった。そして死んだのは「彼」だった。



 一体何をどうしたらいいのか全く分からないまま、悪戯に時間だけが過ぎていった。結局コスモは卒業式にもやって来なかった。



 卒業式の後、とある女子から突然話しかけられた。ボーイッシュで童顔なコスモとはまるきり逆の、清楚なタイプの少女だった。中ニの夏、花火大会の日にかかってきた無言電話は、実はその女子からのものだったと聞かされた。匿名で、「美樹本さんからビンタされたのを見た。あの人とは距離を置いた方がいい」、そう言いたかったが言えなくて、切ってしまったのだそうだ。

「美樹本さんが今、何らかの事件に巻き込まれた可能性が高い事も、二人が恋仲なのも知ってます。…でも、ずっと前から好きでした!」

 コスモの行方が分からない、という残酷な事実が、彼女にとっては千載一遇のチャンスに思えたのだとしか考えられないタイミングでの告白だった。

「ありがとう。でも彼女が少々の問題を抱えていたとしても、僕は美樹本が好きなんです。…ごめんなさい」

「きっとそう言われるだろうと思ってました。でも、言うだけ言って気持ちがスッキリしました。ちゃんと最後まで聞いてくれてこちらこそありがとう」

 その誠実なもの言いには非常に好感が持てた。身も心も、僕にはもったいないぐらい綺麗な女の子だと、正直、そう思った。



 コスモからエアメールが届いたのは、奇しくも僕らが知り合ったのと同じ日の事だった。それがお別れの手紙である事ぐらい、外国から来ているという時点で想像がついていた。しかしその内容は、思っていたより遥かに陰惨で、衝撃的なものであった。



   ☆



 長い間心配かけてごめんね。あたし今、ロサンゼルスのママの実家にいるんだ。

 何からどう伝えればいいのか、考えてたらだいぶ時間が過ぎちゃった。国際電話で話そうかとも思ったんだけど、いっぺんにいろんな事が起き過ぎて頭がパンクしてて、口では上手く話せないと思った。だから考えをまとめながらこれを書いたの。何度も何度も書き直して、これなら自分の気持ちが正しく伝わると思える物がようやく書けた。あたしはユータみたいに頭も良くないし、文章書くのも得意じゃないから、分かりにくい部分もあるかも知れない。それにまだ正直、気持ちが落ち着いてないんだ。でも、これでも精一杯分かってもらえるように書いてるつもりなの。だから送ります。読んで下さい。


 あたし、親父を刃物で刺しちゃったんだ。身を守るため、そうするしかなかったの。あの時、「家には誰もいない」って言ったよね。実はいたんだ。やっぱり酒を飲んでて、いつもより更にひどい酔い方をしてた。実はあいつ、三年生お別れ会を観に来てたんだって。あの親父が、まさか来てるわけがないって普通ならそう思うよね。なんでこんな時に限って来てたんだろう。死んでしまった以上、確かめようがないけど、とにかくもうホント、わけが分からなかった。

 知ってのとおりあたし達、ライヴが跳ねた後、シーサイドメモリーで打ち上げしたよね。その間にだいぶ飲んでたみたい。帰ったら、それこそ浴びるように飲んでる親父がいたんだ。いないとばっかり思ってたからびっくりした。ああ、ユータを部屋に連れ込まなくて良かったって思った。

 お兄ちゃんと親父、実はものすごく仲悪かったんだ。精神病棟へ強制入院させられた事を、親父のヤツずっと逆恨みしてたの。だから二度目のアンコールでユータが喋った事にもすごく腹を立ててた。

「何が"いい人だったと聞いてます"だ、会った事もないくせに知った風な事を抜かしやがって」って。それだけじゃない、

「あのガキの一番大切な物を穢してやる」

 そう言っていきなりあたしを押し倒したんだ。酔った上での悪意だったのか、それとも本気だったのか、今となっては分からない。とにかく、信じられないぐらい臭い、サイテー、コイツもう人間じゃないって思った。ユータに愛してもらった体を、親父にだけは犯されたくなくて、必死になって抵抗した。そしたら弾みでコタツの上の包丁が落ちたの。親父のヤツ、サラミを切りながら飲むのが好きだったから。それを見た瞬間、今までの恨み辛みが一気に爆発しちゃった。どこを刺したかも、何回刺したかも覚えてない。気づいたら血だらけになってた。そしたらママが仕事から帰ってきた。ママ、一瞬で全部が分かったみたい、

「毅のケータイに連絡して迎えに来て貰いなさい!」って言ったんだ。

 あたしが家を出た後、まだ生きてたケダモノに灯油で火をつけて、一緒に死のうとして、でも出来なくて、しばらくしてからママも毅の家に来たんだって。

「LAへの行き方は覚えてるわよね。コスモを見送ったら自首する、おばあちゃんの所へ行きなさい」

 ママにそう言われた時、最初あたし、一緒に逃げようって言ったんだ。でも、罪を償うって言って聞かなかったんだ。

「私が悪かった。お兄ちゃんが死んだ時、お父さんは何もしようとしなかった。そんな人はとっとと見限って二人でアメリカへ帰るべきだったんだ」

 その話を聞いた時、その方が良かったのかな、ってちょっと思った。でももしそうしていたら、あたしはユータに出逢ってなかったんだよね。本当は何が一番良かったんだろう。人同士って、解らないものなんだね。

「日本にいたら、犯罪者の家族と言われて肩身のせまい生き方をする事になる。ただでさえ、お父さんの事で肩身のせまい思いをさせてきたのに、本当にごめんね、お父さんにされそうになった事は誰にも喋らない。焼死体の刺し傷も、私がやったと証言する。私達がコスモをそんな風に育ててしまったの、だから罪は全部私が被る。とにかく、あの日あの時、あなたはあの家にいなかった。学校が終わった後、毅と一緒に真っ直ぐ毅の家に来た。いいわね?」

 ママがそう言った時、正直あたし、安心しちゃったんだ。さっきまで一緒に逃げようって言ってたくせに、逆に自首して欲しいと思ってしまったの。ひどい考えなのは自分でも分かってる。そして、そんなひどい事を考える人間は、やっぱりユータのような真面目な人には相応しくないって思ったの。

「罪を償ったら私もアメリカへ帰る。もう日本へは戻らない」

 あたしも、日本に戻る事はないと思う。ずっと一緒に居たかったけど、ユータにはもう会えない。たとえ正当防衛だったとしても、あたしは一度、本気になって人を刺してる。ママが言ってた、「まだ生きてた」って言葉だって、自分の目で見てない以上、本当の事は分からない。「罪は全部私が被る」って言葉も、きっと本当は()()()()()()なんだと思う。ユータなら分かるよね。たとえ事実がどうだとしても、ママの答えは同じなんだよ。

「私が殺した」

 あたし、ユータにだけは迷惑かけたくないんだ。あたし達はもう、一緒に居ない方がいい。悲しいから、本当は認めたくない、だけどやっぱりあたし達、努力してもつり合い取れるようにはなれない運命だったのかもね。あなたは優しい人だから、あえてはっきり言う、もうこれ以上あたしなんかに優しくしないで。そんな事されても惨めになるだけなのは見え見えだもん。

 だからお願い、あたしの事はもう、忘れて下さい。


 ユータのおかげで、生きてて良かったと心から思った。だからもう二度と、自分から命を投げ捨てようなんて考えない、もっと自分を大事にする、約束する。ユータと出逢ってなかったら、M高どころか、そもそも進学しようとすら思ってなかった、ユータと出逢えた事を無駄にしない、これをいい機会だと思ってアメリカで一からやり直す、もう人に甘えたり頼ったりしない、お兄ちゃんの代わりを求めるような生き方もしない、強く生きてく、そうでないと天国のお兄ちゃんに顔向けできないもん…。

 …やっぱり「ティアーズ・イン・ヘヴン」は、あたしにとってお兄ちゃんの事を唄ってる曲だったんだね。

 それと、お願いだから毅とは仲良くしてよね。音が合うって認めてた事、とっくに報告済みなんだから。そうでなくてもアンタ友達少ないんだし。ま、人の事言えないけどね。それにユータがそうなったのは、半分以上あたしと付き合っちゃったからだもんね。


 あなたを好きだった事、あたし一生の誇りにしたいです。だからユータ、夢を叶えていつか素敵な人に、なって下さいね。あなたの事、遠く離れたアメリカから応援してます。

 もっとバンドやりたかった。M高一緒に行きたかった。あの学校、制服もリボンも可愛いから、着てるところ見て欲しかった。ユータならもっといい学校行けたのに、あたしなんかのために犠牲にさせてしまって本当にごめんね。おばさんとおじさんにもよろしくお伝え下さい。

 ユータのおかげであたしは幸せでした。今まで本当にありがとうございました。でも、さようなら。


 コスモ・J・ウィンストンより、もう一人のお兄ちゃんへ。



   ☆



 手紙の中に、急に大人びてしまった彼女を感じた。もう、僕にしてあげられる事は何もないような気がした。

 わざわざ買い換えてもらったワイドデスクの上には、コスモが置き残していった文房具がいくつか、放置されたままになっていた。彼女がかつてこの部屋に居た証だった。コスモは確かにここに居た。毎日まるで、自分の家のようにやって来て、懸命に努力していた。にも関わらず、気づいたら、何もこの手に残っていなかった。「壊してしまうのは一瞬」という言葉の意味を、これほど如実に表している出来事も珍しいと思った。彼女の居ない部屋が、こんなにも広く寂しく虚無感に満ちていたなんて、夢にも思っていなかった。そこかしこに、コスモの残像(すがた)と残り香が感じられるような気がしてならなかった。そしてそんな室内には、「近いからいつでも返してもらえる」と言っていたブラッキーが、あたかも僕の私物だったかのように取り残されていた。さりとてそれを弾く気になれる筈もなく、あらゆる事に無気力で、怠惰な日々が長く続いた。

 

 …やがてあんなに楽しみにしていた筈の高校生活が幕を開けた…。



   エピローグ



「お前、なんであの夏、コスモを追いかけなかったんだ?」

 その質問に答えるためには、慎重に言葉を選ぶ必要があった。

「実は僕、中学の卒業式の後、別の女の子に告白されたんだ…」

 あの頃の記憶を反芻しながら、僕はゆっくりと喋った。

「…すごく綺麗な子だった。コスモの事は承知の上で、それでも好きですって言ってくれたんだ。最初は断った。でも、お別れのエアメールを受け取ってしばらくしてから、やっぱり付き合って欲しいって自分から言ってしまったんだ。でもそれって本当は、コスモがいない寂しさを忘れたくて、他の誰かを選んだだけだったんだよ。それが見抜けないほど女は馬鹿じゃない。三カ月と続かなかった。"あんな女の何がそんなにいいって言うのよ!"って、泣かれたよ…」

 毅さんが音楽を聴く時のように真剣に耳を傾けてくれているのを、僕はしっかりと感じ取っていた。

「…僕は一度、別の(ひと)と付き合ってる、そんな自分にコスモを追いかける資格はないと思った。…これがその質問に対する答え。かわいそうな事をしたと思ってる、コスモにも、その子にも。僕はコスモが思ってるほどいい人じゃない。後ろめたくて今までずっと言えなかったんだけど、歌祈ちゃんが急にバンドを抜けたいって言い出したのもきっとそれが理由だよ」

 俯いたまま、しばらく毅さんの返事を待った。しかし彼はいつまで経っても、何一つ言おうとはしなかった。仕方なく、更に言葉を継ぎ足した。

「ごめんね。怒ってるよね?」

「いや、怒ってねえよ。まさかお前がそんなにモテる奴だったとは思えなくて少々驚いてるだけだ」

「悪かったですね」

 悪態をつくと、毅さんはカラカラ渇いた声で笑い出した。

「ま、人生にはモテる時期があるって言うからな。ちなみに、悪かったついでに俺も一つ正直に言う。昔の話だ。ユータこそ怒らずに聞いてくれ。実は俺、コスモが肺炎で入院した時、見舞いに来たお前の話を病室の外で盗み聞きしてたんだ。もしお前が中学を出たら働くだなんて抜かしたら、殴ってでも止める気でいたんだ、お前はお前の道を行け、ってな。でも、まさか同じ高校へ行こうと言い出すとは思わなかった。正直に言うと、それまで俺はお前をナメてた。でも、コスモがお前を選んだ理由があれでよく分かったよ。あのブラッキーを受け継ぐ資格がお前にはあると思った。とにかく、()()()は本当にいい人だったんだ…」

 毅さんは箱から二本目を取り出し、

「…怒ったか?」

 火を点けながら言った。

「怒ってないよ。てゆーかやっぱりそうだったんだね。もしかしたら聞かれてたかも知れないって、後になって気づいたんだ。足音が何か変だったからさ」

 毅さんだってミュージシャンの端くれだ、僕の言っている事の意味が分かったのだろう、小さくフンと鼻で笑った。僕は微笑みながら、

「もしもあっさり振られていたら、きっといい笑い(ぐさ)だったろうね」

 と言った。すると毅さんも、

「実を言うとそれを期待してたんだ。ところがお前らまんまと俺を裏切ってデキちまいやがった!」

 悪い冗談を飛ばしながら大きな声でカッカと笑い出した。やがて笑い終えると、しっかりとした口調で語り始めた。

「自分一人の力だけじゃどうにもならない事ってのは確実にある。ましてガキじゃなおさらだ。でもお前は精一杯やった。俺が一番良く知ってる。無理に責任を背負いすぎるな。時間は取り戻せないんだ、今の彼女を大事にしろ。切ないよな、苦しいよな、自分の力でコスモを幸せにしてやりたいよな、だけど今のコスモがいるのは紛れもなくお前の力があったからなんだ、その事に関しては誇りを持っていい。でももういい加減、思い出から卒業しろ、俺は解ってるんだ…」

 煙草を持つ手が僕を指差す。

「…お前は今でもコスモに未練を持ってる。そうだな?」

 図星だ。認めざるを得なかった。

「恥ずかしい事じゃねぇよ。お前らは二人で力を合わせて様々な困難を乗り越えた。ところがさぁいよいよこれからだって時に終わっちまったんだ。あんな別れ方じゃ未練が残らねぇ方がどうかしてる…」

 ほろ苦いコーヒーを啜ると、毅さんは再び話し出した。

「…お前が二度目のアンコールのときにMCで話した事が、コスモの親父に油を注いだのだって、前から何度も言ってるように不運な事故だ、あの現場に実はコスモの親父がいたなんて誰も夢にも思ってなかったんだ、決してお前のせいじゃない…」

 僕がそれを後悔し、激しく泣いた夜は一度や二度ではなかった、…そして今、この瞬間にも涙している。

「…コスモはお前を、兄を慕う妹のように想ってた。しかしアメリカへ渡った時に断腸の思いで未練を絶ったんだ。お前への想いと、自分がやらかしちまった事を天秤にかける苦しみは、想像を遥かに超えるほど辛かっただろう。でもコスモだって人間だ、『女は上書き保存』だってよく言うけど、そうだとしてもケータイの電話帳(メモリー)を消すように、お前への想いを消したりは出来ない筈。もしもあの夏、お前がアメリカへ行っていたなら、ヨリは戻ってたかも知れない、ダメだったとしても諦めはついたろう。しかしお前はそうしなかった。だったらコスモは忘れるしかない。仕方なかったんだよ。お前らが引き裂かれたのはコスモの親のせいだ、お前のせいじゃない。ただし一つだけ言える事がある。コスモにとって、お前との出会いは遅すぎたんだ」

 僕は涙を拭きながら言った。

「そうだね。そして僕にとってコスモは、突然すぎたんだ」

「人の出逢いなんてそんなもんさ。あの当時、コスモを助けてやれなかった事を思い悩んだ結果、お前はカウンセラーになると決意した、それはいい。でもそれとコスモへの未練は別の問題だ。コスモはもう結婚するんだ、いい機会だと思って未練は今ここで完全にスッパリ断ち切れ。でないと中学を卒業した後にやっちまった過ちをまた繰り返すぞ。今の彼女にまで"忘れたくて他の誰かを選んでるだけだ"って思われたら今度こそオシマイだ。下手すりゃトラウマになって一生同じ事繰り返すぜ」

「毅さん、そういうのを…」

 すでに涙はやんでいた。しかし声はまだ鼻につまっていた。

「…釈迦に説法って言うんだよ」

「あの頃のお前ら、仲良かったよな。まるで本物の兄妹のようだった。見てるこっちが恥ずかしくなるぐらい眩しくてよ。そんなお前らが、俺は自慢だった」



   …一年後。



 僕と由美は、羽田空港のカフェでコーヒーを飲みながら、飛行機の出発する時間を待っていた。

「…前から何度も言ってるとおりよ。ロサンゼルスの海が見える教会で挙式なんて素敵じゃない、まるで映画みたい。せっかく招待されてるのに見に行かないなんてむしろ損。私は心からコスモさんを祝福する。辛い思いをして生きてきたんだもん。幸せを祝ってあげなきゃ…」

 一カ月ほど前の事。コスモから、通算三度目のエアメールが届いた。中には結婚式の日取りについての説明が書かれた簡単な手紙、教会のパンフレット、二人分の航空機のチケット、そしてツーショットの写真が入っていた。当時の少年のような面影はすっかりと影を潜め、大人の女性へと変貌を遂げた姿が写っていた。耳には相変わらずガーネットを着けている。そして何より、とても幸せそうに微笑んでいた。由美は教会のパンフレットに映る、抜けるような美しさの青い海と空を見て、大変気に入ったようだった。

「…不安がないと言えば嘘になる。でも、不安がない人なんているのかしら。例えば今、これから乗ろうとしている飛行機だって墜落して海に落ちちゃうかも知れない、先の事なんて誰にも分からないんだから。それに、そもそも日本とアメリカでどうやって浮気するって言うのよ。だいたい優ちゃんに浮気なんて隠し事はあまりにも大それ過ぎてて絶対に不可能よ」

 由美はそう言ってクスリと笑った。細い指が口を隠すと、左手のリングがキラリと光った。改めて、とても良く似合っていると思った。

「そういう風に言ってくれて嬉しい。俺、あいつの旦那さんに興味があるんだ。安心して任せられる人かどうか会ってみたい。嫁ぐ妹を見送る兄の気持ちってこんなものなのかもな。辛い思いをいっぱいした分、あいつには幸せになって欲しい、本当に、ただそれだけなんだ」

「私もコスモさんに興味がある。手紙に書いてあったよね、"世界のどこを探しても、あの日の二人はもう居ない"って。綺麗な言葉だな、って思った…」

 由美が「コスモさんに興味がある」と言うのはこれで二度目だった。一度目に言われた時、僕は国際電話でコスモに断った上で、あのエアメールを由美に見せた。ちなみに、「あの日の二人はもう居ない」という言葉を綺麗だと言うのも、これで二回目だった。

「…普段から日本語に慣れ親しんでいる私でも、こんなに綺麗な言葉はなかなか思いつかないよ。コスモさんはきっと、感性の豊かな人なんだと思う。むしろコスモさんとは友達になりたいくらい。それにきっと、コスモさんの男を見る目は確かな筈よ」

「それは、誉め言葉と受け取っていいのかな?」

 ふと、毅さんから言われた言葉を思い出した。「俺には英語は分からん。こんな事はユータにしか頼めない。形見のブラッキーを受け継ぐに相応しい男かどうか、俺の代わりに見極めて来い」。由美は質問に答えず、ただ涼しげに微笑んでいる。…誉め言葉と取る事にした。

「そう言えば、コスモさんのフィアンセって親日派なの?」

「だと思うよ。一度電話で聞いた事があるんだ。"What do you like about japan?"って。そしたら"Anime"って言ってた。"マジョタク・ガンダム・スラムダンク"」

 典型的ね、と由美は笑いながら、

「海の見える神社ってないかな?」

 と質問してきた。

「葉山にあるよ。森戸神社ってとこ」

「私達が婚約した事はまだ話してないんだよね。いっそコスモさん達に対抗して、結婚式はその神社にしない? それでコスモさん達を招待するの。もちろん旦那さんに宗教的な問題がなければ、の話だけど」

「まあ、相手が敬虔なクリスチャンという可能性は否定出来ないよな。でも、神社に来るぐらいは平気じゃないかな。宗教って言っても、広い意味では文化だし、よほど狂信的なカルト教団の人じゃない限り、"他の宗教はみんな間違ってる、正しいのは自分達の宗教だけだ"みたいな事は言わないと思うよ」

 もちろん、コスモの問題もあった。観光目的とは言え、日本へ来る事に難色を示す可能性がある。彼女の親族以外では恐らく、僕と歌祈ちゃんだけが知るあの「真相」を、由美には話していなかった。話す必要があるとは思えないからだ。もし由美が「真相」を知っていたなら、軽々しくコスモを挙式に呼ぼうなどと提案したりはしないだろう。それも含めて、コスモとじっくり話をしたい。親から受けた心の傷を、子どもに連鎖して欲しくないからだ。カウンセリングを学んだ者として、コスモに教えてあげたい事は山ほどある。不幸にも「彼」と似てしまった、カッとなると手が出やすいという欠点だけはなんとしても克服して欲しい。そうでなくと子どもは女性にとって唯一の弱者なのだ。その事をきちんと自覚しなければ良い母になれない。「自分は子どもの頃の自分を傷つけた親とは違う」、そう思い込み、自らを客観視出来ずにいるだけで、実は親と同じ過ちを繰り返している人間は決して少なくない、むしろほとんどの親がそうだと言っても過言ではないのだ。社会は親にとっての「不都合な真実」に対し、あまりにも無頓着に出来過ぎている。この問題は非常に複雑で根深い。だからこそ、正しい未来へと向かえるよう、コスモの背中を押してあげたいのだ。これは僕にしてあげられる、恐らく最後の手助けとなるだろう。

 空港のアナウンスが聞こえてきた。

「荷物検査の時間だね」

 僕は立ち上がり、ブラッキーを収納している黒いハードケースを持ち上げた。もうじきこれは、僕の腕から離れてしまう。が、「未練」はこれっぽっちもない。もともとそういう約束だったのだ。そしてそれにしてはずいぶん長く、僕の胸に抱かれ過ぎていたというだけの話だ。

「このギターって、メイド・イン・USAなんだよね?」

「そうだけど?」

「それがはるばる日本にやって来て、いろ〜んな人達に愛されて、そしてアメリカへ里帰り。世界って案外狭いのね」

 窓の外を見ると、コスモと初めて知り合った日に見た青空と同じように、極細の飛行機雲が真横に一筋伸びていた。その青い空の向こうには、アメリカがある。そしてその更に向こうには、夢や希望、素敵な未来が待っている筈。

 前向きにいこう。改めてそう思った。



書いている間、部屋にはずっと、エリック・クラプトンの曲が流れていました。やはり彼の音楽と人間性はとても素晴らしいと思います。


僕の母は、非常に酒癖の悪い人でした。国語のテストで99点を取った時、酒瓶で頭を小突かれた事もありました。「そういうアンタは親として何点だよ」と思ったことは一度や二度ではありません。そういった体験が今作に影響しているのは言うまでもない事です。


アルコールを適度に嗜んでいる人がいるという事実を僕は否定しません。しかしアルコールが人々の心と体を蝕んでいる事もまた動かない事実です。それゆえ僕は今回、アルコール依存症という病を徹底的に悪く書きました。


コスモにはモデルになった人物がいます。しかし物語自体は完全なるフィクションです。僕は本編の主人公のような優等生なんかではありませんでした。優しくもなければ真面目でもありませんでしたし、本当の意味での勇気なんてこれっぽっちも持ち合わせていませんでした。そしてもちろん、こんなにモテた事なんてもっともっとありませんでした。むしろ逆にコスモと同じく、救いを必要とする側の人間でした。だからこそ解るのです、世の中にはコスモのように、地頭は良いのに親のせいで不利益を被って本領を発揮出来ずにいる子どもは確かに実在しているのだと。そしてそういった子の親に限って、決して自分の非を認めようとはしないのです。何故ならその親がまだ子どもだった時、親から同じような仕打ちを受けてきたから。親から愛して貰えなかった人間に、子どもの愛し方なんて解るわけがないのです。そして、たとえ世の親たちが何と言おうとも、子どもを正しく愛せていない親はこの世にごまんといるのです。


そうだとしても人間は、前に向かって進んでいかなければなりません。そしてエリック・クラプトンがその半生を通して証明し得たように、人間には本来、それだけの力があるはずなのです。こんな僕のメッセージが、少しでも多くの人に届けばこんなに素敵な事はないと思い、微力ながら本編を書かせて頂きました。


読んでくれた全ての方に心から申し上げます、本当にありがとうございました。


   ♩


・・・追記。

なお、本作に脇役として登場したボーカル&キーボードの歌祈ちゃんをヒロイン兼準主人公にしたスピンオフ的な続編、「真夏の風の中で」を書き上げました。ロサンゼルスでのコスモの結婚式の様子なども描いています。よろしければ是非ぜひこちらも読んでみてください。


「真夏の風の中で」

https://ncode.syosetu.com/n5954gd/


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[良い点] 青春と表現するにはあまりにも過酷な家庭環境と悲劇的な別れ、それでも心に傷を負った二人が寄り添って歩んだ日々は、尊いものだったと思えるような実感を伴った作品ですね。 まさに、作中でも言及され…
[良い点] これぐらいの年頃の気持ちを瑞々しく描いていて好感が持てました。特に後半の盛り上がり方がとても良いと思います。きちんと最後まで構成されているあたりも評価出来ると思います。 [気になる点] 中…
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