画竜点睛を欠く
扉に背を向けて、歩き出す。
一歩、また、一歩。
……その度に、身体が重くなっていく。
「あ~……もうちょっと、なんだけど、なぁ。
頼むから、なんとかもってくれよ」
服の上から肺を掴むように胸を押さえ、そうぼやく。
楽しかった。
父親として、夫として、人間として。
久しぶりに、楽しい食卓だった。
「それで満足されたら、困るんだけど、な」
こふっ、と咳がこぼれる。
歩いているだけで息が上がり、肺が熱を持つ。
そのくせ、指先が冷えていくような感覚。
どうやら、自分に残された時間は本格的に少ないらしい。
人間として、少し満足してしまったからだろうか。
何かの糸が切れてしまったかのような感覚がある。
「まだ、終われない、っていうのにっ」
思うように動かない脚。
俯きがちになる顔を強引に引き上げ、空を見上げた。
透き通るように冴えた秋の夜。
満天に輝く星々を遮るものはなく、僅かに青みがかった闇の中で輝いている。
……ああ。
ああ、これだ。
足りなかったのは、これだ。
そう思った瞬間に駆け出し、すぐに足がもつれて地面に転げて。
無様に地面にうつ伏すと、思わず笑いが込み上げてくる。
「ははっ、は、ははっ!
こんな、こんなことで、これくらいっ」
がし、と地面を掴み、がばっ、と顔を上げる。
一度抜けた力が、戻ってきた。
帰るんだ。
描くんだ。
体の奥底から湧き上がってくる声に突き動かされ、立ち上がり、歩き出す。
歩きながら、頭の中で絵の具の配合を考える。
ああでもない、こうでもない、これなら。
そんなことを考えていれば、いつの間にかアトリエの前。
扉を開けるのももどかしく、部屋に転がり込むとそのまま絵の具を納めた箱へとすがりつく。
これだ、これじゃない、これと、これ。
箱を開け、中をかき回し、ひっつかむ。
パレットを引き寄せ、色を落とし。
そこで、ドアがノックされた。
誰だ、こんな時間に。
いや、こんな時間に来そうな人物が一人だけいた。
水を差され憮然とした顔を隠そうともせずに、ドアを開ける。
「マルダーニさん……なんだってんですか、こんな時間に」
予想通りそこには、マルダーニがいた。
いつもと同じ、いや、いつも以上に下卑た笑みで。
「なぁに、夕方に尋ねたら珍しく留守だったじゃないか。
だから改めて来たんだがね」
「なるほど、そいつは申し訳なかったですがね……。
別に今約束してるモノはないでしょう?」
だから帰れ、と言外に言いながら、ため息を吐く。
こんな会話をしている時間はないというのに。
「ああ、約束はしていないね。
だが、最近なにやら随分熱心に描いてるみたいじゃないか。
そいつを見せておくれ」
「は……? そりゃ、構いませんがね」
どうせ今から手を加えるのだ、見せるくらいなら構わないだろうと中に入れる。
遠慮の色を全く見せずに入ってくるマルダーニに内心呆れながら、絵の元へ。
それを見たマルダーニは、うんうん、と満足そうに何度も頷いた。
「こいつは中々良いじゃないか」
「中々、ね……。
そいつは誰にも似せてないんです、売り物にはなりませんよ。
それに、売る気もない」
そう言いながら、椅子に腰かける。
……早く帰ってくれ。そう視線に込めてもマルダーニはまるで意に介さない。
むしろ、それを楽しんでいる節すらあった。
にやり。
マルダーニの顔が、今まで見たこともない程に醜悪に歪む。
「誰にも似せてない、それが欲しかったんだよ。
だから、中々良いのさ、こいつは」
「……何だと?
どういうことです、そいつは」
色々と聞き捨てならない言葉に、思わず立ち上がる。
カッと頭に血が上りそうになるのを、必死に抑える。
「今度、王国主催のコンクールがあるのは知ってるだろう?
そいつに出展できて、入選くらいはできそうな作品を探している方がいらっしゃるのさ」
「なっ……それは、つまりっ」
「ああ、そういうことさ。
上手くいけばお前さんも安定した収入が得られる。
悪い話じゃないだろう?」
つまり。
貴族か何かは知らないが、誰かの代わりに描け、と?
そう理解すれば、もう抑えることなどできなかった。
「ふざけるな!!
これは僕の絵だ、僕の絵なんだ!
誰が、どこのどいつかもわからん奴のために!」
激高し、声を荒げる。
こんな奴のために、絵を描いていたのか。
金を受け取っていたのか。
自分の愚かしさに眩暈すら覚える。
しかし、殺さんばかりに睨みつけてくるセルジュを、マルダーニは不思議そうに見ていた。
「何を言い出すんだ?
金になるならいいじゃないか。今までよりも金払いは良くなるぞ?」
「そういう問題じゃない! それがわからない時点で話にならない!
マルダーニさん、もうあんたとはこれっきりだ、帰ってくれ!」
そう言って腕を掴み、引っ張る。
……だが、その腕は振り払われた。
中年を通り越して老人の域に入っているように見えるマルダーニの思わぬ力に、セルジュは目を見開く。
つまらなそうに眉をしかめたマルダーニは、芝居ぶった仕草でため息をついて。
「やれやれ、お前とは上手くやれてると思ったんだがねぇ。
だが、こっちにも都合があるんだ、その絵はもらっていくよ」
そう言いながら、セルジュへと手を向ける。
ぼんやりと、その手が魔力の光に包まれて……次の瞬間。
「なっ、が、はっ!!
は、げふっ、な、これ、はっ、ごふっ!」
立ちすくんでいたセルジュは急激な発作に襲われ、激しく咳き込みながらその場に崩れ落ちた。
今までにない痛みと呼吸もできない程の咳き込みに、涙が滲み頭が朦朧とさえしてくる。
そんなセルジュを、マルダーニは何の感情もなく見下ろしていた。
「なんだ、ちょっと病状を重くしただけでそれか。
手を下す必要もなかったか……まあ、些細なことだ。
さて、この絵はもらっていくよ。」
そう言うと、マルダーニは絵を絵を手にして立ち去ろうとした。
だが、その足に何かが絡みつく。
「返、せ……その絵、は、僕のだ……僕、の……ぐふっ、僕の、だっ!」
「……しつこいな……大人しく転がってろ、死にぞこない」
瀕死の病人とは思えない力でしがみつくセルジュを、少しだけ鬱陶しそうに眺めて。
老人とは思えない力で、蹴りはがす。
蹴り転がされたセルジュは、それでも上半身を起こし、にじり寄ってきた。
「かえ、せ……それ、は……ぼく、の……」
「いい加減にせんかね」
幽鬼のように怨念じみた表情で迫るセルジュを、やはり無表情に蹴り倒す。
再び転がったセルジュは、がつん、とテーブルの脚に頭をぶつけ、そのまま床に突っ伏した。
がちゃん、と何かが落ちる音がする。
もぞ、もぞ、と身じろぎはするが、もう向かっては来れないようだ。
「やれやれ、手間をかけさせおって。
ではな。もう会うこともないだろうがね」
ほんの微かにだけ苛立ちを滲ませながら。
ばたん、と扉が閉じられた。
……もぞり。
這いつくばっていたセルジュの体が動く。
かえせ。
かえせ。
小さくそう呟きながら、手を伸ばす。
もう、届かないとわかっていても。
諦め、きれない。
もぞり、もぞり。
体は、少しずつ前へ。
命は、急速に、下へ。
追い付けない。間に合わない。
理解は、しても。それでも。
伸ばした指先が、何かに触れた。
何度も触れた、指に馴染むそれは。
「パレット……? ……あ……」
色を作ろうとして、中断させられた、あのパレット。
さっきテーブルにぶつかった時に落ちたのだろう。
そうだ。
「そうだ……色、作らなきゃ……あの、色、を……」
混濁し始めた意識の中で、あの時見た色が浮かび上がる。
この色と、この色と……この色を、この具合で。
震える指先の感覚で加減しながら、混ぜ合わせ。
霞む目に見えたのは、差し込む月明かりに溶けて消えそうな、夜空の青。
「これ、だ……これを、あそ、こ……に……」
そうすれば、完成だ。
とさ……と、何かが静かに倒れ込む音がした。
そしてもう、何も、動かなかった。
それは唐突に訪れる。
そんなことは良く知っている。知りすぎというほどに。
それが慣れるということと同じではないことを、知らずに。
次回:青天の霹靂
その青を、忘れない。




