見えない形・見えるもの
マチルダの絵が完成した翌日。
レティの絵も、大詰めに差し掛かっていた。
……終わる。
確かな実感が、ある。
こうやって手を動かすその向こうに、完成形が間違いなくある。
それも、もう、後少し。
随分と、厚く塗り込めた。
自分の扱える技法を全て駆使して、知識を総動員して、画面を作った。
何よりも、自分があの時見たものを強く強くイメージして、筆に籠めた。
閉塞していた闇から解き放たれたばかりの、小さな小さな光。
それでも確かで、力強くて、でもまだ迷っている、光。
それは……自分の中の何かと重なって。
見える形にすれば、確かな形にすれば実体を持って解き放たれる。
そんな気がした。
自分がそれをやるのはおこがましい気もするが、自分にしかできない気もした。
何よりも、自分のために。それを、形にしたかった。
けれど。
声をかけて、承諾されて、こうしてモデルとして向き合って。
彼女の人柄と、側にいる少女と。
彼女の世界を短い間ながらに垣間見て。
……自分の周囲も少しだけ変わって。
イメージが少しだけ、変わった。
それを塗り込めた画面は、まだ暗い、けれど。
ほのかに、それでも前よりも強い希望を内包していた。
「……今日は、ここまで、ですね……」
ふぅ、と大きく息を吐き出す。
目を閉じて目の間を揉むことしばし。
ゆっくり、と時間をかけて、光に馴染ませながら目を開く。
しばし、画面を眺めて。
うん、やっぱり。
一人、頷く。
「……師匠? ここまで、ってことは……まだ完成じゃないんですか?
……これで??」
今日も今日とて、模写をしたり見学をしていたエリーが、恐る恐る声を掛けた。
改めて画面を見て、モデルのレティを見て、セルジュを見て。
もう一度、絵を見た。
……これ以上、どこに手を加えるというのだろう。
毎日毎日、少しずつ完成に向かう所を見てきたから、その衝撃に打ちのめされることはないものの。
初見で見れば、間違いなく立ちすくむであろう恐怖にも似た情感。
恐れでもあり、憧れでもあろうその感情は、きっと畏怖と呼ばれるもの。
そして、その先に見える微かに輝く何か。
それらは、ゆっくりと重く、じわじわと、それでいて優しく。
胸の奥をぐっと押し込んでくるような感覚を覚える。
これでまだ、完成ではない、というのか。
「そう、なんですよねぇ……。
エリーさん、この作品のタイトルを覚えてます?」
困惑しているエリーへと、セルジュ自身、困ったような顔で問いかけた。
「え、はい、『これから』でしたよね?」
「そう、『これから』、なんです」
そう言いながら、作品へと目を向けた。
これが自身の最高傑作だと間違いなく胸を張れる。
けれど、まだ何かが、足りない。それも間違いなくて。
「『これから』、なんですけど……いや、だから、かな。
これから、は描けていると思うんです。
だけど、その前……現在や過去が、何か、足りない」
言われて、もう一度画面を見直した。
……正直なところ、実感はまだない。
けれど、師匠であるセルジュが嘘を吐くはずもない。
ならば足りないのだろう、この画面の中には、現在が。過去が。
「これで、足りない……十分な重みを感じるように思うのですけど……」
「正直、自分でも十分な気もしているんですけど……何かが、引っ掛かる。
そんな状態、ですね」
苦笑しながら、顔を上げる。
いつもの穏やかな目でエリーを見つめると、ゆっくり、語り掛けるように。
「……エリーさん、覚えていてください。
絵が完成に近づいた時には、何かが足りなくないか、を常に問いかけ続けること。
受け取る側でなく作り出す側になる時に、それは必要になります」
そして、それはきっと永遠に終わらない。
本当の完成など、それこそ神にしかわからないのだろうから。
その言葉の重さを、受け止める。
自分が踏み込もうとしている世界は、そういう世界だ。
わかってはいた。
だが、今こうして、自分ではこれ以上どうしようもない作品を目の前にして、まだ未完成と言われるとその重みが一層増す。
ゆっくり、それを飲み込んで。こっくり、頷いた。
「はい……まだ私では、完全にはわからないと思いますけど……心に刻み込みますっ」
それが、弟子として。
この場に居合わせた、絵を志すものとしての責務だと、そう思えた。
「……これで、まだ未完成……」
二人の会話を邪魔しないよう黙っていたレティが、そう呟きながら絵を覗き込む。
しばし眺めると、ほぅ……とため息が零れた。
この中にいるのは、間違いなく自分だ。
写実的な絵柄と超絶的な技巧が入り混じって、間違いなく自分だと断言できる横顔。
それでいて、少しだけ自分と違う。
絵の中の自分は、少しだけ……一歩、あるいは半歩だけ、前にいる。
なんとなく、そう思った。
こうあるべき。こうあって欲しい。
祈りにも、あるいは願いにも似た感情が伝わってくる。
それが、中の自分に込められていた。
「まだ、未完成……か……私は尚更、だね……」
ならば、自分の完成形とは?
その疑問に答えられる自分は、まだいなかった。
三者がそれぞれに絵について語り、あるいは思考しているところに、ドアがノックされた。
「セルジュ、そろそろ大丈夫かい?
ああ、イグレットちゃんにエリーちゃんもまだいたのかい、お疲れさん。
どしたい、三人して辛気臭い顔して」
そう言いながらマチルダが入ってくる。
「ああ、マチルダいらっしゃい。
丁度今、一区切りついたところでね」
セルジュが苦笑しながら答えると、マチルダは訝し気な顔になり、近づいた。
「一区切りって、まだ終わってなかったのかい?
……これで?」
やはり漏れるのは、同じような感想。
それから、すぐに苦笑が漏れて。
「凝り性なのは相変わらずだねぇ……あんたらしいっちゃらしいけど。
……はぁ、やっぱりイグレットちゃんの方が絵になるねぇ」
絵を見つめた後、そう、ぼやく。
コンテスト用のものとプライベートなもの。その違いはあるけれど。
やはりこうして見ると、そう思ってしまう。
「まあまあ……君の絵だって中々だと思うよ?」
そういうと、立ち上がって奥へと引っ込む。
しばらくして持ってきた絵は。
「は? ちょっと、何この額縁、絵みたいじゃないさ」
「いや、絵じゃないか。ちょっと奮発してみたんだけど、どうかな?」
「どうかな、って……」
そう、絵だった。
いつものアトリエで見ていた製作途中のそれではなく、まるでどこぞの貴族の家にでも飾られているような、立派な、絵だった。
昨日完成直後を見た時でも十分に出来が良く見えたが。
こうして額縁に縁取られると、この世界から一瞬切り離されて別の世界を覗き込んでいるようにも感じられて、のめりこみそうになる。
そしてそこから垣間見る世界は、とても……照れくさい。
また、若い二人に見られてしまうのも、さらに恥ずかしかった。
その若い二人は、食い入るように目を見つめている。
レティの絵とは違う、シンプルにも見える絵。
マチルダがモデルとなり、セルジュが描いたその世界が見せるものは。
「……愛、ですね」
「なるほど……これが、愛」
「ちょっとやめとくれ、二人とも!」
薄々どころでなく気づいていたことを直球で突きつけられ、真っ赤になって声を上げる。
困ったように、怒ったように。……ほんのり、嬉しそうに、誇らしげに。
描き上げた当の本人もまた、困ったように照れくさそうに。
しかし、否定もせずに、その光景を見ていた。
笑い、語り、食卓を囲む。
ありふれた、あまりにありふれた当たり前の光景。
それは、人としてなら当たり前に。
次回:ここから永遠に
ならば、それに背を向けた自分は。




