輝く日々の、儚さは
そうして、絵を描くことに没頭する日々が始まった。
マチルダが来るから、二日に一度はまともな食事にありつける。
エリーがじっとこちらの筆遣いを見つめてくるから、弛むこともできない。
レティが微動だにせずモデルを務めてくれるから、応えないわけにはいかない。
……充実、していた。
そのせいだろうか、筆も軽い。
イメージが良く浮かび、作る色もぴたりとはまり、思ったところに色を置ける。
全体を見渡してバランスもとれて、それでいて細部の描写に不足なく。
間違いなく、今までで一番スムーズに進行していた。
そして全体のバランスを見渡しながら、細部の描写も不足なくできている。
勢いに乗っている、とはこういうことだろうか。
そうして作り上げられていく世界は、実に。
「はぁ……今日はまた一段と凄く……昨日も凄かったですけど、さらに完成度が上がってますね~……」
今日はここまで、と筆を置くと、エリーが覗き込んできた。
一息ついて少し呼吸を整えると、改めて自分の描いたものを眺める。
……うん、と一つ頷いた。
「そう言ってもらえると嬉しいですね。
我ながら……ここのところ、実に筆が乗っています」
こうして改めて見ても、良い調子で来ている。
描きたかった世界は、もうほとんどそこに見えていた。
「……ちょっと前から思っていたのだけど……これ、どこまで塗ったら完成になるの?」
軽く体を解しながら覗き込んできたレティが、不意にそんなことを訪ねてきた。
ふと考え、困ったように肩を竦める。
「極端な話、完成はないのかも知れません。
塗ろうと思えばどこまでも塗れますから。
基本的には、自分が満足するまで、ですね。
今回はコンクールの締め切りもありますから、そんなことはできないですけど……」
塗り重ねることができる油彩では、塗った色の上にさらに色を塗ることができる。
そうやって厚みを出すことで独特の質感を出すこともでき、それを求めて相当に塗り重ねる画家もいるくらいだ。
セルジュの今回の絵は、そこまでの厚みは求めていない。
「多分、ですけど……後、二日、いや、三日でほぼ終わりが見えると思います」
もう、ほとんど見えていた世界は、描きたかった世界はそこにあった。
けれども、まだ足りない。まだ、十分ではない。
ここから先は、もうほとんどニュアンスの問題。
自分の感性と照らし合わせて、ほんの少しの狂いを調整していくような作業。
それでも、今の自分なら。
きっと、満足のいくところまで、描くことができるはずだ。
「もう、後それだけ、なんですね……。
なんだか、あっという間、でしたね……一月近く経っているのに」
作業に没頭し始めて、レティの絵とマチルダの絵にそれぞれ10日以上使っている。
たった一月、されど一月。
二人の絵は見事な出来栄えを見せていて。
その間に、エリーの絵も随分と上達した。
今は、色を乗せる練習すらするようになっていて。
この濃密な一月が、それらの絵に詰まっていた。
「もう、そんなになりますか……。
お二人には、後少しだけお付き合い願います。
どうか最後まで……お願いします」
懇願のようなセルジュの言葉に、二人してこくりと頷く。
「……ここまできて、今更。
私も、完成が楽しみだし……」
「もちろんです。師匠の絵を、最後まで見届けさせてもらいますから!」
……ああ。
あの時、声をかけて、良かった。
本当に、良かった。
きっと、満足するものが描ける。
「お二人とも……本当に、ありがとうございます」
まだだ、まだ、終わりではない。
それでも、目が潤むのを止めることができなかった。
そうして、二人が帰って、いつもの、一人の夜。
「ぐふっ! かはっ、あ、がっ! は、はっ、かはっ!!」
一人咳き込む、いつもの夜。
昼間は、薬のおかげか抑え込めている。
それでも、徐々に昼間でも肺がじくじくと熱を持っているのを感じる。
夜、こうして咳き込むときの肺の痛みが増しているようにも感じる。
時間も、長くなっているように感じる。
何よりも、収まった後にこうして転がっている時の虚脱感が一層酷い。
「ああ、もう……後、少しなんだから……大人しくしててくれないかな……」
ぼんやりと見上げる天井は、見慣れぬ高さ。
遠く遠く、手も届かないような場所に見えて。
自分が地の底へ沈もうとしているかのように、思えて。
あがくように床を掴み、逃げ出すように身を捩る。
まだだ。
まだ、なんだ。
まだ、沈むわけにはいかない、んだ。
「そんなこったろうと思ったよ、この唐変木」
不意に、聞こえるはずのない声が聞こえた。
床に這いつくばりながら、のろのろと顔をあげる。
驚きで顔が強張り、何か言おうと、口が震えるが、言葉が出ない。
「ああ、いいよ、しゃべんなくても。
何であたしがここに、って言いたいんだろ?
そりゃ、さ。元とはいえ夫婦やってたんだ、察することもあるだろ?」
エリーちゃんやイグレットちゃんにはわからなかったみたいだけど、と少し得意げに。
少し悲し気に、笑う。
「ほれ、肩貸しな、ベッドまで行くよ。
止めらんないことは、わかっちゃいるからさ……せめて、少しでも体を休めなよ」
力の入らない体を、支えられる。
たくましく、なっているな、なんて場違いなことを考える。
自分は……思っていたよりも、痩せていた。
力の入らない体、支えられればまだ、歩けた。
「……すまない……こんなこと、まで……すまない……」
うわごとのように呟きながら、なんとかベッドまでたどり着く。
冷たく硬い床に比べて、かび臭くてもまだましで。
ふぅ、と吐息をこぼした。
「薬はあるのかい? ……ああ、そこに入れてるのかい、持ってくからそのまま寝てな」
こんなに目端が利いていただろうか。
てきぱきと世話を焼く姿に、そんなことを思う。
……やはり、若かった、のだろう。
だからこそ、のであり。
今だからこそ、でもあり。
それは、言っても詮無きことでもあって。
過ぎ去った日々を、ただ懐かしむことしかできない。
「ほれ、口開けて……こぼすんじゃないよ?」
抱きかかえられて、薬を飲まされて。
発作が収まっていたこともあってか、水が体に染み込み、薬効も利いているように思えた。
「ああ……すまない、本当に……」
「馬鹿だね、こういう時はありがとうってんだよ」
ぽん、と頭を叩かれた。
優しく、悲しい柔らかさだった。
何もかもを見透かしている、目だった。
「……ああ、ありが、とう……」
「ほれ、もう寝ちまいな。
……明日はあたしを描いてもらうんだから、さ……」
言いたいことは、ある。
でも、それを飲み込んで。
そっと、寝かしつけるように撫でていた手が、はしっと握られた。
気づいて見やると、縋りつくように揺れる瞳があって。
「馬鹿だね……こんな時間に来てんだ、そのつもりだよ」
苦笑を漏らして。
ゆっくりと、二人の影が重なった。
生老病死。
人はその四つの苦しみから逃れることができぬという。
苦しみもがき、あがくその営みは、それでも無駄ではありえない。
次回:Wouldn't it be loverly ?
あなたは私にとって永遠の。




