そしてそこに顕れる世界
筆が、踊る。
時に啄むように刻み、時に大胆に塗り付けて。
彼にだけ見えていた世界が、画布へと表現されていく。
決して、明るい世界ではない。
むしろ、鬱蒼としてさえいるような、雑然として暗い室内。
だけれど、そこに窓から差し込む光の柔らかさと暖かさ。
照らされたその先に座る少女は、穏やかでありながら力強い瞳で窓の外を見つめる。
そう、外へと、向かっている。
閉じ込められているかのような狭苦しい部屋。
雑然とした室内、あちこちにちらばる雑多で粗雑な物たち。
それでも、少女は汚れることなく、萎れることなく、外を見ている。
「……これが、絵、なんだ……」
集中しているセルジュの邪魔にならないように、エリーは小声でつぶやく。
それは、どこか叫びにも似ていた。
彼の思う世界を。
こうなんだ。世界はこんなにも。
それを訴えかけていくような、筆遣い。
……正直なところ、怖さすら感じる。
それでいて、切なくなるほどの悲哀も感じる。
言葉にできない思いが、絵に込めるしかない何かが、こんなにもあるものか。
それを、間近で叩きつけられている。
目を離してはいけない。
そう、思った。
『今までは、全然本気じゃなかったんだね……』
レティは、そんなことを心の中で呟いていた。
目の前にいるのは、セルジュだ。
そのはずだ。
だが、まるで見たことのない彼だ。
何かに憑かれたように一心不乱に筆を動かす彼から叩きつけられる、狂気にも似た熱情。
幾度も、彼の技量には驚かされてきた。
しかし、今見せつけられているこれは、そんなものを遥かに凌駕していた。
技量、だけではない何か。
それは旅に出てからしばしば感じるものでもあり。
今こうして叩きつけられていて。
……とても、まぶしかった。
いつか。
いつか、自分にもそんなものを身に着けることができるのだろうか。
……身に着けたい。
それは、自然と生まれてきた欲望だった。
筆が動く。
止めるつもりもないが、動かそうと思う前に、動いている。
色が、考える前に選択されて、置かれて。
それが思い通りだったことに、後から気づく。
それは描くというよりも、そこに在るべきものを、当たり前に取り出す作業。
まるで初めからそこにあったかのように、存在が切り出されていく。
何度も何度も構想を練っていた。
頭の中で試行錯誤を繰り返して、世界を作り込んでいた。
それが今、形を成していく。
あるべきはずの場所に、あるべき姿を取り戻していく。
光あれ、という言葉とともに神は世界を作ったと、訳知り顔に説教する神官がいた。
だったら、僕はこの世界に光を作ってやろう。
この、僕だけの、僕が作る世界に。
……ああ、いや。
僕だけが作るんじゃない。
モデルの彼女と。……横で真剣に作業を見つめる弟子と。そして、僕で。
孤独な世界、だと思っていた。
ずっと一人で作業して、一人の世界で、一人で完結するものだと思っていた。
けれど、彼女たちに出会って、色々と騒ぎながら、時に集中しながら。
誰かとこうして共に作る世界は、とても眩しかった。
『……ああ……終わりたくないなぁ……』
描き上げれば、終わってしまう。
それでも、手を止めるわけにはいかない。
終わらせよう。
そして、また始めよう。
きっと大変だけれど、良いことばかりではないけれど。
それでも、その向こうには何かが待っている。
湖畔で見かけた少女の瞳に見えたもの。
今こうして画布に描き出した少女の瞳が訴えてくるもの。
きっと、求めていいのだろう。
何者かになる未来を。
何かを得る幸せを。
そのために始めることを。
始めるのだ、ここから。
いつの間にか、涙ぐみながら。
万感の思いを筆に込めて、画布に塗り付けていった。
どれくらい時間が経っただろうか。
部屋に差し込む光が、淡い赤を帯び始めて。
色合いが変わってきたことに気づいたセルジュが、筆を止めた。
「……今日は、ここまでにしましょう。
イグレットさん、お疲れ様でした」
そう告げると、肺に溜まっていた空気を大きく吐き出す。
椅子の背もたれに体を預けると、どっと疲れが襲い掛かってくる。
……疲れた。
正直、かなりしんどい。
だが、身体に反して、心は満たされていた。
描けた。
自分でも怖いくらいに、思うがままの世界が描けた。
ちらりと見やったその絵はまだまだ未完成で、全てを表現しきってはいないけれど。
見えている完成形は、間違いなくこの先にある。
……いや、見えていた完成形よりももっと高いところに行ける予感がある。
絵の具を乾かす明日がもどかしく、乾いた明後日が待ち遠しい。
こんなにも絵を描きたくて仕方ないのはどれくらいぶりだろう。
ぐったりと、しかしうきうきとしているセルジュに反して、レティとエリーは神妙な面持ちだった。
「う、うん……セルジュこそお疲れ様……じゃあ、続きは明後日に……」
「お疲れ様でした、師匠!
あ、あの、肩でもお揉みしましょうか? それとも何か飲み物でも作りましょうか!」
「いやあの、なんですか、二人とも。別に大丈夫ですよ、うん」
あまりにも……よそよそしいというか、なんというか。
普段と違いすぎる距離感に、セルジュの方も面食らう。
彼にとっては当たり前……いや、彼にとっても中々お目にかかれない集中と熱意。
それに二人はすっかり当てられていた。
「いやでも、何か、何かしたいんです!
あ、やっぱりお金払ったほうがいいですか!?」
「いやだから、なんでそうなるんですか……しっかりしてください」
完全に動転してしまっているエリーに、苦笑するしかなかった。
その光景は鮮烈で眩しくて。
それだけに、終わった後の空しさもひとしおで。
それを反芻しながら帰る道は。
次回:愛き夜の語らい
何でもない、愛しき夜に。




