すでに、懐かしいあの日
「このまま、一度乾かしてしまいます。
大体一日くらいで乾きますかね……だから、明日は別の『生活用』の絵でも描こうかと。
お二人はお好きにしていただいていいですよ」
そうセルジュから言われ、二人は顔を見合わせた。
何か目で訴えかけるようなエリーに、レティは苦笑しながら頷いて見せる。
「あの、明日も来てもいいですか?
お邪魔しないように横にいますから、描いたり拝見したりしたいのですが……」
「……何となく、そう言うんじゃないかと思ってました。
もちろんいいですよ。あまり構えないかも知れませんけどね」
そう、嬉しそうに笑った。
日も傾き始めてきた頃に二人が帰っていき、それを見送って、扉を閉める。
……今日は、発作はまだ出ないらしい。
どうにも、気分が良い。
今日は筆が乗っていた。
まだ形にはなっていないが、この荒塗りの向こうに、完成する絵のイメージが見える。
もっと描きたくてしかたないのだが、一度乾かないことにはどうしようもない。
「今日はここまで、ってわかってはいるのだけど」
椅子に腰かけて、今日塗り始めた絵を、じぃっと見つめる。
もどかしい。
焦れる。
乾くのが待ち遠しい。
頭が、心が、身体が、早く描かせろと騒いでいる。
イメージが次から次へと湧き出し、こう描こう、こう塗ろうと指が勝手に動く。
もっと、もっとだ。
もっと湧いてこい、もっと飢えろ、渇望しろ!
その全てを、塗り込めてやる!
ギラギラとした、欲望にも似た何かに身を任せ、絵を見つめていた時だった。
コンコン、と不意にドアがノックされる。
「こんな時間に、誰が……?
はいはい、ちょっと待ってください」
思考が中断され、我に返る。
ああ、いいところだったのに、と頭を掻きむしりながら重い足取りで扉に向かい、開けた。
「マチルダ……どうしたんだい、こんなとこに」
「何さ、元亭主の顔を見に来るくらい構わないだろ?」
そこに立っていたのは、マチルダだった。
手には、大振りのバスケットを持っている。
「そりゃ、構わないけど、ね。
なんだい、その荷物」
「……あんた、どうせまた碌に食べてないんだろ?
何か腹に入れないと倒れちまうよ。ほら、入れとくれ」
セルジュの顔を見ながら、呆れたような声でそういうと、ぐいぐいとバスケットを押し付けるようにして中に入ろうとする。
……この前見た時は、死にそうな顔をしていた。
今日は、少しだけましだが、それでも顔色は良くない。
この男は、相も変わらず、と小さくため息を吐いてしまう。
そんなマチルダに押されるように、部屋へと入られた。
考えてみれば断る理由もないのだが、先日の別れ方を考えると、若干、気まずい。
「相変わらずごたごたしてるね……ん? これは」
中に入って呆れたように部屋の中を見回したマチルダが、ふと一枚の絵に目を止めた。
つい先程までに塗っていたのであろう、まだ鮮明な匂いの残るそれは、不思議な存在感を放っていて。
「ああ、それが今取り掛かってる絵なんだ。
……今度のコンテストに出そうと思って、ね」
マチルダの視線に気づいたセルジュが、そう応える。
若干照れくさそうに、頭を掻きながら。
それでいて、どこか自信を滲ませているようにも見えて。
「ふぅん……なぁに、若くて綺麗なお嬢さん前にして、鼻の下伸ばしながら描いてんじゃないでしょうね?」
……ばしんと、ちょっと強めに背中を叩いてしまう。
予想外のそれに若干咳き込み、涙目になりながら恨みがましく見つめ。
「そんなんじゃないよ、知ってるだろ?
そんな歳じゃないし、そんな気もないし、そんな性格でもないし」
「ああ、知ってるよ。よっく知ってる。
……いやんなるくらいに、よっく知ってるさね」
明るく笑って返して。一瞬、沈黙。
視線を落とすと、陰りのある笑顔でため息をついた。
着ている服はよれよれで、洗濯も適当だ。
サイズが、だぶついているようにも見える。また痩せてしまったようだ。
「あんたにとって絵が一番って、よっく知ってる。
……自分の命すら、二番目かそれ以下だって。
だからどうせ、また食べてないんだろうってね。
余計なお節介のお返しだよ」
「マチルダ……その、すまない」
「なんだい気持ち悪いね、あんたが殊勝なとこ見せるなんて」
かつての自分はそうだった。
マチルダも生まれた子供をも顧みることなく絵に没頭し、生活なんて二の次で。
息子が病で死にかけた時すら、そうだった。
……きっと、今もそうだ。
だから、離れることにして正解だったと思う。
そうでなければ、きっと今、こうして笑いあうこともできていなかった。
「そういえば、テオは元気にしてるのかい?」
「ああ、おかげさまで、こないだ良いもんも食わせてやれたしね。
……ほんとに気持ち悪いね、父親みたいなこと言って」
「いや、父親だよね、僕。
確かに、ちっともらしくなかったけど、さ」
あの日々は、決して良い日々ではなかったのだろう。
それでも、こうして振り返ってみれば悪いばかりでもなく、懐かしくすらある。
戻ることはできず、戻るつもりもないけれど。
「まったくさね、急に父親ぶるから、かえって心配になるよ。
ほら、台所を貸しとくれ、さっさと準備しちまうから」
「ああ、うん、そっち、勝手に使ってくれて構わないよ」
示された方へとバスケット片手に向かい、中を覗き込んだマチルダが顔をしかめる。
「なんだいこりゃ。掃除からしなきゃいけないじゃないさ」
「……長いこと使ってないね、そういえば」
「そんなこったろうとは思ってたけど、その通りすぎて呆れるね」
バスケットを一度置くと、袖をまくりながらもう一つため息をつく。
この分だと、食事を作るだけでも随分とかかりそうだ。
「いや、掃除までしてもらったら遅くなるだろう?
さすがに悪いよ、自分で何とかするからさ」
既に日も落ち、それなりの時間。
そこまで治安の良いわけでもないこの辺り、遅い時間に返すわけにはいかない。
そう止めたセルジュに、意味ありげな視線を向けて。
「気にしなくていいよ、ばあちゃんに今日は泊まるかもって言ってきてるから。
……構いやしないだろ? 元亭主と元女房なんだから」
その表情は、見覚えのあるもので。
「ああ、まあ、その。
……うん、構わないけど、さ」
煮え切らないようなセルジュの返事も、かつて馴染んだものだった。
朝が来る。どれくらいぶりの朝だろう。
朝日と食事。当たり前が、今当たり前に目の前にあって。
それは、随分と懐かしい。
次回:人間の、目覚め
目覚めるのは、身体だけか。




