白と黒は灰色か
……どれくらい時間が経っただろうか。
窓から差し込んでくる日差しは傾き、赤みを帯び始めていて。
手元には、3枚目の絵が描きあがっていた。
「今日はここまでにしておきましょうか」
そう、セルジュが声をかけた。
彼自身は、10枚を越えるスケッチを終えている。
「あ、は、はい……わかりました」
画面へと向けていた手を止めて、木炭を置いた。
ふぅ、と息を吐き出すと、どっと疲れが襲ってくる。
……疲れた。
肉体的には大したことはないのだが。
各種情報処理回路が悲鳴を上げていたことに、今気が付いた。
没頭、していた。
苦戦、していた。
そして、きっと、楽しかった。
気怠くぼんやりとした頭で、そんなことを思う。
「エリー、お疲れ様。
……私も、流石にちょっと疲れた……」
モデルとして座りっぱなしだったレティが、腕を、背筋を伸ばしてストレッチを始めた。
……何時間、ああして座っていただろうか。
ほとんど微動だにしていなかったけれど、あの程度の疲労感で済むものなのだろうか。
若干、驚愕を滲ませた目で我がマスターを見やる。
言葉通りにちょっとしか疲れていない様子を見て、セルジュもどこか得体の知れないものを見るような色がほんのりあった。
「いやいや、イグレットさんもお疲れ様でした。
予定よりかなり長くなってしまって、申し訳ないです」
「……ううん、それは、構わない。
……エリーも楽しそうだったし、ね……」
食い入るように見つめられていた。
自分を描こうと必死になっていた。
……そんなエリーが、可愛かったのは内緒だ。
当のエリーは、納得のいっていない顔で、自分の描いた絵を見つめていた。
「……どうしたの、エリー。
そんな難しい顔しちゃって」
「うう、レティさぁん……見てください、これ。
前よりは上手く描けたと思うんですけど、けどぉ」
そう言いながら見せてきたその絵は、最初の絵からさらに上達していた。
間違いなく、上手と言っていいだけの絵が描かれている。
……若干、美化されているような気がしなくもないが。
「上手だと思うのだけど……。
……私がこんなに美人かどうかはおいといて……」
「何言ってるんですか、こんなんじゃないんです、もっと美人なんですよぅ!」
「……さすがにそれは、贔屓目が過ぎるんじゃないかな……」
そう言いながら、絵を見る。
画面に描かれている、自分。
自分で思っていたよりも、表情があった。
穏やかで、柔らかな表情。
鏡に向かった時に、こんな表情をした記憶はないのだが。
……エリーに向かって、だからだろうか。
ふと、そう思ってしまって。
柄にもない、と思いながら、かすかに紅潮してしまうのを抑えられなかった。
「ん? レティさん、どうかしました?」
「……ううん、なんでもない……。
でも、本当に上手だと思うのだけど、ね……」
「ええ、上手なことは私も太鼓判を押します。
……まあ、どこに不満があるか、も大体わかりますが……そこは、これからエリーさん自身が乗り越えないといけないところですからね」
ひょい、とセルジュが絵を覗き込んだ。
彼から見ても、比較的正確に捉えられていると言える絵だ。
もちろん、まだまだ磨かないといけないところばかりでもあるのだが。
途中まで、具体的なアドバイスを送っていた。
だが、ここからは自分で考えるべきだと思えるところまでたどり着いてきて。
そこから先は、問いかけるようにして、答えを考えさせた。
……わずか一日でここまで描けるようになるとは思わなかった。
技術的にはまだまだだが、それは時間が解決してくれるだろう。
もっと大切な……絵にどう向き合うか、どう考えるか。
そういったところを、かなり吸収してくれたように思う。
「うう、ありがとうございます、がんばりますぅ……。
もっと、もっとレティさんを綺麗に描きたいんですぅ」
そのモチベーションの高さは、とても好ましいもので。
そして、とてもまぶしくて、少し痛いもので。
泣きべそをかきそうな声音で言われると、さらに刺さってくる。
「……これ以上綺麗に描かれると、恥ずかしくて死にそうになるんじゃないかな……」
「そんなことないです、もっと、もっと綺麗なんですよぅ!」
……もしかしてこれは、惚気られているのかな?
ふと、そんなことを思ったりもしながら。
「では、また明日、今日と同じくらいの時間にお願いします」
「ん、わかった……。では、また明日」
「はい、また明日もよろしくお願いします、師匠!」
しばらくして、エリーが立ち直ると帰り支度を整え、アトリエを後にする。
……セルジュの書いたスケッチは、大半エリーがお持ち帰りだ。
セルジュからしてみれば、レティを捉えるための練習でしかなかったものが、エリーにはお宝になる。
得てして芸術とはそういうものだが、改めてなんとも愉快というか不思議な気分だ。
「ええ、では、また明日」
そう言って笑顔で手を振り、 二人を扉の前で見送る。
やがて二人の姿が見えなくなり、扉を閉めて……がくり、と膝をついた。
ごふっ、げふっ、とため込んでいた何かをあふれ出させるように、咳き込んでしまう。
どれくらい、咳き込んでいただろうか。
スケッチの疲労と、それを上回る発作の疲労で、ぐったりと床に這いつくばって。
切れ切れの呼吸、息苦しくて、ごろりと仰向けになって。
もう、何度目だろうか、こうやって天井を見上げるのは。
段々、段々と回数を重ねるごとに天井が遠くになっていくような感覚。
もう少しだけ、待っていて欲しい、のだが。
掴み止めようと、手を伸ばす。
その伸ばした手をしばし見つめて。
……ああ、やっぱり、薄汚れた手だ。
そんなことを、ふと思う。
だがどうやら、それだけでもなかったらしい。
今日、彼女に色々なものを伝えられた。
それだけでも、この薄汚れた手に意味はあったのだろう。
一心不乱に絵に向き合う彼女は、眩しかった。
少しだけ、うらやましかった。
あんな頃が、自分にもあった。
彼が師匠と仰いだ画家も、同じような奇跡を見せてくれた。
白だけの世界に、黒を加えただけで輝き広がる世界。
それに魅了されて、この道へと進んだ。
「……大分、思っていたのとは違っちゃったけど……。
案外、悪くもないのかな……」
そう、一人呟く。
もちろんそれは、誤魔化しでしかないけれど。
自分の絵は、汚れてしまった。
表だけを取り繕って、中はすっかりと。
そう、思っていた。
だけれど、そんな自分の絵を見た彼女たちの反応を思えば。
悪くもないのか、とも思えてくる。
「……描かないと。描くんだ……僕は、僕を」
弟子のために。
何より自分のために。
まだ力の戻らない体と頭で、ぼんやりとそう思った。
触れた世界は魅力的で、飛び込んだら刺激的だった。
初めての感覚に高揚し、至らなさに落胆する。
それは、望むからこそであり。
次回:その筆に、載せるもの
きっと、渇望するだけの価値がある。




