お絵描きの時間
「こんにちは、お邪魔します~」
「こんにちは」
あれから。
ふらふらになりながらもアトリエへと帰りつき、ベッドに倒れこんで。
気が付けば、日がそれなりに高くなっていた。
慌てて適当に転がっている食べ物を口に入れ、水で流し込んで。
そうこうしているうちに、エリーとレティの二人がやってきた。
「やあ、ちょうどいい時間ですね、お待ちしていました」
なんとか身繕いを済ませて扉を開けた。
にこやかな表情を作るセルジュを、二人は見つめて、しばし。
「……もう少しゆっくり来た方が良かったですか?」
気遣うようなエリーの言葉に、がくり、と肩を落とす。
この程度で誤魔化せる相手ではなかったらしい。
ともあれ、扉を開けてしまったのでは仕方がない。
二人を室内に招き入れ、窓辺へと案内する。
「わぁ……ここ、良い眺めですね~!」
エリーが、お世辞ではなく心からそう言う。
そこは、あの湖が一望できる場所。
昼過ぎの、やや傾き始めた日を受けて、少しだけギラギラが大人しくなった湖面。
鏡のように穏やか、と思えば、時折風が吹き、波を起こす。
刻一刻と、違う表情を見せる水の鏡を、しばし見つめて。
「……私は、ここに座ればいいの?」
窓際に置かれた椅子を指し示しながら、レティが尋ねる。
「ええ、そこに座ってもらって、あちらの湖の方を見つめていて欲しいんです」
レティの言葉に頷くと、椅子に座ることを促すように手を向けて。
あっさりとそれに頷き返し、すとん、と椅子に収まった。
「……あの、イグレットさん。
もう一度、立ち上がってもらって、座ってもらっていいですか?」
その様子を見ていたセルジュが、いきなりそんなことを言い出した。
はて、と小首を傾げながら、「いいけど」と、言われた通りに立って、座る。
食い入るようにそれを観察していたセルジュが、ため息を吐いた。
「……どうやったら、そんな風に動けるんですか?
淀みなく滑らかで、身体が一切ブレない。
絵に描いたような座り方って、なんですか一体それ」
呆れと興奮のないまぜになった声と表情で、そう尋ねる。
そう、呆れて、興奮していた。
こんな風に動ける人間を、見たことが無い。
こんな、操り人形のように滑らかに無駄なく、そして重力から解き放たれているような。
こんなものを見せられて、刺激を受けない画家はいない。
ああ、この動きを絵に塗り込められたらいいのに!
そんな、理不尽な欲求さえ生まれてしまう。
「どうやったら……。
……練習?」
気が付いたらできるようになっていた。
というか、できるようになっていたことを、意識していなかった。
自分がどう動くか、など考えたこともなかった。
「……練習、でどうにかなるようなものだとは思えないんですが……」
「ですよねぇ、私もいっつも不思議に思うんですけど……」
多くの戦士たちを見てきたエリーにさえ、レティの動きは特異に見える。
極限まで無駄をそぎ落としたその動きは、機械的でありながら、確かに生きた人間のもので。
どうにも、違和感がぬぐえないところは正直あった。
「二人してそんなこと言われても……。
私には、これが普通だし」
それもまた、正直なところだ。
確かに過酷な訓練ではあったのだが。
……他人の訓練などを見たことが無かったため、それがどれくらいのものだったかが、わからない。
リタに言わせれば「あれは人間の所業じゃない」とバッサリだったりはするのだが。
「とりあえず……絵を、描くんでしょう?
私は、座ってるだけでいいの?」
若干だが、拗ねたような声音。
もう一度すとんと座ると、セルジュへと問いかけて。
「ああ、すみません。
ちょっと待ってくださいね……。
はい、それでは、横を向いて、湖の方を見てください」
慌てて紙を止めた画板をイーゼルに立てかけると、木炭を持ち、指示を出す。
言われた通りに横を向いたレティをじぃ、と見つめて、彼女の形を捉えていく。
……捉えていて、ふと気づいたように声をかける。
「あの、呼吸はしてくださいね?」
「え……してる、けど……」
あまりに、微動だにしない様子が心配になって、声をかける。
かえってくるのは、極めて普通の声。
息を止めていた後の、息切れのようなものがまるでない。
……どうやら、そこまで身体のコントロールができるらしい。
「本当に、あなたにモデルをお願いしてよかったですよ……」
あまりに理想的過ぎるモデル。
あまりに興味を喚起させられる存在。
そんな存在が、こちらの言うことに素直に従い、座っている。
……ここから、彼自身が見出した何かを、もう一度取り出すのだ。
見えていなかったものを、見出すのだ。
その挑戦は、実に甘美な陶酔を与えてくれた。
酔いしれるままに、木炭を動かす。
真っ白だった用紙に、線が引かれていく。
最初は、素人には意味が分からない線。
ざく、ざく、と刻み込まれるような音。
音が止まれば、じぃ、と見つめる視線。
外側だけでなく、内側まで見透かされるような、どこか得体の知れない視線。
もしかして、自分を今捉えようとしている彼は、その行為は、とんでもないものではないのか?
ふと、そんなことを思ってしまう。
「うわぁ……え、これが、こんな風になっていくんですか?
……あれ? え、うわぁ……」
関心したような呆れたようなエリーの声が聞こえる。
はてさて、どんなものが描かれているのやら。
微動だにできないモデルは、そんなことをつらつらと考えていた。
描かれたのは、自分ではない自分。
存在しないはずの光景。
だが、あまりにもそれは、確かにそこに在って。
次回:それは、描くというよりも
描くことの、奥深さ。




