止まる、流れる時間
カチリ、とスイッチが入ったかのように、男の中で何かが切り替わったのが伝わってくる。
ここからが全力、本気で来る、と言われるまでもなく感じ取れた。
そして、男が踏み込んで来る。
かつて見たことのある速度で。それ以上の迫力で。
これが、この男の全力。
かつて攻めに攻めて攻めきれず、最後に命を落とした男が見せる本気。
それは、見る者を置き去りにするような一撃だった。
なのに、この会場でただ二人。
ドミニクとレティにだけは、見えていた。
動きの起こりも、剣が描く軌道も。
リィン……と鈴が鳴るような音。
刃と刃が衝突せず、綺麗に受け流されたがゆえに生じる、それ。
長剣の軌道にするりと差し込まれた小剣が、その力を受け流していく。
あまりの手ごたえの無さに、そのまま長剣が地面を打ってしまって。
『チッ』
と舌打ちをした瞬間には、剣が跳ね上がっていた。
レティの足元を狙って切り上げた刃は、しかし受け流しながら既に移動を始めていたレティを、捉えることができない。
逃げられた方へと向かって間合いを詰め、突きを繰り出すが……それはあっさりと横に払われた。
横に流れされる剣を、腕力で強引に止め、さらに踏み込みながら横薙ぎに払う。
が、足の止まらないレティは、そこからも既に消えていた。
払った腕を引き戻し、視界に捉えたレティへと向かって突き出す、が、それもあっさりいなされ、さらに横へと逃げられる。
『このっ、ちょこまかとっ!』
「だって、当たると痛いじゃない」
そんな軽口を言いながら、レティはするりとまた横へ流れる。
ほんの一瞬、いや半瞬前にいた場所を、刃が空しく通り過ぎた。
そんな一連の攻防に、観客は熱狂し、盛り上がる。
何しろ、目で追うのもやっとなくらいに素早い、獣のような、あるいはそれ以上に獰猛で恐ろしい男の剣撃と。
それを涼し気に、軽やかに受け流し、捌いていくレティ。
そこには、音楽のように調和の取れたリズムがあった。
恐らく、今この場で苛立っているのは、ただ一人。いや、あと一人。
そして、その苛立ちがこの音楽をさらに加速させる。
大上段から振り下ろす一撃は雷鳴のよう。
しかしそれは、交響楽のアクセントとして挟まれるシンバルのように豪快に、音だけを響かせる。
地面を叩いた刃を跳ね上げて、もう一度、横薙ぎに。
それは軽く受け止められて、その勢いを利用されて、跳ばれた。
あまりの手ごたえの無さに、歯噛みする。
追いすがり、小刻みに小手を、首を、胴を、と狙ってみるが、持ち味の力強さを抑えた斬撃は全て、軽やかな音を立てて弾かれた。
ならば、と斬りかかろうと、払おうと、フェイントを入れてからの最速の突きは完全に読み切られて、体捌きだけでかわされる始末。
男は、焦れていた。焦っていた。苛立っていた。
一太刀で、あるいは二太刀で仕留められるはずの自分が、するりするりとかわされていく。
思えば、あの時もかわされてはいたが。
しかし、こうも軽々と、だっただろうか?
浮かんだ疑問に、男の動きが止まる。
じぃ、と冷静に観察するような視線が、なんとも苛立たしい。
そんなしばしのにらみ合い……いや、片や睨みつけ、片や冷静に観察している時間。
唐突に、レティが口を開いた。
「うん、やっぱりだ。
あなたは、あの時のあなただ」
『は? 何を今更言ってんだ?』
とっくに正体はばれている。そう思っていたし、実際そうなのだろう。
だが、だとすれば、この女の言葉はなんだ?
苛立ちが加速され、吐き捨てるような声になってしまう。
そんな男に向けるレティの表情は、静かだった。
氷のように冷たい、のではなく。
凪いだ水面のように、ひたすらに、静かだった。
「教えてあげる。
あなたに私は倒せない。
あの時のまま。止まったままだから」
言い張るでもなく、強がるでもなく。
当たり前の確信と共に、そう言い切られる。
それは、男にとって酷く屈辱的だった。
『言うじゃねぇか……俺を前にしてよぉ!!』
耳を切り裂くような怒声が響き、それだけで人を殺せそうな殺気が迸る。
あまりのそれに、観客席から悲鳴が上がり、混乱が生じるが。
それを直接的に向けられたレティは、相変わらず凪いでいた。
「うん、言った。否定したいなら、かかっておいでよ。
私が教えてあげるから」
差し伸べた左手で、ちょいちょい、と手招き。
その挑発は、覿面だった。
『その口、二度と開けねぇようにしてやる!!』
激高した男が、これまで以上の勢いで飛び掛かってきた。
が。
それは、これまで以上に動きが見えやすくなった、ということでもあった。
嵐のような連撃を、表情と同じく涼やかにかわしながら、レティは先日のドミニクの言葉を思い出していた。
「なにしろ、あいつは……虎みたいな奴だが、虎じゃない」
「えっと、言ってる意味がよくわからないのだけれど……」
その場にいた全員の疑問を、レティが代弁した。
もっともな疑問に、にやり、ドミニクの頬が上がる。
「そうだねぇ……虎はどうして強いかわかるかい?」
「え?……ええと……どうしてって、元々強いんじゃ……?」
よくわからない、と言いたげに小首を傾げたレティに、ドミニクは首を振る。
「そいつはちょいと違う。強い奴だけが生き残ってるんだ。だから、強く見える。
そして、強い奴ってのは、生まれ持ったものに胡坐をかいちゃいない。
虎が狩りをするところを見たことがあるがね、ありゃぁ、色々と工夫や研鑽を重ねた動きだったよ。
逆に言えば、それを怠った奴は生き残れない。そういう世界でもあるんだが、ね」
そこまで言って、もう一度闘技場へと目を向ける。
とっくに、男はいなくなっていたが。
その動きは、今でも目に焼き付いていた。
「あいつは、檻の中で餌を与えられるだけの不幸な虎さ。
きっと、死ぬかもしれない、だなんて思ったことがない。
一振りで蹴散らせるような連中とばかり、やっていただろうからねぇ。
強いていうなら、イグレット、あんたとやった時が例外だろうが……それでも直前まで、死ぬだなんて思ってなかったんじゃないかねぇ」
「言われてみれば、そうかも知れない……」
あの時のことを思いだす。
彼は、最後の最後まで、ずっと不敵なままだった。
己の死など、考えてもいないくらいに傲慢なままだった。
そのおかげで、裏をかけたところもあったのだけれど。
「だからね、あいつの動きは雑なんだ。磨く必要がなかったからね。
あたしから見りゃぁ、酷いもんさ。
速さと腕力で誤魔化せちゃいるがね」
「なる、ほど……?」
言われてみれば、思い当たる節がなくもない。
とは言えそれは、僅かな違和感でしかなかったのだが。
「今のあんたなら、やつの雑なところも見えるはずだよ。
こっからしばらく、奴の試合を見ててみな。見えてくるはずだから」
自信たっぷりに、ドミニクは言い切った。
そして、それは本当だった。
今のレティには、彼の動きの雑なところが、見えている。
圧倒されそうだった動きも、勢いに飲まれそうだった剣撃も。
そして、それをどうかわし、どういなせばいいかも、見えていた。
ますます彼の苛立ちはつのり、ますます動きは見切られやすくなっていく。
初めての。本当に初めての、自分と互角かそれ以上の相手を前に、彼はどうしようもなく焦っていた。
裏技にやられてはしまったが、彼にとってあの時のレティは、確かに格下だったのだから。
『なんでだ、なんで当たらねぇ!』
叫びと共に振るわれた一撃は、恐ろしく速く、恐ろしく強く……だが、雑だった。
そんな一撃では、もはやレティに掠ることすらできない。
とん、と小さな足音。
望む間合いを取ったレティが、ゆっくりと小剣を構えなおした。
「なんで、だろうね?
答えは、教えてあげないけど」
静かに、静かに。しかし、心の奥底で静かに燃える炎がある。
それが、レティに言葉を紡がせた。
「代わりに、教えてあげる。
……敗北を」
さらりと、告げて。
そしてついに、レティが攻勢に転じた。
そして彼女が襲い掛かる。
淀みなく続く剣撃は、さながら津波。
彼だけを倒さんと襲い掛かる、押し流されんばかりの圧力を男は初めて知る。
次回:流水剣舞
馬鹿な、と男は呟いた。
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