ジャングルの夜
彼女は相手を待っていた。
鬱蒼とした夜の密林、その中でも聖神を宿すとされる不老大樹の根元で――
そこは、天にも届きそうな樹木が無数に覆い茂る、原始の庭。
夜空を見上げても、木々と木々が互いに抱き合っている。枝と闇が深く溶け合って、星々の光はわずかばかりしか見えない。
動物の鳴き声さえもしない漆黒の闇夜。閉ざされた森林は、まるで沈黙という名の衣を身に纏った僧侶のようだ。
期待と不安が入り交じった、芳醇で複雑な彼女の感情。その感情を人知れずがより一層熟成させながら、コントラストで引き立てている。
磁場を狂わせ光をも森の奥へと隠す神秘なるこの地で、今、浅いため息がひとつ漏れた。
――彼女、セリジュネ・オン・スロウピィは、森の守り手と呼ばれる獣の部族の一人である。族長の愛娘でもあり、機知に富む優秀な若き狩人だった。
獣の部族とはいっても、虎の耳、豹の尾、ジャガーの足部、それら以外は人間の身体と似通っていて美しい。
そんな彼女の部族では、古き時代から永きに渡って、とある慣習があった。それは月に一度の双子月が満ちる夜、森の外から訪れる街の民との会合が不老大樹の元で開かれるのだ。
この会合は代表者だけで行われる。
過去において起きた闘争という名の幾多の憎しみの渦。それが軋轢と差別を生み、部族内では掟という意識をも作り出した。
普段は外部との接触も意図的に極力避けられており、森の民達はある種の閉鎖的な文化を築いて生きていた。
しかし暗い歴史とは裏腹に、永年平和という安眠を享受している今の時代。多少のしこりを残したままでも上辺だけの友好交流が保たれて続けている。
本来の目的と意義を失って完全に形骸化した種族間会合は、偽りというその仮面を一手に引き受けていた。
そして手腕の有能さを買われながら、半ばおざなりにして今の代表者に選ばれたのがセリだった。
だが汚れを知らぬ彼女の純粋な血の中には、今も強い好奇心が隠されていた。安直な人選は過ちへと変わってしまうことになる。
その巨木は、森の始まりと言われている。
幹には数種のツタが絡み合い、巨大な樹冠は太古の時代から伝わる片鱗を垣間見せていた。
古き大樹の周囲に設置されている松明のかがり火が、セリの金色の髪を闇の中でより明るく照らし出している。褐色の肌は夜露にしっとりと輝き、深く引き込まれるように特徴的な緑眼には、炎の煌めきと残像が美しく映り込んでいた。
部族独特の軽装なパレオを身に纏い、巨大な幹の根元で獣のように四肢を地に着けて、淑やかにちょこんと座っている。
母性さえ感じさせる大樹は、全ての者を受け入れ、癒す。そのような慈愛と安らぎを、大樹は自然と周りに与えているかのようだった。
それでも彼女の心は夜の静寂さとは裏腹に、どこか落ち着きを欠いている。
勇猛果敢で知られた『緑の風のセリ』という異名の由来にもなっている、緑色に染まった神秘的な瞳。元来は凛としているのに、今はなぜか妙にそわそわしていた。
自分の家の庭ほどに見知っていると思っていた森の景観も、今のセリにとっては冷淡で空々しい。まるで見知らぬ場所のようにも感じられた。
浅いため息がまたひとつ、夜の闇に消えていく。
(遅い……)
心が微かに早っているのが自分でも分かった。耳も神経質そうにピクピクと細かい動きを刻んでいる。
セリは深く呼吸をした。
布を纏っている豊かな胸が、ゆっくり上下に揺れ動く。
深呼吸し終わると、大丈夫……大丈夫……と己に言い聞かせた。
その時、木々の合間を這う空気の流れと匂いが急に少し変わったかと思うと、突然子供のような声がした。
「セリ、ニンゲンマッテル。アタマ、アイツデイッパイ」
急激に無数の奇妙な声が木霊する。
彼らの正体はこの森に住む精霊類である。セリには即座にそう判断出来た。同時に、悪意がない彼ら流の悪戯のやり方であることも、理解出来てはいたのだが――
冷静で迅速な思考の回転と共に、他愛のない冷やかしに対する瞬間的な激情がセリの身体を駆け巡る。
怒りと羞恥心、そして危機感が、マグマの如く湧き上がった。
セリは素早く立ち上がると、反射的に叫ぶ。
「ウルサイ! だまって!」
ハイトーンで透き通った怒号が周囲に響き渡るやいなや、途端に声達が収まった。
沈黙の影が再び辺りを包み込む。
木々の合間から吹いてきた生温かい夜風がセリの金の髪を揺らし、少し火照った頬を撫でていった。
セリが大樹の肌に寄りかかった。
空を見上げれば、果てのない木々。今は彼女を守るこの荘厳な森でさえ、時として彼女を縛る鎖に変わってしまうのだ。
自分の周りにある大きな隔たりを感じると、身体が震え胸が締めつけられた。
セリは大樹からそっと身を離す。そして、胸元にある首飾りを握りしめ、密かに願いを込めた。
尻尾が本人の意思とは関係なく、無意識にゆっくりと宙へ浮き上がる。
浮き上がった尻尾は、別の生き物のようにフリフリと動いている。
――彼女が首から下げているのは、部族長の家系に代々伝わる首飾り。古のまじないがかけられていて、身に着けた者を守ったり幸運をもたらすとされていた。
飾りの中央に施されているのは大粒型のグリマライト鉱石。この世にも珍しいグリマライトの結晶は、独特の蒼く美しい発色を持っている。
楕円形に磨かれた芸術的なラインの結晶が、かがり火の明かりを受けて不思議と鈍く青白い光を放っていた。
セリの極限まで研ぎ澄まされた耳がピンと立つと、聞き覚えのある足音を捉えた。
遠くからでも暗闇を見通せるように、その方向へ瞳を凝らす。優れた視覚のおかげで、闇の中から人影がぼんやりと見え始めていた。
徐々に近づく人影は、暫くしてセリに気づくと、手を上げて振っている。
(来たっ――)
そう思うと、セリの心臓は早鐘のように鳴り響いた。心拍音が森中に聞こえてしまうのではないか、と錯覚してしまうほどに。
彼女は湧き上がる感情を必死で抑え、ひた隠そうとした。
しかし、所詮それは無駄な抵抗である。本人の意思とは関係ないかのように、澄んだ瞳はより一層の輝きを増していた。
もはや抑え切れない嬉しさが、表情や耳と尻尾にも現れていた。
それでも彼女は、なるべく急いで人影に手を振り返した。
初めてファンタジー世界を書きました。恋愛物を書くのも初めてです。
シェイクスピア的な禁断の恋を基盤に、紛争や人種差別という重いテーマ性を根付かせてます。
恋が始まりそうな雰囲気とラブリーチャーミングをなるべく嫌味がない様に抑え目で描きました。
題材的にただ待ってるだけの話ですが、終わり後の余韻やその先の広がりなんかを感じてもらえたら嬉しいです。
山下達郎さんが歌う『クリスマス・イブ』が使われてた昔のJR東海のCM。あれが今作の原体験にあるんじゃないかと思います。
四作(近年入れると五作)あるCMには、女の子が駅で彼を待つパッシブなパターンと、女の子が会いに行くアクティブなパターンがありました。
特に前者に影響を受けてますね。誰かを待つ女の子がいて、最後に顔の見えない彼が現れて(又は女の子が彼の前に姿を出して)終わる、という構成も。
CMは遠距離恋愛をモチーフにしてました。僕の作品もある種の遠距離恋愛だと言えます。
あのCMを見て胸がキュンと来てたので、自分でもそういう物を描きたかったんだなと今は思います。
原体験という点で言うと、序破急での破の部分に当たる精霊類云々の箇所。完全に小中学生時分によくある冷やかしです。それが原体験になってますね。
将来的にはこの物語を元に長編を書いてみたいなとも思ってます。
僕にとってこの作品が真の処女作的とも言えます。