第壱話 《恋われた月の銀車輪》 part2 【列車】
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――悠久の中つ国――
其れは大災厄という地獄を経て荒廃した世界。神話は滅び、精霊は絶え、何の力も持っていない人間という種族が、日々を必死に生きている世界だった。
荒んだ大地に染み込んだ鉄臭い血の匂いと硝煙の香りは、激動の時代を絶え間なく繰り返してきだが故。皇国が存在する《楽園》と云う世界とは対照的に、此方は《戰國》と呼ばれていた。
争いの絶えない世界であり、人々は平和の二文字を本当の意味で未だ知らない。
旧世界が終わり、千年近く経った今に於いても、その事実は揺るがなかった。
無論、千年も経てば、変革の兆しがないではない。
戰國の中でも屈指の苛烈な歴史を重ねた、とある極東の島国は今、長年の敵国と手を取り合ったことで、確かな平和への舵を切っていた。
名を《帝國ツルギ》という。
新世界歴〇九九〇年八月十四日に調印された和平交渉で、エリュシオン皇国と同盟関係になった、極東の列島国家は、約七年半ほど経った現在、諸外国と比べて年間の死者数が大きく減少している。
特に皇国との共同統治として強力な自治権を認めた、和平親善領《高天原》では、『世界で最も平和な国』と呼ばれるほどに、年間死傷者が少なかった。
とはいえ、古今東西古今無双の皇国と、同盟を結べるまでに成長した帝國の軍事力は、己の身をも切り裂くほどに鋭く恐ろしい。
皇国の魔族と互角に戦える《力》は、人が管理するには未知に過ぎて、人が手にするには強力に過ぎた代物だったのだ。
振り向けば、闇。鬼に憑かれし者たちがいる。
世界は彼等に宿る人智を超越した力に《神威》という名を付けた。
◇ ◇ ◇
新世界歴○九九八年十二月二十二日。
数日間に渡る降雪と寒波が過ぎ去り、麗らかな日和となった本日は、安息日ということで、島を訪れる多くの観光客たちがいた。
彼等は車窓の向こうに広がる穏やかな快晴と、快適な一日を喜んでおり、流線を描いた赤いフォルムが美しい七両編成の列車に乗って、眩い朝日の反射する真っ青な海上を往く。
和気藹々とした親子連れや恋人たちが乗車しているのは、帝國本土と和平親善領を繋ぐ海上鉄道本線が一つ、本州邨正駅特急便《韋駄天》という名称の海上列車だった。
高天原と邨正を行き来する海上列車の、途中停車駅は最大で三箇所。それら全てに停まるのが普通便であり、一箇所だけ停まるのが快速便である。特急便とは終点を直接行き来する列車であり、目的地である高天原へ到着するまで決して停まることはない。
はずだった。
「頼む。助けてくれ」
韋駄天が始点を発って二十分。列車は海上線路の途中で緊急停止を強いられていた。
停めたのは機関室にいる運転士。
彼の額には今、矮匠製の拳銃が突き付けられており、恐怖に瞳を揺らしている。
咽返る硝煙と血の匂いが、彼の思考を狭窄させていた。
足元に広がる同僚の血溜まり。後方の車両は凄惨な殺戮の現場だ。
嗚呼、自分は助からない。
命乞いの中で悟る運転士は、鳴り響く複数回の銃声に崩れ落ちていった。
犯行に及んだ人物は、黒い外套を羽織り、赤い仮面を付けている。――は、単独ではない。機関室と第一車両を合わせて五名ほどが、各々銃火器を手に身体を赤く染めていた。
皆殺し、というわけではない。
第一車両には、仮面の他に生存者が二人いた。
男が二人。彼等は悲鳴や動揺などの行動を取っていない。
だが、それは当然である。
彼等二人は仮面の上司に当たる立場だったからだ。
「やれやれ。御宅の仮面は嗜虐的に過ぎるな。もう少し颯爽に出来ないものか」
呆れた口調で煙草を咥える壮年の男は、懐から取り出した燃焼式のライターで火を点ける。随分と年代物のライターには、稲妻と流星を従えた竜の意匠が、古代音素文字で《点火》と刻まれていた。
禁煙の標識が大きく描かれた列車の天井を、吐かれた白煙が染めてゆく。
自身の顔の傷痕を撫でながら、不愉快だと暗に告げる男に、通路を挟んで反対の席に座っていた燕尾服の反っ歯男は、彫りの深い糸目で笑顔を作りながら、黒い絹帽の鍔を摘んで謝罪した。
「申し訳ございません。彼等は恐怖と痛みを取り除いた副作用で、血に対しての異常な色気を覚えているのです。見苦しいのは御容赦下さい、フォルカー様」
成程、訓練された兵士ではなく、薬漬けの狂人というわけか。
犯罪仲介組織・帥仙の誇る戦闘員も、大した質ではないようだ。
抜け抜けと詫びた《鼠》という異称の男に、それ以上の文句は言わなかった。
「まあ、いいだろう。雑用は趣味じゃない」
列車を緊急停止させ、乗員乗客を皆殺しにするのは、下っ端の仕事だ。
師団の英傑《フォルカー=クラウ》の仕事は別にある。
否、仕事ではなく試験か。
――巫山戯てくれたな、貴様ら。
心臓を握り潰さんばかりの鮮烈な殺気は、並の相手ならば立ち所に意識を刈り取るだろう。恐怖を取り除かれたはずの《仮面》共ですら、自らの死を想像して後込みを見せた。
その怯えは正常な反応だ。仮面と彼とでは、決定的なまでに強さの格が違う。
元帝國陸軍少佐にして、甲の資格を持つ万屋。一廉の退役軍人に賜与される、白い軍用制服を着込んだその男は、左目に眼帯を付けていた。
正義感と愛国心の強さ故、皇国との和平後には軍部を退役、万屋として高天原延いては帝國の民を護ると誓った男の右目は、無残に殺された乗客たちの死体を見て、烈火の如く燃え盛っていた。
か弱き命を踏み躙る兇手の非道、許すまじ!
怒りに燃える獲物の御出座しに、心中で舌舐りをするフォルカーは、指で煙草を挟んだ手を挙げながら、背後の来訪者に挨拶した。
「待ち草臥れたぞ、《隻眼》の。いや、もう退役したのだったな。では改めて《沢角景時》と名前で呼ぼうか」
再び咥えた煙草の味で肺を満たしたフォルカーは、景時が軍人であった頃の渾名を口にする。外見をそのままな渾名だが、此れに含まれている《もう一つの意味》をフォルカーは知っていた。
知っていて尚、彼は仮面たちをけしかける。
「殺せ」
命令と同時に発射される銃弾の集中砲火。
放たれた弾丸は全て景時の身体へと命中する――が。
服に触れた先から、『蝕』を示す神咒が明滅すると、鉛弾は淡雪のように融けてゆく。どれ一つとして傷を負わせられたものは存在しなかった。
間違いない。本物だ。
驚愕に銃を取り零す仮面もいる中で、フォルカーは獰猛な笑みを浮かべた。
「敢えて受けたか、化け物め」
「随分と私を識っているようだが、貴様は誰だ。貴様らの目的は何だ」
仮面の存在など意に介さず、景時は未だ座席に腰掛けたままのフォルカーに質問した。少々高圧的な質問態度は、自分が負けるわけがないという自信の表れによるものだ。
実際、景時の強さは本物である。
「吐かせてみろ」
対して、強い態度で臨んだ此方も、自らの実力に疑いはなかった。
質問があるのなら、先ずは其処に居る仮面共を片付けてみるがいい。
挑発に含まれた真意を読んだのか、若しくは単純に力を誇示しようとしたのか。
「良いだろう」
そう言って眼帯に手を掛けた景時は、己に宿った魔性の真名を詞にした。
――顕現せよ【悪鬼有翼の石像】。
景時を中心に荒れ狂う紅い神氣の暴風。
瞬間。外された眼帯とともに、景時の背後、頭上に位置する空間が軋んだ。
亀裂が入り、鏡が割れる音がした。
位相空間に施された十重二十重の封印が、此処に解かれる。
古き時代に封じられし天魔の鎧が、宿主の令より綻ぶ呪縛を引き千切った。
《眷鬼》顕現。
砕けた空間より出現せしは、血生臭い皮膚の身体を持った有翼の悪鬼だ。体長二m近い其れは、景時の怒りに呼応して、空気を震わせるほどに雄々しく咆哮した。
同時に硬化してゆく悪鬼の皮膚は石のようであり、禍々しい輝きを帯びた紅玉の瞳は正しく、景時の左目に埋まっていた《義眼》と同質の物だった。
「命乞いは聞かん。付喪神に抱かれて眠るがいい」
紅玉の義眼が仮面を見据える。
反射的に銃を構える者、後退しようとする者、身体が竦んでしまった者と、仮面の動きはそれぞれだったが、誰一人として景時の《力》からは逃げ果せられなかった。
悪鬼と景時、三つの紅い目が狂気に輝いた瞬間、彼等の命運は尽きたのだ。
左目の瞳孔に浮かぶのは『侵』を示す神咒。
足元の鉄板が、木製の仮面が、武器が、靴が、服が――彼等の身体を侵食してゆく。
触れた物質が、一緒に成ろう、と仮面たちを呑み込んだ。
多材質で構成された哀れな立像の完成である。
言語能力を失ってしまった彼等でも、悲鳴ぐらいは上げられたはずだった。しかし仮面を付けてた所為で、顔の表面は逸早く侵食されてしまい、断末魔さえ呑み込まれたのだ。
恐るべき能力である。
景時を今日まで生かした、超常の異能を目の当たりにして、遂に本命が腰を上げた。
「物理干渉系統の神威【石眼呪縛】。PA総出力《10,800》のA級神威で、その能力は『無機物との同化現象』だ。触れた無機物と同化する、或は同化させる事が出来る異能力は、眼帯に隠した超越武装の意味も兼ねて、お前に《石眼》の異名を与えた」
正面から対峙して、景時の目が見開かれた。
帝國軍に身を置いた者ならば、彼の顔を知らないはずがない。
戦争中の他国に傭兵を貸し出す商売を、国自体が運営しているという傭兵国家がある。名を《トゥーレ師団》と呼び、人口約五万という小規模の国をして、一騎当千の兵たちを何百人と擁する強大な軍事国家でもあった。
《大元帥》と呼ばれる国主の元には、戦果より選ばれた六人の《大隊長》が存在するが、中でも取分け他国から恐れられているのは、右目から頬にかけて傷痕のある、灰銀髪の精悍な偉丈夫。
景時は男の資料に、何度か目を通したことがある。
「其の髪、其の傷、襟元の銀徽章は《餓狼》の刻印か。私を識る貴様は、トゥーレの英雄《フォルカー=クラウ》に相違ないな」
「然り。お前と戦いに来た」
「私と戦いに。まさか貴様はそれだけの為に、罪もない人を殺したのか!」
「ふむ。直接殺したのは仮面であって、私ではないが……いや、何れにせよ死んでいたな。流石の私でも、お前相手に手加減は出来ない。故に、此の列車に乗り合わせた者は皆、私の力で等しく塵に還るだろう」
灼けつくような殺気が心地良いと、フォルカーは涼しげに受け流す。
腸が煮えくり返る思いを抑えながら、景時は質問を重ねた。
「っ……理由を言え。よもや傭兵の貴様が、腕試しに来たわけではないだろう」
「勿論だ。と言いたい所だが、残念ながら半分は正解だ」
腕試しというよりは、腕証しという言葉が正答か。
新兵の如き扱いを受け入れる自分に、我ながら御苦労なことであると、苦笑交じりのフォルカーは煙草を吸って煙を吐いた。
負ける予定はない。ならば、話しても構わないだろう。
「報酬《100,000,000$》という依頼を仲介屋より紹介されてな。前例はなかったが、実力を確かめる試験として、甲の資格を持つ万屋を倒せ、とのことらしい」
「で、私か。無礼られたものだな」
漸く合点がいった景時は、正義感だけでなく自尊心も傷つけられたと、益々怒りに身を焦がす。しかし対するフォルカーに、彼を侮る気は更々なかった。
寧ろ、全くの逆。
自らの実力を示す上で、相応しい獲物を選んだ心算だった。
有限実行。『お前相手に手加減は出来ない』。
――顕現せよ【星を射つ火竜】。
迸る神氣は景時と同じ紅い色。喚ばれた真名に、再び空間が砕かれた。
蛇の躰、鰐の口、蝙蝠の翼、鷲の前脚、獅子の後脚、鏃の尾。様々な生物の特徴を持った其の異形は、鵺のように不気味な存在だった。
体長四mの肢体を艶めかしく撓らせ、赤い舌をちろちろと動かしながら、赤い鱗の化け物は景時を睥睨した。
物理干渉系統、《紅》対《紅》だ。
対同系統抵抗力の所為で、互いの能力が効き辛くなった状況を、景時は確と認識した。
しかし不利ではない。寧ろ有利だろう。
攻撃性には多少の陰りが生じるものの、元が必殺級の神威である為、敵を倒すのに不足はない威力は残る。そして防御面で考えたとき、物質と同化出来る彼の能力は、物理干渉系統の神威に対して相性の良い性能だった。
油断はない。勝つべくして勝つ、と景時は左目に力を集中させる。
一方で、勝負は一瞬と読んでいるフォルカーも、静かに精神を統一させていた。
「「…………」」
張り詰めてゆく車内の空気は、至近距離での居合勝負を彷彿とさせる。
沈黙の中、先に鯉口を切ったのは景時だった。
【石眼呪縛】ッ!
禍々しく輝いた紅玉の三眼に対して、フォルカーは吸っていた煙草を、指で弾くようにして相手の方へ放った。
次の瞬間には、着衣や床の材質が身体を呑み込んだ。
同系統の神威を持つ相手には、抵抗力の所為で能力が効き辛いという法則がある為、侵蝕速度は仮面たちに行使したときと比べて、確かに遅い。一秒で殺すことは難しいだろう。
だが、三秒あれば確実に殺すことが出来る。
敵の肉体は半分が呑み込まれた。揺るぎない勝利へ手が届く――と、景時が思考した間際に、フォルカーが動いた。
布、革、鉄、銀、様々なものに侵食された手を翳す。
時間にして二秒弱か。
身体中が物質に侵されきる瀬戸際、フォルカーは放物線を描いて落ちてくる、煙草の《とある一点》を目掛けて、神威を発動した。
【煌竜爆裂】。
翳した腕の周囲、円を描くように綴られたのは、神咒の鎮魂歌だ。
灰は灰に。塵は塵に。服わぬ者よ、死に賜え。
所行無情の呪いが此処に、殲滅の神威を解放する。
諸共全て灰燼に帰せろと、煙草を包む輝きは『閃』を示す神咒の文字。
輝きは煌きへ。煙草に燻る小さな種火は、超々高密度に圧縮された空気を供給されることで、恐ろしいほどの大爆発を引き起こした。
爆炎と衝撃を纏った火竜は、驚愕する景時を列車ごと喰らい尽くす。その威力に列車は尺取り虫のような動きをみせて、車窓から炎を吐き出した。
星を射つ火竜。口元から黒い煙を立ち昇らせる化け物は、役目を終えたとばかりに、光の粒子となって消えてゆく。
瞬く間に焦土と化した列車の中、立っていたのはフォルカー=クラウ唯一人。
『お前相手に手加減は出来ない』。
何を馬鹿な。抑、此の男の神威に手加減の三文字など無かった。
安全弁は存在しない。敵も味方も無差別に殺す。
師団の大隊長という身分でありながら、供もなしに単独行動をしている、国から見逃されているのには理由があった。
彼は単独にして大軍だ。仲間など必要ないし、顧みてなどくれない。
流星、中でも等級の明るいものを火球《fireboll》と呼び、特に最終的な爆発を伴う代物は、竜火球《bolide》と呼ばれる。
師団に於いて、密かに囁かれるフォルカーの異名だ。
此の馬鹿馬鹿しいまでの超火力に、相応しい名といえるだろう。
「すぅ……ふぅ……」
改めて取り出した煙草を咥えたフォルカーは、燃える座席から火を拝借すると、勝利の余韻を味わいながら、白い煙で肺を満たした。無機物に喰われかけていた身体も、相手が倒されたことで、完全に回復している。
終わってみれば、無傷の勝利。彼の完勝だった。
「【煌竜爆裂】――相変わらず恐ろしい神威ですね。結界で固定化したα領域に、別の固定化されたβ領域から空気を移動させる能力。瞬間的に超圧縮される空間内に、火種を用意しておくことで、意図的な大爆発を引き起こさせる」
怖い怖いと、燃え盛る列車内の陰から姿を見せたのは、今まで何処へ行っていたのか《鼠》という帥仙の反っ歯男だった。
神出鬼没な登場に、流石のフォルカーも呆れてしまう。
「《鼠》か。お前の神威も相変わらず便利だな。確か【社交御地】だったか」
空間干渉系統の中でも稀有とされる《空間跳躍》型の神威は、『嘘偽り無い自己紹介を行った者の、周囲五m圏内に在る〈陰〉を行き来できる』という能力だ。
直接的な攻撃性能は低いが、暗殺面・防御面に於いて、相当な利便性を持っている。
部下に欲しいくらいだと、フォルカーは考えていた。
尤も《鼠》自身は、巻き添えが恐ろしくて断るだろうが。
現実に、炎上する列車内は高熱であり、長居は出来ない状態だった。
フォルカーが平然としていられる理由は、彼の神威の副次的な使用方法で、〈真空の鎧〉を纏っている為だ。
燃焼に必要な酸素が無ければ、衝撃波を伝え、熱伝導を行う分子も存在しないため、自分の神威による影響を彼自身は被らない。
本当に恐ろしい御方だと、笑顔の裏で畏まる《鼠》は、『おや?』と右目を薄く開いた。
「殺さないで頂けたのですか?」
「ん。ああ……仕留める心算ではあったが、存外にしぶとくて、な」
彼等の視線の先には、気を失った景時が、五体満足に横たわっている。着衣こそ破れていたが、肌の方には傷一つ付いていない。
「服の内側に仕込んだ《鋼鉄板》を、咄嗟に自分と同化させたのだろう。それでも衝撃に耐え切れず失神したようだが……見事な判断力と瞬発力だ」
流石は甲の資格を持つ万屋である。
しかし此処で死に切れなかったのが、吉と出るかは定かではない。
「出来れば生きて連れ帰りたい、というのが要望だったな」
「はい」
「では、私の気が変わらない内に、早く奴を連れて帰ることだ。敵対者を生かすのは、個人的に感心しないからな」
「フォルカー様は如何されるので?」
四・五人までなら《鼠》の神威は、一度に移動することが出来る。確かに此の儘炎に巻かれた所で、彼が死ぬわけもないが、態々線路を歩いて帰ることもないだろう。
そう考えての発言だったが、フォルカーには未だ用事があった。
「生存者を確認する。私が神威を使った以上、中途半端な負傷者は残さない」
介錯を呉れてやる。
必殺を徹底した容赦の無さは、彼を大隊長まで押し上げた信条だ。如何に強力な神威を手にした所で、戦の女神はたった一つの綻びから、あっさりと手の平を返してしまう事をフォルカーは良く知っていた。
信条に基づいて行動する彼は、《鼠》と気絶した景時を置いて、後方の車両へと様子を見に進んで行く。
その行為が綻びだとは気付かずに。
◇ ◇ ◇
赤、赤、赤、赤。
燃え盛る炎と飛び散った血によって、列車内は全て真っ赤に染まっていた。
其の光景を創りだしたのが、自分だという事実を満足に噛み締めながら、フォルカー=クラウは地獄を往く。
耳に聞こえるのは、何かが焼ける音と、何かが焼け落ちる音の二種類だけ。悲鳴も怨嗟も此処には存在しなかった。
嗚呼、神は何故此の男に斯様な力を与え賜うたのか。
決まっている。神は人間が嫌いなのだ。奴等を地獄に叩き落とせと、神は仰せになっている。
血と肉と鉄が焼ける匂いを嗅ぎながら、フォルカーは先へと進んで行った。
(此れが『世界で最も平和な国』か。謳い文句が現実になるには、後二十年は掛かるな)
未だ解明されていない《神威》という力を人間社会が御するには、少なくともそれだけの日数が必要だと、事の元凶は考える。
軍部と公安の強化は無駄だろう。所詮は責任を押し付け合うだけの御役所仕事。何より彼等の存在は〈防衛〉ではなく、犯罪の〈抑止〉と事件の〈鎮圧〉だ。
端的にいうと、存在が受け身の上に、行動が遅すぎる。事件発生から数分も経てば、《鼠》のような神威を使われた場合、犯人は既に消えているだろう。
大事件を処理する場合、現行社会の警備システムでは、脳から手までの命令が、神威という脅威に対して愚鈍なのだ。
死にたくなければ、個人的に身辺護衛を雇うのが正解。
しかし列車内を見た所、それらしき者は居なかった。
居た所で、彼の神威から生存できる強者は少ないだろうが。
――と、列車を散策していたフォルカーは、不意に足を止めてしまった。
海上列車《韋駄天》特急、第四車両。
地獄の業火に佇む男は、戦場で培われた嗅覚により、《何か》の気配を感じ取っていた。
そう、《何か》だ。それ以外に表現出来ない、初めて覚えた気配だった。
目を細めた先、第五車両の方から何かが近付いてくる。
生存者か。いや違う。生きた気配など微塵も感じない。
では、神威による死霊術の類か。恐らくそれも違うだろう。迫ってくる《あれ》は死の匂いが濃すぎる。
(面白い。何者かは知らないが、殺し甲斐がありそうだ)
頬を伝う冷たい汗、粟立つ肌は畏れを感じている証拠である。
それを自覚した上で、フォルカーは薄い笑みを浮かべた。
剣閃が走る。
緩慢に倒れてゆく連結部の自動扉の後から、ソレは歩いて来た。
「――――」
赤黒い外套を身に纏い、銀鼠の額当てを付けている。
黒い革手袋で握り締めるのは、精緻な孔雀紋の意匠が施された、白銀の片手半直剣だ。
「お前は一体何者だ」
警戒に眉を顰めながら、フォルカーは訊ねた。
無論、答えが返ってくるとは思っていない。相手は人のカタチをした異常な存在である。
眷鬼を召喚させる隙を伺う為の、特に意味のない問い。
《戦装束》を纏われている以上、先手を譲ってしまった状態だ。自らも其の域に達しなければ、勝利は難しいと、経験則で感じていた。
距離は有るが、得物の性能が不明な為に迂闊な行動は出来ない。
揺さぶれるだろうか。
無言の儘佇んでいる相手に、彼は再度訊ねた。
「私はトゥーレ師団大隊長《フォルカー=クラウ》。今一度問おう、お前は何者だ?」
答えを求めない無意味な問いを繰り返す。
が、しかし今度は返答があった。
不気味な幽鬼が微かに口を動かすと、其の名は何故か鮮明に聞こえてくる。
其れは帝國に謳われる最も新しき英雄譚。
黄金の夜明けを史実に刻んだ、伝説的な彼の者の名は。