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アクシデント

作者: 夏川 透

 時間を浪費することはよくやるくせに、他人から時間を奪われるととても苛立つものだな。そんなことを洋一は車の中で考えていた。まだ学生だった頃は気づかなかったが、年が30近くなって、少しずつだが物事を客観的に見れるようになっていた。

 彼が運転している車はちょうど夕刻の渋滞に巻き込まれていたのだ。しかも前方で事故があったらしく、なかなか前に進まない。たまにノロノロと僅かに動くだけだ。


 途中警官が一人立っていたので、洋一の前の運転手が窓越しにどんな事故なのか訊ねていた。軽い衝突事故、とその警官は言っていた。そういえば救急車も来てないようだ。じゃ、悲惨な現場もみなくて済む。よかった。いや、当事者たちは大変だと洋一は自らを諌めた。


 そして両腕をハンドルに載せたまま、ぼんやり前方の乗用車を見つめた。運転席の男が携帯で何か話をしているようだ。たぶん誰かに事故のことを伝えているのだろう。イライラしているのがよく分かる。窓をトントンと手で繰り返し軽く叩いているからだ。おそらくこの道路沿いを運転している者はみんな同じ気持ちであろう。


 その様子を見ながら、洋一はある女性に電話したくなった。が、まだなんとか間に合うだろうと思い直し、しばらく様子を見ることにした。いつ動き出すか分からない状況で電話するのは嫌だったからだ。

仕方なくぼんやり遠くの景色を眺めると、美しい夕日が中小のビルの谷間から輝いている。普段なら多少なりとも見とれる光景だが、今はそういう気になれない。


 先ほどから10分くらい経った。思ったより時間がかかっている。なかなか進まないもどかしさに洋一のいら立ちは高まってくる。が、その気持ちが何かに通じたのか、車の列が少しずつ進み出してきた。

よかった、と洋一はホッとした。


 今夜は久しぶりに恋人の多恵子と会う。最近仕事が忙しくて彼女とはあまり会ってない。だから今日みたいに都合がついた日には絶対に会いたかった。それに彼女に渡したいプレゼントもあるのだ。可愛いリボンの形をしたネックレス。少し高かったが、奮発して買った。多恵子の喜ぶ顔が見たかったから。

 ラッピング済みの小さな箱を大事そうに、助手席側のダッシュボードの上に載せて満足そうに眺める洋一だった。


 彼の車は渋滞を長引かせた事故現場付近にようやく近づいてきた。現場では赤色灯をつけたパトカーや白バイが止まっており、そのそばで警官達が路肩に立ち、交通整理やら事故の当事者たちの話を聞いている。2台の乗用車が路肩に止められ、1台は後方のバンパー、2台目は前のライト付近が少し潰れていた。確かに軽めの追突事故のようだ。


 この渋滞をまねいた当事者たちを、洋一はうんざりした表情で眺めた。一人は若く洒落たサラリーマン風で、もう一人の方は中年の自営業者みたいな感じであった。どことなくだが、若い方はきつい印象が強かった。というのは相手にはもちろんのこと、警察に対しても横着な態度で話しているように見えたからだ。よほど自分には過失がないと思っているのか、強く自分の正当性を主張しているようにも見える。

なんとなくヤナ感じの男だ。まあ、自分には関係ないけど。どうでもいいから早く通してくれよ、とそんなことを洋一は思った。とはいえ多少は彼らに同情する気もある。


 彼らにはこの事故の面倒な話し合いや処理がまだまだあるからだ。たとえ保険屋がたいていのことはやってくれるにしてもだ。洋一は過去の経験からそれが十分わかっている。すると言い争っている当事者たちが気の毒に見えてきた。


 当事者たちのほんの少し手前で、洋一の車はまた交通整理のために前に進まなくなった。洋一は深い溜息をついた。ひょっとしたら間に合わないかもしれないな。恋人の多恵子とのデートのことだ。結局彼女に電話することにした。カバンから携帯を取り出し、慣れた手付きで彼女の番号を表示させた。と、そのときちょうど本人から電話がかかってきた。


「オッ!! なんというタイミング」

 なんだか二人の気持ちがつながっているような気がする。

「おお、多恵子。いまちょうど電話しようとしてたんだ」

 思わず嬉しい声が口に出た洋一だ。

「エッ!? そうだったの? へえ」

 彼女の愛らしいハスキーボイスが洋一の耳に飛び込んできた。しかし多恵子は自分の声にコンプレックスに持っている。たまに勤め先の電話応対で男と間違われたことがあるからだ。でも洋一は気に入っていた。可愛い女の子がそんな声をしているのは意外ではあるが、とても魅力的でもあった。昔、洋一が好きだった女性シンガーの声にとても似ていたせいもある。


 多恵子の声も洋一の嬉しさが伝染したように弾んでいた。が、すぐに彼女の声のトーンは急激に落ちた。

「あのね、実は洋一さん。ホントに申し訳ないんだけど、今夜、急に都合ができて会えなくなったの……」

 それを聞いて洋一の気持ちも下がりそうになる。せっかく会えると思っていたのに。なんて運が悪いのだろう。まただんだんと気分がイライラしそうになる洋一だった。しかしそれを多恵子にぶつけるわけにはいかない。努めて明るく、

「そっか。それじゃ、仕方ないな。また近いうち会おうな。絶対だぞ」

 すると多恵子は可愛いハスキーボイスで応えた。

「ウン。ホントにごめんね。明日また電話するから、そのとき決めようよ」

「ああ、そうだな。お前もいろいろ都合があるしな。そうしようぜ」

 優しく、頼りがいのある人。そう、多恵子から言われたことがある洋一は、できる限りそうあろうとした。

「ありがとう、洋一さん。大好き!!」

 多恵子の甘い弾んだ声に、洋一は思わずニタッと顔をほころばせた。


 途中多恵子に事故のことを話そうかと思ったが、急いでいる感じだったので話すのをよした。明日ゆっくり話すことにしよう。そう思い、洋一は機嫌よく別れの挨拶をして電話を終えた。まだ耳に多恵子の甘い声が残っているようで、体全体が心地よい。やっぱ多恵子っていい女だよな。彼女のことをいろいろ思い出していると、心身ともに力が湧いてきそうになる。


 彼女と付き合って二年近くになる。よくある友人の紹介ってやつだ。洋一の遊び仲間の彼女の知り合いが多恵子だったわけで、一目で好きになってしまった。洋一好みの美しい女の子だったからだ。当然付き合っている男がいたわけだが、何が原因なのかは分からなかったが別れていた。その直後にたまたま洋一は運よく紹介されたのだ。


 ただ、多恵子の方は別れた直後というのもあり、最初はあまり乗り気でなかった。気持ちの整理がまだついてない状況だから、との理由だったらしい。にもかかわらず女友達からの勧めもあり洋一と知り合ったのだ。だがそんな多恵子も積極的な洋一の押しに徐々に気持ちが動いていった。逆に付き合いだしてからは多恵子の方が積極的になっていた。


 一年目は二人でいろいろなところによく行ったものだが、二年目の今、洋一の仕事が忙しくなったこともあり、逢う機会が前より少なくなっていた。彼は食品会社の営業をしており、朝から晩まで得意先をまわっている。一方の多恵子は友人の小さな雑貨屋さんのアルバイト店員で、ある程度の時間の融通が利く。そのため多恵子の方ができるだけ洋一に合わせる形で逢う機会を作ってきたのだ。

 ただ最近はそれでも会えない日が頻繁なことから多恵子がちょっと不満を言い出すようになっていた。

だからこそよけい今日は多恵子の突然の都合を洋一は素直に受け入れたのだ。


 なにげなく洋一は再び二台の事故車に目をやった。スポーツタイプの派手な赤の乗用車と商業用の白の軽バン。対照的な二台だ。スポーツタイプの方は誰が見ても若いサラリーマンのモノだと分かる。いい車に乗ってるよな、と洋一は羨ましげに見つめた。洋一の車はそんなスポーツタイプではない。普通の大衆向けの白い乗用車。しかも旧型の中古。オレもそろそろ車買い換えようかな……とお金の余裕もないくせにふとそんなことを考えた。


 と、そのときそのスポーツ車の助手席に若い女が乗っているのが目に入った。

(へえ、女がいたのか!? 全く気づかなかった)

 流行の麦わら帽子を深く被り、顔を隠すように軽く俯いている。そのため目元は見えないが、その姿になぜか気になるモノがあった。

 

 なぜだろう? なんだか凄く気になる。やがてその女が体を少し動かしたとき、洋一の全身に鳥肌が立つような気がした。

(ア!? まさか!?)

 洋一はあわてて携帯を取り出し半信半疑の表情で、ある番号にかけていた。

「ハイ! もしもし……洋一さん? え? どうしたの?」

「……」

 着信表示で洋一と分かっているからだろうが、多恵子の甘えたような声が聞こえてきた。が、洋一の応答がないので声が途中から不安なものへ変化した。

「あ、ごめん、ごめん。ちょっと言い忘れたことがあって……」

洋一は話しながら、慌てて次の言葉を捜していた。

「なんだ。そうだったの。で、ナーニ?」

「いや、なあ……多恵子。……今何してる?」

「え? 何よ、急にそんなこと……ハハーン。わかったわ。本当は洋一さん。私の声がまた聞きたくなったんでしょう」


 多恵子はどこかぎこちないながらも、陽気な声だ。

「聞きたいよ。一日中聞いていたいくらいだ」

「キャッ!! もう。甘えん坊ね」

 多恵子は嬉しそうに高笑いしている。

「そうさ、甘えん坊だ。ところで、今どこにいるの?」

「……ウン! あのね。職場近くのコンビニの前よ。洋一さんもよく知ってるでしょ」

「そっか。あのコンビニの前ねえ」

 言いながら洋一は自分の声が震えるような気がした。

「ねえ、一体どうしたのよ?」

 多恵子も洋一の尋常でない調子に不安そうに尋ねた。しかしまだ彼女は気づいていなかった。今の状況に。

 

 やがて覚悟を決めた洋一は勢いよく言葉を発した

「多恵子!! いますぐそのまま顔を右側にずらしてみろ!!」

「エッ!? アッ!?」

 多恵子の叫びに近いような声が耳元に響いてきた。驚いてこちらを見ている多恵子の大きな眼がはっきりと見えた。やがてその顔の表情は曇り、青ざめてきた。電話のやりとりはわずか数メートル間のことだったのだ。

 フロントガラス越しにじっと疑いの眼で見つめる洋一だったが、多恵子はすぐににこやかな表情へ変化した。そしてこちらを見ながら満面の笑顔で手を振った。

(わざとらしい)

 そう思いながらも洋一は、多恵子のこの状況の意味に思いを巡らしていた。いったい多恵子はなぜあの車に乗っているのだろう? 多恵子の明らかなウソがばれた事で、洋一は疑いたくはないがどうししても悪い方に考えてしまう。


「あの……誤解しないでほしいの」

「誤解って?」

「……私のことを……」

 今度は哀しそうな顔で窓越しに見つめてくる。とにかく詳しく話が訊きたいと、洋一は思った。

「じゃ、今からすぐに俺の車に乗れよ」

 ぶっきらぼうに言った。

「ちょっと待ってよ。すぐにって」

「別にやましいことはないんだろ?」

「ええ、もちろんそうよ。でも変じゃない。こんなところで急に乗り換えたりしたら……」

 戸惑っている多恵子の声を無視するように、洋一はもう一度静かに繰り返した。

「俺の車に乗れよ」

 これでこっちに来なかったら、もう終わりだ。そう決心していた。


 わずかな沈黙の後、

「分かったわ」

 と多恵子はつぶやくように答え、電話を切った。そしてその真っ赤なスポーツカーのドアを開けると、こちらにゆっくりと向かってきた。ドライバー達の目がいっぺんに多恵子に集中していた。その中をさっそうと、モデルさながら優雅に歩いてくる。


 多恵子が洋一の車に手をかけた時、警察と話していた洒落男がびっくりした様子で駆け寄ってきた。

「多恵ちゃん。どうしたんだい。誰か知り合いかい?」

 多恵子にはおもねる様な顔だが、同時に車内の洋一に向けた視線には強い敵意が感じられた。

「ウン」

 多恵子のその答えづらいような一言で、男は二人の関係をすぐに了解したようだった。すこし悔しそうな表情で、

「じゃ、また電話するから」

 と優しい声で言い、その場を離れようとした。洋一はすぐに車から飛び出して、男に声をかけた。


「ちょっと待てよ」

 男はふいに立ち止まりこちらを不機嫌な表情で見つめた。

「何か?」

「あんた、多恵子とどういう関係なんだ?」

やりきれないような表情で多恵子は、

「もうやめてよ。洋一さん。私が後で説明するからこのまま帰りましょう」

 そう言って洋一をなだめようとする。

 一方男は不敵な笑みを見せながら、余裕ある態度でこちらを見据えている。

「まあ、ただのお友達で別になんでもありませんよ」

「なんだと!!」

 声を荒げながら、男に詰め寄った洋一だったが多恵子に阻まれる格好で止められた。

「ほんとうにお願いだから、もうやめて! 洋一さん」

 多恵子の真剣な表情を見ると、洋一も引かざるを得ない心境になった。


 周りは事故のことよりも、突然揉め出した男二人と美女の方に興味は移っていた。

「オ! オ! モメゴトか!」

 どこからかザワザワした声が聞こえてきた。やがて、さわぎに気づいた警官がこちらに近づいてきた。

「どうしたんですか?」

 三人の顔を順に見ながら、その年配のお巡りさんは先ほどまでいっしょに話していた当事者の男に説明を求めようとした。

「なんでもありませんよ」

 さっきまでの態度とは違い、今度は紳士的に答えていた。


 そのときちょうど車の列が動き出したようで、洋一の後ろの車がクラクションを大げさに鳴らし、車を動かすように促していた。

「あ!? まずいな。多恵子! 帰るぞ!」

 洋一はわざと、帰るぞという言葉を大きな声で強調した。そこにいる男に対して見せつける思いがあったからだ。俺の女だからな、とでもいうように。


 多恵子は黙ってうなずくと、そのまま洋一の車の助手席に乗り込んだ。そして麦わら帽をさらに深く被り、俯いている。その様子をスポーツカーの男がうらめしげに見ているのが分かったが、洋一は知らん顔をしていた。ただお巡りさんにだけ軽く会釈して車を発進させた。向こうには、事故のもうひとりの当事者である中年の男性が、こちらを妙な顔で見ていた。意味が分からん、とでもいいたそうな表情であった。


 しばらく二人とも車内で沈黙したままだったが、渋滞の現場からは遠く離れたころに気分が落ちついたせいか、洋一は前を向いたまま言葉を発した。

「体は大丈夫なのか?」

「ウン、なんともない」

そろそろ多恵子の説明を訊きたくなった。

「一体どうしたんだよ?」

「……」

 まだ黙っている多恵子だったが、唇を噛むように動かし、今から喋る準備に備えているようであった。

「あのね。正直に言うから怒らないでよ」

「ああ」

 だが、怒らない自信はなかった。とにかくそう言わなければ喋らないだろうとの思いからの、“ああ”だった。

「さっきの人だけど、お店のお得意さんの彼氏なの……」

「だからって、なんで多恵子がーー」

 それを聞いた途端、洋一は苛立ってきた。

「怒っちゃダメだって、さっき約束したじゃない。もう破るつもりなの?」

 多恵子は強い口調で、洋一の言葉を遮った。

「怒ってなんかない。ただ苛立ってるだけだ」

「それが怒ってるのよ」

 多恵子は少し睨むように洋一を見た。その顔をチラッと見た洋一はなんだか哀しく、同時に愛しい気分になった。

(ああ、やはり俺はこの女に惚れてるんだな。仕方ない。我慢しよう!)


「ごめんな。多恵子がそう言うならそうかもしれない。素直に聞くから話してくれ」

 哀願するような口調の洋一であった。多恵子は一瞬勝ち誇ったような表情をしたが、すぐにそれを引っ込めて、さっきまでの健気な女の子に戻った。


「そのお得意さんとは友達のような関係なの。だからたまに一緒に遊びに行ったりするのよ。で、ときどきさっきの人とも会うこともあるの」

 その光景を思い浮かべた洋一は、聞きながらも小さく燃え上がる嫉妬心を抑えるのに必死だった。

「で、今回もそのお得意さんと買い物に行ったんだけど、帰りに彼女が彼氏の――あの男の人を呼んで私と彼女を送らせたわけ。それでたまたま彼女の家の方が近かったから、彼女を先に降ろして、残った私を駅まで送っていく途中だったの」


 多恵子はなんでもない、当然のことを話すように淡々と自己の言い分を説明した。確かにそれを聞いていると、何も後ろめたいものはないような気がしてくると洋一は思った。が、何か引っ掛かる。どうしてか?

 やがてそれは先ほどの多恵子の電話での嘘にいきつく。なぜあのとき嘘をついたのか?

「分かったよ。ただ、まだ納得のいかない事がある。なぜ……さっき電話でオレに、用事ができたとか嘘をついたんだ?」


 一瞬困惑顔の多恵子だったが、すぐに俯き加減に自分の足元を見ながら言った。

「だって本当のことを言うと、かえって疑うかもって思ったのよ」

 何かやましい気持ちがあったからじゃないのか!! そういいたかった。しかしグッと抑え、洋一は落ちついた声で、

「そうか。確かに、何もなくても――多恵子が他の男と一緒に車に乗ってる姿を想像するだけで、なにやら気分が悪くなってくるな。でも嘘はいけない。もう嘘は絶対に言わないでくれ」

と言った。


 多恵子は優しく諭された小学生のように、無言で軽く頷いた。そしてなんだか眼差しがほんのりと赤くなり、今にも泣きそうな雰囲気になってきた。そのため、洋一は少し話題を変えようと思った。

「ところでさぁ、乗り心地はどうだった?」

 洋一の問いに多恵子はすぐには意味が分からず妙な表情をした。

「乗り心地って?」

「あ!? いや、男の車のことだよ」

「別にどうってことなかったわ」

 そういう多恵子の横顔は嘘を言っているようには見えなかった。

「フーン」

 

 洋一は表情には出さなかったが、内心喜んでいた。もしも多恵子がよかったとか言っていたら、あまり良い気持ちはしなかっただろう。しかし、

「でも普通の車より、少しはよかったわよ」

 付け加えるように言ったその一言で、洋一の心にはさざ波のようなものが発生した。

「普通の車って、もしかして俺のか?」

「やだぁ。洋一さんのじゃないわ」

 そういって笑いながら否定した。

「そうね。たとえて言うなら父の車かな……」


 洋一の脳裏にはすぐに多恵子の父親の車を思い浮かべることができた。彼女の家まで迎えに行ったときなどに何度も目にしていたからだ。少し旧型の高級セダン。明らかに洋一のより良い。あれが普通とは……。じゃぁ俺のは普通以下か? ちょっと傷ついた洋一。

「お父さんの車って高級車じゃないか?」

 ひがみっぽい調子で言う洋一だった。

「え? そうなの? 私、車のこと全然知らないから……」

 洋一の気持ちを察したのか、申し訳ないような声で答えた。そして多恵子はあわてて次の言葉を言った。

「私、洋一の車! 好きよ!」

 声には優しい愛情が籠っていた。

「ありがとう。俺もコイツは気に入っている」

 そろそろ車を変えようかな、と先ほど考えていた気持ちとちょっと矛盾していたが、気に入っているのは確かであった。


「ねえ。さっきから気になってたんだけど、これ何なの?」

 突然多恵子は目の前に置かれている小さな箱を指さして言う。自分がもらうはずのものではないかと自覚しているような、楽しげな言い方だった。

 洋一はしまったと一瞬感じた。これは今夜のデートの時に多恵子が喜ぶような言葉とともに渡そうと置いていたものだ。ささやかな演出をしたかったのだ。しかし思いがけないアクシデントで、置いたままにしたのを忘れていた。


 別に今渡してもいいのだが、なんとなくためらうような気もしてきた。それがなんなのかは自分でもよく分らない。とにかくまあいいや。

「あぁ。それ。実は今夜多恵子に渡そうと思っていたモノだ」

そう聞くやいなや、多恵子の表情は笑顔でいっぱいになった。

「開けていい?」

もう指先がテープに掛かっている。

「ああ。いいよ」

「ありがと」

 洋一の承諾を聞きながら、すでに包装紙を破り始めた多恵子だ。その破る瞬間が好きなことは洋一もよく知っている。夢中になって何かをしている時の多恵子の目はホントに愛らしい。この目に洋一はやられたのだ。


 ワォ!? と彼女は小さな歓声を上げた。ネックレスを手に取り嬉しそうに眺め、すぐに麦わら帽をぬぎ、それをほっそりした自分の首に掛けてバックミラーで確認し始めた。とても気に入っているようだ。

「どう? 似合ってる?」

 運転している洋一の横顔に向けて、こっちを見なさいと言わんばかりの笑顔に満ち溢れている様子だ。見なくても似合うことは分かっている。多恵子はそういう女なのだ。が、今見てやるのが礼儀である。洋一はすぐに多恵子の方に顔を向け、彼女の美しい顔を一瞥すると微笑んだ。


「ああ。すごく似合ってるよ」

 素直にそう感じた。その直後、多恵子の満足そうな笑顔を横目でチラリと確認した。

 そのとき洋一はいまごろになって気づいたことがあった。それは、今夜このままデートができるではないかと。

 多恵子の嘘の告白にはまだ納得がいかないところもあるが、一応信じることにしようと思った。であれば、すぐにでもどこかに食べに行きたい。


「なぁ。今からどこか食事に行かないか?」

「エ? ア、ウン! いいよ。そういえばお腹すいてきちゃった」

 多恵子はおなかを押さえておどけて見せた。


 二人はよく行ったことがあるファミリーレストランへ向かうことにした。店内は結構混んでいた。が、奥の方の窓際がちょうど空いていて、そこに座ることに決めた。窓に目をやると夕陽は沈み、すでに空は暗灰色になっていた。しかしビル群や飲食店等の灯りで街中は煌びやかに見えた。

「ねえ、何にする?」

 メニューを見ながら、機嫌よさそうに向かいの席の洋一に尋ねる多恵子だ。首には洋一からのプレゼントのネックレスが眩しげに光っている。

「そうだな……じゃ、この和風ハンバーグがいいな」

「私はビーフシチューにしようかな」

 店員を呼び、それぞれの料理にライスを付けて注文した。


 久々の二人きりの食事。洋一は多恵子に話したい、いろいろ楽しいことが頭に浮かんでいた。店員が注文を復唱して向こうへ行ったあと、多恵子を見ながら話しかけた。

「この前さぁ。取引先で面白い人と会って……」

 言葉が途中で止まった。携帯の小さな着信音が聞こえたからだ。あわてて多恵子は携帯を取り出し、メールを見はじめた。

「ごめん。メール入っちゃった。それで?」

 画面を見ながらも、洋一の話の続きを促した。

「……その面白い人っていうのは……」

 まだ話が進まぬ先から多恵子は笑っていた。洋一の話ではなく、メールの内容に笑っているのだ。

「オイ! オレの話聞いてるのか?」

 洋一はできるだけ優しい声でたしなめた。だが、何だかこれ以上話すのが億劫になってきた。急速に気持ちが冷めていく気がしたから。


「うん。ごめんね。ちゃんと聞いてるから」

 言いながらも多恵子はメールの確認や返信をやめようとしない。その様子を見ながら、前から多恵子はこんな感じだったかな? と洋一は訝った。久しぶりに会ったのに、なぜか思いが届かないような気がする。

 洋一が黙って自分を注視しているのに気づいた多恵子は、携帯を扱うのをやめてテーブルの上に投げ出すように置いた。チャリン、と鈍い金属音がした。銀のハート型のストラップが立てた音だ。それも洋一が贈ったものだった。


「ごめんね。仕事上のメールも入るから一応確認しておきたかったの」

 言葉では謝っているものの、どこかとげとげしい声だった。どうしてこれくらいのことで怒るの? そう非難しているようである。

 きまずい沈黙が漂ってきた。まずい。とにかく何か話そう。自分が大人げないのかな? 洋一は自らを抑えて、謙虚にならなくてはと反省した。


「いや、俺が悪かったよ。多恵子の忙しいのも分かってやれなくて。多恵子の方が俺の都合に合わせてくれてるのにさ」

 殊勝な洋一の物言いに多恵子も表情を和らげた。

「最近すれ違いが多いからかもしれないわね。もっと頻繁に会おうね」

 そういうと、洋一の手の甲にほっそりした自分の手を軽く重ねた。思わぬ手のぬくもりで洋一は、体を撫でられた飼い犬のように従順になった。そして今までの過去の多恵子との逢瀬を思い出し、体が食欲だけでなく、肉欲の方も求めているのを感じた。ああ、このまま食事だけで帰るのでは気持ちが納まらないな。洋一は顔を赤くしながら、

「今夜帰りによらないか?」

 とささやき声で尋ねた。これはいつも洋一が多恵子にラブホへ誘うときの決まり文句である。

「え? こんなところで……イヤン。もうそんな」

 言いながら多恵子も嬉しそうに顔を赤らめた。少し俯き加減にした表情は幾分熱っているようだ。数秒後、

「ウン。いいよ」

 と言いながら微笑んでいる。その表情を見て洋一はいますぐにでもここを出て、多恵子がお気に入りのラブホへ行きたくなった。

 ちょうど二人の気持ちが高まっているときに若い女性店員が料理を持ってきた。あわてて手を離した二人だった。店員はまるでそのことには気づかなかったように手際よく料理をテーブルに置き、

「ごゆっくり」

 と心地よい声で丁寧に頭を下げ、その場を離れた。


 並べられた料理はおいしそうな湯気と香りを発散していた。よく食べたことのあるメニューだが、好きな者同士で食べると格別の味がするものだ。さあ、食べようぜと多恵子を促した洋一だった。が、多恵子は少しはにかんだ表情をすると、先にトイレに行っておきたいと席を立った。たいていは食後にトイレに行くのが多恵子の習慣だったような気がしたが……。珍しいものだ。


 一人、料理の前でお預けをくらった格好だったが、洋一の心は舞い上がっていた。食事よりもその次のことに、である。

 久しぶりだから二人ともきっと燃え上がるぞ! そんな思いが頭の中を駆け巡っていた。ニヤつきそうになるのを必死に堪えながら、窓から見える華々しい、色とりどりの灯りを眺めている洋一だった。


 突然携帯の着信音がけたたましく鳴り出した。ビクッと体が反応し、洋一はそれが自分のではないのを確認した。鳴っているのはテーブル上の多恵子の携帯。置いたままなのを多恵子は忘れているようだ。青白い光が点滅しながら、取られるのを今か今かと待っている。周囲の目がジワジワと洋一の方に向いてきた。多恵子は行ったばかりだから、まだすぐには戻ってこない。


 どうしようか? 洋一は迷っていた。親密な仲ではあるが、勝手に取っても悪いような気はする。が、以前洋一が手を離せないときに多恵子が彼の携帯を取ったことがある。それに……周りに迷惑をかけるわけにはいかないから、との思いで彼女の携帯を手に取った。


「ハイ……」

 かすかな、消え入るような声で多恵子の携帯に出た。自分がいくぶん緊張気味なのに気付いた洋一。と同時に多恵子が自分の身内になったような気がした。

 突然男の大きな声が耳に飛び込んできた。

「多恵ちゃん。オレオレ。今日は楽しかったね。でも帰りはあんなことになってゴメンな」

な!? なんなんだ? こいつは? もしかして……。洋一は声の主が誰なのかをすぐに分かった。先ほどの事故車の男だ。どうやら相手は洋一を多恵子と勘違いしているようだ。多恵子の声が電話で男っぽく聞こえることがあるのは洋一もよく承知している。


 まいったな? 一瞬やるべきことを躊躇した。即座に自分の名前をはっきり名乗り、事情を説明して、あとで多恵子に連絡させる、と言うのが本来のやり方だろうとは思う。

 しかし洋一は男の言葉がすごく心にひっかかった。『今日は楽しかった』ってどういうことだ。多恵子の話だと送ってもらっただけのはずだが。途端に怒りが再び込み上げてきた。


 戸惑いと怒りの感情が交差し、沈黙したままの洋一をよそに男の声はなおも続く。

「なあ。あんな彼氏別れてしまいなよ。多恵ちゃんも言ってたじゃないか? おれのほうがずっと楽しいって。 な? また泊りがけで温泉に行こうよ! もっともっと楽しくなるから」

 さすがに洋一は男の言葉に脳天を打ち砕かれたような衝撃を受けた。まさか……そんな仲だったとは。大きく息を吸い込むと電話口へ怒りに満ちた言葉を放った。

「うるさいぞ。このトンマ野郎!」

「ハ?」

 びっくりしたような相手の声はそれ以後聞こえなくなり、そのまま通話がプツリと切れてしまった。電話に出た相手が多恵子ではなく、誰なのかをやっと気づいたのだろう。


 もう何も聞こえない携帯を耳から離し、ぼんやりとテーブルの元の場所へ戻した。恫喝するような声が付近に聞こえたのかもしれない。隣のテーブルの客が不審そうに洋一の方を見ていたが、そんなことは今の彼にはどうでもよかった。


 ほんの数秒間。ほんのわずかな言葉を聞く。その出来事で、まるで世界が変わってしまったような気がした。大事な何かがあっさりと崩れ去ってしまったのだ。多恵子との信頼関係。まさしくそれだ。

 夢の中にいるようなぼんやりとした表情で洋一はテーブル上の料理を再び眺めた。まだ湯気を立てていて、先ほどと何一つ変らない。しかし今ではまったく食欲がなくなり、目の前のモノはまるで店頭に飾ってある、食品サンプルのようだ。


 一体これからどうしたらいいのだろう?


 重苦しい思考が洋一の頭の中をグルグル回っている。しかも答えは出てこない。優しく、頼りがいのある人、か。それがほんとうの自分なのか? やがて多恵子が戻ってきた。

「お待たせ!!」

 洋一にはトイレから出た、多恵子の表情はなぜかとても輝いて見えた。多少化粧直しをしてきたのかもしれない。

「アア……」

 返事もしたくない気がしたが、無理やり声を出すと、小さなうめき声のようであった。


 多恵子は怪訝な表情で首を傾げた。

「どうかした?」

「いや、べつに何でもない」

 納得のいかない様子だったが、彼女はそのまま席に座った。

「じゃ、食べようぜ」

「ウン」

 直後、自らの携帯をチラッと眺めた多恵子だったが、それを確認するでもなく、無造作にバックの中に仕舞い込み、すぐに料理を美味しそうに食べはじめた。


 洋一の方は一応食べてはいるのだが、ただ口の中に入れているだけだった。

 しばらく二人は無言で食べ続けた。

「ねえ……一体どうしたのよ?」

 急に多恵子はビーフシチューを食べるのをやめて洋一の顔をジッと見つめた。

「だから何でもないって言ったじゃないか」

 穏やかに微笑しながら洋一は答えた。多恵子はシチューの中のスプーンを意味もなくグルグル動かしている。洋一の言葉に素直に納得してないようだ。


「何だか急に黙り込んじゃってさあ。変なの?」

 苛立ちを含んだ言い方だった。

「ごめん。急に気分が悪くなってきたせいかもしれない」

 これだけ言うのが精いっぱいであった。

「そう。じゃ、しょうがないね」

 あきらめたのか、淡々という多恵子の言葉には、洋一のことを気遣っているような感じは見受けられなかった。


 やっぱりもう終わりなのか……。


 洋一の気持はそちらに傾きはじめた。


 ひととおり料理を食べ終わり、まだ食べている多恵子をぼんやりと眺めた。これが最後の食事かもなと彼は思った。帰りの車の中で別れを切り出すことを考えていたからだ。

 多恵子が食べ終わり、コーヒーを二つ注文した。ここのコーヒーはおいしいと多恵子はよく言っていたものだ。彼女は満足そうに飲んではいたが、洋一は機械的に飲んだだけだ。

「帰ろうか?」

「ええ」

 互いに一言ずつ言葉を発して立ち上がった。会計を済ませて洋一は、多恵子と連れだって店を出た。


 車内でも会話はほとんどなかった。普通なら洋一が何か話をし、それを聞きながら多恵子が笑ったり、思ったことを口に出し、楽しい雰囲気が続いていくものだが、今はそうではない。

「ねえ、これからどうするの? 行くの? 行かないの?」

 突然多恵子は不機嫌な声で、運転している洋一の横顔へ尋ねてきた。


「あ? そうだったな。行くか?」

 洋一はラブホのことはすっかり忘れていた。あんな電話を聞いたあとでは、そんなことはぶっ飛んでしまっていたからだ。だが多恵子からそう言われると不思議なことに、体はみさかい無く反応してくる。別れようと思っている相手に、体は未練を感じているのだろうか? 自分を情けなく思っていたら、多恵子の方が先に断ってきた。


「もういいわ。やめましょ。あなた気分が悪いんでしょ。家に帰ってゆっくり休みなさいよ」

まるで頭の悪い生徒に呆れている、意地の悪い先生のような言い方だった。

 カッと頭に血が上ったようになった洋一は前を向いたまま低い声を出した。

「なんだよ。その言い方は」

「あなたのために言ってるのよ」

 多恵子も負けずに言った。

 怒りが頂点に達して、洋一は覚悟を決めた。


「ちょっと話がある」

「何よ。早く言いなさいよ」

 チラッと多恵子の顔を一瞥し、また前を向いた。

「もう終わりだ」

 洋一は勢いよくそう言い切った。言ったあとには、なぜかスッキリした気分になった。

「終わりって?」

 ポカンとした表情で洋一の横顔を見つめている。

「お前との関係が、だ」

 洋一ははっきりそう伝えた。これでいいのだ。


「え!?」

 その言葉を聞いた多恵子は意外にも眼に涙を浮かべて嗚咽しだした。付き合ってだいぶなるが、泣いてる多恵子を見たのは滅多にない。

「い、いきなり、そんなこと、ひどいじゃない」

 なんだか急に多恵子がいたいけな少女のように見えてきた。こんな傷つきやすい美少女になんてことを言ってしまったんだろう。直後のスッキリ感が一瞬に後悔へと変わった。

(オレ、やっぱり間違っていたのかな。今ならまだ間に合う。謝ろう!)


 洋一は小さなため息をつき、ごめんと言いかけたそのとき、あの、携帯の着信音がけたたましく鳴りだした。多恵子はすぐにバックから取り出した。

「ハイ! ア、ターさんなの? え?」

 涙を拭いながら携帯を耳にあてた多恵子だったが、即座に驚いたような表情をし、今度は洋一の方を向いて恐ろしく冷たい視線を向けた。

「わかったわ。また電話するから……じゃ」


 多恵子は電話を切った後、フンと一言いうとそのまま前方を睨むように見ていた。

 洋一自身、電話の相手が誰なのかをすぐ悟った。きっとあの男だ。何を話したのかわからないが、多恵子の様子から察すると、きっと俺のことだろう。あいつからの電話より先にあのときのことを謝るべきだったかな。今の状態だとオレの方を悪く思うかもしれない。


「あのなあ。多恵子。さっきお前の……」

「もういいわ。あなたの望みどおり別れましょ。すぐに○○駅の方へ向ってよ。私、帰るから」

 洋一の言葉をすばやく遮り、嫌悪感をむき出しにした。

 ヘッドライトの照らす暗闇を二人とも意味もなく見つめ続けた。洋一は食べる前のほんの短い高揚がなんだか懐かしく思われた。


 多恵子の言ったとおり、車を○○駅の方へ走らせながら洋一は多恵子の怒った理由を考えていた。無断で彼女の電話を取ったからなのか? それとも、彼女の隠しておきたいことまで知られてしまったからなのか。もう終わりならどうでもいいことなのかもしれない。しかし洋一は言っておきたいこともあった。


「勝手にお前の電話を取ったのは悪かったよ。それは謝る。ただ。さっきの電話の相手が誰だか知らないが、男といっしょに温泉に行ったという話には驚いたよ。それはあんまりじゃないのか」

 落ちついた声で話していたのだが、多恵子はその話を聞きながら、怒りのために昂揚して頬がだんだん赤くなっていた。

「ちょ、ちょっと、何の話なの? 失礼じゃない。それは違うわ。あなたの聞き違いよ」

「そうなのか?」

「そうよ。なぜ私がそんなことしなきゃいけないの? あなたという人がいるのに……」

(俺の聞き違い!?)

 多恵子の真に迫った言い方に、洋一はわからなくなってきた。そう強く自信を持って多恵子に言われると、なんだか洋一自身のほうが間違っているような気がしてきたのだ。さらに多恵子は一段と語気を強めて言った。

「洋一さん。私を信じてくれないの!?」

ジッと洋一の横顔を見つめてきた。

 確かにさっき、あの男は温泉のことを話していたと思うのだが、ただ多恵子を誘っていただけなのか? 

 分からない。ただ多恵子を信じたい気持ちもあるし、もしそうなら俺が間違っていたことになる。

「信じるよ」

 洋一はそう、ひとことつぶやいた。そして多恵子の方をチラッと見ながら、また前方のヘッドライトが照らす暗闇を見つめた。

「ごめんな。俺の勘違いだろう。俺の嫉妬からでた妄想に違いない」

 多恵子は確かめるように洋一の横顔を見て、一言呟いた。

「ありがとう。安心したわ」

 そして軽くため息をついた。

「じゃ、さっき……『終わり』って言ってたことは?」

「お前が許してくれるなら、取り消したい」

 多恵子はクスっと笑顔を見せながら、

「許してあげる」

 と言い、洋一のホッペに軽くキスした。さっきまで泣いてた多恵子が、今は艶やかな笑顔で洋一を見つめている。なんだか多恵子のペースに乗せられているような気もするが、それもいいような気分である。多恵子に心身ともに支配されている。それもいいかもな。


「じゃ、仲直りもできたから……行こうよ」

 恥ずかしそうな表情をしながらも、多恵子は洋一の左腕を愛撫して誘ってきた。

「ああ」

 わざとぶっきらぼうに答えながらも、洋一は嬉しさが込み上げてくる。よかった。多恵子と別れなくてよかった。


 多恵子の見事な肢体が目に浮かんできて、体中に心地よいしびれがきていた。洋一はアクセルを踏む足が、自然に強くなるのを感じた。早くラブホへ行きたいからだ。早く多恵子を味わいたい。そんなスケベな思考で洋一の頭の中はいっぱいだ。


 道中慌てていたからか、洋一は交差点で右折するとき、直進してくる車が予想よりスピードが出ていて衝突しそうになった。相手の車は急ブレーキで停止し、激しくクラクションを鳴らしたが、降りてくることはせずに、洋一の車の脇をそのまま通り過ぎていった。運良く事なきを得たようだ。そのとき夕方の事故のことを思い浮かべた。多恵子にしてみたら、“二度目”になるところだった。


「慌てないで。大丈夫よ」

 衝突しそうになる瞬間。二人とも恐怖を感じたが、多恵子はすぐに気を取り直して笑いながら洋一をなだめた。意外と女の方が精神的に強いのかもしれない。

「ゴメン。あぶなかったな」


 そのまま車は順調に多恵子のお気に入りのホテルへ到着した。入口のけばけばしい暖簾を通り過ぎると入口付近が結構空いていたのでそこに止めることにした。

 バックで駐車枠に入れたところで、ハンドブレーキをひいたのだが、なぜか急にエンジンが止まってしまった。

 あれ? まだエンジン切ってないけどなあ―

 不審に思い、何度かキーを回したのだが、カチ、カチと軽い音がするだけでエンジンは動こうとしない。バッテリーが悪いのだろうか? あわて気味にエンジンを起こそうとしている洋一を、多恵子は不安そうに見ていた。


「ねえ、どうしたの? 動かないの?」

 それからその場に五分程あれやこれやするのだが、車はウンともスンとも動かない。まずいことになった。その間数人のカップルが横目でこっそり笑いながら通り過ぎて行った。

「ねえ、もう私帰るわ」

恥ずかしさといら立ちが高まっていた多恵子は、悪戦苦闘している洋一を冷たく一瞥した。

「帰るって? ここからか?」

 作業をやめて多恵子の方に向き直り、びっくりしたような表情をした。急のアクシデントではあるが、まさか多恵子がそんなことを言うとは思ってもみなかったのだ。


「ちょっと待てよ! JAFを呼ぼう」

「やめて!! 恥ずかしいじゃない」

 怒り心頭の多恵子だ。

「悪いけど私帰る。近くにコンビニあるから、そこからタクシーで帰るわ」

 そういうと車のドアを開け始めた。あっさりと帰る様子を見せる多恵子に、洋一は興ざめしたような気分になった。なんでもう少し待てないのか。俺はどうでもいい男なのか? 


 いいたい気持ちを抑えて、彼は財布から三千円を出して多恵子に見せた。

「分かった。じゃあこれ、タクシー代に使ってくれ」

 静かな口調でそういうと多恵子は最初拒否していたが、やがてありがたく受け取った。

「ありがとう。今日はごめんね。明日早番なのよ」

 お金をやると機嫌がよくなる。これは多恵子の特徴でもある。それでも洋一は多恵子が好きなのだ。

「ああ」

「じゃ、さよなら」

 ホテルの駐車場から出ていく多恵子の綺麗な後姿を見ながら、何か哀しい気分になる洋一であった。今日はホントついてない日だな――


 それから三十分後、JAFの職員から車を動かせるようにしてもらった。やはりバッテリーが悪かったようだ。あくまで応急処置なので、帰宅するまでエアコンなどは使わないようにとの注意を受けた。帰るときJAFの人は笑いをこらえているようであった。どんな想像をしていたのか分からないが、こんなところに一人でいる男が可笑しかったのだろう。


 一人寂しくホテルを出ると、多恵子が言っていたコンビニが見えた。まさかもういないだろうな。そう思いそのまま通り過ぎ、自宅に向っていたのだが急に尿意をもよおしてきた。そういや夕方会社を出る前にトイレに行ったきりだった。あれこれアクシデントが重なりトイレのことを忘れていたのだ。

 洋一はたまらなくなり、少し先にある別のコンビニで用を足そうと決めた。やがてそこに到着してあわてて店に入ると、ちょうどトイレは空いていた。どうにか間に合った、との思いで済ませた。


 気持ちもスッキリして、せめて何か買い物でもしていこうと店内をぼんやりと見ていたところ。そこへ思いがけない人物が店に入ってきた。多恵子である。しかも見たこともないサングラスを掛け、先ほどとは違うジャケットを身につけている。変装しているつもりらしいが、洋一にはすぐに分かった。一体何のために。さっきは小さなバックしかもってなかったはずだ。一体どこで着替えたのだろう? 


 洋一はあわててトイレの入り口に戻り、手洗い場のところから窓ガラス越しに多恵子を見た。

(なんでここにいるんだ。もう帰ったのじゃなかったのか?)

 突然出くわすのは夕方の事故から二度目である。一体何をしているのだろう? 洋一は驚くというより不審に思った。


 多恵子はまだ気づいていないようだ。夜なので洋一の車があることも分からずに店に来たのだろう。一人か? また疑いの心が頭をもたげていた。心臓がバクバクするような心境で店内の多恵子を見つめる。店内からはこちら側は見えない。


 多恵子が言っていたようにタクシーか? いやそういう雰囲気じゃない。誰かに車で乗せてもらったのじゃないか。疑いがますます強くなってきた。

 ジュースとパンを幾つか買い込むとさっそくレジでお金を払っている。そこへまた外から若い男が入ってきた。視線は多恵子を見ているような気がする。男が多恵子の方向に歩いているとき、まったく関係ない人間であってほしいと願った。


 しかし洋一の願いむなしくレジの多恵子に近づき親しげに何か話している。しかも多恵子の肩に手を置いているのだ。一体多恵子には何人の男がいるんだ。さすがに洋一もこれ以上見ているのは怒りというよりつらくなってきた。しかもなんだか覗き見をしているような気もするのだ。なんで俺がこんなことをしているのだろう。いよいよおわったようだな。ただ多恵子の服装を見ていると、なぜか可笑しさがこみあげてきた。変装はしているものの、洋一がプレゼントしたあのネックレスはまだつけたままなのだ。よほど気に入っているかな? 洋一は苦笑したまま二人の様子を見ていた。


 このまま二人の前に突入してもいいのだが、多恵子のことだからまたもや何か苦しい言い訳をするだろう。もう少し様子をみたい。洋一はそう決心した。

 やがて二人は仲良く手をつないで店を出た。多恵子の空いた手にはコンビニの袋がユラユラと揺れていた。


 洋一が用心深くコンビニを出るとき、ちょうど二人は車に乗り込むところだった。またもや男の車は国産のスポーツカーである。洋一の車は他車の陰になる位置であった。間違いなく気づいてない。

 二人の乗った車が前の信号で止まっている間にすばやく自分の車へ飛び乗った。一台挟んで多恵子たちの車をつけはじめたとき、洋一の心は多少痛んだがそれでもこれは必要なことなのだ。決して悪いことではないと自分に言いきかせた。なぜなら――今では実質的と言えるかどうかは分からないが、正当な恋人は俺なのだから。


 車は街中をただグルグル回っているだけのように思えた。深夜のドライブを楽しんでいるだけか? もしかしたら多恵子は本当にただ友達感覚でいるだけなのか? そんな思いを一瞬抱いたが、やがてさきほどのコンビニでの仲良く手をつないでいた光景も思い出された。いや違う。絶対に何かあるはずだ。たとえこれから何もなくてもこんな時間に男と二人で一緒にいること自体許せない。様々な考えが交錯するなか、多恵子たちの車がある方向に向っていくのがだんだん分かってきた。


 それは先ほどのラブホテル。まさかとは思ったが間違いなくそちらにむかっているようだ。改めて多恵子という女の感覚が分からなくなってきた。

 

 とうとうホテルの前に到着し、多恵子たちの車は慣れた感じに入り口を通過していった。ここまでくると悲しみというよりも呆れの気持ちが強かった。裏切りはいつからだったのか? 考えても分からない。もしかしたら付き合っていた当初からかもしれない。そういう女だったのか?

 

 二人の車が中に入ったのを見届けたあと、そのまま車をまっすぐに走らせた。家に帰ってから意外に自分が冷静なことに気づいた。但しそのまま何もせずに布団で眠ろうとしたが、ほとんど眠れずじまいで夜が明けた。


 翌日も洋一は仕事が相当に忙しかった。それが良かったのかもしれない。いろいろと思い悩む暇がなかったからだ。仕事の合間にときどき洋一の携帯には多恵子からのメールが届いていたが、全く無視した。電話の方も取らずに留守電にしていた。多恵子は元々留守電に入れるのは嫌いな方なのでメーセージは無かった。


 次の日の昼間は何も多恵子からメールや電話も無かった。もしかしたら自分の行為がバレたと感じたのかもしれないな、と洋一は考え始めた。それならもうそのままオサラバか? 今までの恋人関係が自然消滅か? なんだかそれはあまりにもいただけないような気もしてきた。アイツとはいろいろ楽しいこともあったし、確かに俺は多恵子を愛していた。それは本当の気持ちだった。そのことを思うと、やはりけじめは必要だ。付き合い始めたときの感情を思い出し、彼は夜に自宅から別れの電話をすることに決めた。


 考えてみたら、あの事故車に乗っている多恵子を見つけたときがある種のシグナルだったのだろう。多恵子の表情の変化。疑いながらも、どこかで信じていたい気持が強かった。一人分の夕食を準備しながら、そんな思いを何度も反芻していた洋一だ。

 いつもより多少手の込んだ食事を作り、それを見事にたいらげた。そういえば俺の手料理をほめてくれたこともあったなあ。満腹感のためか、気分も幾分落ち着いたようだ。今がちょうどよい頃かもしれない。さあ、そろそろ電話するか。


 多恵子の着信履歴からコールボタンを押した。何度か呼び出し音が聞こえたが、当人は出ずに留守電になった。

(今頃どこかの男と会ってるのだろう)

 洋一はすぐに電話を切った。しばらくしてかけ直すことにしたのだ。


 それからすぐに玄関でコンコンとノックする音がした。あの叩き方は多恵子だと確信した。まさか来るとは思わなかったな、と意外さと緊張が高まってきた。が、却ってこれが一番よい別れ方だと思い直し、洋一はハイと普段通りの声を出してドアを開けた。

 いつもとは違い、ジーンズに地味なジャケットを着ている多恵子。どこか決まりが悪そうに立っている。洋一の顔が見えるやいなや、多恵子は殊勝な様子で言った。

「ちょっと入っていい?」

「ああ」

 ドアを大きく開けて、多恵子を優しく促した。

「おじゃましまーす。ここに来たの、久し振りぃ」

 おどけた調子で言う多恵子だったが、洋一は黙ってまま居間のテーブルに座るように手で勧めた。

 夕食を片付けるとき、多恵子は黙って一緒に手伝っていた。洋一としてはしてもらいたくなかったが、そのままさせていた。手慣れたものである。だいぶ以前多恵子はよくしていたのだから。


「コーヒーでも淹れようか?」

「ウン」

 奇麗に片付けたあとのテーブルを挟んだ二人には、甘い恋人の会話のような雰囲気が漂い始めた。まだ恋人と言えるのかもしれない。

「おいしいね。洋一さんの淹れたコーヒー」

 コーヒーカップを持ちながら笑顔を浮かべている。しばらく二人は無言で見つめあった。が、多恵子はその美しい顔を歪めてすぐに俯いた。

「ごめんなさい」


 多恵子の静かな声は狭いアパートの中で洋一の耳にはとても重く響いた。その声の後も一分ほどは沈黙が続いただろうか。

「俺の方も悪かったよ。ほったらかしてさ」

 やっと言葉が出てきた。多恵子は突然泣き出した。

「ほんとにごめんね。あのとき洋一さんの車が後ろから来てるの、ホテルに入る直前に気付いたの」

 それを聞いた洋一はびっくりした。気付かれてたんだ。俺らしいや。

「そっか。俺も尾行なんかしてごめんな」


 多恵子は泣き崩れていた。

「ウウン。ほんとに私だけが悪いの。これまでのことごめんね」

 泣きじゃくりのため言葉がはっきりしない。その様子を冷静に見つめながら、この女は何をしても様になると洋一は思っていた。まるで恋愛ドラマのヒロインのようじゃないか。

「もういいさ。とにかく……これまで楽しかったよ」

「私もそうよ」


 再び沈黙が漂い始めた。

「別れよう」

 ついに洋一は別れの言葉を言った。今度は多恵子も黙って頷いた。洋一はゆっくりと手を出して多恵子に握手を求めた。多恵子は微笑みながら手を出し、強く握りしめた。

「ねえ。最後のキスをしよ」

 甘えた声を出し、洋一の首を両手で抱きしめると熱いキスを顔中に浴びせてきた。洋一は恍惚とした感情を味わっていた。もう二度とこんないい女には巡り逢えないかもな、と別れの悲しみがこみ上げてきた。


 そこへけたたましい着信音が鳴り響いた。多恵子のだ。多恵子はすぐさま普段の表情に戻りかけたが、洋一に遠慮したのか取るかどうか躊躇していた。そしてすぐさま電話を切ろうとしたが、洋一のほうがそれを制した。


「いいよ。俺に構わなくていいから」

 洋一は優しく言った。すると多恵子は笑顔でもう一度洋一の唇に思い切りキスをして、素直に電話に出た。もういつもの多恵子である。どうやら相手は男のようだ。洋一の前なので多少遠慮はしているものの、多恵子の声はとても艶っぽい。それを聞いていると先ほどのロマンチックな別れが興ざめしていくような気がした。が、もう文句をいう間柄じゃない。


 そんな洋一の心境に気付いたのか、多恵子は電話をそこそこに切り上げた。

「じゃ、洋一さんも元気でね」

「ああ、多恵子もな」

そう笑顔で言うと多恵子は帰りはじめた。

「さよなら」

「さよなら」

 バタンと入口の戸が閉まり、多恵子の姿が見えなくなった。しかし扉の向こうですぐにまた携帯の着信音が鳴り、多恵子の弾んだ声が聞こえてくる。笑い声も含んだ多恵子の声はやがて聞こえなくなっていった。


 しずまりかえった部屋の中で、本当の孤独がしのびこんできていた。

(しばらくは寂しさが友達のようだな。なーに! 女なんてすぐに捕まるさ)

 強がりな思いではあったが、不思議と寂しさが紛れるような気がした。

 が、戸棚に立て掛けた、多恵子とのツーショットの写真をたまたま目にしたときは不覚にも涙が流れてきた。二人はすごく嬉しそうに微笑んでいる。


 なんだなんだ? 俺はそんなヨワッチイ男なのか? そうじゃないだろう。

 洋一はそのポートレートをしばし眺めていたが、踏ん切りがついたようにうなずくとゴミ箱の中にストンと落とした。


 床についた後もしばらく眠れなかったが、明日の仕事のことを無理やり考えていた。すると心地よい眠気に襲われた。

 そのうち、うつらうつらする意識の中で、洋一はあることを繰り返し考えていた。


 いつかきっとよいアクシデントもあるはずだ。きっとそうだ、と


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