XV 準備体操をしないと怪我をします
雲一つなく晴れ渡った天蓋から照り付ける陽光で輝く透き通った翡翠の粒砂、見渡す限りの青い海。
遂に到着した東の翠砂を目の当たりにしたリーブラは娘と飛び跳ねながら歓声を上げた。
「海だぁーっ!」
「うみだー……。」
「こら、変なこと教えないで下さい。」
熱い日差しの下、海に向かって諸手を上げながら叫んだ父娘に声をかけたクラリッサスは日傘の下で酷い暑さに呻いた。
まぁ、長袖ロングスカートという所謂淑女らしい服装のままでいるのだから自業自得と言っても差し支えないが……。
そんな恰好の彼女は当然目立つ。
涼を求めて水着―――……と言っても薄手の古着だが――で遊ぶ人々の中でただ一人厚着して、何しに来たのだと言いたそうな視線が刺さる刺さる。
「見てるこっちが暑いぞ、お前。」
「奥様、恐れながら平民となったのですからこういった風習を受け入れても良いのではないでしょうか?」
「それは、分かっているけれど……。」
日傘を差していたライカは着古したシャツとズボンを水着にしている。
普段の服装では分からないことだったが、彼女は膝から爪先にかけて美しい獣毛に覆われていた。
クラリッサスは中々肌を晒すふんぎりがつかないらしい。
古着とはいえ切り詰めてあるため肌の露出はそれなりに多く、貴族の貞操観念が抜け切らない彼女は頬に朱を差して目を逸らした。
「…………まー、あーして並ぶと旦那様とリコッテが夫婦のよーですねー。」
「ええ!?」
「意外とお似合いですねー。」
「ぐぬぬぬ……!」
正直に言って、頭一つ分小さいリーブラの隣にリコッテが並んだとしても精々姉弟にしか見えないが、乙女フィルターがかかったクラリッサスの目にはそれらしく映ったようだ。
ボソボソと煽るライカに乗せられ、尋常ならざる動揺を見せた彼女は体を揺らす。
「おやぁ? ブラック様も並ぶとまるで祖父に孫の顔を見せに来た夫婦にも……。」
「ひぎぃ!」
「おーっと、そう見えないアッシュ様も加わることで更に家族らしさが。」
「うぅーっ、散りなさーい!! 自由行動っ! 散開ーっ!! リコッテも休暇なのですからリーブラに付いていなくてよろしい!!」
「はい? ですが……。奥様、そんな押さなくとも。」
「フッ……乙女ですね、奥様。さて。」
慌ただしく服を脱ぎ散らかして駆けていったクラリッサスを見送ってから日傘と服を流木の影に詰めると、ライカは髪を二つに纏めて海へ歩き出した。
形は同じでも人族に比べて少し皮が硬い足裏をしているが、やはり熱いものは熱いらしく段々と足は早まる。
駆け足になっていよいよ走り出すだろう瞬間、ライカは飛び込むように体を投げ出して手を突き、四足で颯爽と駆けた――!
手で体を前に送り出し、次は引き付けた脚で蹴り出す。
「とあーっ!!」
美しいフォームで砂浜を切った彼女は目を丸くしたリーブラたちの前で大きく跳躍して海面に着水した。
飛び込んだ勢いで水中を切る彼女は日差しに焼かれて熱くなった肌が冷える爽快な気持ちを堪能する。
どこまでか知り得ることは難しいが、海底の砂も翠砂だった。
水中はブルーとエメラルドグリーンの淡青な色彩が揺らり揺らりと混じっては別れ、混じっては別れを繰り返している。
近くを泳いでいた亀人族の男性に目礼し、彼女は水の抵抗で下がった水着を片手で抑えながら底を蹴って海面に上がった。
「っはぁ……!」
勢いよく浮上して頭を振ったライカは砂浜を振り返る。
中々の飛距離だった。
浅瀬にいるリーブラたちは拍手しながら笑っている。
主たちを楽しませられたようで何よりとしたり顔の彼女は手を振り返した。
三人の傍にリコッテの姿はなく、角が右に左に海面を滑って近付いてきている。その速度ときたら正に魚の如く。
「本当に何でもできるんですから……。って、何? 何ですか?」
接近するなり周囲を回り始めた謎の行動に身構えたライカは徐々に潜行していく角を目で追い続ける。
完全に潜った角に続いて沈んだライカは目の前にいたリコッテに驚いて声を上げた。
吐き出された空気が泡となって視界を覆う。
「げほっ、うえっ……。」
「おお、弟子よ。死んでしまうとは情けない。」
「死んでません。一体何だというんですか。」
「折角の休暇なのですから、弟子の成長を確かめたい親心に付き合ってもいいではないですか、よよよ……。」
露骨な嘘泣きをするリコッテに胡乱な視線を投げたライカは水面下で胸を鷲掴みにした手を打ち払って沖に泳ぎ出した。
「同じ食事、同じ修行をしたというのに、結局貴女は色々小さいままですね。」
「リコッテがおかしいんです。鹿人族は特別身体の成長著しい一族じゃないでしょうに。」
コンプレックスに思ったことはなくとも敢えて指摘されると気になるもので、文句を呟いたライカは眉をしかめた。
ふと思い出してみれば、リコッテと二人で歩いた時は視線の大半が彼女に向けられていた気がしないでもない。流石のライカはそこはかとない苛立ちを覚えた。
栓のない思考に嵌まったことに気付いてどうでもいいことよと切り捨てると背を撓ませる。反動で一気に水面下へ突入し、体全体を波打たせて泳ぐライカの後にリコッテも続いて二人は深い方へと進んでいった。
あまり行き過ぎると冒険者の守っている海域を超えてしまうため推奨されない。水中戦闘を得手とする冒険者は稀少で、どうしても防御範囲が狭くなってしまうからだ。
「(遠洋の魔物を連れ帰る訳にもいきませんね。引き返しましょう。)」
一度海面に出て息継ぎをすると、顔に張り付いた濡れ髪をかき上げて岸に向き直った。
今度は顔を出したまま手足を動かして進む。狼人族や犬人族伝統のイヌカキ泳法だ。
ライカのように人族に近いと速度は出ないが、アッシュのようにかなり狼の血が濃い者は凄まじい速度が出るのだとか。
「ライカ、少し磯の方へ行きましょう。水遊びはお腹が減りますからね。」
「ええ、分かりました。」
進路を十時方向へ曲げ、人が少ない磯へ向かったライカとリコッテの手には銛などないが、どうやって漁をするつもりなのだろうか。
しかし、優秀なメイドである彼女たちならばそれも容易いことに違いない。
「あれが?」
「そうだ。あの小さい男と眼鏡の女を襲撃しろ。」
「他にも色々いるようだが……?」
「そちらは我々で抑える。狂犬がようやく離れたチャンスを無駄にするな。」
「ああ。」
長い年月を経て形成されたのであろう洞窟の入口に身を隠した者たちは岸辺で戯れている観光客を見詰めて穏やかならぬ会話をしていた。それぞれ戦装束で固めた彼らの眼光は酷く冷たい光を放っている。
人々が開放的な気分で羽を伸ばすための海において場違い極まる彼らはとある宗教団体の後ろ暗い部分を担う存在だった。
聖霊教の圧倒的な勢力の影でひっそりと生きている彼らだったが、それでも情報網は方々に伸ばしていた。その情報網に精霊と近しい可能性がある人物の話が引っかかって何か月経ったか。
探りに入れた裏の人間が悉く消息を絶ち、それがどうやらエルフの仕業と分かってからは遠巻きに監視することしか出来ずにいたが、つい先日の渡河の辺りでエルフがいなくなったのだ。
「奴が本当に精霊と交信できるようならば殺せ。聖霊教の御輿を増やされると面倒だ。」
「分かっている。」
世界の闇が、何も知らずにいる者たちに牙を剥こうとしていた。
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