Ⅸ 睦事
「さて、どうしたものでしょうか。」
無断で夜遊びして心配をかけた夫をじっとりと見下ろすクラリッサスは柔らかい頬肉に足指をぐりぐり押し付けてそうぼやいた。
昨晩は怒りが収まらなかったため、毛布一枚持たせて寝室から締め出したが、何とこの男は平気な顔でリビングのソファで寝ていた。
心配もかけて、メイド二人には面倒までかけていながら反省が見られない。
全力で蹴り飛ばしてやろうかとも考えたものの、クラリスでは大して効果がないことは明らかだからやめておいた。
「きちんと反省してるんですか?」
「もひろんしへます。」
正座したリーブラを足蹴にしていた彼女はそれをやめると、溜め息を吐いてソファに寝転がった。
昨晩は急いで馬車を出して二人を探し回るはめになり、彼女は非常に疲れてしまったのだ。
肉体の損傷や生命力の消耗とは異なり、疲労は魔術で癒すことはできない。
それこそ絶命寸前まで追い込んでしまえば効果があるのかも知れないが、未だにそれを試す馬鹿は現れないのである。
重く感じる身体を横たえてしまえば、そのまま沈んでいくような感覚が彼女を襲った。
「少し脚を揉んで下さい。あなたのせいで疲れました。」
「はい、喜んで。」
「良い雰囲気ですね。これは仲直りできそうです。」
「奥様はお怒りになられるとそのまま顔にお出しになられますから、早くご機嫌を直して頂かないと。」
そっと扉を閉めたライカとリコッテは一先ず胸を撫で下ろした。
主人の生活をより良くするためには時にそうして首を突っ込むことも必要なのである。
特にリーブラとクラリッサスのような不器用な二人は色々とフォローが必要であったりするのだ。
それでも、今までは新婚ほやほやで非常に仲が良かったが、これからは真に夫婦仲が試されてくる時だろう。
自由奔放な夫と生真面目な妻がどれだけ互いを理解しているかによって結果が変わる。
「さぁ、もう少し時間が経ったら紅茶をお持ちして、少しだけ昨晩の奥様の様子を漏らしましょう。」
「そうですね、リコッテ。」
「あー、食事の前に一つ良いかな、諸君。」
リーブラが手を打ち鳴らして注目を集めると、こうして改まって話をすることは初めてのことで、一同は関心を露にした。
ただ、クラリッサスだけは物知り顔で澄ましたままということは、昼間の間に二人で話したことなのだろう。
「俺たちが帝都に来てから長いが、秘境探索やらの諸収入でそれなりの蓄えができた。そこで、休養を兼ねて暖かい地方へ旅行しようと思う。」
「ほぅ。」
「あらぁ、いい考えねぇ。」
「もちろんライカとリコッテも連れていく。その間のこの家の管理はゴルドーに頼むつもりだ。」
ライカとリコッテは少し目を見開いて驚き、静かに頭を下げる。
パチパチと薪が爆ぜる音を背にしたリーブラは食事を始めると、旅行先の条件や期間を伝えていった。
期間は二ヶ月程度で、各々の希望を極力含めた道順を。
しかし、万が一のため聖霊教の教団領は必ず回避していくこと。
これが旅行の条件だ。
「暖かい地方へ旅行となると《大逢湖》か《東の翠砂》が定番かしら。」
「そうだな。だが、そこは東西で正反対か。」
大逢湖とはこの世界で最も有名な恋物語に登場する湖だ。
大陸の西側に位置し、湖の中央に精霊の樹という魔物を退ける力を持つ大木が聳え立っていることが特徴である。
そういった所以で観光地としては非常に有名な土地にして、精霊に縁ある神聖な場としても認知されているのだ。
精霊と直接交信できる者は少ないが、非常に友好的とされるために遊泳や森林浴が推奨されている。
もう一方の東の翠砂とは王国領の水産都市が保有する透き通るような翡翠色の砂からなる砂浜のことだ。
非常に美しい景観だが、こちらは魔物を退ける効果はないため都市とギルドの連盟で雇った冒険者が安全性の維持をしている。
それでも幾らかは一年の内に死んでいるのだが……。
「教団領を避けるのでしたら東の翠砂かと。」
「そうね。王国領なら私も多少分かるから、案内もできるかしら。」
わいわいと盛り上がる話に着いていけないリーブラは少し話を耳に入れながら別のことを考えていた。
ここ最近、身辺がきな臭くなっているらしい。
まだろくに日を跨いでいないにも関わらず、遺跡を見つけた日から嗅ぎ回る連中が増え、更には竜太子まで現れたときている。
少し姿を隠してほとぼりを冷ました方がいいというのがリーブラと大公、ゴルドーの三人で一致した考えだ。
今回の旅行はそういった理由もある。
「まぁ、そういう訳で明日から準備始めるから各自頭に置いといてくれ。」
どうせ窓に張り付いているエルフも追いかけてくるのだろうな、と麻痺してしまった感覚で考えていたリーブラは野菜の煮付けを食べながら王国にいた頃を思い出した。
初めは街に入る金すらなく、その日の飯代と宿代を稼いでいたものだ。
あの金策に頭を悩ませていた時代が一番大変だったとしみじみ考えていた彼は袖を引く手に気が付いてクラリッサスの方を見る。
「どうした?」
「あなたは行きたい場所はないのですか? さっきから黙り込んでしまって。」
「ああ、俺はないな。」
少しばかり彼の事情を知っているクラリッサスは心配そうな視線を向けると、それに平気な顔で応えた夫の頬に指先を触れさせてみた。
そうする時、彼の気持ちが感じられるような気分になるからだ。
「無理してませんか? 何か疲れていることがあるなら聞かせて下さい。」
結局、刺々しい態度も心配の裏返しだったというわけだ。
昨晩のことは酒で忘れようとしたことがあるのだろうと考えていた彼女はすりすりと頬を撫でてご機嫌を取りながら囁きかけてみた。
ひんやり冷たい女性特有のしなやかな手の感触に目を細めた彼が心地よさそうな声で鳴く。
まるで猫だ。
思えば、リーブラはノノと似ていて、クラリッサスはアッシュと似ている節があった。
知識のあるなしではなく、性格的な観点で、だ。
リーブラとクラリッサスが惹かれ合い、ノノとアッシュが反発するのはやはり種族的なものなのだろうか。
「何てことないよ。少し研究が上手くいかなくて頭を悩ませてただけだから。」
「私に手伝えることがあれば……。」
「大丈夫。その気持ちが何より助けになってるから。」
そう言って食事を促されたクラリッサスは残念そうに息を吐いて背を椅子に預けた。
確かに彼女の目下最優先とするべきは自己の研鑽であるのは間違いない。
魔道を極めるという意味でも、まずは生きる力を身に付けるという意味でも、どちらにしてもまだまだ他に時間を割いている余裕はないからだ。
尤も、手助けしようにもリーブラたちの研究はリーブラとブラックの二人でほぼ成り立ってしまっているのだが。
装備を転移で装着する技術を完成させたことも本来ならば国から声がかかる功績だ。
新しい魔法を創るなぞ夢のようなことをと密かに思っていたクラリッサスも流石に考えを変えざるを得なかった。
それを二人で極めて短期間の内に遂げて見せた、一種独特な彼らの領域があることに彼女はどうしようもなく不安を覚える。
「(私はあなたと誰よりも繋がっているけど、お互いのことをあまりに知らない。)」
「ん?」
「今晩は昔のあなたのこと、教えて下さいな。」
「昔の? 良いけど、面白い話なんか期待するなよ?」
「いいえ、期待します。心躍らせて聞かせて貰いますから。」
「参ったな……。」
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