漆話 変革の兆し
「あれ……?」
自身の感覚では後頭部で感じた違和感につい口を突いた疑問詞を、耳聡く聞き取った友人が食事の手を止めた。
どうかしたか、と問われ、何か気に掛かっていたことでもあったかと思考をしてみる。
戸締りや電気、講義の課題、一通り思い出してみたが、どうにも思い当たる節がない。
気のせいだと友人に肩を竦めて見せると、彼も食事を再開した。
「次の講義終わったら今日はオフじゃん。 買い出ししてから入らね?」
「いいぜ。何処行く?」
「南口のショップでしょ。通い過ぎで顔利いちゃうし。」
「なら、2ー2でショップとスーパーな。」
とりとめのないことを話しながら席を立って歩くと、教室に着いていた。
いつも座る席に着いて話が冗長に過ぎると評判な教授の講義をメモしていく。
少し疲れた体を伸ばすために背もたれに寄りかかった時、隣の友人が視界に入った。
黒い髪に鼻筋の通った意志の強そうな顔だ。
視線に気付いたのか、見詰め返してきた彼女の目元が笑った。
友人には違いないのだが、誰なのか分からない。
思い出せないまま意識を講義に戻せば、教授が何やら作図をしているところだった。
「ねぇ、どれがいいと思う?」
三種類の要素を比較したグラフを目の前に飛ばされた彼はそれらにサラッと目を通していく。
ホログラムによる仮想モニターが実現して以来、各家庭一台は演算用サーバーPCを置くようになった。
当然、メーカーによって特色が異なる商品が打ち出されてくる。
一般向けに提供された性能比であるため、中身は難しくないのだが、母親は頭脳労働が苦手な類の人間だった。
「これでいいと思う。うちのホロ向きだし、今のPCと互換性もあるみたい。」
「ふぅん? じゃあ、これにするわ。」
明らかに理解してない母親に溜息を吐いた彼はテーブルを挟んで座る父親を盗み見た。
新聞を隅まで読む几帳面な性格の父親はしばらく新聞を見詰めたままだ。
彼が幼い頃から仕事に生きていた父親とは、余り話をした記憶がない。
言葉少なく教訓を伝えてくるぐらいなものだ。
そして、気付けば疎遠になり、顔を合わせると身構えてしまうような関係にいつしかなってしまっていた。
「……どうかしたか?」
父親が新聞を畳んで顔を上げたことに酷く動揺した。
自ら何かを途中で止める姿など滅多になければ、こうして自分に対面してくれるなど思いも寄らなかったのである。
静かに自分を見据える瞳は、想像より遥かに輝いている気がした。
「……最近、調子はどうだ?」
「え、あ……まぁ、普通……かな。」
「怪我や病気はしてないか?」
「はぁ? してないけど、見れば分かるだろ。」
はて、天然ボケな質だっただろうかと眉を顰めた彼を、父親は目に焼きつけようとでも言う様に見詰め続けている。
助けを求めて母親を見遣る。
母親は泣きそうな顔で笑っていた。
息を飲んだ彼の頭を暖かい重さが撫でた。
遠い遠い記憶の彼方。
いつの日だったか、太陽みたいな笑顔と共に刻まれた感触。
「――――………。」
「―――……親父っ!!」
肌を切り裂くような冷気と節々の痛み。
目を覚ましたリーブラが最初に感じたのはそれだった。
続いて薄暗い中に積まれた荷と幌の合間から見える青い空を目で捉え、自身が馬車の中にいるのだと頭で理解する。
しかし、どういう状況下で今はいつなのか、仲間がいないのはどういう訳か、寝起きの頭がぐるぐると回転し始めた。
そうして硬直したリーブラの手の内で熱くて柔らかいものがビクビクと跳ねた。
そう、ノノである。
「っ!?……ーっ…………。」
「うわっ、ちょ……あーぁ……。」
腹を思い切り鷲掴みにされたノノは声にならない悲鳴を漏らしてノビていた。
ぶらーんと力なく揺れる彼女を枕代わりの毛布に寝かせたリーブラは改めて周囲を見回した。
荷台の隅に纏めて置かれたマントと杖を手繰り寄せ、軋む関節を摩る彼は魔力が半分も回復していないことに気付く。
「妙だな。ペナルティはとっくに……ステータス。えっと……あれ? 何でペナルティ消えてねぇんだ?」
魔力封印の呪いがかかっていると分かったリーブラは首を捻るも、慌てる様子はなかった。
仮にも古代の呪いなのだが、二言三言呪文を呟いた彼は事もなげに解呪を施して腰を上げた。
途端に背骨がボキボキと音を立て、彼は気持ちが良さそうに目を細めて身体をしならせる。
鈍った筋肉にも血が通い始め、弱りきっていた心身が急速に回復していく共に、自身が生まれ変わるような感覚があった。
五感が研ぎ澄まされて世界がかつてない鮮やかさで彼の中へ入り込んできたのだ。
幌で遮られている外の光景が知覚でき、アッシュとクラリッサスが知らない男と話している様がはっきりと分かる。
「…………さて、と。」
荷台のへりに足を乗せたリーブラが幌を退けて外に出ると、突き抜けた青空と霜や露出した土で斑になった草原が視界一杯に広がった。
スンと鼻をヒクつかせれば、透き通った空気が肺を満たす。
起き抜けでぼんやりしている彼が妙な感慨深さに浸りながら振り向いた途端、勢いよく捕らえられて尻餅を着いた。
暖かい体を抱き返し、サラサラの黒髪に頬を寄せた彼はゆっくりと歩いてくるアッシュにも笑みを見せた。
「おはよう。」
「酷い寝坊だがな。」
違いない、と声を上げて笑い、ふとリーブラが見たアッシュは気のせいか体躯がより逞しくなっているように感じられた。
寝ている間に鍛えたのだろう、と感心していた彼はアッシュの向こう側にぽつねんと待っている男に視線を合わせる。
特に武装してなければ、腕のいい武闘家にも見えないが、大きい型の馬車を五台も背にしていた。
「あの人は?」
「ん? おお、偶然道が合ったのだ。互いに来た道の状況を確認するついでに荷の売買をな。」
「なるほど。商人か。道理で……。」
商人の方へ踵を返したアッシュを少し見ていたリーブラは、腕の中に納まったクラリッサスの背中を撫でていた。
どうやらしばらく動かせてはくれない様子に苦笑いすると、彼も敢えて声はかけずに受け入れた。
生暖かい視線を浴びて居心地は悪かったが、そのくらい気にせず流せる甲斐性は流石の彼も持ち合わせているつもりでいる。
体が冷えないように摩ってあげながら、涙が止まるまで時間を過ごした。
十分もしくしくとやっていれば、彼女も我に返ってくるのか、髪の間に覗く耳が色付いた。
「落ち着いィッ!?」
「見ないでっ……今酷いから、ちょ……やめっ!? あっち向いててっ……。」
「いぃでででででっ!? 髪引っ張るな! 見ない! 見ないから!」
顔を隠した彼女が馬車の影へ逃げ込み、残された彼は頭を押さえて長い溜め息を吐いた。
当たり前のことかも知れないが、彼は変わらない仲間たちを見て安心していた。
土を払って立ち上がり、地平線へと視線を流して胸を張ると、自然に口元が緩んで含みのある笑みが浮かんだ。
彼は忘れて久しい体を突き上げる高揚感に任せて天を仰ぐ。
「むふーっ……ぬふふ……えひぇへへへっ……ひひゃひゃひゃひゃひゃっ!! ひゃえーーーーっっ!!!」
意味不明の雄叫びを上げた彼はポツンとちぎれて流れている雲を凝視して押し黙った。
ギザギザになった雲を見て何を思ったのか、肩を落として腹を撫でた彼の腹が唸り声を響かせた。
見ている側に、穴があくのではないかと思わせるほど見詰め続ける。
しかし、雲を見て腹が膨れる筈もなく、そう間を置かずにトボトボと引き返した彼は馬車の中へ消えた。
「ず、随分とち狂っ……いかれ……独特な御人ですなぁ、ハ、ハハハ……。」
「……………………。」
諦観の色を湛えた顔で立ち尽くすアッシュは何も見なかったように、ペロリと鼻を舐めて馬車に背を向けた。
仲間の起こした珍事に首を突っ込んで何か解決することはないと、いかに考えなしの彼でも学ぶのだ。
ウルスラ帝国首都レーデンは卓越したゴーレム技術により築き上げられた高い防壁で囲まれた“白凍の都”と称されている。
中心の王宮から東西南北に伸びる屋根付きのメインロード以外は年中雪で白化粧されていることがその異名の所以だ。
また、竜種の襲撃を想定して建築された防衛塔を含め、要塞としての機能も考え尽くされた難攻不落な所や皇帝の手腕も名の意味に込められているのだろう。
南のメインロードを進む一行は頭上のガラスの屋根や建物に使われている石材を見て驚きの声を上げた。
明らかに産業の発展度合が王国と違う。
ゴーレム技術だけで生まれる差ではないと見立てたリーブラの好奇心に火が着き始めていた。
「む、あれだな。役場が見えたぞ。」
扉に国の紋章が描かれた立派な建物が二つ先の曲がり角に見える。
アッシュの報せを聞いて御者台に出てきたクラリッサスはフードを目深に被って顔を隠した。
万が一実家から手配書が出されていたら、と思い至ったからだ。
怯えた狐や栗鼠のように家の恥が知られることを恐れる家族なら犯罪者にしてでも自身を捕らえておこうとしても不思議じゃないと彼女は分かっていた。
「いいか? 物件を買いに来ただけなんだ。面倒事を起こすなよ。」
「貴方がそれを言いますか……。」
リーブラと行動を共にしてすぐに分かったことだが、彼はそこいらの物盗りや性根の曲がった冒険者も真っ青な喧嘩っ早さだ。
少し不愉快な物言いをされれば一気に機嫌が急降下し、たかられる前に殴り倒す。
真っ当な人間の持つ暴力への忌避感や倫理というものをまるで備えていない。
徐々に毒されつつあるクラリッサスやアッシュに言えた義理もないが……。
「何か希望があれば最後に聞くぞ?」
「うむ、やはり特にない。」
「ふぅん。」
馬車が道の端に停まると、荷物番で残るアッシュ以外は馬車から降りて役場へ道を横切った。
荒削りとはいえ、舗装までされている地面をまじまじと見詰めながら、リーブラは何処か懐かしいものを感じていた。
王国ではそれ程でもなかったが、ここ帝国では細かい部分から現代の雰囲気が感じられる。
何故帝国が単独で技術成長を遂げているのか、少しばかり疑問は生まれたが、すれ違った美人の流し目で何処かに消えた。
「……何だよ。」
「 い い え ? 」
にっこりと笑顔を浮かべたクラリッサスが先に行くのを追う彼の肩で、将来を思いやったノノは呆れて溜め息を零した。
鈍いわけでは無さそうだが、どうにも今一つな男なのだ。
互いに気があることくらいはいい加減気付いているはずだが、何故未だに決着がつかないのか。
猫には理解し難い攻防である。
「(人間は面倒ねぇ。……あら、何かしら? 見られてる……?)」
一番短い髭がムズムズした時は何かしら厄介事が転がり込んでくると決まっている。
彼女は耳をあちこちに動かして気配を探ろうとしたが、役場に入ったリーブラが扉を閉めたせいで視線が途切れてしまった。
ワイヴァーンのこともあって一抹の不安が彼女の髭を震わせる。
―――……待ってて下さいまし、私のハニー……。
リーブラ所持金6020G
アッシュ所持金510G
クラリス所持金16980G
パーティ所持金6447119G




