7話
我慢しようとても、我慢できないもの…。
いや。一応、我慢はできるけど…。もし、何らかの理由で、その我慢が解かれた時。とても悲惨な状態になるもの…。
そーれは、なーんだ?
………。
解答を待つ時間が惜しいから、先に答えを言ってしまうと…。
それは、生理現象。もっと細かく分類すると、トイレ。
「…」
…今、鎖に繋がれてしまっている、この状況で。トイレに行きたくなった時…、どう対処すればいいのか。
…寝ようとしていた時。ふとこれが、頭に過ぎってしまった。
まずいよな…。どう考えても。
実際。この倉庫には、トイレらしき物は見当たらない…。というより、鎖のせいで満足に動くことすら、ままならない。
「…」
…ヤバい。嫌な汗が、吹き出るのを感じた
こんな事考えるんじゃなかった。…トイレ、行きたくなっちまったじゃ、ねぇか…。
「…ねぇ? 城崎君…。起きてる…? 起きてるわ、よね…」
「………」
「起きなさいってば! もう…」
ゆっさゆっさと。橘は、俺の体を揺さ振っくる。目を開けて、彼女の表情を見る限り。…何かに、焦っている様に見えた。
「…ねぇ、城崎君。あなた本当に、能力使えないの?」
「…いきなり、なんだ」
なぜ、今になって。こいつは、わかりきってる事を聞く。…嫌味か?
「緊急、事態、なのよ…」
「………。何が?」
「………」
そのまま黙る橘。
「イレよ…」
「あ? よく聞こえない…」
「いいから!! さっさと、鎖を切りなさい…!! ここから出られる様に、しなさい!! 城崎貴久!!」
…何の前触れも無く。俺の胸倉を掴んで、ヒスを起こした橘。
…おかしい。こいつの様子が、明らかにおかしい。どうして、こんなに焦ってるんだ?
「………」
まあ、橘についてはともかく。…確かに、この倉庫から脱出したいというのは一理ある。
…というのも。さっきからずっと、トイレ我慢してるからな。もし堤防が、決壊する様な事でもあるなら…。
………。
その先が恐ろしくなったので、俺はこれ以上考える事を止める。
「…わあったよ」
仕方がない。俺は、橘の手を払って、一呼吸置くと。柱に、繋がれている鎖を…、両手で掴んだ。
「…う」
オイルまみれで、ヌルヌルとしている鎖。掴み辛いったらありゃしない…。
ウナギか、こいつは。
「…ん!」
心で愚痴を言いつつめ。
鎖を両手で、しっかりと掴み。綱引きをする要領で、それを引いた。
俺は、この鎖を。根こそぎ、引きちぎってしまおうと、考えたのた。
普通なら、無理だ。人間、幾ら本気を出したところで、鉄を引きちぎるなど不可能。だが…。俺には、勝算があった。
それは、さっきの出来事。
首を絞める…橘を、突き飛ばした時。
俺は、ある体験をした。
なにもない、無の状態から。“橘を、突き飛ばせる力”を体内で作り出して、上書きするという体験を。
「っ…。くっそ…」
足場が悪い、悪過ぎる。オイルで足が滑って、踏ん張りが効かない。
「この…。野郎…」
…だから。今回も、やれる筈。
欲すんだ…、力を…。
“鎖を引きちぎれるだけの、万場力”を…。
…そして。その力を、体に“橘を、突き飛ばせる力”の上に、上書きすればいい。
“上書き”。
これこそが、俺の能力なのだから。
「うおっ…!」
幾秒か経って、“上書き”が終わる。
…それと同時に。…鎖を、繋がれている柱から、根こそぎ引きちぎった。
「…痛っ!」
勢い余って。俺は、背中を地面に打ってしまう。ちょっと、力み過ぎたみたい…。
今の俺なら、ベンチプレス200kgとかも持ち上げれる気がする。
「…大丈夫?」
「まあ………」
俺を見下ろす橘。
「おっ……?」
位置的に、スカートの中から、白いヒラヒラが…。チラつくのを期待したが。
「………」
残念。周りが暗すぎて、スカートの中まで光が入ってこなかった。
「……?」
「いや。…何でも」
頭を振って、気を取り直す。オイル塗れの床から、俺はまた立ち上がった。
「そう? 大丈夫なら。早く、私の鎖も何とかして頂戴…」
言われるまでもない。俺は、橘を縛る鎖を両手で握って、また引きちぎった。
「…」
今度は、上手く力加減が出来た。その甲斐あって。橘が、俺みたいに、背中を地面に打ちつけるという事故は、回避出来た。
「色々と言いたい事はあるけれど…。とりあえずは。感謝するわ…」
鎖から解き放たれた、右腕を。横や上に動かしながら、自由を実感する橘。
「…城崎君。出るわよ、ここから」
「…」
彼女の言葉に、小さく頷く。
俺らは、小走りで廃ビルを、後にした。
「…助かった」
廃ビルの近くにある。公園。
今俺は、そこのベンチに。橘と共に座っていた。
…廃ビルから出た俺は。一目散に、近くの公園の、公衆トイレ(男子)に駆け込んだ。
「……」
いや。もう一つ、事実を付け加えるとするならば。
公衆トイレに駆け込んだのは、俺だけではい。
「お前も。我慢してたんだな…」
「うるさい」
橘も、俺と同じ様に。公衆トイレ(女子)に、駆け込んだのだ。
「なるほど…」
廃ビルでの、橘の謎の行動の全てが。一点に繋がる。
「何よ…」
橘は顔を赤らめ、上目遣いで俺を睨んだ。そんな橘を見ていると、もっとからかいたくなるが…。
その気持ちをグッと堪えた。
…これ以上、その事について、からかうのはマナー違反だからな。
「…で? これからどうする」
話題を変える様に。、頭上に広がる夜空を眺めながら、彼女に尋ねる。
今しがた。公園にあった時計で、時刻を確認すると。針は、深夜の2時を回っていた。
「そうね…。取れる行動は色々とあるけれど。…とりあえずは、あの場所に戻ろうと思うわ」
「…逃げないのか? せっかく自由になれたのに」
「私達の荷物は。まだ、健二君らに取り上げられたままなのよ」
「荷物って……あ」
そういえば…。鞄が無い。それに、ズボンのポケットに入れていた筈の、財布や携帯も。
「…ね? だから迂闊に、あの場所から動かない方が、良いと思うの」
「…確かに、な」
それに、着ている服。…制服が、オイル塗れというのも頂けない。
「…でも。だからといって、ただ二日間。あの廃ビルに居る気は、毛頭無いわ」
「と、言うと?」
目線を、夜空から橘にへと変える。
電灯に照らされる…彼女と、不意に目が合った。
「昨日の時点で明日…。だから、今日の朝に。健二君は、私達の様子を、一度見に来ると、言っていたわ」
見た目に反して、律儀な奴だな。健二少年は。
「…それで?」
「…彼はまだ。私と城崎君が、鎖に繋がれたままと、思っているはずよ」
「その慢心を突いて。健二少年に、逆襲するってか?」
「………」
俺の言葉に、橘はゆっくりと頷く。
彼女が言うには。健二君も、火を操るタイプの能力者だから。
そいつも、あの廃ビルのオイル塗れの床に押し倒して、オイル塗れにしてしまえば。その力を、完封出来るんじゃね? という事だそうだ。
「他の…。健二少年の取り巻きに関しては。どうするんだ?」
健二少年、一人で出向いてくれれば。飛んで火に入る夏の虫なのだが…。
「そいつらなら、問題無いでしょう」
取るに足らないわと吐き捨て、俺から目線を逸らす橘。
「もし仮に。そいつらが居たとしても。あれくらいなら。城崎君なら、何とかしてくれるでしょう?」
「まあ。してやれなくは、無いが…」
橘の言う通り。昨日は、無様にやられたけれども。地元のチンピラ達に、遅れを取る程。俺は軟では無い。
自慢では無いが、麻衣と付き合ってた時には。怒り狂った麻衣の許婚が、放った刺客やら何やらと闘った事があるからな。あの時は本当、死ぬかと思った…。
「麻衣と付き合ってた時に。
城崎君との交際を反対していた麻衣の父親や、彼女の許婚一家を敵に回して。散々、暴れ回った。…あなたならね、余裕でしょう?」
「…知ってたのかよ」
そういや。橘は麻衣の、自称友達だったんだっけか?
「どうでもいいけどさ…。どこまで知ってんの、お前?」
麻衣と俺の関係について、橘がどの位の情報を掴んでいるのか…。ただ、単純に気になる。
「あなたと麻衣についての情報なら。全て、麻衣からから聞かされているわ」
「…」
なるほど。情報のソースは、久留米麻衣本人か。…それなら、全部お見通しって事か。
「あなたの事を話す麻衣は。毎度毎度、とても楽しそうだったわよ。城崎君は優しいとか、強くて頼もしいとか、ノロケ話ばかりで」
「…」
遥か昔。誰かに言われたのだが…。
そいつ曰く。人間が一番辛い時は、自分の手の中にある幸せが、手からこぼれれたり、奪われてしまった時だと言う。
麻衣には、悪い事をしたな。
…俺が無責任に。後先考えずに。麻衣に告白してしまった、ばかりに…。
色々と、振り回しちゃったからな。
「…この際だから。良い機会だから、言っておくけれど……。
私、あなたの事が嫌いよ。城崎君」
「……何だお前? 随分と唐突だな」
「…。茶化さないで」
突然の告白。
軽く流してやろうかと思ったが…。
俺を捉える、橘の真っ直ぐな目が。それを許さない。
「麻衣には、親同士が決めた婚約者が居る。幼なじだったあなたなら…。わかっていたわよね?」
「ああ。わかってた」
わかってた上でなお、俺は告白した。
本当、とんでもない事をしたと思う…。
「なのに。あなたは、麻衣に思いを打ち明けてしまった。意味不明よね、頭がおかしいとしか思えない」
「…」
嘲笑うかの様に、橘は小さく笑った。
「その軽率な行いが。麻衣を、どれだけ苦しめたか…。あなたには、わかる?」
ハッキリと、向けられた敵意。
三嶋学園に、入学した当初から今の今まで。
…橘が、俺を嫌っていた理由が。ようやくわかった。
自称友達とか疑って悪かったよ。お前は、友達想いの…。本当に、良い奴だよ。
「…麻衣は、優しい子だから。懐かしいね、貴久君の事はもう過ぎた事だから。と、笑ってたけど。
私は、絶対に許さないから。あなたを、城崎貴久を」
「……」
橘の言葉を。俺は甘んじて、受け入れた。だってそれは。全部、事実なのだから。
「麻衣本人が、俺の事を、許してくれているなら。…もうそれで終わり。これで、良いんじゃないか?」
だけど。
ただ、一つ。
橘に対して、反論するとするなら。
「俺の事をどう思ってようが。俺らには関係無いだろ。第三者のお前が、あれこれと口出ししても」
「そうね…」
三分くらい。橘はたっぷりと、焦らしてから。
「今更。私がとやかく言ったところで、何とかなる事でも無いしね」
「全くだ」
「…なら。私が今、あなたに伝えた事は…。第三者の意見だから。どれも、何の意味も持たなかった訳かしら?」
橘は、座っていたベンチから立ち上がっる。いつもなら、風に流れる長い黒髪も。…今は、オイルが張り付いているせいで。固まってしまっていた。
「いや…。そんな事は無いさ。俺とお前。お互いの事を、改めて認識し直す…。そういう意味なら、あったと思うぞ」
「……。そう言って貰えると、報われる気が、しなくもないわね」
…俺と橘。二人は今、ねじれの位置にいる。…それを今。はっきりと、見て取る事が出来た。
…多分これは。今すぐに、どうこう出来る問題では無い。
…とは言っても、時間をかければ良いというものでもまい。
ねじれの位置にある二本の線は、平行。永久に交わら無いのだから。
「…そろそろ。戻りましょうか」
長い長い間があって。
…俺に背を向けて。橘は、廃ビルへと歩き出す。
俺も、ベンチから立ち上り、彼女の右斜め後に続いた。
「今日は徹夜ね。健二君がいつ来るかわからないから」
「交代で仮眠を取って。一人ずつ見張れば、良いんじゃないか?」
そっちの方が。睡眠も取れて、効率良いと思う。
「私が寝てる間。あなたに、何をされるか、堪ったものじゃないから却下」
「俺…。信頼無いな」
「当然。だから、もしあなたが、一人だけ勝手に、寝ようとしたのなら。また蹴って、起こしてあげる。感謝しなさい」
「…いや、いいよ。寝ないで、起きてるから」
「この時期だと。夜明けが早いな…」
次第に夜が明けて。空は、段々と明るさを増してゆく。
俺の、右手に巻いた腕時計は、深夜4時を示していた。
「今夜は徹夜だ、って。言い出したのはどっちだか…」
最初の一時間こそ。しりとりや雑談で眠気を紛らわせていたものの。深夜3時前後に、力尽きた橘は。壁に寄り添う、俺の右肩に寄り添って。
「すぅ…すぅ…」
規則正しい、寝息を立てていた。
普段、一切の隙を見せない、橘とは対称的な。…余りにも無防備な姿を晒け出している、その姿を前にして。俺は、小さく笑ってしまう。
「…すぅ…すぅ…」
膨らみの無い、平らな胸が呼吸の度、上下に揺れる。
その姿が、猫みたいで何とも愛くるしい。…可愛いとこ、あるじゃんか。
何か、悪戯でもしてやろうか?
一瞬、芽生えた。そんな、邪な思い。
「いや…」
だが。俺はそれを、すぐに掻き消した。
…こんなにも。気持ち良く寝ている、橘を前にして。悪戯をするというのが、随分と気が引けたから。というより、悪戯が見つかった後が怖い。
…でも、本当によく寝ているな。
廃ビル慣れない環境に加え、俺と一晩中一緒とか言う慣れない環境で、ストレス溜まって。相当、疲れてたんだろう…。
「…」
…まあ、橘の寝顔なんて。そうそう、近くで見れるものでもない。今回のところはこれで良し。
「どんな夢、見てるのかね…」
そして。俺は一人、健二少年らが来るのを、今か今かと、待ち構えていたのだった。
それから数時間後。
橘を一人、部屋で寝かせ。
…俺は一人。廊下の踊り場、柱の陰で身を隠す様にして、健二少年らの到着を待っていた。
「来たか…」
ザワザワとした話し声に、一段一段と階段を上ってくる音。
話し声の大きさからして。相手は多分、複数、それも五、六人程のグループ。
「やっぱり。大勢で来たか…」
健二少年一人。というのは、やはり都合が良すぎた。…全員を、相手しなければいけないみたいだ。
「……」
存在を悟られ無い様、俺は息を潜める
…少し厳しいが、やれない事は無い。
健二少年らとスクランブルした時に。こちらが先手を取れれば。
人の数など関係無しに、ある程度有利に闘えるはずだ。
「あ……」
そういや。ついさっき俺は、自分専用の能力を手に入れれたんだっけ。
橘が不在な今、それを補える駒はなるべく多い方がいい。まあ、たかだか高校生相手に、そこまで準備する必要は無いと思うが。
「……」
一応、“上書き”をかけておく。
…今まで上書きされてた能力が、全て消える。そして、また、新たな能力が書き込まれていく。
今回は、瞬発力を高めたいから。脚力を重点的に。
これ、上書き保存とかできないのかね? 新しく、能力を加える度に、前持ってた能力が削除されるってのは…。なんか寂しい。
「さて……」
上書きをしている内に。健二少年らが、迫ってきていた。
あと三十秒もしない内に、彼らは俺の隠れている柱へと、到達するはず。
「……」
意識を、切り替えていく。
城崎貴久…。
今は、目の前の戦闘だけに専念しろ。…余計な事は、何も考えるな。
自分に暗示をかけ、神経を研ぎ澄ます。
三十…
二十…
十…
「……。 ッ」
柱に到達するまで、十秒を切った時。
俺は、柱を飛び出し。
健二少年らの前へ。
一気に踊り出た。
「お前は……っ!!」
まさか俺が、出て来るとは思っていなかったのだろう。
それぞれ、アッと驚いた顔をして。彼らの間に、動揺が広がって行く。
「ふぐっ……!!」
その混乱の中。
俺は最初に、ポリタンクを持った奴を襲う。
そいつの脇腹に、数発の蹴りをお見舞い。
動揺している中、満足に応戦出来なかったそいつは、呆気なくその場にうずくまった。
「お前…」
落ち着きを取り戻した健二少年。不動尊での時みたく、能力を使って全身に炎を纏おうとする。
…が。
「させない」
その行動は、既に読めてた。
俺はすかさず。奪ったポリタンクのキャップを開け、健二少年らに振り撒く。
「……っく!」
炎を纏う、すんでのところで…。
健二少年は能力を引っ込める。
その表情からは、悔しさが滲み出ていた。
心中、察するぜ。一度捕まえた獲物相手に、してやられたんだからな。
手負いの獅子程、怖いものはない。
昔の人は、よく言ったものだ。
「あ……。兄貴」
「健二、これヤバイっせ…」
状況の不利を感じ取ったのか。
健二少年の取り巻きらは、俺を前にして。ジリ、ジリと後ずさる。
ここまでくれば、俺の勝ちは決まったものだ。
後は作業。一人一人、各個撃破して行けばいい。
「健二少年。昨日は散々、馬鹿にしてくれたけれども…」
覚えておけ。
これが…
三嶋だ。
「っ…!」
「ひいっ! ……」
朝の廃ビルに、叫び声が響き渡った。
プロ野球、春季キャンプ開幕まで
あと5日
はやく、来い
球春