第九話 収束
「苦難を分かち合うという事の意味を、軽く考えていたんだ。昔のイジスタさんは。誰かを本気で慰めたいのなら、莫大な時間と体力と精神力が必要だということに、気付くのが遅すぎた。高々小一時間悩みを聞いただけで、全てを理解できるはずなど無いのに」
ドアを開けた時、私は地獄を見た。
ベッドにカーテン、それとクローゼットだけの綺麗というよりはひたすら殺風景な部屋が、夥しい量の血で塗られていた。これが誰か一人から出た量なら、まず助からない出血量だ。
「うわ…マズそうだな入るぞ、リベル」
「は…はい! 」
竦んで動かない脚をぎりりと動かしてブーツを…脱ごうかどうか迷ったがそのまま踏み込んだ。誰の血なの? ううん。ラビさんではないと思う。じゃあ、どっちの…。
死角になっていた部屋の隅、まず最初に見えたのは戦慄の表情で立ち尽くすラビさんだった。持っていた斧は綺麗な状態だったが、何故か刃こぼれしたようにキザキザになっている。正面にはやはり大量の返り血と思われる赤色が付いていた。
心臓が早鐘を打った。
ワンルームアパートの狭い通路をそれ以上進めなくなってしまい、うしろでハンスさんがつっかえた。『どけ!』と体を押しつぶされて無理矢理追い越して行ったハンスさんがラビさんと同じ方を見て、言葉を失っていた。誰も動かず、何も言わなかった。その静けさに殺されるような、奇妙な恐怖感に襲われた。
「…リベル」
ラビさんがそこを見たまま、うわ言のように呼びかけた。
「来ているんだろう? リベル。覚悟が出来ているなら…ここへ来い」
「……い、イジスタさんは…」
「自分の目で確かめろ」
私は何かに背中を押されたように、部屋の奥へ飛び込んだ。
イジスタさんは生きていた。
堕ちてもいなかった。
「イジスタさん…」
両手に手錠を掛けられていた。しかしそれは真ん中の鎖が切れて、ただのブレスレットみたいに無意味なものになっていた。その手で愛おしそうに、長い髪の美しい、眠れる姫の頬を撫でていた。イジスタさんのはだけたワイシャツは、ラビさんのそれよりももっと赤く、シャツ全体が血塗られて白い部分の方が少ない程になっていた。よく見るとイジスタさんの首に一筋の切り傷が見受けられたが、凶暴な猫に引っかかれた程度の浅い傷だった。肩にも、胸にも、腹にも、傷など付いていない。
そしてメルアさんの首から下は、まだらに赤くなったシーツが掛けられていた。穏やかに目を閉じ、深く眠っているようにみえた。イジスタさんが口づけをしたら、目を覚ましそうな気がした。
のぼせたようなぼんやりした目で、イジスタさんはこちらを見た。ゆっくりと、とても静かに笑った。すべておわったのだ。その微笑みに、無性に悲しくなった。微塵も悲しみを含まない、安らかな微笑みに。
「リベル…」
声も、心地いいほど穏やかだった。
「帰ろう。何も心配いらないよ」
まるで、子守唄を歌うように。
「俺はもう、大丈夫だから…。ごめんね、リベル」
私はそのまま、目の前が暗くなっていった。途切れてゆく意識の中、誰かが背中を抱き留めてくれたような気がした。
蒸し暑さで目を覚ました時、私はそのままの格好で寄宿舎の自室にあるベッドの上にいた。大量の汗で、背中がベトベトになっていた。
頭上にある目覚まし時計を見ると、午後3時過ぎだった。昨日のちょうどこれくらいの時間に、私達はあの場所へ出動していた。アデルやサンディさんが心配しているかもしれない。昨日、事務所にどうやって帰ったかも覚えていないくらい取り乱していたから。
乱雑に服を脱いで適当にシャワーを浴びた後、部屋を出て真っ先にアデルの部屋をノックした。昨日出動だったから、今日は非番の筈だ。やはりというべきか、アデルはゲームのコントローラーを持ったままドアを開けた。充満するクーラーの冷気が、足元にかかった。
「あ…! リベル起きたの? 昨日、大丈夫だった?! 」
「昨日? 誰かから聞いたの? 何か」
「ちょっと待って! セーブしてくる! 」
慌てた様子でドアの向こうに消え、アデルは30秒もしないうちに戻ってきた。
「ここじゃ何だから、下に行こうよ。今ならあんまり人も居ないし」
「…うん」
それぞれドアを施錠して、エレベーターに乗り込んだ。密室の中、アデルは妙に落ち着かない様子で階数ボタンや天井をぐるぐる見ていた。意地でも視線を合わすまいとしているように。1階に着き、私達は適当な席に腰掛けて畏まった。どこかギクシャクしながら。
「リベル昨日何時に帰ってきたか覚えてる? 」
小型の丸テーブルを見たまま、アデルが尋ねた。
「ううん。色々あって、なんか倒れちゃったみたいだから」
「そ、そっか…」
「アデル、全部聞いたの? 」
「え…う、ん。全部じゃないけど、大体は」
「誰に? ハンスさん? 」
「―――ラヴィエル隊長」
「ラビさんに?! 」
今日未明、アデルは物音で目を覚ました。廊下の外が妙に騒がしい。一応小声なのだが、誰かが話し合いながら隣の部屋のドアの前で、何か鍵束を取り出すようなじゃらじゃらした音を響かせていた。枕元の携帯電話を見て夜中の2時半だとわかり、何事だろうと部屋の外を見ると…。
「リベル、隊長にお姫様抱っこされてた。ビックリしたよ、隊長のシャツ血まみれになってて」
顔が瞬時に熱くなったが、リベルは黙って続きを聞いていた。
「僕、もう何が何だかわからなくて。『どうしたんですか?!』って隊長とハンスさんに訊いたら、隊長が説明してくれて」
そう、リベルの部屋の鍵を探すのに苦戦するハンスを尻目に、それまでの経緯をこざっぱりと纏め、ラヴィエルは淡々と要点だけを述べた。メルアは死んだ事、イジスタさんは無事である事、夜が明けたら自分たちはイジスタさんの家に向かう事。それと、リベルを起こさないように頼む、と。
「リベル、あの後すぐにイジスタさんを探しに行ったんだね? 僕たちも行けば良かった。ごめんよ」
「そんなのいいのに。結局私も何一つ役に立たなかったし」
アデルが少しだけ目を伏せ、口をつぐむ。話が途切れた。
「本当に気にしないで。私が勝手に行っただけだから」
慌ててフォローするも、アデルは首を振った。黙っていたのはその事で自責を感じていたからではなく、もっと別の問題で考え込んでいたからなのだ。アデルはそれを、おもむろに口に出した。
「リベル。イジスタさんとメルアさんの事、もう気にしないで良いんだよ。きっとすぐ立ち直って、イジスタさんは振り向いてくれるよ。リベルは優しい女の子だから」
一瞬、何の事だかさっぱりわからなかった。自分がイジスタさんを想っていた事など、もはや遠い昔のような気がしていた。ほんの数時間前まで、その感情は確かに胸の中に在ったはずなのに。
「ああ…。それは、もういい。もういいの。何だかもう、どうでも良くなっちゃった」
「ええぇっ?! どういう事? 」
「当分恋はしないよ、もう。硬派に生きるの」
「そうなの?! な、何かサッパリしちゃったね…? 昨日泣いたから吹っ切れたの? 」
それもあるかも知れない。しかし私の中で何かが変わったのは、あの時ではなくアパートで惨状を目の当たりにした時だった。愛とは、正義とは、何と血なまぐさいものだろうと肌で感じた。あの安らかな二人の顔を、私は忘れる事など出来ないだろう。
「うん。第一、私じゃ申し訳なくて隣を歩けないよ。別段美人でもないのに」
笑いながら言ったが、アデルは返事に窮して苦笑いしてしまった。正直なやつ。
「ラビさん達、もう帰って来てるかな? 」
「あ、多分もう事務所に居るよ。隊長、午後には戻るって言ってたから」
「ちょっと行ってくる。色々迷惑掛けちゃったし」
「いってらっしゃい。何かあったらまたサンディさんと飲もうね」
笑顔で頷いて、私は席を立ち寄宿舎を出た。ガラス張りの風除室に籠る生ぬるい空気を颯爽と抜けて、早歩きで事務所に向かった。
隊長室の扉ををノックする。返事がないが、ノブを回すと鍵が開いていた。様子を見るだけなら、と静かに開いて顔だけ入れた。
目に飛び込んできたラビさんのあまりの無防備な姿に、私は声を殺して笑った。
応接セットのソファーに横たわり、目を閉じて静かに寝息を立てていたのだ。しかし良く考えたら、笑っている場合ではない。昨日はおそらく一睡もしていないだろうし、今日も朝からイジスタさんの家に行って何らかの話し合いをしてきたのだろうから、心身共に疲弊しているのは疑いようも無かった。服こそ着替えてあるものの、寄宿舎に帰ってゆっくり眠る暇がなく、ここで仮眠を取っているものと思われた。
そう思うとたまらなくなって、ただ、ただ申し訳なくて涙が出そうになった。こんなにも忙殺されているラビさんの仕事を、更に私が増やしている訳である。そっと部屋に入り、何かエアコンの風を防げる布を探し回った。デスクチェアーの背もたれに掛かっていた薄手のウインドブレーカーを手に取り、肩から下にそっと被せようとすると、今まで眠っていたとは思えないようなはっきりとした口調で、ラビさんがそれを止めた。
「…いい。もうすぐ起きないといけないから、暖かくするのはマズい」
目を閉じたままだったが、寝ぼけている様子は無かった。
「ごめんなさい。起こしちゃいましたか? 風邪、引きませんか? 」
ぱっと目を開き、驚いたようにこちらを見て顔を上げた。下になっていた右頬がうっすら赤くなっている。ラビさんは見る間にさっと起き上がり、ソファーから立ち上がった。
「いつ起きたんだ? もう大丈夫なのか? 」
「あ、すみません! 寝てて下さい! 私もう行きましょうか?! 」
「いや、いい。もう起きようと思ってたところだ。リベルは眠れたのか? 」
「はい。お蔭さまで」
「そうか。ならいい。その上着は戻しておいてくれ。それと…報告が2、3ある」
いくばか緊張した面持ちで告げられた。イジスタさんの事だろう。息を呑み、目を見て促した。
「あの人は…イジスタさんはここに戻る事になった。カウンセラーの仕事はまとまり次第、辞めるそうだ。幸い5班の構成が崩れていた所だから、復帰トレーニングの後で班長になってもらう事にした」
「そうですか…」
「それと、今回みたいな事が起こらないようにお前にも言っておくが、人は誰でも、条件さえ揃えばああなる。例えイジスタさんが堕ちても、アデルでもサンディでも、絶対に救おうとしてはいけないからな」
「…でも、イジスタさんはメルアさんを最後まで愛していました」
ラビさんは真剣な顔のまま、私を真っ直ぐ見据えたまま、こう答えた。
「確かにそうだった。でも無責任に愛情を示す事と、本気で身を尽くす事を取り違えてはいけない。本気で愛していたなら、あんな状態になるまでメルアを放っておくべきじゃなかったんだ」
続けて、こう付け加えた。
「苦難を分かち合うという事の意味を、軽く考えていたんだ。昔のイジスタさんは。誰かを本気で慰めたいのなら、莫大な時間と体力と精神力が必要だということに、気付くのが遅すぎた。高々小一時間悩みを聞いただけで、全てを理解できるはずなど無いのに」
哀傷に肩を落とすラビさんを、私はただじっと見つめていた。
ペンタブの調子が悪く、未色塗りです。。。すみません!




