第三話 胸中
「迷惑?イジスタにそう言われたのか?それともラビに?」
「まさか!でも、言われなくても分かります!」
定期的に小波の打ち寄せる音が、夜のしじまに響いた。
携帯は車に置きっぱなしだったので正確な時間は分からないが、果てなく広い海の上にはすでに群青色の夜空が覆いかぶさっていた。
澄みきった闇に星屑がちりばめられていて、今日が七夕であることをふいと思い出したりした。
「花火ってすごく高いんですね・・・」
アデルの手元にあった小さく柔らかい光の玉が、乾いた砂浜にぽつり、と落ちて消えた。
興を添えるために買った高価な線香花火は、それで最後だった。
「火薬が高いみたい。安かったら銃とか使いたいけどねー・・」
しゃがんだ膝に頬杖をついて、サンディさんが空を仰いだ。
明るい鳶色の綺麗な瞳に、月明かりが差し込む。
やたらと酒宴を開きたがるサンディさんは、どういう訳か今日はちっともそんな話をしなかった。
思い出してみれば、今日は何故だか口数も少ない。
「サンディさん、今日はお酒飲まないの?」
「・・・・・・・うん」
思う事があるのだろうか、サンディさんは言葉もなくただ月を眺めていた。
いつもの勝気な雰囲気は消え、不安げで儚い、ひとりの女性の顔をしていた。
「何かあったんですか?」
同じことを言おうとしたが、先に訊いたのはアデルだった。
感染したように、アデルの瞳にも不安が広がっていた。
「・・・・・ううん、大したことじゃないの。行こっか」
からりとした声に戻っていた。
釈然としないアデルの背中を叩き、サンディさんはにっと笑って立ち上がった。
笑うと覗く八重歯が、彼女の爛漫で率直な人柄をより強く現していた。
何だか気がかりになってアデルを見ると、戸惑い顔で首を傾げていた。
こうしてみるとふたりはさしずめ仲の良い姉弟のようで、時々、ほんの少し羨ましく感じた。
騎兵隊のエリート3人衆(元、も含む)は簡易テーブルを囲んで何やら昔の話をしていた。
参加しようとして、リベル達3人は面食らった。
どうも、全体的な空気が良くない。ラビさんはいつもの事だが、いつも笑顔のイジスタさんやハンスさんまで穏やかでない表情で、時々声を潜めて何か言い合っていた。
向こう側の椅子に座っていたイジスタさんと目が合った。
――――息を呑んだ。
月明かりに照らされた深いエメラルドの瞳は、今にも溢れそうな何かを堪えていたのだ。
戸惑い、掛けようとした言葉を忘れて茫然と立ち尽くした。
ラビさんとハンスさんが気付き、振り返った。ふたりの表情が険しくなった。
「・・・・あ・・あの、一体・・・」
すぐ隣で聞こえた。何も分からないアデルの当惑の声だった。
ふと我に返り、私もそれに続こうとすると、イジスタさんが早口で捲し立てた。
「何でもない。――――ちょっと車戻ってるね。ゴメン。気にしないで」
言い切る前に椅子を引いて立ち上がると、逃げるように身を翻して行ってしまった。
長身のシルエットが、闇に融けた。
直後にラビさんがしまったという顔をして立ち上がり、追いかけて行った。
私とアデルは益々訳が分からず、残ったハンスさんの顔をじっと見つめるしかなかった。。
サンディさんも虚を突かれたように、私たちと同じく棒立ちになってハンスさんに声なき詰問をしていた。
緋色の眼が泳いで、渚を、空を、行ったり来たりしていた。
「・・・・・・・ええと、ゴメンな。ちょっと・・・」
取り残されたハンスさんが、おずおずと口を開いた。
何事かさっぱり分からぬまま、私たちはただ目を見て黙っていた。
「サンディは分かると思うけど・・・・
・・・・・・・メルアの事でね。ちょっと、あってさ」
聞きなれない単語が出てきてアデルと共に意味を解せないでいると、およその事を了解したらしいサンディさんだけが、みるみるうちに顔を曇らせた。
ひとつ間が開いて、引きつった顔になって私たちと顔を見合わせた。
「姐さん知ってるの?」
「メルアって誰ですか??」
すぐさま二人で問い詰めた。
しかし、返事は余りに歯切れの悪いものだった。
「え、あの・・・それは、私が言うべきことなのか・・・。特に、リベルには・・・」
名前を呼ばれ、目が合った。両の眼から哀憐の情がひしひしと伝わって、何かひどく嫌な予感がした。
訝しげに見つめる私から視線を引きはがすと、サンディさんは黙り込んでしまった。
「・・・・・・ハンスさん」
サンディさんが助けを求めるように呼んだ。
ハンスさんは渋い顔をしたが、数秒後、ため息を吐いて私を呼び寄せた。
何も掴めないまま歩み寄り、諾々と隣の椅子に腰掛けた。気を遣ったサンディさんが、ぽかんとしているアデルを連れて少し遠い所まで歩いて行った。
それはどことなく職員室に呼ばれたような感覚だったが、頬杖をついてしかめ面をしているのはもちろん担任ではなかったし、これから聞くのはたぶん叱責ではなく何か重大なカミングアウトだった。
「イジスタさんどうしちゃったんですか?何が起きたんですか?誰ですか?メルアって」
矢つぎに訊いたが、場は再び静かになってしまった。
ハンスさんの喉の奥から引き攣ったような声が一瞬漏れ、咳払いをひとつした。
「リベル。えーと・・・あいつは見ての通り男前だし、女には優しい。
だからその、まあ・・・何だ。当たり前の事だっていうのは・・・
分かるよな?リベル??そういう事だよ」
ハンスさんの説明は遠回しすぎて、私は更に混乱した。
「・・・??よくわかりません」
「そうだよな。うーーーんと・・・。ハッキリ言うと、イジスタの・・・・まぁ、元・・か?彼女なんだよ。メルアってのは。
・・・今はもう、・・・・・堕ちてしまったけど」
絶句した。
あの笑顔が、浮かんだ。優しい声が、微かに甘い芳香が、心を埋めた。
それら全ては、痛みとして。
「その子が最近事件を起こしたみたいで・・・・その事で、ちょっと言い合いになってさ。あまり気に・・・するなよ?なるか。・・・なるよな」
「・・・・・い、いいえ」
がっかりする権利など無いはずだった。
今までも、これからも、イジスタさんは遠い憧れの存在なのだから。
――――しかし、私は自分が認めているよりもずっと身の程知らずだった。
何万回も言い聞かせた『憧れ』という自己防衛のセリフは、擦り切れて薄っぺらくなった、意味をなさない護符のようだった。
想定していなかったのだ。イジスタさんに彼女が・・・私よりもずっと大切に想う人が居ることに、気持ちがこんなに昂るなんて。
自分の血液が、いつか見たようなあの土留色に変ってゆくような気がした。
「大丈夫です。気にしませんよ。・・・イジスタさんこそ、心配ですよ」
ハンスさんはおよそ全て知ったうえで話したのに違いなかった。見透かされていたのだ。
イジスタさんを想う気持ちも、それを下手に紛らわそうとする気持ちも。
そして今、必死でもみ消そうとしている感情も。
「なあリベル。一応言っておくけど、厳密には失恋したわけじゃないんだぜ。確かにイジスタはまだメルアの事を忘れてないだろうけど、でも・・もう別れてるし。あまりへこむなよ?」
「失恋なんて!!
私、ホントに平気です!最初から何も始まってませんし、こんなの恋と呼べるようなものでも無いですし!」
悟られまいと、私はとにかく言葉をかき集めた。
口をついて出たのはどれも心の隅にあらかじめ用意された、諦めのセリフ達だった。
「・・・私、昔からそういうタチなんです!悩みとか聞いてくれたり、優しくされるとすぐ舞い上がっちゃって。移り気なんですかね、私は」
イジスタさんへの私の感情など、所詮その程度かも知れない。私はそうやって逃げる事にした。
たとえぼろきれを繕うような空台詞であったとしても、私は逃げ切るつもりだった。
「泣かないのか、リベル?」
「・・・泣きません。だっておかしいじゃないですか。
それに・・・」
声が震えた。
たまらずぎゅっと目を閉じ、瞳の奥にあるはずの涙を無視した。
止まって。あと少しでいい。
唾をのみ込んだ。
「それに私は――――確かにちょっとイジスタさんを好き・・だった、かもしれません。
でも、それは単なる勝手です。私のわがままというか、大げさに言えば」
違うという気もしたが、あえてその言葉を選んだ。
「・・ただの勘違いです。」
しかし言葉に出すと、あながち間違ってもいない気がしてきた。
イジスタさんは優しすぎた。
そう。仕事上、性格上、誰にでもそうだとすぐに分かる筈だった。
なのに私は、盲目になって何かを必死に探していた。そこに在るはずのないものを。
突如、息を吹くような長いため息が聞こえた。
真隣、いくらかゲンナリしたような表情で、
ハンスさんは足元に視線を落としたまま苦言を放った。
「・・・リベルのへそ曲がり。
何でそこまで意地を張るんだ?ホントの事、言えよ。オレ、分かってたんだぞ。マジで好きだったくせに」
少しムッとして、私は強めに反発した。
「本当の事ですよ。全部」
「ウソこけ。イジスタがテロに巻き込まれた時、血相変えて兵舎に乗り込んだのは誰だよ?」
「そんなの、きっと誰だってそうします」
「――――なぁリベル、誰かを本気で好きになるのってそんなに大げさな事か?
何かの不都合が起きたら、そんなに無様に見えるものか?
お前がイジスタを想う気持ちって、そんなに禁忌なものだっけ?」
真剣な語勢に押され、私は目を点にした。ハンスさんは更に続けた。
「思い出してみろ。メシを食うようなもんだっただろ?イジスタと話して落ち着くのも、あいつの事を考えるのも。
あいつも同じだよ。鬱陶しかったら、わざわざ休み時間にリベルと話しに来るもんか」
「そんな・・・・でも迷惑じゃないですか!ただのクライエントですよ?私」
「迷惑?イジスタにそう言われたのか?それともラビに?」
「まさか!でも、言われなくても分かります!」
「馬鹿。分かってねえよ。
イジスタだっておぼこじゃないんだから誤解されたくない相手にややこしい事はしないし、リベルを面倒な奴だと思ってたら無駄に優しくする奴でもないよ。
ちくしょう、全然わかってねえな、もう」
意外な言葉に涙腺がほどけそうになったが、そうだとしても結果は同じだった。
「・・・・そうだとしても、結局私は・・・」
「リベル。お前に好かれて迷惑なんて思う奴、居ないよ。いやまあ、滅多に。
だってお前、自分で思ってるよりもずっと可愛いし、素直で良い奴だぞ。
それどころか、お前の事を・・・」
「いや、っていうか・・まあ、仮にもしリベルの事を好きな奴が傍で見てても、
そいつはそんな事でリベルを責めたり、嫌いになったりしないと思うし。もしもの話だけど」
ハンスさんは一息にそこまで喋ると、すべて出し切ったという感じで天を仰いだ。
つられて見上げると、漆黒に燦然と光る夏の大三角形が見えた。
「まあ要するに、辛いんならそれらしく振舞って泣いても良いんじゃねーの?お前はもうちょい我を出せよ。誰に遠慮してんだか知らねーけどさ」
「・・・・・・」
黙りこくったまま、私は小さく頷いた。
堪えていたはずの涙は、いつの間にか何処かへ行ってしまった。
漂っていた湿っぽい空気を吹き飛ばすように、不意にハンスさんが明るく笑いかけた。
「・・必要とあらば、いつでも肩を貸すぞ?何なら俺を好きになるか?」
「ふふ・・―――いいんですか?お願いします」
無論私は冗談のつもりだったが、思った以上の反発に遭ってしまった。
「え、嘘!?ダメダメ!予約済みだから!」
「えっ!?・・そ、そうなんですか??知りませんでした」
「そ。オレに惚れちゃダメだぞ!」
「分かりました。おめでとう、ハンスさん!」
やっと笑ったリベルを、ハンスは朗らかな気分で見つめていた。
それはオレの事じゃないよ、とはさすがに言わなかったので、守秘義務はなんとか果たしたと言えるだろう。
「もう行く。ちょっとイジスタの阿呆も慰めて来るわ」
「・・・そう、ですね。私はもう少しここに居ます」
頷いた。
そう、ゆっくりでいい。悲しい時は、ゆっくり進め。