第一話 遠い日の夢
前作『宵の天秤』の続きです。
意味不明に感じましたら、是非前作からお読み下さい。
そこは、遠く懐かしい日常だった。
私は高校の制服を着て、兄と夕方の二子玉川駅構内を歩いていた。
父を迎えに来たのだろうか。昔は父の帰りが早い時、しばしば迎えに来ていた。
兄はもう就職して板橋のアパートで独り暮らししていたが、時々実家に夕飯を食べに来ていた。
自転車で行ける距離に住んでいた兄は、なんだかんだでよく会いに来てくれたのだ。
母似の、お節介な兄だった。
「陽子、彼氏できた?」
歩きながら、マックシェイクを吹き出しそうになった。
兄は缶コーヒーを飲みながら、笑っていた。
知っていても、敢えてそう聞くのだ。
「色気付かないよな、お前。もう17なのに」
「何、突然??」
「いや、別に何もないけど。好きな奴ぐらいは居るんだろ?」
「居たら何?兄ちゃんには関係ないじゃん」
図星すぎて、つっけんどんな態度に出る。
「兄ちゃんにも見せろよな。そいつともし付き合うことになったら」
「なんか兄ちゃん、お父さんみたい。・・お父さんよりうるさい」
父は大井町線を利用していた。帰宅時間はラッシュと重なったり、それよりも遅かったり、まちまちだった。今日みたいに暗くなる前に帰ってくるのは、珍しい方だ。
ざわめきの中を並んでゆっくり横切る。
帰宅ラッシュに雑踏する駅。ひと、ひと。それぞれの会話の声。
騒がしい改札口に着く。隣で兄の声が聞こえたが、何を言っているのか聞き取れない。
「・・・何?よく聞こえないよ」
隣を見ると、兄は微笑んでいた。
2年前にちょうど兄が実家を出るとき、
サヨナラを言うとき、こんな風に笑っていた。
足元が、沈み込んでゆく。床が溶けて無くなるみたいに。
雑踏が、大勢の知らない人たちの話声が、フェードアウトしていった。
改札口も、駅員も、電光掲示板も、みんな消えてしまった。
「兄ちゃん」
兄も、眩しい光の向こうへ歩いていた。
行ってしまう。何もかも。
「待って!!どこに・・」
「陽子、お前さ」
兄の声。
真後ろで聞こえたのに、振り返っても姿は無かった。辺りはもう、見渡す限り果てなく白い空間だった。
「ここ一番って時に重要な事を見落とすタチだよな。昔から」
姿なき声が、穏やかに続けた。
「心配だけど、俺は行くわ。
兄ちゃんはもう守ってやれないけど、お前はもう大丈夫そうだから」
待ってよ!それは、どういう意味?
私が強くなったから?皆が私を守ってくれるから??
白い。自分の姿さえ見えない。
けれど目を閉じても分かる、白い天井、カーテン、ベッド・・すべてが近くにある。
遠い遠い所から、凛々しく通る声がする。
号令だ。
ああ、今日は合同訓練の日か。
すぐに大井町線に乗って渋谷で乗り換えないと。
定期と、フルーレと、タオルと・・・・・
覚醒は、急に訪れた。夢を見たのだ。
私は夢を介して兄に会いに行ったのかもしれない。
目覚めたとき、涙を流していた。
目覚ましは鳴らなかった。時計を見て一瞬ヒヤリとしたが、今日の訓練は午後からだとすぐに思い出した。
暑くて開けっ放しで寝ていた窓を閉め、シャワーを浴びて着替えると、蒸し暑い部屋を後にして朝から賑やかな食堂に向かった。
廊下から外は空調が効いていて、夏場はあえて個室のエアコンを使う人よりもホールやカフェテラスで過ごす人が多かった。
カウンターでサンドウィッチとカフェオレを注文し、数少ない空席を確保して座る。
この時期の窓際は、暑いから人気がないのだ。
巨大な窓の外にはこぢんまりとした庭園と、その向こうに夢想境1区の街並みが見えた。地元だった世田谷に、少し似ていた。
急に後ろから話しかけられ、サンドウィッチを皿に落とした。
「あ、ゴメン。びっくりした?」
「あ、ううん。おはようサンディさん」
「さん、付けなくていいのに」
「相変わらず食べますね」
そのセリフは2人前とか、中途半端に多い量なら失礼に当たるのかもしれない。
しかし彼女の場合は本当に常識を逸した量なので、むしろ触れない方が不自然なのだ。
いつかテレビでみた細身のフードファイターもかくや、少なめに見積もっても5人前はあるクラブハウスサンドを(それも朝8時に)ぺろりと平らげてしまうような女性が、このサンディさんなのである
「食べないとバテちゃうよ。暑いし」
この世界の不思議のひとつに、サンディさんの消化器官の仕組みを加えようかと検討していると、アデルもトレーにおにぎりを乗せて参加しに来た。
アデルはパンが嫌いらしく、朝はご飯かシリアルしか食べないというやや面倒くさい嗜好の持ち主だ。
「アデル、おはよう」
「おはよー・・」
寝ぼけ眼だ。昨日寝るのが遅かったのだろうか?
隣の部屋とはいえ防音性はばっちりなので、例え耳をくっつけても様子を窺うのは難しい。そこまでしてアデルの部屋の音など聞きたくないので、試したことは無いけど。
「ねぇねぇ、水着買った?リベル」
「買いました!いよいよ今週末ですね」
「もう海なんて久しぶりだから、アタシ水着無くしちゃってさー。今日、訓練の後に買いに行くのよ。ついて来ない?」
「どこ行くんですか?駅の所?」
「そうそう。アデルも来るわよね?」
「えぇー・・・行きませんよ・・。何で僕が女の子の水着買うのに付いていくんですか」
「行こうよアデル」
「行 か な い !」
いつもは弱気なアデルの強固たる拒否に遭い、サンディさんと私はやむなく引き下がって一笑した。
手早く食事を済ませ、サンディさんは浮足立って部屋に戻って行った。
アデルも今日はまだ眠たいようで、食べ終わるとすぐに部屋へ戻った。
何だか手持無沙汰になった私は結局そのまま兵舎に向かい、
人もまばらな訓練場で一人、組み討ち以外のメニューをこなす事にした。
耳を塞いだように、何も聞こえなかった。
日が高くなり、訓練場の空調が点くまで私は無心になっていたようで、人が随分増えるまで周りの様子に気が付かなかった。
Tシャツの背中が冷えて、一気に肌寒く感じた。
「リベル、真面目だなあ。少しは遊んでもいいのに」
心地良い、穏やかな声。イジスタさんはいつの間にか出入口に立っていたらしい。
暑いからだろう、最近すっかり白衣姿を見なくなった。7月に入ってからは夏物のカジュアルスーツに胸元にいつものペン2本と通行証という、軽い装いになっていた。外回りの営業みたいな格好だ。
それにしても、スーツの似合うこと。
「真面目というか・・・訓練サボると、ラビさんに怒られちゃいますからね」
「ラビさんだって鬼じゃないんだから、自由時間くらい外出しても何も言わないよ」
すっかり心配する私をお母さんのような役回りになってきたイジスタさんは、ここに来る日以外にも、暇を見てちょくちょく顔を出しに来ていた。
その度に兵舎を覗いては懐かしがり、時にはぽつりと『戻ろうかな』とか漏らしたりして女性兵たちをワクワクさせていた。
イジスタさんが何故ここを出てカウンセラーになったのかは、まだ訊いてみてもいなかった。
「おーいおいおいおい!うちのリベルに何ナンパしてんだよ、イジスタ?」
それこそナンパのような口調で、例の陽気すぎる隊長補佐が茶化しに来た。
青いアロハシャツに肩当てという、驚くほどミスマッチなファッションを堂々と披露し、新人たちに独特の親しみやすさを全開していた。
この人の生前は陽気な南米人かもしれないと、本気で思う事もある。
何かの手違いで日本人に生まれ変わってしまっただけで。
「ハンスに言われたくないよ。何それ?いつも一人だけハワイみたいな服着て」
「暑いんだよ。なぁリベル、悪いことは言わないからイジスタはやめろよ?
こいつ外見はこんなさわやか王子だけどさ、内面ドロドロなんだぜ」
「よせよ。怒るぞ」
「はは、何も言わねーよ。まあとにかく、リベルは今度の非番の日に『オレと』出掛けるから。残念だったな。ナンパ王子」
「ちょっと!変な風に言わないで下さい!
ラビさんも、サンディさんもアデルも居るじゃないですか!」
「・・だって。ハンスも振られてるじゃん」
「ばーか。オレとリベルは親友なの」
彼曰く、皆出会った日から親友だそうで、ラビさんは『親友以上恋人未満』だそうだ。
因みに彼女は、絶賛募集中だ。
ほんの少し空いた会話の隙間を逃さず、質問を差し挟んだ。
「あの、イジスタさんのお休みっていつですか?」
「俺?・・うーん、不定休だけど一応交代要員も居るし、融通は利くかな」
「もし良かったら行きましょうよ!皆で3番事務所近くの海に行くんですけど、海好きですか?」
「海?いいね、夏っぽいね。
そういえば、ラビさんも遊びに行くって珍しいね?久しぶりかも」
「あ、3番に用事があるみたいなんです。そのついでにって、ハンスさんが」
「ああ、なるほど」
「ああ見えてラビは案外はしゃぐぞ、リベル」
「ラビさんが?!」
「ラビさん、仕事が忙しくて滅多に遊ばないけど、遊ぶとすごいよ。
普段のラビさんじゃ考えられない事しだすから」
耳を疑った。
そんなばかな、と言おうとして言葉を呑んだ。それも何だか失礼なセリフだ。
「そうなんですか・・??」
私の想像力が足りないのか、どうしてもオフに切り替えたラビさんの行動は予想できない。落ち着きのないラビさんなんて、もうラビさんじゃない気がする。
まして浜辺ではしゃぐラビさんなど、ツチノコの生態よりも想像に難い。
驚いて口が塞がらない私をよそに、会話は続いていた。
「ラビもここんとこ忙しかったから、息抜きしたいんじゃねーか?
裁判とかも、やっと全部落ち着いたし。あ、せっかくだから肉も焼こうぜ!浜辺で!!」
「ハンス焼き方が雑だよね。生のやつとかあるし、すぐ焦がすし」
「お前は小姑か!色々細かいなぁ、O型の癖に」
「几帳面なの。ハンスはA型の癖に雑すぎ」
「あ、傷付いたわー。誰か癒してー。このカウンセラー解雇してー」
「もう、また変な事でケンカしないで下さいよ」
「ケンカじゃないよ、リベル。何故なら僕は怒ってないもの」
「あ、また爽やか王子気取りしやがって。何が『僕』だよ、リベルに斬られろ」
「リベルはそんな事しないよ。ね?」
「え、はい!も、もちろん!!」
「なあリベル、お前本当にこいつはダメだぞ!
お前を本当に想ってるやつにしろよ!!付き合うなら!」
「えっ」
「何言ってんだよハンス。からかうなよ・・・あ」
見慣れた藍髪がハンスさんの後ろに見えた。
と、パシン!という快音と共にハンスさんの頭が揺れた。
「痛って!」
冷ややかな目でハンスさんを睨み、ラビさんは凛とした声で嗜めた。
「喋ってないで訓練しろ。訓練場なんだから」
「お前、先生かよ。今ので高校の時の担任思い出したよ」
「先生じゃなくて上司だろ。尚更、真面目にやれよな」
それは、可笑しな光景だった。
17歳の手斧を持った少年に怒られる、アロハシャツに肩当ての青年。それを楽しそうに見つめるカジュアルスーツの美青年。そしてフルーレを手に笑う少女。
全てがちぐはぐに見えるが、私たちは見えざる何かで括られていた。自然と気持ちが緩む。
無意味に、素朴な疑問を口に出していた。
「ねぇ、皆の出身地って、何処ですか?」
「え?」
「は?」
「?」
「私、東京の世田谷に住んでたんです。夢見ちゃって・・今日」
「世田谷?!何かセレブリチーな感じだな!オレ、埼玉!」
突拍子も無いのに、ハンスさんは即答した。
彼は話題を変える天才ゆえ、何の話だって付いてきてくれる。
イジスタさんも笑顔で続いた。
「俺は愛知の地味な都市だよ。田舎でも、都会でもない」
「ラビさんは?」
「俺は・・・まぁ、田舎。長野の南安曇って所」
「みんなバラバラなんですね」
「そうだな。何だ、いきなり」
「・・・いいえ、何でも」
意味なく元気が出た。
気が付けばもう、ここに来て3カ月だった。
私はもう大丈夫。
さよなら、故郷、兄ちゃん、皆。
忘らるる場所。