未完成12;日記と意識の流れと私小説風味の衒学的な何か
供養 何が楽しいんだか書いてる私もわからないというか、限りなく自慰的なことに気付いたので墓場へシューッ!
1――15:00
目が醒めた。
眠気、その残滓が瞼のうえにとぐろを巻いていた。
時計を見れば午後三時。
朝だ。
……朝か?
じわじわとした焦燥に身を焼かれながらも、眠りに着いた昨晩(とはいっても今日の朝のことだが)の決意を思い出す。
――そろそろ書こう。
そのような決意。決意するだけならばただである。
最後に書き物を、つまりこの私の数少ない趣味の一つであるアマチュア的な、素人的な、この上なくディレッタンティズムに満ち満ちた小説――いわゆるweb小説、あるいはSS(未だに何の略称かはわからない。ショートショートか、サイドストーリーか、思うにSSとはSSという一つのネットスラングである、昔は主に二次小説にしか使われなかったような気もするが)を書いたのはいつのことであっただろうか。
ノートパソコン――悪魔の機械、常々思うが、おそらくこの機械と、そしてインターネットというものが存在しなかったのならば、一体どれほどの人間が道を誤ることがなかったのだろうか、と――を見る。
――よし、書こう。さあ、書こう。
そんな想いが脳裏によぎる。
ともあれ起きてまずすることは、パソコンの電源を付けること。
眩しい太陽の輝きが、うっすらと曇ったモザイク状の窓から注ぎ込む。
どこか心地よく感じられる麗らかな陽の感触に目を細める。
私のパソコン、愛用のノートパソコン(彼を購入したのはすでに6年も前のことになる、と思えばときどき耐え難いほどの不安と驚愕に包まれることがある。高校生だったころの自分はとうに消え去って、いまここにいるのは、道を踏み外している一人の醜い大学生という事実のせいだろうか)の起動はそんなに早くもなく、私は陽を浴びながらさっそく手持ちぶさたになる。
手元にある本、枕元の何冊か、窓の傍にある10冊ほどの塊に一瞥をくれて、適当なものを一冊抜き出す。
PKDの『マイノリティ・レポート』……気分ではないのでやめた。
RAラファティの『パスト・マスター』、あるいはM○文庫のアニメ化作品(絶賛二期放映中、目つきの悪い男の子が主人公のあれ)のどちらを読むか悩む。
悩みながら思うのは、常々自分が優柔不断であるということだ。
それこそ小学生の頃から、私は母親や父親、時には友人を苛立たせてきた。
選択するということを悩む性質は、しかしある種の繊細さの表れだと自分では思っている。
選ばれなかった可能性を想像してしまう夢見がちな心がそれに合わさって、彼ら優柔不断者たちは一つのクッキーか一つのチョコレートかで悩み続けるのだ。
繊細さとは想像力と結びついている。
それは死を連想させる場面において顕著である。
例えば子供のころの私は(今もだが)飛行機に乗ることを渋った。恐れ逃げまどった。それは飛行機が落ちることを想像していたためである。
家庭の事情から何度も何度も飛行機に乗る機会があった私にとって、想像を絶するほどの恐怖を、その墜落という可能性によって生み出すのが飛行機であった。
あるいはウォータースライダー、滑落中に外に飛び出すことへの恐怖。
父と母は苛立ち、呆れ、そして怒り出し、最後には諦めた。
まるでこの世の中で、最も愚鈍な生物を見るような目で見られた記憶。
でもしょうがないじゃないか、怖いものは怖いのだから。
(とはいえ最近、あるいは年齢を重ねるにつれて、そうした渋り、選択を拒否する傾向は驚くほど減少した。
もちろん死の恐怖、身近に潜む死の可能性を想像しないというわけではないが、それを想像した上で、なお「まあ、大丈夫だろう」と考えることの出来る強さが身についたとも言える)
ふと気付けばパソコンの起動が終わっていた。
ログインをしながら、結局、本を読めなかったことを思う。
とはいえこのパソコンはログイン後のデスクトップ表示もまた遅い。
下手したら3分は平気要求してくるのだ。
悩むのも馬鹿らしいので先述の『パスト・マスター』を手に取る。
本を手に取り、栞のページを捲りながら思うのは最近の私の部屋事情。
むかしからボチボチと本を読むタイプではあったが、読書を習慣的に行うようになったのは一昨年くらいからである。
つまりこの趣味を身に付けてから。よく読み、よく書くを標語として、私は色々なジャンルの本を読み、買い漁るようになったのである。
……買い漁りすぎて部屋にある本の半分くらいは積み本であるが。
書物は読むことが前提で、また読まれることによってその存在意味を全うするのはもちろんだ。
――だが待って欲しい。名前だけは有名な書物なり、レアな書物なりを部屋という自己のパーソナルなスペース、ある意味で心象の象徴ともいえる空間に配置すること、そこにはなにか、そうなにか名状しがたき、得難い快感があると私には思える。
それを言い訳にするつもりはないが、そのため最近では足の置き場もない私の部屋にはいつか読まれることを待っている紙とインクと埃の匂いが充満しており、それを見てほくそ笑み私の姿がそこに見られるようになった。
買うと言うことと、読むと言うこと、そしていつでも読むことが可能であるということの幸せな結びつき。
だからこうして部屋を見渡して、何を読もうか悩み続けることは、誰にも迷惑をかけることのない至上の幸福である。
閑話休題――読むことは簡単であるが、しかし個人的に読み始めて思うことがある。
書くことは読むことよりも難しい、しかしまた真に良く読むこともまた書くことより難しいのだということ。
例えばここ2年の読書の速度は、中学生だったころ、高校生だったころの私に比べれば、かなり遅いであろう。
しかしまた、それで良いのだと思えるようになったことも確かだ。
舐めるように、一文一文を想像して、味わって読むことの楽しさとでも言えばよいのか。
だけれども加減は必要である、ライトノベルを読むときや、エンタメ小説を読むときに一々考え込んでいたら物語を味わう上での必要な勢いが死んでしまう。(さらにいえば、ときおり思考が脱線したり、細部を入念に読むようなことは、物語を阻害する。私はよくそれが起こる。つまり私は読書に向いていないのではないか、と思うことは非常に多々ある。(そもそもどちらかというと小説ではないようなものの方が読んでいて楽しいときもある。小説は読むのに、ある種の慣れが必要なのだ、そして私は未だにそれに慣れることがない))
ともあれ何かを書くようになって初めて、市販の小説をよく吟味するようになったことは確かであった。
書くようになれば、表現が気になり、またジャンル的な興味も広がる。
中高生のとき、私は小説といえば専らweb小説を読んでいた(それ以外はたまにしか読まなかったということでもある)。
デスゲームと化したVRMMORPGに閉じ込められ塔を攻略することを義務づけられた黒い男の物語。
あるいはあるPCゲームの皮を借りて、SFからファンタジーまで様々な(どこかで見たような)登場人物たちが縦横無尽に活躍を繰り広げる二次創作的な物語。
大学に入るようになってライトノベルと、以前よりは普通の小説を読む頻度も上がったように思う。
(注釈を付けさせてもらえば、これは小説に限っての話である。
中高生の頃、私はどちらかと言えば、これ見よがしにニーチェやらウィトゲンシュタインおじさんの著作を分かるような分からないような状態で読みながら、「ねー、それなに読んでるの?」という質問に「ニーチェだよ」と返すことを夢見るような、今思えば悪夢としかいえないような習癖――若気の至りに満ちた――を持っていた。
形態の変化した厨二病といえばよいだろうか、ときどき布団を被りながら、眠りに落ちる瞬間にフラッシュバックした無数のそうした記憶は、自殺したいほどの羞恥を私に感じさせる。
どうしようもない過去の記憶が常に己を苛み、そのうえ私が衒学的というかスノッブ的な癖が抜けないのは、それこそこの頃の名残のためであるか。本当に三つ子の魂百までとはよく言ったものだ。
まあ何が言いたいかというと、結局その厨二病自体は治ったが、そうしたものを読むことはやめなかったということだけを付け加えておきたい。
(本当かー? 本当に治ったかー? と問うのはどうかやめていただきたい、後生だから))
私にとって青春の間に読む小説とは、長らくweb小説であった。
もちろん小説以外の本、そして適当な新書の類に関していえば読むことには読んでいたが、こと小説に限れば、私が意識的に読書をするようになったのは、そして今まで読まなかったような小説を読むようになったのは、やはり何かを書き始めるようになってからのように思う。
書くことは読むことを意識させる。
こと私に関してはそうであった(面白いことに、これは逆もありえる、書き始めるようになって読むことをやめるようになった者もいるらしい)。
そして知識を漁り、私は上述の通り、小説を買い漁るようになった。それこそバイトの給料の殆どをそこに注ぎ込んで。
『パスト・マスター』もそうして買い漁った本の一冊である。
比較的、積み本としていた期間は浅かったが、そろそろ崩さなければということで読み始めたのだった。
副題はトマス・モアの大冒険。
知る人ぞ知る(というにはメジャーだが)トマス・モアが、遙かな未来世界、ユートピアが実現した世界においてその崩壊を食い止めるために召喚されて冒険を行うという筋書きである。
モア卿といえばユートピア、その著作『ユートピア』は既に一般名詞と化している。
日本語で言えば理想郷(これ自体は荘子からの引用だが)あるいは無何有郷か。
ユートピアがディストピアと表裏一体であることを踏まえて、壮大な思想とSF的想像力が散りばめられた読んでいて面白い作品だ。
聖モアは後に聖人にもなった男で、ヘンリー八世の離婚問題と宗教改革への反対から斬首されたことを鑑みれば、この小説の最後がどのような道筋となるか、いまから期待が拭いきれない。
軽妙な語り口とどこか人を食ったような独特な空気感があるこのラファティという作家は、私が最近とみに贔屓にしているSF作家であった。
(SFと言われても宇宙やら超能力やらだけが題材になるのではない、と私は思う。
私にとってSFとは何よりもフィクションであることが大切だ。が、人によっては科学性のギミックを重視する者もあるだろう。
最近のなんでもかんでもSF! これもSF! あれもSF! という風潮は流石にどうかとも思うが、SFの範疇は実のところ驚くべきほどに広い。……と私は思っている)
そんなこんなでパソコンのスタートアップが終わったことに気付く。
OSはXP、みんな大好きXPだ。
7だ8だとあるが、私はぶっちゃけて言えばこれで十分にこと足りると思う。
(V……、V……なんでしたっけ? MEよりも速やかに歴史から抹消されたOSが有ったような気もするが、まあ気のせいだろう。
あとME、私が小学生か、あるいは中学生だった頃まで使っていた共用のパソコンはこの糞OSだった。
いまだから笑い話にもなるが、使ったことのある人には分かってもらえると思う。突如止まること多数、青い画面乱舞、突然のブラックアウト、ソフトやらハードやらの相性問題、初代ポケモンで言うところの虫ポケモン並に弱点が多かった。
こんな糞OSで育てられれば、余程のことがなければパソコンの問題で動じない精神が身につくというものだ。
(ビル・ゲイツがマスメディアの前でMEをテスト実行してみせたときにフリーズしたという愉快な伝説が、このOSを象徴しているようにも思える))
そして私は執筆を始める前に、とりあえず1時間だけ、と呟きながらインターネットブラウザを起動した。
2――15:10
失われた時を求めて、というマルセル・プルーストの有名小説がある。
あのベッドから起きる瞬間だけで数ページ使うことで有名な作品だ。
フランス文学者でも実は全部読了していない人物が意外といるような、そんな作品。
あるいは中二階という作品でもいい、これはニコルソン・ベイカーという米国の作家の作品だ。
エスカレーターに乗る瞬間から降りる瞬間までの間を200p以上かけて描き、その合間に無数の脱線と考察と回想が散りばめられている、極小文学だ。
朗らかな日和を顔で感じていると、ふとなぜだかそんな言葉が脳裏に浮かんだ。
……とくに意味はない。
ちなみにブラウザの起動にも1分くらいかかる、そろそろこのパソコンも買い換えどきなのかもしれない。
――ともかく、そうした合間合間の暇な時間のために、私の脳には一々様々な想念が去来する。
脱線の楽しみとは、贅沢に時間を無駄にする快楽であり、言うなれば悩むこと、悩むことの幸福、細部に対する異常なこだわりを維持することへの幸福とも言い換えることができる。
そうした心地に身を浸していれば、多少の待ち時間などへでもない。
気付いたら幾つものタブが画面に現れていた。
(ちなみに使っているブラウザは結構マイナーなモノだ。
特段優れているという訳でもなく、使いやすいというわけでもないが、何故か未だに使い続けている。
(つまり火狐ではないということだ。
オーディンの乗馬と言えば分かる人は分かるかもしれない。
(話は変わるが、某世界的検索エンジンは何故あんなにも執念深くツールバーとブラウザを布教するのだろうか。
少し油断すれば、新しいフリーソフトのインストール終了とともにこちらを苛立たせてくれる。
押しつけがましいとかそういうレベルの話ではない。
新興宗教の布教でももう少し手加減してくれるだろうに、あのこちらの隙を窺っているかのような彼らの挙動は、本当に油断ならない。
○○○を導入しますか?
――○○○を導入しますか?
――――○○○を導入しますか?
サイコか、お前は)))
さてようやく起動が終わった頃を見計らって、私は掲示板をぼーっと見る。
時々気になったワードを検索して、たまにwikipediaを巡る。
動画サイトは生憎と私の射程範囲外へと出ていって久しいが、今日は珍しく前日言われた【超面白い実況動画】(こう勧められて見た動画が本当に超面白かった試しは、生憎ながら一度だってない)を検索する。
カチカチという小さな鼠の立てる歯の音。
めまぐるしく変化し、増大し、あるいは減少する情報の流れ・複雑化と単純化のプロセスを繰り返しゆらぐ情報の網に、心・意識・精神を浸して、無為に時間を浪費するこの快楽といったらない。
脱線の快楽とは、即ち洗練された現実逃避の快楽。
ふと掲示板を見ると蟹のことが話題になっていた。
蟹――旨い、カルヴィーノの蟹、タカ足ガニは食える、タカ足ガニがモチーフとされたボスのいる横シューティングゲーム、かに缶、カニかま――無数の想念が脳裏に去来した。
蟹は良い。
草野心平が蛙の詩人と呼ばれたように、私は蟹を愛したい。
(ちなみに蛙を題材にした作品で知られる草野心平は、そんなに蛙が好きでもなかったらしい。
(一部の詩人は、ある種の題材、ある種の生物が象徴となっていることがある。
例えばジョンキーツであれば小夜啼鳥そしてEAポーならば鴉と言ったように、象徴的な作品と作者が即座に連想されるような関係には、ある種の羨望を覚える))
蟹は良い、あの丸くてすべすべした甲羅も、あるいはぼこぼこした丸みも、小さな目、鋏を動かす挙動の愛らしさ。
何を考えているのか、のそりのそりと動くさまや、鋏というものを持っているその様。
泡を吹き、この世のなにもかもから切り離されたかのように泰然自若とした様子。
シオマネキの勇ましさは初心者向けだろうか。
といっても私だって特に蟹に凄い詳しいという訳でもない。
ただ蟹が気に入っているのだ。
例えば、蟹と言われて思い浮かぶのは、普通の人ならばまず第一にその旨さかもしれない。
でも私にとっては違う。
それはまだ4~5歳だったころに、長野の山で拾って東京に持って帰った沢蟹の存在があるからだろう。
水槽に、敷き詰められた小石に、そしてポツンとある大きな石、そこに小さく佇む彼の姿だ。
小さく、愛らしく、そして不思議な蟹という存在。
もう細かいところまで思いだすことは出来ないが、私がその蟹をとても好きだったことは確かだった。
餌をちょびりと口に運ぶあの蟹の姿。
私が住んでいたその家も、その蟹も、何もかも既に朧気だが、なんとなく覚えている。
細かいことは覚えていないともいえるのだけれども、確かに私の心にその蟹との出会い、そして喜んで飼い始めた場面。
岩に登る彼の姿。微動だにしない彼の姿。餌を食べる彼の姿がなんとなく思い出せるのだ。――もちろん彼が死んでしまったときのことも。
その彼の最後の瞬間は分からない、覚えていない。
それでも未だに、私は……うっすらと……本当にうっすらとしたそれらの記憶を想うと――呆然として、最後には泣きわめいた己の稚児たる頃の姿が浮かんくる。
それがどれほどの衝撃だったのかは、覚えていない。
ただ彼を埋めたこと、そしてその墓前に何かを捧げたことだけは覚えている。
それしか覚えていないにも関わらず、彼が死んでしまったときの私を想像するだけで……いやそのときのことを思い出そうとしばらく足掻くだけで、私の目にはいまも涙が浮かぶ。
今、この時も、何故か流れ始めた涙に動揺を隠せない。
おそらく、意識を超えたところで、深い深い記憶の淀みの奥深くで、私は彼のことを覚えているのだろう。
赤く、すべすべした彼の記憶を、名前も既に思い出せない、あの小さな沢蟹のことを。
涙とともに刻まれた彼の愛らしさを。
そんなことを考えている間に少し時間が経っていた。
私はいつのまにか目元に浮かんでいた涙を拭ってから、改めて画面に集中した。
冒頭からして、いよいよ面白くなさそうな動画に心を躍らせ、私はマウスをクリックし、音量を調節した。
私は動画を見始めた。
その二 16:00へ続く
3――16:00
気がつけば16:00であった。
未だに起きてから一時間しか経過していない。
1時間、この1時間、経過し、過ぎ去り、もはや二度とは還ることのない1時間を思うと、恐怖から身体が震え出す。
過ぎ去った時間を想って、また時間をすり減らす。
そのことの無意味さには気がついているけれど、余りにも浪費した時間が莫大であるように思えると、私は唖然として叫び出したい気持ちに駆られる。
(例えば、例えばだ、オナニーの時間を、大まかに計算したところ、人生の数十分の一に達するほど行っていたと知った若人。
あるいはインターネットをひたすら見る――半ば死語と化しているが、私の好む言い回しを用いればインターネットサーフィンに明け暮れている時間が、2年、24時間全てインターネットに使った計算で2年、しかも低く見積もって2年。
そうした恐ろしい思考を、青春と、失われた10代に及ばせるときの、どうしようもないほどの虚ろな気持ち。
(一日24時間、十日で240時間、一〇〇日で2400時間、五〇〇日で12000時間、七〇〇日で16800時間!
時よ、時よ! 水にも例えうる、流れ持つ汝がその身、その時、何処から何処へと去り行けり
ただ現れ、そしてたちまちの内に萎んでゆく水の泡のごとき汝らの、その働き、その力
一体全体、莫大なそれらの時間を、もっと他のことに注ぎ込んでいたのなら?
ああ、あな恐ろしや、あな恐ろしや、考えないほうが身のためでございませう))
――そうだ、今日こそは書く……そう、今日こそは
そうした気持ちが脳裏に閃いては消え、また閃いては消える。
――そうだ、まずはテキストエディタを起動しろ、音楽をかけろ。
音楽……アニソンばかりリストに並ぶ、あるいはジャズでもいい、プログレもいい、そうだ適当なものを聞いて、心を執筆に向けてチューニングするのだ。
しかし私の操るマウスはデスクトップの上でカーソルを、酔っ払いのようにふらつかせている。
ふと後頭部に陽の熱さを感じる。
振り向き、濾過された熱線の黄色い輝きに目を眇める。
――そうだ、今日はまだ起きてから食事を取っていない!
腹が減っては戦が出来ぬ、私はそう呟いて、大股とジャンプを駆使して自分の部屋から脱出した。
この部屋の位置は二階にある。
二階から一階に降りるには階段を使う必要がある。
階段、そう階段だ。
ここでドタバタと降りるのは素人のやることである。
必要なのは細心の注意を払った繊細な足取り。
抜き足、差し足、忍び足、そしてそこに摺り足を使って、さながら忍者のように階段を下りていく。
父親が己の部屋で何かの仕事をしている筈で、このような時間に起きたことが知れれば、またぞろ嫌な気分を味わうこととなるだろう。
それを避けるために、私は忍者になる。
ジョブチェンジだ。
……気配を気取られずに居間へと辿り着く。
部屋は汚い。
(私は常々思っていた、部屋とは記号化された心象風景の具象、あるいは象徴化された心象の投影、数メートル四方の立法体は実体化され実存を獲得した心的な本質の顕現なのだと。
部屋、その部屋にあるもの、それらの配置のされかた、どれほど綺麗であるか、あるいは何が、何の種類の物質が存在するのか。
それはその部屋で生活する人間を明らかに表象している。
例えば私の部屋には一つのベッド――小学生の頃から使っている、いい加減にガタが来ているベッドの他には、無数の横積された書物――本棚がないために乱雑に、極めて乱雑かつ混沌とした様子で配置された書物――の山、そしてその上に適当に置かれたノートパソコンと、ぬいぐるみの山(大の男がぬいぐるみ? と言われても好きなモノは好きなのだ、可愛いという感覚に身を任せたいと静かに願っている成人男性の数は、実のところ結構多いのではないかと私は密かに考えている。それは言うなれば甘いモノが好きな男性が、しかし体面を気にして密かにそうした甘味を買い求めているように、男性性、あるいは男らしさのミームと文化資本に塗れて生活している男性こそ、逆説的に抑圧された女性性が無意識の中に胎動して、可愛いものを求めることがあるのではないだろうか。
何を可愛いと思うかは人によるが、多かれ少なかれ、男性は可愛いモノが好きなのだ。
昨今のオタク文化(などと十把一絡げに論じるのも胡散臭いが)の広まりには、そのことが関係しているのかもしれない。
つまりはそうした文化の持つ、影響力、一つ一つの存在の強さとでも言うべきものの強さの故に)
――ぬいぐるみの山しかない。そうした私の心象世界を、現実の部屋から逆算するのなら、そこには幼稚さ、そして一つのことへの脇目をふらない執着、子供から抜け出ることの出来ないピーターパンシンドロームを患った人間像が窺えるのだろう)
部屋は汚いが、この居間の汚さは安心感を生む。
少なくとも綺麗ではないが、衛生的ではあるからだろうか。
(秩序的清潔―衛生的清潔さ
それぞれの観点は極めて緊密な関係にあるが、同じではない。
かつて私が某ファストフード店でアルバイトをしていた時に習ったことでもあるが、つまりは見た目の整った、心に気持ちよい、秩序立った、エントロピーの限りない減少状態が維持されているかどうか という観点が清潔さ、綺麗であり、ゴミがないということだ。
それに対して衛生的というのは、科学的、生化学的、病理学的な、ウイルスと細菌、昆虫の発生源の消去、あるいは消去が努力されているかどうか?という観点である。つまりはノロウイルスや、インフルエンザ、単なる風邪まで、その病因となるものが除去されているということだ。
その観点で言えば私の部屋は多分限りなく汚いが、しかしまた何も持ち込まないという観点において別の意味ではそこまで汚なくないだろう。
この居間も同じである)
テーブルを見る……何も無い。
空いた皿。
弱い燈色の灯り。
射し込んだ陽から生まれた陰に、夕映えが彩りを添えた庭が窓から見える。
私は水を飲み、そしてカップラーメンにお湯を注ぎ始める。
味噌ラーメンだ。
3分、この世の中で最も空虚な、いや正しくは己の空虚さを思い知らされる時間こそが、この3分間である。
そこには手持ちぶさたな一人の男が、一体どれほど無意味な存在であるのかを思い知らせるような空気が生まれる。
では普通、男は一体どのような手段で、この時間を潰そうと試みるだろうか。
まず携帯電話を取り出すような人もいるだろう。
(生憎と私は携帯を携帯しない類の人間の一人なので、この感覚は理解できないが)
次にテレビを点けるものもいるかもしれない。
(テレビとは素晴らしいものだと思う、いつ点けても明るくて、賑やかで、同じような顔をした人たちが、私たちの時間をただただ楽しませるためだけに何かをしている。バラエティに富んだように見えて、どれもこれも同じような番組の数々は、変化を嫌う大多数の人間の心を、一体どれほど慰めてくれるだろうか! ビバ! テレビジョン!)
あるいは携帯ゲーム機か。
(配管工男社の飛び出す携帯ゲーム機か、あるいは遊ぶ駅社の一世代前の黒い携帯ゲーム機を私は持っている。
生憎と金に困った時にソフトの殆どは売ってしまった。
つくづく思うのは某国民的RPG(ウルティマに似てるあれ、竜のほう)で、武器や防具を買いそろえる時に足りなければ、持っている道具やら武器、そして装備している武器やら防具やらを売り払ってどうにかするという癖が、現実に一体どれほど当てはまっているのかということ。
欲しくなれば、どうにか用立てて、対症療法的にどうにかするこの癖が、現実でも行われた結果、私の手元に残るゲームは驚くほどに少なく、また同時に似たような状況において危険な資金繰りを行わせる)
しかしここで問題となるのは3分という時間だ。
常識的に考えて、電源を点けて、ソフトの起動が終了する頃には、既にラーメンは出来上がっているとしか思えない。
ましてすぐに起動できたとしても、一体3分で何が出来るのだろうか。
3分とは短く、しかし何もしないためには余りに長すぎるのだ)
本を読むのもありかもしれない。
(しかし3分で、一体どれほど読むことが出来るのか。
集中が始まった瞬間に、それが強制的に途切れさせられるのがオチだ)
新聞でもいいかもしれない。
(1面の下のほうにある天声○語的なコラムが個人的には好きだ。
しょうもない世を嘆いたり、何かを危惧したりと、そうした糞どうでもいいものが大半だが、たまに面白い表現がある。あとみんな何かしらの書物から引用するので、何かに使えそうなネタが眠っている時もある。ただどうにもこうにも上手いことを言うことだけに尽力している感が否めないが)
しかし俺が選んだのは、虚空を見つめながらこうした省察に耽ることであった。
(歩いているとき、そして学校やら家やらで、ふとこうした思索と省察に耽る癖が私にはあった。
よく言われたのは、こいつ電源切れてる、また○○が落ちてるぞ、といった表現。
虚空を見つめることから、何処を見ているのか、何を考えているのかわからない怖さが身に付き、うすのろか、はたまたキチガイか、そのどちらかに見られることの多い状態である。
多かれ少なかれ、こうした虚脱状態は人間に見られるものだと、私は思っている。ただ隠すことがうまいだけか、あるいはよほど切り替えが素早いのだろう)
ふと気がつけばカップラーメンが出来上がっていた。
札幌のラーメン横丁を思い出す。
とりあえず札幌の地元民はラーメン横丁の値段と味を酷評する傾向があるので、話を合わせたければそこに迎合しておけばよい。
このカップラーメンも奇遇なことに、札幌の名前を関していた。
これは安く、独特な味を持ったカップラーメンで、多くの人が一度は食べたことのある物であろう。
最後に米を入れて食べるのが個人的には気に入っている。
(ラーメンライスというのは難しいものである。
ラーメンの締め、スープと米を合わせて食べるのはまだしも。
麺……すなわち炭水化物と、米……つまりは炭水化物を組み合わせて食べるということ。
この驚くべき食事の観念は、一部の人間に驚くほどの怒りをもたらすらしい。
スープの滴った麺を、白い米の上に重ね、そしてそのスープの味で米を胃に運ぶ光景。
沼から這い出た黄色い蛇が、その卵とともに口に運ばれて消える姿にも見える。
私は別になんとも思わないが、しかし受け付けない人間がいるのもなんとなくわかる光景ではあった)
百福先生が世界的に革新的なこの技術を生み出してからもう50年以上が経っているが、これはカラオケに並ぶ20世紀日本の特大発明であると思う(実際にそうであるらしいとは小耳に挟んだが詳しくは知らない。ただインスタントラーメンとカップラーメンの会社が世界で二五〇社あるらしいが、その半分の会社には日本の資本が関係していないという事実は、世界的にこの手軽な麺食が広まっていることが伺える。それどころかそもそも麺というものを文化として持たぬ国に麺食を浸透させたことは驚異に値するのではないだろうか)。
紙蓋を開けて、引き剥がし、そして湯気を顔で確かめて、匂いを鼻で味わう。
箸を汁に落として、掬い上げる。
麺が中空に、滝のように茶色の汁を流して、今から食べられます! というように厳然とそこに佇む。
至福の瞬間。
食事とは、人生の楽しみ、人生の愉悦。
グルメの楽しみが、至上の幸福であると考えた美食家たちの気持ちもわかる。
華道や剣道、香道に通じる美食道! とはグルマンたちの言だが、彼らは総じて早死にの傾向がある。
しかし皆幸せそうだ、減塩や減カロリーを諦め、脂を終生の友としたグルマンは、至福直観の最中に死を選ぶ。
そこに悔いはなく、飽くなき暴食の果てに死んだ己を誇ってさえもいる。
美味礼賛の著者としても名高く、美食道の誇らしさを高らかに叫んだブリア・サヴァランの如き者もこう言っている、
「禽獣はくらい、人間は食べる。教養ある人にして初めて食べ方を知る」と、
そして「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人間であるかを言いあててみせよう。」とも、
あるいは「食卓こそは人がその初めから決して退屈しない唯一の場所である。」と。
たかだかカップラーメンにご大層なお説を付けるのはやめようではないか。
食事というのは、どんな時でも静かで、満たされていなければ駄目なんだ。というようなことを何かで読んだ記憶がある。
詳しくは覚えていない。
4――16:20
食事が終わる、米とスープと麺が、俺を若年性成人病デブへのクラスチェンジに必要なスキルポイントを提供する。
箸を洗い、発砲スチロールの容器を水で流す。
手を冷気に晒すことの心地よさと、手の熱が水の熱へと馴染んでいく気持ちよさを感じる。
さて、上の部屋に戻るか。
あるいは何をどうするか。
そうしている中に、身体に何かの気持ち悪さ、むずがるようなかゆさを覚え始める。
身体が流体に身を浸すことへの快楽を求めているらしかった。
――シャワーだ。
欧米かぶれの両親は、風呂よりもシャワーを好んだ。
水道代は明らかに家族4人のシャワーよりも一つの風呂の方が安上がりなのだが、いかんせんこの家はシャワーを好む。
欧米の人間とて湯浴みをしない訳ではない。
身体を洗わない訳ではない、身体中に石鹸を強く泡立たせるように擦りつけ、そしてシャンプーで頭髪を洗う。
しかし風呂に入らずに、それをシャワーで済ませる人間・時間・機会が多いのだ。
(古来西洋人が風呂嫌いであったわけではない。
ローマの公衆浴場――その凄まじさは、とある要因のおかげか近年急速に私たちに周知されることとなったようになった――はかなりの水準を持った入浴文化の存在を示している。
ではその衰退を招いたものが一体なんであったのか。
キリスト教の広まりが直接的な要因と語られることもあるが。
むしろ西洋における風呂文化の衰退は、幾つかの流行病と入浴の習慣が結びついて考えられるようになってからである。
即ち入浴の習慣が、幾つもの病を引き起こすと考えられたこと、その上でキリスト教の肉体蔑視の観念が結びつき。
古代ローマ文化が著しく衰退した中世初期・中期の地理的・時間的な変化の上で西洋人から入浴の習慣が奪われた。
最近では欧州中世は主にその中期・後期・末期の発展、独自の文化や学問、哲学や自然科学の進展があった時代とされており、暗黒期と呼ばれることもなくなってきた。
しかし中世がローマの文化を忘却したこと、そしてその忘却の上でなされた都市の成立が、公衆浴場を欠いたものであったことが、その後数百年にわたる、臭く、不潔なパリやロンドンを演出することとなったのも確かであった)
私の両親は米国と呼ばれるところで出会った。
舶来をありがたがること、そしてまたアメリカへの素直な憧れに満ちた世代に生まれた父は、知識的な家庭に育ったこともあって、やがてはアメリカへと渡った。
そこで新人類と当時と呼び習わされてきたバブル世代の10も下の年齢の美女と出会った。
(あえて言ってしまおう、私の母は、まあ美人である。
そして私はややマザコン気味だ。
まあエディプスコンプレックスをこじらせているわけではないので安心して欲しい。
イタリア人やフランス人、ラテン系と呼ばれる人間に私が共感を覚えるのだ。
彼らは母と姉が罵倒されようなものならば、人死にさえも厭わない。見上げた心意気である)
そして生まれた長男。
……とまあそうして成立した家庭で育つと、自然、習慣や思考の様式もそれに準じたものとなる。
とりあえず生中ならぬ、とりあえずシャワー、とでも言うべき習慣の誕生だ。
(こうした生活の習慣、思考の様式、文化と家庭の関係を形成する要素を文化資本と呼び、そしてそうして形成された者の考え方自体はハビトゥスと呼ぶように社会学者ブルデューは言ったが、私の生まれは私の性格を強く形成させた。
私はかなり強固な性格の環境形成論者である。
もちろん生得的な能力、そして感情や性格の傾向を規定する要素としての遺伝子を完全に否定するつもりはないが、遺伝子の発現可能性自体に生活習慣が関わってくることも踏まえて、後天的な生活が人間を形作ると信じて疑わない。
英国の哲学者ジョン・ロックは人間は生まれながらにしてタブラ・ラーサ――つまり白紙であると言ったが、それに強い親近感を覚える。
心理学の上で、性格とはパーソナリティ、性格、人格と様々な位階に分けられるが、その多くは後天的な影響を排さないと言っていることも好ましい。
行動主義心理学の雄ジョン・ワトソンの「健康な1ダースの乳児と、育てる事のできる適切な環境さえととのえば、才能、好み、適正、先祖、民族など遺伝的といわれるものとは関係なしに、医者、芸術家から、どろぼう、乞食まで様々な人間に育て上げてみせよう」という言葉は耳に心地よく響く。(まあ心地よく響きすぎると言ったらそれまでなのだが、えてして明確さとは陳腐さと結びつかざるをえない。極端さが愚かさと結びつかざるをえないように))
つまり考えた瞬間に、お湯を求めて身体が勝手に服を脱ぎ始めているのも、習慣のなせる偉大さの結果であるということだ。
そうして私は身体にお湯を浴びせかけ、思考と肉体を温かく包み込む穏やかな快感に浸る。
日常に潜むささやかな幸福。
変化なき習慣の快感。
風呂とは水垢離にも通じるものであるのか。
穢れを晴らすための水の流れという力、マギ的な思考の現れ。
そうした観念が現代の日本人には強く感じられる。
風呂が実際にどのように行われるかはどうでもよい。
風呂という行為が、風呂という意味が、風呂という現象は、なによりも綺麗で、心地よくて、幸せな日本人の常識的な営みであると考えられている以上、日本人の風呂好きに理由などいらないのだろう。
(先述のとおり、それは私の文化にないことだ。
風呂は毎日に入るもの、と言われても、下手をすると3ヶ月にいっぺんしか入らないことも稀ではない私の家ではよくわからない。
それは多くの健全な日本人において「汚い」ということになる、らしい。
ここで面白いのは、それが先述のとおり清潔さ――衛生的の区別の上では、明らかに前者であるということである。
日本人たるもの風呂に入らねば、あるいは風呂は穢れを祓う、風呂という行為それ自体が日本人の「汚さ」観念を打ち払う日常的に行われる一つの継続的な儀式なのである。
ケツの穴から耳の裏まで石鹸を浸したタオルで強く擦ることは、風呂桶満杯の水に浸かることの代替とはならないのだ
風呂に入らないと言われた瞬間に、考えるよりも前に、脳裏に汚いという言葉が連想されることがそれを表している。
その「汚さ」と日本人のかくの如き風呂への偏愛には文化・宗教・習俗における国民性が感じられて面白い)
シャワーを身体に浴びせかけて、私はまず歯を磨く。
舌の上の苔(口臭の原因)を強く擦り。
次に歯茎を、そして歯の内側を擦り挙げる。
(歯科医の世話になったことがないのは私の唯一の自慢である。
基本的に虫歯菌は自然にそう容易には発生しないので、幼少時に虫歯になる子供は、多くの場合、親からの経由である。
既に何十年と産婦向けの婦人雑誌で、子供にキスをするな、口移しはやめろ、と言われているが、中々どうして、無知とは根絶されない。
あとペットボトルの回し飲みにも注意を払おう。
まあ、そんなことで一々断る人間は、空気を読めないというラベルを貼り付けられる憂き目にあうだろうが)
歯磨きが終われば、シャンプー。
手の平にメタリックに輝く弱酸性のそれ。
髮の毛に擦りつけて、そして広げ、ふわふわと泡立たせる。
次に毛根と頭皮に刺激を与える。
これらは抜け毛の原因ともなるが、しかしまたフケの根絶には丁寧なマッサージが必要である。
終われば洗い流し、次に肌理の粗いスポンジタオルに石鹸を馴染ませ、水分を含ませる。
湯気がもうもうと立ちこめる浴室の中で、水を一時的に止めて、そのタオルを泡立たせる。
そして耳の裏、首周り、腋、背中、腕、尻、陰部、太股、腹部、足の裏、腰と全身を赤くなるほどの力で擦り擦る。
泡と、かすかにじんじんする肌の奇妙な心地よさ、喉と目に染みる大気中の水分に一心地吐いて、すかさずお湯を溢れ出させる。
血行がよく巡り、循環している肌には柔らかな赤さが浮かび、お湯に溶けていく泡がシャワーの心地よき勢いを示している。
そして最後に、幾分水道代が無駄だとはわかっていてもやめられない、何も考えずにぼうっと、鼻歌などを吹きながら水に当たる時間がある。
5――16:40
服を着替え終わったら、一心地。
浴室上がりの一杯の水、あるいは麦茶の喉を滑り落ちるこの快感といったらない。
健全な日常には、それが健全であるが故の、些細な幸福が詰まっている。
覚醒した意識の中で、私は新しいパンツ特有のさっぱりとした感じを味わい、また新しいシャツの匂いに陶酔した。
そしてベランダ(うちのベランダは一部屋分くらいのスペースがある。その代わり二階が少し狭い)でぼうっと太陽を見る。
黄砂に煙る遠くの光景、鼻をくすぐる柔らかな日光、ぽかぽかした陽気と一切音のしない住宅街特有の昼下がり。
目を灼く黄金の輝きを顔と胸に感じながら、やがて眠気を誘われて、私は目を瞑る。
日常に潜む快感、至福、幸福とはそれらの持続である。
(皮肉なことに、こうしたことは普通ゴロゴロしている、と呼ばれる。
ネガティブな響きを何処か感じさせるが、これには異論を唱えたい。
真に心地よく、万物に自らの意識を沿わせて、瞑想するように微笑んで、日々の時間を無駄にすることは、このうえなく素晴らしく、このうえなく難しい、究極の娯楽であり、喫緊の伴わぬ泡沫の至福なのである。
ゴロゴロすることはやめられず、とまらない。
これは崇高な時間の使い方なのだ。
世の中が加速して、時間泥棒に追われているかのように時の流れを疾駆している最中に、それらを無駄に使うことで、あるいは無駄とされている使い方にあえて身をやつすことで、私たちは反逆しているのだ。
忙しなく、行動と、速度を要求する社会に対して。愛らしくも勇ましいエンデのモモのように。
夢を見るが如く陶酔して、耽溺することによって。
一切の容赦なき、世俗と世間の攻撃性に対して、それらが速さに結びついたせっかちな世界に対して。
私たちは反対し、逆流し、抵抗しているプロテスタントなのである)
そして私の意識は光輝く闇へと落ちていった。
(光輝く闇――自家撞着。
しかしそうとしかいいようがない、瞼の裏の暗がりが、確かに存在する、暖かな眠りを誘う曖昧な闇の存在の、その暖かさに包まれていると)
その三――17:10へ続く




