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未完成11:異世界F オークとへたれ女騎士珍道中の予定だった

いうなれば序章で力尽きる



 その時、自由騎士アーネット・スコリアは地に伏していた。

海老のようにのけぞり、尻を突き出して、人気の一切ない岩だらけの渓谷にうつ伏せ気味に倒れている。


  土の匂い漂う、荒野にも似た山裾の中腹、白やら、茶色やら、褐色やらの岩石に隠れるように倒れて、

呻きを挙げている彼女は、率直に言えば美しい。

 

 整然とした美、平均よりも遙かに高い身長、すらっとした体型は、長い黒髪と合わさり、

研ぎ澄まされた美貌の麗人を思わせた。


 腰に帯びた剣は、見るからに名工の手になるであろうモノ。

鎧こそ軽いモノだが、見るモノが見れば、その質の高さに唸りを上げたであろう。


 しかしその麗人は地に伏している。

 ただ朽ち征くのを待っているとでも言いたげに、重力に従い、土と接吻を交わす。

 

 「……うぅ」と零れる呻き。

 

 そして腹から鳴り響く、象の足音、とでも言うべき轟音。

 

 「は、腹が減って動けぬ……」


 風、吹きすさぶ。

 

 げに世知辛い世の中であった。

 


 

 



 美貌の麗人というにふさわしい女。美しい騎士。

 朽ち果て征く女。明らかに間の抜けている騎士。

 

 明日の朝日は拝めるのかも分からない女騎士。

 

 いよいよもって、水が尽き、されど山の出口はわからない。

 頂上は遠く、しかしまた麓も遠い。

 虎や狼、熊やサソリ、あるいは噂にのみ伝え聞く魔物の類も跋扈する危険地帯。

 

 迷妄ここに極まれり、

 アーネットの余命は幾ばくもない、かと思われた。

 

 そこに影一つ、現れる。

 広大な、しかし限りなく不毛な山嶺を、偶然に、

 つまるところ偶然の本来の意が<二人が出会う>であるということを、

 噛みしめざるをえないほどの運の良さ。

 

 閉じかけた瞼を、突然に現れた影に反応して開ける騎士。

 

 「あ、有り難い……よ、よければ、助けを……っ!?」

 「……」

 「っ大鬼オーガ!? くっ……!」

 

 歯を噛みしめる騎士。

 凶悪な亜人、オーガ、大鬼、女を犯すことと闘争にしか興味のない残虐な種族。

 血と暴虐の神子。狂気の精霊の眷属、暴力の異能者。

 

 鋼のような肉体を誇る、紛う事なきオーガが、そこには居た。

 幾多の傷を負った顔面、眼差しは鋭い、牙が僅かに口から、威嚇的に覗ける。

 瞳は弓のように細められ、まるで目前の獲物を吟味しているかのように、アーネットには感じられた。

 

 「…………ここまでか」

 

 と、いやに諦めよく、眼を瞑るのはアーネット。

 瞬く間に脳内に、己の未来の姿、あられもない予想図。

 それこそ己よりもさらにさらに巨大なその腕に掴まれ、蹂躙される姿を想像した。

 

 (しょうがないのだ、力が出ない、腹が減って動けぬ、

 ……そもそも武芸は得意ではないのだ)


 という境地に至った騎士は、既に覚悟を決めていた。

 

 命数ここに尽きたかと意を決し、瞼を降ろして縮こまる。

 

 ……

 

 …………

 

 ところが、さっぱりなにも起こらない。

 

 その豪腕によって、乱暴に身体を持ち上げられるか、あるいは握りつぶされるかどうか。

 そんな予測は、当たらない。

 

 麗人は、ゆっくりと、警戒するように瞼を開ける。

 

 土の匂いを煩わしく、己の髮が痛むことを考えながらも、

 未だ中天にある太陽を眩しく思いながらも、目前のオーガを盗み見る。

 

 巨体。

 

 圧倒的巨漢。

 

 いかにも戦闘慣れをしている様子。

 

 正直なところ士官学校では実技において落第を受けたこともあるアーネットには、

 まずもって勝ち目など無い。

 

 赤褐色の肌は筋肉により盛り上がり、それを覆うのは、オーガには珍しい「鎧」であった。

 

 既に錆びもところどころに窺え、緑青さえも浮き上がる、本来はなめらかな飴色の光沢を放っていたであろう鎧は、

オーガの肩、胸、背、腹部、股間部を覆っていた、その他には恐らく下履きのズボン。


(オーガが、下履き? いや……そもそも鎧、だと?)


 疑問に思うアーネットを尻目に、オーガは、何かの作業を始めた。

 背負っている荷袋を、地面に置き、土埃が僅かに立ち上がるのにも構わず、そこから何かを取り出す。

 

 「……ん?」

 「……」

 

 何かは差し出され、そして匂いが立ち上る。

 

 眼を開く。

 

 「これは、食事? 干し肉か……?」

 「……」(頷き)

 「何を……オーガからの施しなど」

 「……」(首が横に振られる)

 「いいから食べろ、と?」

 「……」(首が縦に振られる)

 「……ありがたい」

 

 これは奇妙なことになった、とアーネットは思った。

 

 本来なら粗暴で、凶暴、野性の赴くままに、それこそ本能の赴くままに人を喰らい、女を犯す筈のオーガ。

 それも赤鬼種が、よくみれば柔らかい眼差しで、心からの慈悲、それも素朴な親切で、

間抜けな理由で倒れ伏している女騎士を助ける。

 

 まさに前代未聞であった。

 

 (あるいは九十九の大地が存在するこの世界。

 広い世界にはそういったオーガが居てもおかしくはない、のか?)

 

 しかしオーガと言えば、やはり破壊の代名詞。

 

 結局のところ混乱から抜け出ることは無く、

差し出された干し肉にかぶりつきながら、これまた差し出された水筒から水を啜り、

全く持って粗野な胡座を掻きながら、アーネットは一心不乱にエネルギーを補給するのだった。

 

 いかな見聞からも伝えらぬ荒唐無稽な現実を、

奇妙な心地で味わうことしかアーネットにはできなかった。

 

 

 


 3

 

 

 それからかれこれ三時間は経過しただろう。

 

 険しい山道、僅かな獣道を歩く、アーネットと、オーガの姿があった。

 

 とりあえずは大人しいオーガという極めて特異な存在を受け入れたアーネットは、

立ち往生をしていた遅れを取り戻そうと、必死に足を動かす。

 

 女騎士と同じく山を越えて、【豊穣なるグラントール半島】と呼ばれた、河川地域を目的地とするオーガに、

渡りに船といった体で便乗することにしたアーネット。

 

 (そも、このオーガが血に飢えているのなら、私を助ける意味などなく)

 

 そう判断を下し、道に迷っていたアーネットはオーガを頼りにする次第であった。

 

 

 黙々と歩いて三時間、土と岩の険しさ、強い山風、そして照りつける太陽光。

 

 「しかしお前は喋れないのか?」

 

 「……」(オーガは己の喉を指し示す、そこには痛ましい傷跡があった)

 

 「……ふむ、すまんな」

 

 「……」(別によいと軽く手を振る)

 

 オーガとしては異端、限りなく異常。

 理性的で穏やかなオーガ、アーネットの故郷であるゼンブロリアにも居ないだろう。

 そも凶暴性と野性に囚われたオーガは知能が低く、記憶力も大したことが無い。

 つまりは余り複雑な意図を伝達することが、了解することが出来ない。

 

 筈であった。が、

 

 (しかし、このオーガは、この命の恩人は、

 多少ゆっくりと、あるいは了解に時間を掛けているような気もするが、

 此方の言っていることを理解し、身振り手振りで、意図を伝えようとしている。

 ……人の間で暮らしてきたのか、オーガが。手慣れたものだ。

 身振りも、あるいはこちらの意図を汲もうとするその所作も、ひどく自然だ)

 

 「……そうだ、そういえばお前、名前は?

 ……ん? ああ、命の恩人の名前ぐらい聞いておかなければ罰が当たるだろう?」

 「……」(手で虚空に何かを書くジェスチャー。そして首を横に振るジェスチャー)

 「文字は書けない? ……ふむ、何かお主の名を識別するようなモノはないのか?」

 「……」(丸太のような腕や脚を蠢かせ、さらにはその巨体を揺らめかせ、

    赤い肌に映えるが僅かにしか生えぬ白い髪を燦めかせて何かを考える。

     ……やがて、ぽんと手を打った)

 「……む、……袋? ……なになに」

 

 取り出されたのは何かのベルト、あるいはタスキだったのだろうか、

 今は色褪せたボロ布にしか過ぎなかったが、そこに確かに何かの刺繍の後が伺えた。

 

 「ひゅー、げりおす」

 「……」(ふるふる)

 「違う? ひゅーげろりおす」

 「……」(ふるふる)

 「むむ、ヒューゲライオス」

 「……」(ぶんぶん、ふるふる)

 「近い、か、ふむ……ヒュゲライヤス、いやヒュゲラヌスか!」

 「……」(そうだ、と言わんばかりに顎が縦に動いた)

 

 赤鬼オーガ、その名をヒュゲラヌスといった。

 名を交換したことに満足したのか凛々しい美貌を、向かいから襲う山風に揺らせながらアーネットは頷く。

 

 硬く厚い土、熱の籠もった小渓谷、かつては川でもあったのだろうか、石が積み重なる獣道、

赤鬼ヒュゲラヌスと女騎士アーネットは、道中を供に、旅は道連れ、世は情け、と進んで行く。

 

 そもアーネットには土地勘のない大山脈。

現地の民、歩き慣れた旅商のみが使う峠道があると聞いての無謀な踏破。

 冬は遠いとは言え、山はその高さに従い、いや寒さを増していく。

 その中で旅慣れぬ様子の女騎士が一人、険しい褐色の山肌を進み行くのは、

――自殺行為である。


 降り方も知らぬ、進み方も知らぬ、糧食や防寒の備えも万全とは言えぬ。

 その上で、正しき道筋も分からぬ、非正規の荒道を進む。

船賃も持っていない騎士アーネットは、しかしそれでも自らの故郷から離れんとする焦りに満ちており、

その焦りが、彼女をこのような暴挙へと駆り立てたのだった。


 (ありがたい……しかし駄目だな、私は、本当に……ほんとうに)

 

 その腕の太さでさえ騎士の胴に匹敵する巨腕、見上げる形になる上背の巨体、

赤褐色の肌を持った大鬼は、騎士を先導するように、アーネットの前に居た。

 


 ふと、大木に身を預けるような安心感を騎士は抱いた。

 

 

 


 

 


 乾いた山肌、険しく荒涼とした砂の空気、礫と岩石、巨岩と石海、生命の気配無き荒漠。

土の匂い、乾いた砂埃の匂いが、強い烈風とともに騎士を襲った。


 「くっ、中々煩わしいものだな」

 

 「……」(こくり)

 

 「しかし大分登ったと思うのだが」

 

 「……」(ヒュゲラヌスは遠く、山嶺の遠く霞んだ影を指差す)

 

 「……? あれがどうした?」

 

 「……」(大鬼は凶暴な面相を一切歪めず、手で三角を作るジェスチャーを作り、その頂点を撫でる)

 

 「…………つまり、あれが山頂ということか」

 

 (……とおいな)と騎士は己の生まれ持った異能を行使する。

 

 単純な『千里眼』所謂この世界の誰もが持っている生得異能、誰もが必ず一つ持っている異能。

 

 

 (使う度に惨めになるな、このありきたりな力。

 私の生まれ持った異能が、また少しは希少であれば、私はこのような山を、

 逃げるように登る必要もなかったのだろうに、いや……やめよう。

 ……あれはやはり山頂、遠い、遠いな、未だ三日目にして、なおこの遠さか)

 

 

 陽は頂点を通り過ぎ、砂礫が散りばめられた、凹凸激しい山筋を照らし出す。

 夕焼けもそう遠くはないだろう。

 山を登る時の鉄則としては早めに中継地、休息点を見つけることにある。

 

 雨を警戒して、獣を警戒して、水があるかいなか、大地から毒が吹き出していないか、

その他すべての条件を勘案して、速やかに、それこそ陽が落ちる前に一晩の宿を定めなければならない。

 夕の赤が訪れた時、世界の闇は一寸先に控えているのだから。

 

 (と、私は学校の行軍合宿で教わったのだがな、しかし……懐かしい、

 私は本当に座学以外が苦手であった、我が友にも多くの迷惑をかけたものだ…………っつ、懲りぬな私も。

 いやに感傷的になる、さっきから、不思議だ、寥々としてこの山の空気、澄んでいながらひたすらに寂しい、

 山の気配が私をそうさせるのか、未だあの日は、私の夢が絶たれた日は、遠くないということか。

 女々しい、女々しいな、結局こうして私は、私はちっぽけな一人の自由騎士として故国を追われることとなったのだから。

 なんと無様なことか……いやになる、)

 

 騎士の前を歩いていた善良な鬼の鎧が停止した。

 騎士もそれに習い、足を止めた。

 

(どうしたのだろうか、野営地を見つけたのか?)と思い、黒髮をたなびかせて、少し頭を傾げる。


 鬼は静止したまま、振り向き、女性にしてはかなりの長身である騎士よりも、なお一回り大きなその肉体を、おもむろ震わせた。

 

 騎士はとっさに顔を上げて、鬼を鑑みた。

 

 寄る辺なき子が、ただ一人の親を頼りとするように、

ここで鬼に見捨てられたのなら、遭難することは必至と、騎士は瞳に不安を滲ませて鬼を見た。

 

 「どうしたのだ? ヒュゲラヌス」

 「……」(その太い腕を、騎士の頭を握りつぶせそうな傷だらけの手の平を、突然、振りかぶった)

 

 「……っな!?」

 

 そして振り下ろされる。

 

 曲がり何も一定の訓練を受けていた騎士が、しかし視認できぬ高速で、

赤い杭が突き出された。


 轟く轟音。

 

 

 

 

 

 5

 

 

 立ちこめる土煙。

 

 騎士の身体と顔が、女体の柔らかさ隠せぬ身体と、鋭さを感じさせる顔が、

砂に汚れ、目に入った砂からかその瞳は閉じられている。


 やがて煙が晴れ、身を竦めた騎士の顔を掠めるように赤鬼の巨腕が、

騎士の後背にあった巨岩を打ち砕いていた。


 おそらく赤鬼本来の膂力に加してなんらかの異能が使われたのだろう。

大鬼は微動だにせず、土煙が晴れたのを確認して騎士はおそるおそる目を開いた。


 「……っ!」

 「……」(赤鬼は身を引き、腕を持ち上げて、やや身体を落として、いつの間にかその手に掴まれていたモノを、

 混乱の渦中にあった騎士に見せた)

 

 「……山兎?」

 

 (これは穴蔵に潜む種類、ということは今の突然の行動は……)

 

 そしてキッと眉をつり上げて、騎士は鬼を見上げた。

 

 「いきなり何をするかと思えば! ……驚いたではないか!

 せめて一言、なにか言ってくれれば!」

 

 「……」(凶悪な鬼の面貌が僅かに歪み、眉が可笑しげに微動した。

      悪びれた様子もなく喉をその太い指で叩いた)

 

 「っ! 話せないのは知っている! そういうことではなくてな、

 なんというか事前にこちらに連絡を、そう連絡をするべきではないか?

 突然のことなので驚いてしまったぞ、うむ」

 

 語気が次第に弱まり、騎士は己がわからなくなった。

 完全なるお荷物、未熟者、何もなせない己。

 

 そして瞳から力が抜け出そうになった瞬間、赤鬼は笑みを、

顔つきのせいで、人食いの狂顔にしか見えぬ微笑みを浮かべて、

アーネットの肩を包み込むようにポンと叩いた。


 そして少し開けた岩の合間を指差して、掴んだ兎を持ったままそこに移動する。

 

 「……はぁ」

 

 そして少ししてからかわれたことに気付いた騎士は、顔を真っ赤にして赤鬼を追うのだった。

 

 いつの間にか気分が少し晴れたことに気付かずに。

 

 

 

 ……

 

 …………

 

 ぱちぱちと木片の弾ける音がした。

 

 僅かばかりの乾いた木ぎれが燃える音だ。

 

 赤々と照らされる山肌、岩石の合間に囲まれてか、冷えた夜風はさほど強くなかった。

 

 先ほどの山兎、主に虫と僅かな草木を食んで過ごす兎は、赤鬼が手慣れた様子で捌き、

その背に負った袋から取り出した水を使い、綺麗に洗い流した後に、

 簡単な香辛料の味付けで火にくべられたのだった。

 

 予想外に野性的な食卓、水を飲み、そして肉を食べる。

 肉の蛋白源は、瞬間的なエネルギーとして強いが、持続的ではない。

 そのことを知っていたかどうかわからないが、

赤鬼は己の荷袋から石のように堅い黒パンを取り出して騎士に渡していた。


 「お前は食べないのか?」

 「……」(こくり)

 「……むう、しかし見ず知らずのお前に道案内をさせた上に、

 こうして食事まで渡されて、それでは私の誇りが……」

 「……」(首を横に振って、そして己の腕を叩いた。まるでこの筋肉があれば大丈夫だ、と言いたげに)

 

 渋々と、しかし感謝して騎士はパンを食べる。

 堅い、しかし唾液でふやかし、着実に消化する。

 

 赤鬼の肌が、火に照らされて幻想的な程に赤みを持っている。

 

 岩の影、夜の闇、そして火の赤。

 

 荒涼とした寂寞の山嶺において、暖かな光に切り取られたこの世界は、

 心の底からほっとできるような空間に感じられて、

騎士は知らず知らず安堵の念を湧き上がらせ、その安らぎに身も心も委ねつつあった。


 見上げれば月光は、人の多い都市圏に比べて限りなく澄明で、そして驚くほどに近かった。

 

 (頼りなく、この身だけを武器として、いや……この頭だけを武器にして、

 ひしとがんばり一〇年以上、しかし終わりは一瞬で。

 ……納得したつもりだったのだがなぁ。

 しかしまあ……こうやって落ち着けば分かる。

 私は驚くほどに引きずっているのだ、あの環境を……、そしてあの事を。

 赤い、火の赤さ、なんと優しい火だろうか、美しい、影が、そしてこの光の円みたいなこの、

 この篝火の造り出す光の世界のなんと安心することだろう。

 

 目の前には鬼、オーガ、はてさて数週間も前の己に、

 「貴様は、士官学校を辞めさせられる、そしてそのあと北方に、仕事を求めて、

 あるいは仕事を求めてという名目で逃げ込む、逃げ込む途中の山で鬼に助けられ、

 そしていやに優しいその鬼と、いやに恐ろしいがその実やさしいその鬼と、

 火を囲んで兎を食べている」などと言っても信じられないだろうな。

  

  しかしまあ、こいつは不思議な奴だ、未だ半日しか一緒にいないが、

 驚くほどに安心する、最初の頃はもしかしたら邪悪な企みでも抱いているのか、とも思ったが、

 この鬼なら私をいつでも倒せる以上、そのような手間を掛ける意味もわからない、

 そしてそれ以上に、わかったことがあるが……この鬼は優しい。

  

  その瞳に湛えた光、その眼差しの思いやり、言葉はないが滲み出る慈愛の念。

 そのなんと自然なことか、そのなんと、なんと優しいことか……。

  思えばいつ以来だったか、この私がこのような無償の優しさに触れたのは。

 巨大だ、恐らく二七〇Cm以上はあるだろうその身長は、その悠大さにゆえに、なお巨大に見える。

 巨木に身を委ねるような……顔の険しさ、そして傷の多さ、鎧の無骨さ、肌の赤みを越えて、

 この鬼は、ヒュゲラヌスと名乗った、この明らかに後年名付けられたであろう名を持つ鬼は、

 優しい、そう、このうえ……な、く…………)

 

 そして騎士は、疲れがもたらした眠気に、知らず身を委ねていた。

 

 ぱちぱちと灯りが弾け、火の優しさと鬼の優しき心が、その眠気を安心感で彩り加速させる。

 

 げに麗しきかな女騎士、しとどに眠るその姿、まるで赤子のようで。

 

 目を細めて鬼は、己の荷袋から毛布を取り出してそれをアーネットの身体に掛けた。


 そして己の荷袋を、無表情で見つめるのだった。

 

 毛布を掛けることにより、毛布を掛けられることを思い出すように、目を細める。


――鬼族に、オーガの群れに優しさはない、あるのは暴力、力こそが秩序という混沌。

  群れの長の下に、オーガの雌や他種族の雌が性奴隷として侍らされる。


 そこに優しさなど無く、あるのは屍体の血と、破壊の火と、同胞の暴力と、女の悲鳴。

 

 ならば思い出すのはいつのことか、ヒュゲラヌスという異端のオーガが思い出すのはいつのことか。


それはおそらく、その身に付けた鎧を下賜された時代のことか。


それはおそらく、己が身に返された優しさの報いとして、己も誰かに優しさを返すようになった時代のことか。


あるいはおそらく、この頑丈な、己の巨大な背中に合った背袋が同僚から手渡されたときのことか。


あるいはもしかして、己がただ信仰した、ただ全幅の信頼を捧げたかの御方が微笑んでいたときのことか。

 

 そして赤鬼は目を瞑り、周囲を警戒しながらも、僅かな眠りを取ろうとする。

 

 その優しき空気に触発されたように、遠くから梟の鳴き声がした。

 

 ――最後に、鬼の意識に浮かぶのは祈り、習慣となった祈り。

 七大神と呼ばれる神の一柱に、そしてその僕であったかの聖女に、

無上の祈りを捧げて、いざ眠らん。


 全ての存在に、一片の優しさのあらんことを。

 

 

 

 

 6

 

 

 山は進む、景観は進む、足は進む、日は進む。

 

 騎士と赤鬼は淡々と、黙々と、そして時々笑い合いながら、ひたすらに道を進む。

赤鬼は記憶を頼りに、そしてかつて己が過ごしていた山というものの知識を、経験を頼りに、

山脈の出口と入り口を繋ぐ道筋を辿る。


 騎士はそれにただ従うのみ、すっかりと艶を失ったその髪が風にたなびく。

おそらく上等な布地のズボン、そしてコートと、その下のジャケットとシャツは汚れ、既に茶色にまみれていた。


(ああ、山の精霊よ、オーロアの山の精霊よ、そして我が神、知と水の神よ、

どうか私に祝福を、そしてこの身を清める水の加護を……どうか!)


と祈りながらも日は進み。赤鬼は己の巨大な荷袋に詰めた干し肉と水を、

なんの躊躇もなく騎士へと与えた。

 騎士は何度も何度も断り、遠慮し、そして身を縮こめたが、赤鬼は変わらず肉を渡す。

何日も何日も山に籠もり、辿り着くかどうかもわからぬ天然の迷宮の中を進むうちに、

 騎士は己が何処にいるのか、そしてこの世界に他の人間がいるのか、

はたして己の過去は存在するのか、疑問に思われるようにさえなった。

 

 見果てぬ終わりは山頂、見飽きた景色は茶色、砂色、白石色、そして空の碧。

澄んだ空気さえ変わらず、常に青い空とともに、やがて騎士を苛んだ。


 その中で、この大海の真っ直中、遙か沖を遭難した小舟のような騎士の心は、

しかし目前にあるその背中、巨大なマストのように穏やかにして圧倒的な赤鬼ヒュゲラヌスの背中によって、

優しく、包み込まれるようにようやく安心したのだった。



 そしてとうとう、十日目。


 いつになく近い空、そしていつになく冷えた空気、そしてまたいつになく美しい景観が、

騎士の瞼に飛び込んできたのだった。


 「おぉぉお!」

 「……」(腕を組んで頷く、巨大な赤鬼)

 「おっ! 凄いなぁ、おおおお! 見ろあれ、あれは鷹か?

 ……うむ、空気も綺麗だ、太陽も近い、うむ!」

 「……」(ヒュゲラヌスは傍にあった岩に座り、そして荷袋から水袋を取り出した)

 「……すまん、が私にも貰えないか?」

 「……」(当然のように突き出される水)

 「うむ、有り難いな、感謝する……ともすれば感謝してもしきれないな」

 「……?」(首を傾げる)

 「この身は本来、そう、本来。あの麓に程近い煤けた岩石の足下で、あっけなく死んでいた筈なのではないか、

 ふと、そんなことを思うときがある。

 ……ヒュゲラヌス、私はお前に感謝してもしきれないのだ、私は道を知らず、

 山を舐めていた、そして呆気なく朽ちていても可笑しくはなかったのだ。

 見ろ、いやお前には見えぬか、しかし私には見える、この【千里眼】ならな……

 すぐそこだ、おそらく三日、四日ばかりもすれば着くだろうな、緑だ。

 長らく見ていなかったせいか、いやに眩しい。

 人の動きも見える、川の蠢きも、水の鼓動も、生命の賛歌も今から聞こえてくるようだ、

 ヒュゲラヌス、いやヒュー。

 お前がいなかったのなら、この景色が私の眼に捉えられることもなく、私は呆気なく死んでいただろう。

 無情にも、そして当然のこととしてな。

 お前の優しさには……どう報いればいいものか、」

 

 ヒュゲラヌスは笑った。

 

 山頂と蒼穹、眩しいばかりの黄金の太陽の下で、笑みを零した。

 

 

 

 赤い肌、多くの傷跡、巌のような肌、鋼鉄のような筋肉、細められた瞳、

 

 厳めしい顔つき、巨大な身体、凶暴な種族、襤褸のような鎧、大きな背中、

 

 広い荷袋、大木のような魂、慈愛に満ちた心、鬼らしからぬ自然な優しさ、

 

 騎士とは横にも縦にも一回り以上違う身体、はみ出た牙、凶悪な面貌、

 

 そぐわぬ優しさ、皮で出来た荷袋、中にある水袋、干し肉、なにかのベルト、

 

 なんだかわからぬ書類、赤鬼自身には読めぬ書類、財布、そして短剣、宝石、装飾品、

 

 陽光を反射する鈍い光の鎧、首を傾げる鬼、笑う赤鬼、心優しきヒュゲラヌス。

 

 

 そして赤鬼は騎士の頭をポンと叩いて、

まるで何も気にすることはない、と言いたげに首を横に振った。


 「っ……しかしっ! しかしそれでは私の気が、私の気がしれぬのだ」

 

 「……」

 

 何も答えない。

 

 そして赤鬼は立ち上がり、山を降り始める。

 話は終わりだと言うように、

何処か怒ったように、そして混乱と焦燥の色を浮かべながら騎士アーネットはそれに続いた。


 山の終わりも近い。

 

 

 

 

 

 7




 降りの山は体力を消耗する、しかし早い、あっという間だ。

本来なら気を付けて、慎重に進まなければならない山の道を、

まるで鋼鉄のような、まるで馬車のような、安定感と速度で、鬼は進む。


 その背に騎士を乗せながら。

 

 勿論、騎士は、遠慮した、ここまで様々な好意を受けておいて、

そもそも本来は行き倒れていた筈の己が身を、さらに鬼の好意に、面倒に身を晒すなど、

考えられぬことであった。



(私は正式な騎士にも成れなかった身、たかが自由騎士。

しかしそれでも矜持はあるし、なによりも恥を知る心がある。

ここまで多くのモノを受け取っておきながら一体どうしてこれ以上、

むげむげとその好意に甘んじることが出来るのだろうか。

出来るはずであろうか。ヒュー、ありがたいが、その申し出、想いだけを受け取っておく)


「ヒュー、すまぬが……っっつ!?」

「……!!」(アーネットが口を開くがいなや、一瞬にして鬼は彼女の身体を掴み上げ、

まるで手慣れた動作で、非常に滑らかに背に載せて、己の首元に手を巻き付かせて、

鬼はニヤリと笑みを浮かべる。引き攣ったような、人殺しの笑みであった)


 そして全速力で駈け抜けた。

血と錆の混じり合ったような肌の筋肉が、全身の筋肉が脈動し、

太い脚、まるで鉄の柱のような堅く厚い脚が、弾け、弾け、大地を駆けた。


 一切の躊躇のない加速。

 

 疾風のように、岩と岩を飛び、おそらくオーガ族に多い先天異能【筋力増強】を使い、

まるで苦もなく、非常に軽々と山を降っていく。

 

 まるでこれまで温存していた力を全て使うように、

登りの長さに対して、降りの短さ、そして傾斜の鋭さに抗うように鬼は大地を踏みしめた。



「う、うわっ! つっっ!? ちょ、ま、さ、さっき、から、は、あ、はああああぁぁぁぁ」

「……」(首に掴まっている騎士がずり落ちないように手で押さえ、時に調整する)

「ちょ、ちょちょちょちょ!? ぁぁぁぁっつお!? ま、まてはや、あやすぎるぅぅぅぃう!?」

「……」(にこやかな暴走機関車の猛進)

「まて、まってくれ、ちょっとまってぇぇぇぇぇぇぇ!? それ無理、そこがけ! 崖だから!?」


(私は死ぬかも知れない)

と、恐らく数十メートルはある崖を飛び降りた鬼の背で、騎士は思った。









 

 夕暮れが緑を照らした。

 

 山下りはあっという間に終わった。

 

 降ることは容易い、上る以上に、必要な力も、必要な道筋も登るよりは簡単だと言いたげに鬼は頷いた。

寂しげな山の景観は既になりを潜め、山の中腹から突如生まれた川に沿って鬼は進み、

見事な草原と、そこを貫く大河、それらを黄金に染める遠く西方に沈み行く太陽を観覧していた。

 

 騎士はとうの昔に気絶しており、赤鬼にとっては荷物の一部になりつつあった。

 

 温暖な気候が生み出した、橙の空、暮れなずむ夕焼けに照らされ、遠く地平線まで広がる緑一色。

川の生み出す轟々というせせらぎの音、風の緑を撫でるさざめき音、鳥の鳴き声、虫の音。


 春は早朝もいいが、夕暮れもよい。

 鬼はふとそんなことを思った。

 

 遙か昔は、遙か昔には鬼はこうして空を楽しむゆとりなどなかった。

同胞から背を守り、生きていくための暴力に身を染めて、自分と他者の違いに悩みながらも、

そのことを考える知性が、言葉がなかった。


 己は変わった、赤鬼はそう韜晦する。


 変わることが出来たのは、間違いなく、あの御方のお陰だろう。

己が敬愛し、慕い、祈り、そして守ったあの御方の。


 そして鬼は己に手の平にある強い徴を見やる、睨むように、祈るように、微笑むように、

聖痕は陽に照らされながらもそこに有った。


 鬼にとってそれは、己の人生の証と言っても過言ではなかった。

 

 そして陽が落ちる。

 

 街はすぐそこだった。

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