未完成10:異世界ファンタジー?妖精とか出てくるの
二ヵ月前に書いた一日でどれくらい書けるかの実験作
テンションは高め、未推敲かな、珍しく終わりまでプロットがあったが、どうにもならなかった
実験の結果一〇時間で34000字が目安らしい
1
その日、クロックウッド卿は珍しく焦っていた。
醜態を晒し、露骨に顔を歪め、荘厳な大理石の廊下を駆け抜ける。
疾速疾風、常に慇懃な物腰で、冷めた眼差しと澄ました顔を作っている青年貴族の突然の乱行に、
道行く人々は目を見開き、あるものは唖然とし、またあるものは皮肉めいた笑みを浮かべる。
走ること三十分。
開け放たれた扉は理事長室のもの。
「どうしたのかね? クロックウッド君、そんなに慌てて」
穏やかな眼差しに、顎から伸びた大量の白い髭。
物語にそのまま登場しそうな典型的な【魔法使い】の姿をした彼は、
アルカド帝国帝立魔導アカデミー現理事長、兼総長のA・マホガニー氏。
ともすれば射殺すような憎悪と混乱の入り交じった瞳で、今にもがなりたてそうなクロックウッドに対して、
こともなげに、いかにも恐れることはないと言いたげに、マホガニー氏は微笑み、着席を促した。
しぶしぶソファーに座るクロックウッドはしかし、抑えきれぬ情動の働きを必死に抑えている。
切り揃えられた黑い髪も、あるいは精悍な面立ち、意志の強い眼差しも、
その強い感情を隠しきれないというように揺れていた。
「総長、これは……! これはどういうことなのですかッ!?」
「ふむ、……おお、来年度の研究員配置表ではないかね……なにか疑問でもおありかな?」
「疑問も何も、この私が、いやこの私のッ、名前が何処にもないのはどういう了見かッ!!」
「……見ての通りだよ」
悠然と、黒檀により作られた濃厚な机を前に、両手を組む総長マホガニー。
見るからに高価な置物の数々、勲章、そして魔導器具が、総長の背後にある一面のガラス張りから差し込んだ光を反射していやに眩しい。
苛立ちを隠しきれないのは、クロックウッド卿であった。
齢二十一にして王立研究所の主席研究員として多くの業績を挙げてきた己への確かな自負。
かつての名家クロックウッド没落の中で生まれた鬼子は、
しかし常ならば鉄面皮と呼ばれるその硬質な表情を、焦りと怒りで汚していた。
「見ての通り……見ての通りですかッ!! 言うに事欠いて」
「端的に言ってしまえば、そうだね、……君は必要ないのだ、我が研究所には」
「……ッッッ!! そんな道理が」
「通るのだよ。監査官に訴えるかね? 無駄だよ、これは百二十名の研究員中、七割が賛同した上での動議だよ。
公正で明快な決議だ。君なら分かるね、他ならず明晰な君なら」
「くっ、……で、では私が進めていた研究は、機械技術への原始原理の応用、あるいは魔性原理の応用理論は、
一体だれが、誰が進めるのですか!?」
「口を慎みたまえ、第七研の研究は兼ねてよりホッグス君が主導していた筈だよ?
君は門外漢、あるいはただの一研究員に過ぎなかった、そうだね」
「そんな!? そんな馬鹿な話がありますか、あれは、あれは私が、一から考えて、
私の頭が生んだ何よりの……! 何よりの……」
言葉から力が抜けていく。
いかにも高級そうな礼服に、幾つもの勲章を胸に揺らした青年貴族は、やがて力なく項垂れた。
胸にゆれる金の鎖、懐中時計とモノクルが結ばれたそれが、淡く揺れていた。
こうして若き青年将校、グロリオー・ロード・クロックウッドは、派閥争いと関連した周到な罠に嵌り、
己の築き上げてきた地位を、己の走狗、己の部下にしか過ぎないと見下していた男。
J・ホッグスに奪われ、栄光の地位から追い出されることとなった。
数時間後には、研究棟へと突入しようとして、警備員にあえなく阻まれ、
敷地の外へゴミのように放り出される彼の姿が見られるだろう。
ああ無情、有為転変は激しく、人の歩く路はまさに、一寸先も闇。
2
再就職に駆け回っても無駄だ、脛に傷をもった人間を、しかも没落したとはいえ貴族を、雇う所などそうは無い。
公的な組織においては勤め口など見つからない。
手は綿密に回されている。
王城、行政庁、司法所、軍。
公的機関においては門前払い、ヒラの雑兵、木っ端の役人から始めようにも、クロックウッドよ、お前には矜持があり、
そしてそのような境遇に甘んじることはその矜持が許さなかった。
それでも背に腹は代えられないと、お前はその貴族根性から蔑んでいた民間を訊ねる。
教会に門戸を叩き、あるいは民間の魔導教会、色々のギルドを訊ねた。
しかし道は断たれる。ある時は彼の経歴を見て、ある時は既に根回しをされていて、またある時は彼自身の態度によって。
非常なる現実、無惨にも現れる酷薄な現実!
残ったのは名も知れぬ組織、あるいは裏の稼業だけ。たいした仕事でもない。
手は綿密に回されている。クロックウッドよお前の未来に道はない。
前途有望な官僚貴族は、僅か数日の内にその立場を追われた。それが現実だ。
革新的なその理論は、王に擦り寄りたいと考えていたある貴族集団に奪われ、お前の部下はその胸に隠していた昏い感情から、
お前を裏切る。貴族集団は金と権力を使って、その理論の本来の発案者。傲慢にして扱いにくい青年貴族を徹底的に排斥する。
羽虫に近くを漂われたら、迷惑とでも言うように。
こうして酒場で飲んだくれ、周囲にくだをまく敗残者が出来上がる。
尊厳と矜持、傲慢と自負は打ち砕かれ、やがて望みが断たれるに連れて、目から光りが消えていく。
「……私は、私はナァ!! こーんなぁ、とーこぉロォーでなぁぁぁ! ひっく、うぃ」
周囲には空いた酒瓶が幾つも転がり、また始まったか。と男やら女やらはうんざりした顔を見せる。
なぜ私がこんな目に合わなければならないのか。そうお前は激情に駆られる。
(どうしてこの私が、私が、私、私! 私!!)と思いを酒に酔わせて、
「私がァァァァ!!」と叫ぶのにも無理はない。
うるせぇ、と酒場で夢見心地を味わっていた酔漢たちは激怒を覚え、
貴族クロックウッドは数発うたれて後、そのまま酒場の外へと放り出される。
元より研究所勤めの長かったクロックウッド卿よ、お前には領地などというモノはない。
あるのは僅かな貯金のみ、さらには借りていた寮からも追い出され、今では裏路地にある名前だけは立派な宿に籠もる始末。
労働とは賃金の親。
働かざるもの喰うべからず。そしてクロックウッドよ、お前は働いていない。
フウテン男へと一直線。かつての知的労働者は安い酒をちびりちびりを飲み、
見ず知らずの人間へと絡む質の悪い酔っ払いへ。
高慢で、しかし有能な男の姿は既に陰も形もなく。
広大な王都、旧市街の片隅で、壁に寄りかかって、何事かをぶつぶつと呟いているのがお前の現状だ。
ここ数日、手入れがされていない髮は既に輝きを失い。
無精髭は伸び放題、眼窩と頬は落ちくぼみ。
理性は一片も輝きを放たず、瞳は淀み、口辺からは白く濁った涎が垂れ流される。
力無く投げ出された全身、口元から零れる笑み、発作のように起こる痙攣。
冷たい夜風が、光もない路地裏を駈け抜ける。
そうしてお前は寒さにかじかんだ手を揺すりながら、道行く人に語りかける。
「私は、ワーターシは! 天才! 才人!……私に適う者などおらんのだぁ!!
うへぇ、うへへ、ケケケケケケケ!! ッッ? ……ありゃぁ。? 楽しい、暖かい、ウフェ!!
オォエ……うっぷ滝が、俺の口から、溢れ出る! へ! へへへ! ……おら、みろよ満月が三人もいるぜ」
これが二週間前まで、一流の貴族であった男の末路とは、誰が想像できようか。
なんともはや、世の中とは面白いものである。
クロックウッドよ、強く生きろ。
3
すっかり酔いが常態化した青年は、今日も今日とて、街を彷徨う。
口元にはにへらと嫌らしい笑み。
その日、彼はたまたま、かつての職場の傍を通りかかった。
門。門衛の詰め所。荘厳な、白い、まるで蛇の連なりのような巨大な建築群。
壮大な柵に囲まれた、象牙の塔。白衣の男たち。何事かを活発に議論し合う学者連中。
そして門から現れたかつての部下、ホッグス。
「おやおや、そこにおられるのは、もしかして、クロックウッド卿ではないですか?」
「……あん? ?…………おおぉぉぉお?」
「うぷ、なんという匂いだね、なんという汚れだね、それがかつてアカデミー屈指の孤高の薔薇。
精悍なる丈夫、類い希な理性の行使者として知られた卿の姿かね? 端的に言って……私は、哀しい」
「よく、よくもまぁ、言う、……ほざくっ、うぃ、お主が、お前が、貴様がッ、きさまがぁぁぁ!!
あっぁああああッ!!」
「ふん」
「……ッッゥガァ!?」
そうしてしたたかに、にんまりと、嫌らしい笑みを口辺に浮かべた小太りの男。
口調こそ丁寧だが、そこには悪意が、あるいはもっと醜い蔑みの感情が溢れていた。
心の底からの喜悦。かつての己の上司から、その立場、その仕事、その矜持。その何もかもを奪いさることができた。
その事実に対する無条件的な悦びが、笑みの一つ一つ、動作の一つ一つ、手の動き、脚の動き、背筋の動き、
およそあらゆる動きから迸っていた。
「精々、のたれ死にでもしてください……、いや……故郷にでも帰ったらどうです?
あるいは王国は広い、北の雪原から、西の砂漠、南東のステップ。逃げればよいのです。
さあ、私は行きます! 良いものを見れましたので、
さて、まあ、これからの人生、貴方が歩く路の先に、せめてもの幸いと慰めのあらんことを」
そう嘯いて、小太りの研究者は、何処ぞの繁華街へと足を伸ばす。
ただ後には、惨めな現状に震え、口から涎を垂らして、憎しみに手を握る。
かつてのエリート研究者、その哀れな姿があるのみだった。
そうして、残り少ない貯金を、ちょびりちょびりと崩しては、その日その日の食事、何より飲酒に使う男が生まれた。
深い酩酊、酔いのまどろみだけが、彼を救ってくれる唯一の光に見えたのだろう。
それが知らず知らずに彼を蝕む深く甘い毒であるとも知らずに。彼はそれに耽った。
「私はぁ、うぃ、ひっく、ゲプッ……エリートだぞぉ、えらいん、だ、ぞぃ…………」
そして机に突っ伏して、全身の汚れと日々の退廃的な生活から生じた悪臭で周囲の空気を汚していく。
彼の誇りであった、金の鎖、懐中時計、その他の装飾品はとうの昔に掏られている。
そういった泣きっ面に蜂とでも言うべき仕打ちが、彼の心をより無軌道な退廃へと追いやっているのかもしれない。
彼の身形は浮浪者も同然で、落ちくぼみに黒ずんで汚れきった顔は赤みがかって涙に暮れる。
「ひぃ……ひっひぃ……わたしのおなかのあかちゃん……あかちゃんカワイイ」
彼は男である。
いい歳した青年貴族、それもどんなに辛い視点で見てもそう顔立ちの悪くない男が、
虚空を見つめて、そんな風に呟くようになったのだ。
どんな精神的苦痛と、逃避への欲望が彼の心の中を渦巻いているのか。
どんな仕打ちを彼がこの二週間浴びてきたのか、想像して欲しい。
薄気味悪げに、あるいは悪臭に耐えかねた嫌悪の眼差しで、
酒場の常連たちは再び彼を酒場の外へと放り出した。
新市街の賑やかな酒場、旧市街のうら寂れた酒場、貧民街の汚らしい酒場。
その何処からも見放された彼――クロックウッドの先行きは昏い。
いや、昏いかに見えた。
4
「ちょ、ちょっと放して、はなしてっ、はーなーしーてっ!!」
どこからか黄色い、姦しい声が聞こえた。
クロックウッドは深い深いまどろみの中で、そう考えた。
声の出所は近い。すぐそこだ。幼くも凛と一本筋の通った鈴のような声だった。
もしかしたら彼がここ数日探していた、外宇宙からの極大生命体ザ・シックス・コスモスの鳴き声かもしれない。
全長六六M、七つの腕をもった彼にかかれば人間など塵も同然。
オークやらゴブリンやら、ゴーレムやらゾンビやら、そんなものさえも紙くず同然に吹き飛ばす、スゴイ、ツヨイ!!
などと数人の道行く人間にその脅威を伝えようとしたのだが、それは顧みられず、一顧だにされなかった。
端的に言ってクロックウッドは怒っていた。宇宙の素晴らしい真実を教えようというのに、
何故だれも跪いて涙を流さないのか、そして私を敬わないのか?と疑問に満ちた怒りを抱いていた。
(世の中の連中はみなクズだっ!! 三匹の子豚の真ん中の豚以下だ、それって一番上の兄貴!?)
ザ・シックス・コスモスという彼の脳裏にだけ存在する脅威に隠れながら。
彼は声の聞こえてきた方向へと歩みを進めた。
ボロ同然の茶褐色のコートを引きずり、ゴミを身体中に纏わり付かせて、
知らず知らず赴いたのは旧市街と貧民街の間。モノが乱雑に積み重なった見通しの悪い路地裏であった。
「だーかーらー! やめろって、放してって、言ってるの!」
「うへぇ、全く妖精ってのは騒がしくていけねぇ」
「ほらさっさと袋に詰めろ」
「へい」
「ちょ、ちょっと待って、待つの! 待って!!」
「すこし黙れ」
「フガッ!? ……ガフ、フーガーッ!! ウゥー、ウー」
「はぁ、しかし……こんなちんちくりんに自分の息子をツッコミたがるなんざぁ、貴族っつうのは変態ですねぇ、親分」
「ふん、……さっさと行くぞ」
そこで颯爽と転がるように彼らの前に現れたのが、我らのクロックウッド卿であった。
薄汚い風体の男が急遽登場し、場には一瞬しらけた空気が流れ出す。
如何にも億劫そうに、薄汚れた男を見やる悪漢たち。
「……おい」
「へい」
と、部下らしい髭面の巨漢がクロックウッドへと進む、
ゆらゆらと揺れるクロックウッド卿は何事かをぶつぶつと呟き。
「【;火】」
「うぉっ!?」
全く異国的な、何事かの呪文とともに現れた火球が、咄嗟に伏せた髭面の頭上を飛び越える。
「魔導士かッ」
大気に満ちる魔素の力を借り、あるいは支配して、顕在させる基礎的な魔導だ。
この力を魔導機械の新しい応用方法として使用を研究していたのがクロックウッドなのだが、そのことはここでは関係ない。
「へっへ、私は、使者!」
「……はぁ?」
「親分、見てくださいあの目を、ありゃ狂人の目でさぁ!」
「【;火;爆発;縦;縦;縦】」
まるでナパームのように火柱が連続で上がる、クロックウッド卿は優秀である。
腐っても鯛、落ちぶれていても彼が身に付けた能力は、彼を助けた。
「こ、こりゃいけない、逃げましょう」
「ちっ」
仕方がないと言うように、突然の闖入者に背を向ける悪漢たち。
袋に詰められた妖精は何が何やら、しかし己が突然救われたことだけを理解した。
なめくじのようににじりより、袋を開けるクロックウッド卿。
(私が、この私が愛を、あーいーをっ!! 伝えようとしてましたのにネ)
なんで逃げるのかしら?と考えながら袋を開ける彼の目は淀みに輝く。
天からの救い、有り難い助けに、感謝の念も一入、妖精は自分を助けてくれた人間を見ようと首を傾けて。
そこにあるのは口だった。
「フムッ!?」(ええっ!?)
パックンチョ。
5
「マジ信じらんないんですけど!?」
「すまない」
「謝ってすまないでしょ、というか本当に」
「おいしかったです、貴方様の汗とかいろいろ」
「~~~~ッッッ!! 変態ッ! この変態ッ!!」
あの後、クロックウッドの大きく開いた口へと頭ごと咥えられて、舌で小一時間れろれろしゃぶしゃぶされた妖精の怒りは、
とうの昔に頂点に達していた。(被疑者は「妖精がアイスキャンディーに見えていた」などと供述しており……)
少しばかり酔いの醒めたクロックウッドは、やんわりとした笑みを浮かべながら、
へらへらと妖精と話している。
ちなみに場所は彼の寝泊まりしている宿。
備え付けの二段ベットに、蝋燭の燈り、小さな鍵付きチェストと一冊の聖典しかない、ひなびた宿の一室だ。
「ま、でも助けてくれたことには感謝してるわ……」
「おう、もっと感謝してもいいぞ」
「調子に乗るなッ!!」
「へっへっ、……犬の物真似」
どうして私を助けてくれたのがこんな狂人なのか、運命よ、貴方はなんと意地の悪い。
そうして未だ唾液に濡れたままの自慢の羽、虹色に光る羽を見て溜息を吐く可憐な妖精。
クロックウッドは相も変わらず、へらへらと何処を見るとも見ずにニヤニヤと笑っていた。
そしておもむろに、宿の一室に揺れる蝋燭の燈りに、手を掲げるのだ。
「見よ! 悪の化身っ! ブラックシャドードッグ、私の眷属である!!」
「……ただの影絵にしか見えないんですけど?」
「ふふん! どうした妖精よ、妖精さんよ!
お前の脳味噌はそんなモノかぁッ!? 大したことがないなぁ鱗翅類の分際では理解出来ないかぁッ!?」
「~~~~ッ!! あ~も~、うっさい!!」
「……うぃ、そ、そんなに怒らなくてもいいじゃないかぁ!」
「ああもお! 泣かない、みっともない、それとついでに薄汚い!」
「あ~、妖精さんどうしたんです? 髪が濡れてまちゅよ~? 雨にでも降られたんでちゅカぁ~~?」
「あんたウザイ! もぉ~ッ! 本当にウザイ!!」
こうして羽生えた小人と、ネジの一本飛んでしまった青年貴族は出会った。
想像できる限りでも最も劇的に、そして最悪の第一印象の下で。
とにもかくにも妖精は、己の人権が認められていない危険な街路から隠れる場を手にいれ、そして青年貴族は一つの出会いを得た。
緑の髪をした、とても可愛らしい、蝶のように美しい一人の妖精との出会いを。
これこそが、彼と彼女の、まさに未来を定める重大な出会いであることには、
双方とも気付いてはいなかったが。
6
妖精は聞いた。
「あんた名前は?」
「ふふッ! 聞いて驚け、そして泣け、外宇宙からの大使、諸人こぞりて讃える黄金の皇子!
それこそが私、わぁーたァーしぃぃぃッッ!! グロリオー・ロード・クロックウッドなりッッ!!」
「そこにあるのは?」
「むむっ? ……んん、これこそが外宇宙にして大宇宙からの恵み、愛の皇子の化身、林檎の君だッ!!
よくぞ見抜いた、よくぞ見抜いたぞッ!! 羽虫にしては目端が利く! 褒美としてこの林檎を進呈しよう!」
(さらには褒賞として6000万グロリオーを賜ってやろう! 6000万グロリオーは1000エピオス、1000エピオスは
1ダースの俺の鼻くそのことで、俺の鼻くそは、外宇宙からの爆弾?
~~~~ッ!? この羽虫は爆弾テロリストじゃねえの!? よく変装している!
6000万グロリオーを下賜してやろう! ……あれっ?)
そうして部屋の隅で、質の悪い葡萄酒に酩酊する貴族は、妖精を傍に、日がな一日、管をまく。
「どうしたことか、なにしたことか、貴様中々、見所があるッ! わ、わたしぃの!
友として、名を名乗る栄誉を享受して開陳すべしことをここに宣言する!
王国法令第7777条が、君と僕が出会ったから友達憲法!!」
「…………友達じゃないわよ。
はぁ……全く、……ホント最悪。
……エリヤ、あたしの名前はエリヤ」
「エイリヤン? 同胞ではないかぁ!!」
「黙って」
「……貴方様に従うほかありません」
「はぁ、…………ねぇ? アンタ何か望み、なんかある?」
「宇宙の全てが欲しい!! この私のシチューにしてどろどろのコンソメに仕立て上げたい!
仕立てやのコロッケケーキみたいに!! おいしい! 饅頭みたい!」
「そういうのじゃなくて、というか少し静かにしてくんない!?
マジウザイから! そしてサイアクだからっ!」
「……貴方様の言のおっしゃるとおりです」
「……うぅ、やっぱりいわなきゃダメよね。
~~~~ッッ!! 一回しか言わないからねッ!?
あたしはアンタに助けられた、クロックウッドだっけ?
アンタはあたしエリヤを助けたわけ、覚えてる?」
「コンソメはママの味、おっぱいの味、味……あじ?
貴方様の汗など諸々大変おいしゅうございました!!」
「~~~~~~ッッッ!! だぁかぁらぁ! アンタのそういうとこがッ!!
……!! ああもお! アンタはあたしを助けた、だからあたしは、あたしの出来る範囲で、
必ず一個なんでも出来ることをしなければいけないの、妖精の掟なの? いい? わかった?」
既に矜持が崩れ落ち、人生の敗残者としての己の境遇を認められず、
己が人生を賭けてきた全てが、見るも無惨に奪われ、そして後には何も残らなかった男が呻いた。
既に狂気に身を任せなければ、そして酔いに心を委ねなければ、僅かな理性さえも保てなかった男の、
しかし理性を取り戻したような鮮烈な呻きであった。
しかし逆に言えば、その僅かに保持された理性こそが、
かつて新進気鋭の魔導士、将来有望な騎士、前途多望な研究者であった彼の残滓であり、
彼にとり越えてはならない一線として、深淵の一歩手前で彼を未だ彼足らしめていたのかもしれない。
『理性の行使者』『類稀なる理知の天才』グロリオー・ロード・クロックウッド。
親もなく、子もなく、友もなく、己が身で築いてきた可能性も、未来も、過去も、彼には何も残っていなかった。
蝋燭に揺れる部屋、日中なのにも関わらず、日光が一切窓から差し込まない薄暗がりの宿の一室。
運命と選択、希望と絶望の入り交じった空気が、不思議と部屋を無音に彩っていた。
あるべきものはない。ないものはない。
あるのは僅かな書物、そして身分証明書、既に尽きかけた預金。
ないものは、栄誉、貴族としての未来、己が培ってきた信頼。これまでの人生。
あるものは理論魔道の大家として脳に刻み込んだ数々の魔導式。そして類を見ない才能。
ないものは己が独創した無数の理論の特許。そして矜持。
ここが正念場、クロックウッドの目前にいる妖精の不安そうな面持ち、取り戻された貴族の理性。
そして欠けすぎた理性の最後の一欠片が振り絞られる。
かつて誇りある貴族として、宮廷で采配さえ振るったことのある貴族の青年は呟いた。
「…………してくれ」
「はぁ? ……なに?」
「結婚してくれ!」
「……………………はぁ、……はぁっ!?」
興奮した面持ちで、クロックウッドは求婚した。
出会って僅か一日の妖精に、提示された弱み、断れぬ機会に本能的な、かつ打算的な想いで彼は躊躇無く求婚したのだ。
一片のためらいもなく。一切の差別意識もなく。一切の違和感もなく、それが当然のこととして。
本来ならば根強い亜人への差別意識も、かつての矜持も、
なにもかも振り捨てて、あるいは振り捨てざるをえなかった彼は、
既に混沌しか残っていなかった意識の赴くままに、そして僅かな理性の赴くままに求婚したのだった。
かつて彼を駆り立てていた想いのみが、純粋な形で浮上して、この機会を予期していたかのように保持されていた最後の理性が行使される。
「結婚してほしい、この私と。そしてこの私を見守ってくれ、そして守ってくれ、そして認めてくれ、
俺にはなにもない、この、この僅かな機会、最後の女神の微笑みを逃せば、この私には……真実なにもないだろう」
「……え? ちょ、ちょっと、え?」
「結婚して欲しい、いきなりで済まないが」
「なに……ま、まってあたし妖精だよ? えっ!?」
「関係ない、そしてお前は言うことを聞かねばならないのだろう?
ならば大地の母神に誓った、永遠の婚姻を……友を、友が、裏切らぬ者が、
私の傍に居てくれないか、それが願いだ」
「ま、待ちなさいよ、い、いくら何でも卑劣すぎない?
アンタなに言ってるのか分かってるの? サイテイ、最低! 私が断れないのを知っているのに?
……~~ッッッ!! 最低ッ!!」
「それでも頼む、疲れたんだ俺は」
「そんな勝手な道理が!」
「……世界を見返すために生きてきた、そして何も残らなかった。
本当に何も残らなかった。そして俺の今までの人生は報われなかった。
俺の無能が原因なのか、いや今はよそう、敗残者の言い訳に価値などない」
「……」
「俺に残されたのは虚無だけだ、本当に何もないのだ。
哀れな母の死、失踪した父、限りない侮蔑、限りない汚辱」
「……」
「あるのは己が身だけだった、貴族なんて名ばかりで、襤褸布と僅かなパンしかなかった!」
「……」
「ある日、呆気なく病床で伏せているところを、侵入して来たそこらの浮浪者に襲われて死んだ母!
貴族の名誉を守るために、受けた決闘で闇討ちを受けて死んだ父!
せめて、せめて認められたかった、頑張った、追求した、追い求めた!自分の居場所を!
私なりに、足りないなりに、努力した、死にものぐるいだった、身体だって売った!」
「……」
「家紋の彫られた杖と、王家より下賜されたらしい指輪を隠して、成り上がるためにはどんなことでもした!」
「……」
「……でも、もう疲れたよ、疲れた。
才能はあったが平和なこの国では慰み物程度の意味しかない。
ただの玩具でしかないが、しかし私の唯一の武器であるこの魔導の力を使って!
私はこの国を見返したかった! 死んだ母と父に報いたかったッ!!」
「……」
「だが……今更こんなことを長々と話してなんの意味があるのか。
……ハハッ! だからせめて君が、貴様が、お前が、私の居場所になってほしい!
これも運命、あれも運命!それならば、せめて私の望みを聞いて欲しい!」
「……哀れな男、サイテイね……ホント、最低よアンタ……」
「そうかもしれないなぁ! 我が勲章、我が名誉、我が未来、我が過去、
さあ今まで全ての私よ、さらば! 理性よ、さらば!! 何もかもまたさらばッ!!」
「……いいわ、あたしエリヤの名前に誓うわよ、あんたクロックウッド。
グロリオー・ロード・クロックウッドと、あたしは今この瞬間から夫婦よ、
大地の母神に誓って! 最低なアンタと、天使のように清廉な私の、クソッタレな新婚生活の始まりよッ!!」
そうして妖精は涙を流して、そして怒りと哀れみの入り交じった瞳を僅かに輝かせて、
自分を飲み込めるほどに巨大な男の唇へと、己の小さな小さな唇を合わせたのだった。
何もかもが劣悪極まりない式場で急遽執り行われた結婚式。
母神の誓いは破られない、妖精にとって母神とは永遠の母である。
紋章は刻まれた、原始的な魔導か、あるいは神の祝福は、妖精とは元来、母神の娘。
ヤケクソ気味に顔を真っ赤にして、そして喚き散らしたい気持ちを心に静めて妖精は目を瞑る。
クロックウッドは、理性の最後の一粒を使って、彼が今までに顔に浮かべたことない表情を浮かべたのだ。
それこそが優しい微笑み。
そして二人、あるいは一人と一人、もしくは一匹と一人は、夫婦となった。
同時にまた、この日を境に、クロックウッドは完全な狂気へと身をやつす、優しく心地よい狂気へと。
貴族クロックウッドは死んだのだ。
蝋燭の瞬きだけが、せめてもの祝福の光に見えた。
7
世界は八柱の神によって作られた。
母なる大地の母神。
父なる大海の父神。
慈愛に満ちた天空神。
正義に溢れる秩序神。
苦痛に歪んだ暗黒神。
虚無に落ちた混沌神。
呵責に苦しむ焔神。
観察に徹する時神。
それぞれの神は、己の息から作られた魔力霊素と、
己の肉体から造り上げた世界の各部分、そして己の魂から作りだした眷属を持つ。
世界は全て、神の肉体から現れ、世界は常に神によって把握されているのだ。
そうして妖精エリヤが、クロックウッドを前に母神へと誓った婚姻は、
直ぐさま聞き届けられ、認められる。
死が二人を別つまで、破られる事なき婚姻の成立である。
証は既にそれぞれの、手の甲に現れ、見る者が見れば、二人が如何なる関係かは一目瞭然であった。
天空から差し込む陽光の下、一面の草原と地平線を進むクロックウッドとエリヤの手の甲には、
今は隠されているが、唯一無二の紋章が刻まれているのだ。
さてここで突然の場面の転換に驚いた方も居られると思うが、
その理由は簡単なことでる。疾く説明しておこうか。
混沌神の眷属である人間は、世界で一番数が多く、そして文明の進んだ種族である。
ある意味では人の自惚れに過ぎぬソレは、しかしまたある意味では正しい自負であった。
その自負から、この広い世界の多くの人間の国では、亜人族、つまりは他種族の眷属は排斥されていた。
もしくは奴隷階級として、勿論開明な国もあるが、それは少数に過ぎない。
ある理由から帝国の首都である、帝都を訪れていたエリヤは、
隠れ潜まなければならない帝都での生活に不満と不安を感じていた。
そのため、例の昼間、婚姻が結ばれた翌日には、早速帝都を出発したのだった。
見えるのは一面の草。青い草々の大海。
撫でる風がそよぐ草の平面は、泳げそうなほどに涼やかで、なんとも情緒を感じさせた。
「見よ! 見よ!」
「……なによ」
「バクである! 朕は捕まえることを所望する」
「それ無理だし、しかもあれバクじゃないし、シマウマだし、……はぁ」
持てる預金を全て引き出させ、コートやロープ、荷袋や、水筒、必要な糧食を買わせて、
さらには禁酒を命じて、髭も剃らせ、肩に座りながら頭を抱える妖精エリヤは、
まるで夫を尻に敷く妻のようであったが、本人はその言を聞けば怒りに震えただろう。
髭を剃らせ、髪と身体を洗わせたクロックウッドの顔立ちが思いの外まとも、
いや明らかに人間の美醜で言えば、美の方に分類される顔立ちであったため、彼女が朝起きてまず行う仕事は、
この狂人に顔を洗わせるという大仕事であった。
断酒をして、酔いが醒めても、男の狂気は晴れなかった。
勿論、狂躁の念は幾分薄れたが、それでも男は和やかに、穏やかに狂ってしまっていた。
屈辱と憤怒、絶望と酩酊、そして狂気、それらが入り交じり、最後に理性を発揮したあの婚姻の直前をもって、
彼の理性は死に絶えたのだ。
「見よ! 銀河大星団の一員であるぞ? 世界に満ちるコスモスのマナ。
秩序の怒り、ほころびの涙!! さまよえる旅人の命の呼吸」
「それ蜂、というか危ないから少しは避けなさい!
あ、馬鹿、ちょっと何攻撃してるの? ほら追いかけて来た、来てる! あ」
「【:火】」
「ちょっ!? 燃える、燃えてるからねッ!? 草原が!
《水》《空》……!!」
首もとで切り揃えられた緑の髪を揺らして、円らながらも勝ち気な面差しを怒りに染める。
淡く透けた妖精の羽衣、その下に窺える胸と股を隠す若草色の妖精の服飾。
それらごと身体を宙に浮かせて、エリヤは首をふらふらと動かしているクロックウッドの顔面に、蝶のように接近した。
「あんた少しはアタマ使いなさいよッ!! こんなところで使ったら危険でしょ?
しかもたかが蜂に、反省しなさい、この馬鹿ッ! ウスラトンカチッ!」
「ごめんなさい、ごめんなさいママ!」
「ママじゃないし!」
「ふうん? ではもっと感謝してくれても結構だぞ? フハハッ!」
「…………、はぁ」
そうして妖精はまたクロックウッドの肩に座って、脚をぶらぶらと揺すっていく。
撫でる風に輝く太陽に照らされながらも、遠く僅かに霞がかって見える山脈を別として、
二人の他にはなにもない。
「よい風だ! 東南の風だ!」
「そうね」
「見ろ、あそこに木陰、あそこに穴蔵、あそこにシマウマ、あそこにバク、あそこにゾウ!」
「だからバクはいないって…………ッ!ッて、いる!?」
見れば夫婦二人の他には、草原、帝都の東南に広がるこの大草原には生息しない筈のバクが居た。
長い鼻、ドシンと重そうな身体つき、そしていかにも気怠く眠そうなその眼。
どこから見てもバクであった。
「フハハハ! 見よ! 見よ!! これもまたバク、あれもまたバク」
「そっちはシマウマだってば、あれゾウだし…………しかしバクねぇ」
「ふむん? 蝶々様は、同じ長い鼻を持ったバクがお気に入りか!
よかろう謁見を認める! あちらに居られるのがバク様、如何にも強い黄金の鼻を持ったバク様なり!!」
「気に入ってるのはアンタでしょ? ……ま、まあちょっとは寄ってみてもいいんじゃないの」
「ふむ面妖」
草原を歩く二人は、既に二日目、当てのない旅路とはいえ、一応の目標値である港町ポートAまでは後五日はかかるであろう。
気晴らしに飢えていた二人――端整な顔立ちに淀んだ眼を浮かべた元学者と、円らながらも何処か勝ち気な印象を与える瞳を持った妖精――
は興味本位から野性のバクへと近づいていく。
(これぞまさに追い求めていた乗り物!
なんと見事な流線の毛並み!)とすぐ傍、それこそ後少しでも手を伸ばせばバクに届くだろう距離へとクロックウッドは近づいた。
「ふむん、素晴らしいな! 食べてしまいたいぞ!!」
「……気味の悪いことを言わないでよ、ふうん、でもやっぱりバクの顔って何度見ても間抜け」
バクが身じろぎすると同時に第三者の声がした。
「失礼なことを言ってくれるねぇお二方」
「……?」
「へ? な、なに? だ、誰よアンタ、何処に隠れてるよッ!!」
「私だよ私、お二人の眼の前にいる間抜けなバクだよ」
「こ、このバク喋るぞ! 素晴らしいな! 長い鼻から声を出しているのか?
蟻を食べるだけが能じゃあなかったのだな!!」
「それアリクイだし! って違うわよ大事なのはそういうことではなくて」
「よ、余裕があるねぇ母神の眷属と混沌神の眷属のお二方」
不安そうに、妖精は一歩後ろへと空中を後背へと漂い、頼りにするようにクロックウッドの後頭部を見つめた。
ちんまい身体、それこそ15CMしかないような身体が微かに震えた。
「ふむ、我が妻、私の敬愛すべき花嫁を怯えさせるとは」
「そちらの母神の眷属は気付いたのさ! 私がただのバクじゃないってねぇ」
「ほう、バクではない、ではアリクイか? いやもしくは蝋燭売りか!!」
「……?」
「ほお正体を露見したようだな! この蝋燭売りめッ!
ハハッ! かつて研究所の奥深くで見つけたぞ、貴様のような目をしたゴキブリとアリクイの交配生命をっ!!
エリヤ、下がれ、コヤツは危ない、危ないのだ、危ないッ!!」
「…………そこの妖精のお嬢さん、貴方の配偶者の言っていることが全く理解できないのだけどねぇ?」
「【夢喰い】に呆れられる夫って…………ちょっと興奮して電波の受信が激しくなっただけだから、
気にしなくていいわよ、ってアンタ、何唱えてるの止めなさい!!」
「む、むぅ? 哀れなるかな我が身、任も果たせず潰える野望」
「ちょっと大人しくしてなさい……でアンタ【夢喰い】よね?
あの『時神の眷属』、人の過去を糧とする魔獣」
「そうだねぇ、そうとも言われるねぇ、で、正体を認めればアンタの過去を頂けるのかな?」
「眠らなければ、アンタは何もできない。
そしてこの狂人は、あたしの……不本意ながらも夫であるこのキチガイは、そんなことを許しはしない」
「どういう意味だい?」
「此処でアンタがあたしたちを追跡して、眠りの淵を襲っても、
この男の張った結界がそれを阻む、それだけのことよ」
「おお、コワイコワイ! 信頼してるのかい?」
「……そんなことはない、って、あれ? あいつは」
「貴方の夫ならそこだよ」
「フハハハ! 当然のことだろう? 何を言うのだ、ん? ほう、うむ、そうだな、
ああ、そうだな、うむ……うむ、ほうッ!」
見ればバクとエリヤより少し離れた箇所で、虚空に向かって何やら頷いているクロックウッドが居た。
じと目でそれを見つめるバクと、いかにも頭痛がすると言いたげに、小さな手でこめかみを押さえるエリヤ。
小さな人形のようになめらかな手、ミニチュアのようなエリヤの手が僅かに揺れているのは怒りによってか。
「信頼じゃあない。あの男、私とは違う魔導の使い手だけどね、とっても有能
アンタよりもね! そこだけは認めているの、それだけのことよ、いい、それだけのことよ!」
「……ふむ? ……ま、いいさ。これも何かの縁だ、これを持っていくといい」
「……? 何これ」
「夢見の玉さ、私の糞でもある」
「うげ」
「食事が夢なのだからしょうがないだろう?
まあ私には意味の無かった夢、主に悪夢が濃縮されたものさ、どうだい虹色で綺麗だろう?」
「綺麗でも糞は糞よね、虹色の糞……ちょ、ちょっとアンタ! クロックウッド!」
「ふむ? 呼んだかな我が宇宙の愛、そしてまた可愛らしい妖精さん!」
「これ、これ持ってくれない? 最低なアンタにも出来る最低な仕事で悪いけど」
「? ほう、なんだか分からないが香しい、そして美しい、
コスモスの結晶体とでも名付けるべきか、いやエリヤがくれたのだ!
これにはエリヤの眼差しとでも名付けよう! ありがとう我が妻よ!!」
「……あんたわざと言ってない」
「……?」
じと目で、ぷんと鱗粉を飛ばしながら、小刻みに宙に漂うエリヤの隣で、
バクは肩を震わせて、笑いを堪えているのであった。
8
バクに別れを告げ、はや数時間。
地面の四隅に何かの紋様を描き、そして幾つかの言葉を囁きながら、大気に満ちるマナを感じ取って、
それを紋様と感応させて魔導を発生させる。
これこそが人間が主に使う理論魔導である。
およそ全ての種族は、神の眷属である。
世界には神から流れ出たマナに溢れているが、神々の眷属はそのマナを使い、
文化を育み、戦い、世界で暮らしてきた。
魔導は大別して二つある。
僅かな力しか感じ取ることの出来ない種族が、数千年の時を経て洗練した――理論魔道。
そしてもう一つは、潤沢に力を感じ取ることの出来る眷属が使用する――原始魔道。
理論魔道は、複雑な式、紋様、詠唱を糧に、複雑さと精緻さを併せ持った魔導である。
決まった式に従えば、多くの人間が使うことのできる汎用性。
原始魔道にはない持続性、長い詠唱と式を組み合わせることによって、
通常原始魔道では不可能な精緻な術が使える上、速度が速い。
それに対して、原始魔道は複雑な式も紋様も必要がない。
あるのはただ霊素を感じ取ること、そしてそれを借り受け、操り、己の思うままに変換し使う力。
イメージ、身体と魂で感じるイメージに基づいて力を行使する原始魔道は、
単調だが、強大で、圧倒的であり、奔放なイメージが顕現できれば負けることは有り得ない。
ただし、持続時間は短く、集中が必要となり、また使用にも時間が掛かる。
多くの亜人や魔獣は、その霊素感知力の高さからこちらを使用する。
しかしいま、既に夕焼けが遠く向こうへと消え行く中で必要とされるのは結界のような持続的で、
限定的ながらも細密な効果を持った理論魔道であると言えた。
必要な行程を最低限の手順で手早く済ませるクロックウッドの背中を見やるエリヤは知らず感嘆していた。
エリヤは実のところ相当に優秀は原始魔導士である、知的な理論への興味から、
妖精にしては――いやその言い方は可笑しいだろう――亜人にしては珍しく人間の理論魔道への嫌悪感を抱いていない。
(実のところ楽天家の多い妖精の中においては異端である)
精緻で複雑、無数の様式が混在する人間の考えた魔導。
それを求めて帝都、遠く他大陸にまで名声が鳴り響く魔導研究の総本山へとやってきたのはよいが、
想像以上に亜人蔑視が厳しく、幾つもの捕獲の魔の手から逃げ続けて、そして最後に疲れたところを捕まった。
それに懲りて、こうして自らの故郷へと帰るためにゆっくりと歩みを進めているのだが、
一つ計算外のことがあった。
それは自らを助け、そして不本意にも結婚する羽目になった狂人が、
かつては恐ろしく位階の高い理論魔導士であるらしい、という事実であった。
理性が死に絶え、まさしく混沌の眷属に相応しい思考の霞に精神を蝕まれたクロックウッド。
その中で、半ば手慣れた様子で、半ば自動的にここまで強固な結界を造り上げるこの男は一体何者か。
人間の分際でありながら六種の霊素を感知するこの男こそ、エリヤが探し求めていた存在だったのかも知れない。
惜しむらくは過去形で語ることしかできないことか。なぜなら彼は狂っている。
「ポッポー! ポッポー! ただいまの時刻、おそらく八刻!
ああ、蚊さえも侵入許さぬ、この結界、ダイヤモンドみたいなこの結界!
う~ん、美しいですねぇ! ねぇ!」
(狂人の、それも野蛮な人間の妻にねぇ。
まぁ、あたしたち妖精は比較的人間に近しいけど、
別に好きでもない雄と番うのはねぇ……)
そして改めて最低の男、本当に自分勝手な願いを掛けた男の背中を見やる。
狂人とはいえ妙に紳士、そして実のところ夫としては、これ以上ないほどに、妻である己が身を気に掛けてくれている。
もし結界が破られた時のことを考えて、あるいは寒さ、そういったモノからエリヤを守るためだろう。
昨日の夜には、エリヤは温いクロックウッドの胸で眠ることとなったのだ。
(……良い迷惑)
しかし俗に聞く妖精趣味なる、想像するだに恐ろしい趣味を持っていないことに今は喜んでおくべきか。
狂気が薄らぐ機会を見計らって、出来れば理論魔道の手ほどきもして貰えるのならばなお幸いなのだが……。
(それぐらいの役得がなかったら、ホント! サイアクにサイアク!!)
そして今晩もまた、狂気に濁った瞳に僅かに優しさを垣間見せ、クロックウッドは、心の底から丁重に、
おそらく王族の令嬢でさえも受けたことないような至上の優しさで、
そっと、残り僅かになった新しい布を敷いた己の胸に、エリヤを横たえるのだ。
羽を痛めぬように、横向きに、丁度エリヤの小さな耳が、敷かれた紫色の布に当てられるように。
新しい布、その下にある汚れた衣服、さらに下にあるクロックウッドの皮膚、そして最下層にある心臓。
星々の浮かぶ闇夜は、それこそよく磨かれた白砂が敷き詰められたような輝く海。
クロックウッドの理性のように月に雲が朧懸かり、僅かに地上を照らしていた。
草原を走る獣の足音、遠くから聞こえる遠吠え、活発な夜行性の動物たちの蠢く鼓動。
それらを阻む結界の内側で、エリヤはクロックウッドの温もりと心臓の音を感じていた。
おそらく自らの肉体にも迫るであろう大きさの夫の心臓が奏でる音。
刻まれる鼓動は一定で、安らいで静かに大きい。
結界の無音、外からの僅かな自然の音よりも身近に聞こえる、大きく優しい鼓動の音。
エリヤは緑の髪を揺らし、知らず知らず、本人が指摘されても認めはしないだろうが心の底から安らいでいつしか目を瞑っていた。
「ねぇ」
「なんだ?」
「……おやすみ」
「…………」
そしてエリヤは、涙の流れる音を聞いた気がした。
9
……
…………
それは奇妙な世界。
四方を囲む鏡。合わせ鏡の空間。上下にも鏡。
瞬きをする己の瞳。見慣れた顔。無限に近しく配列される鏡の世界。
気持ちの悪さ。胸焼けしそうな混迷。不意に湧く怒り。そして地に足を付けて逃げ出す己。
そして現れる、
だまし絵の中に迷い込んだように、灰色に縁取られた何も無い空間。
(夢?)
階段。上下逆さまな階段。あるいは登っているのに降りている不思議な階段。
水路。水が坂を上る水路。もしくは登っているのに再び流れ降る奇妙な水路。
虚無。通路の外には虚無。なにもない闇。あるのは鏡の世界。だまし絵の世界。色のない世界。
(怖い)
身震いするような恐ろしさを唐突に感じた。
エリヤの胸に、意識にかつて感じたことのない寂しさ、そして押し潰すかのような絶望が突如として去来したのだ。
ここに居てはならない、逃れなければ、追いかけられて殺されてしまう。
見えないそれに、悪意に、時間に、絶望の感情に、そして自分自身に。
逃げなければ、逃げなければ!
ここに居てはならない。
ここに居てはならないのだ。
(怖い……怖い! 怖い!!)
そして駆け出すエリヤ。感情の赴くまま、走り、逃げる。
周囲は瞬く間に変わっていく。
白、黒、灰の三色のみが走馬燈のようにエリヤを包み込む。
走り逃げる内に、微かに視界へと入り込む異様な風景、そして恐怖。
正確に認識するのが不可能とでもいうべき柱の配列。
異様な気配を感じる。背後から何かが迫っている。
幾つもの仮面が歪に配された冥い神殿。
近い、見られている、重低音が聞こえる。
無限かと錯覚する通路。進んでも進んでも途切れない回廊。
足音が聞こえた、己の身を捕らえ、握りつぶそうとする悪意の気配だ。
鏡とだまし絵の交互に配置された煌びやかな宮殿を飛び、そして走る。
さらに近い位置から足音が聞こえてくる。息づかいが聞こえる。
今にも動き出しそうなのっぺらぼうな白い操り人形が、視界の端まで椅子に座っている光景。
ああ! 手が己の掠める、羽がむしられてしまう、貪られてしまう!
そして無数の仮面が、能面が、こちらを睨み付けてくる空間に出た。
行き止まり、手が己の肩を捕まえる、そして息が首元にかかかり…………。
(ぅ~~~~ッッッ!? ……………………っ?)
恐怖が突如止んだ、あるいは遠ざけられたのを感じた。
それは優しさ、それは信頼、それは暖かさ、それは鼓動、それは母のような匂い。
自らを包み込む体温の優しさ、まるで優しい巨人に撫でられたのならこのような感慨を覚えるのだろうか。
それは慈しみ、それは友情、それは温かさ、それは脈動、それは父のような匂い。
そしてエリヤを襲っていた理由不明の恐怖は霧散した。
ただ後には、何かに包まれ護られているような優しさと、
何かに包まれ暖められていることへの嬉しさだけがエリヤの周りに生まれた。
何処かで何かの割れるような音。
そして虹色の覚醒とともに、エリヤは目を覚ます。
……
…………
瞼を開けると広がるのは、夜の闇。
月は雲に覆い隠されたのか、光の全く利かない闇の中であった。
しかし恐怖など覚えはしない。
悪夢から己を護ってくれたあの優しさが、未だ己の傍にあることを彼女は知っていた。
優しく、震えていたであろう己に載せられている己が夫の手。
そして己が耳に変わらず聞こえる夫の心臓の鼓動。己の身体の側面に感じる夫の体温。
エリヤはクロックウッドに護られながら、再び瞼を閉じた。
まるで母に甘える子のように、安心しきって、再び眠りへと落ちていく。
バクの苦笑が聞こえた気がした。
10
旅路は一先ずの小休止。
夫の足並みに従えば、妖精エリヤは本来なら原始魔道で、凄まじい速さで移動できる距離を、
七面倒な手間と時間を掛けなければ移動できないのだ。エリヤは当然不満に思っており、
ことあるごとに、己の頭部の傍にある耳へと向かって恨み辛みを囁きかけるのだった。
しかし狂人には意味のないこと。
と思いきや港町ポートAに辿り着いたのは件のバクにあってから四日。
予定よりも一日早い到着であった。
遙か広大な大草原にぽつんと浮かぶ、大地の港であり、そしてまた広大な『父なる西の大海』に面した海の港。
それこそがポート:アセンブリア、通称ポートAであった。
多くのキャラバン、そして草原の数多の遊牧民が集まり。
また帝国の砦であり、漁師と商船団の船で賑わう港は磯臭くも活気に溢れている。
自然の静かさを心の底から味わって過ごした旅人の目と耳を襲う文明の質量。
白く直線的な石と土により作られた家々。多くの人間の歩く雑踏の音。街全体を包む活気。
その中を、風を切るように進むクロックウッド。その外套に潜り込み、目立たぬように姿を隠すエリヤ。
「どう! はいどう! は~いそこのお二方! ほっほう?」などといきなり興奮して道行く人々に話しかける男が一人。
クロックウッドの事である。その度に外套の中から背中に向けて蹴りを決めるエリヤ。
(あんた静かにしなさいよ! ホントに、もうウザイ!
空気読めッ!! ったくもう……)
(ふむ? ほう、見よ鹿の角だ!)
(船のマースート! とりあえずこの割れたバクの糞、じゃないバクからの贈り物を売り飛ばしなさい!)
「ほう、そこのお二人! 良い顔つきをしているおそらく麻薬中毒者だな!!
なあ、この私を信じて一瞬で中毒を治してくれる素晴らしい宝を」
(だぁかぁらぁ~!! そういうやり方じゃなくてぇ!! 何回言えばいいのよ、もう)
「南海? ここは南海か! そうかならば海の水は赤くてしょっぱいストロベリーだなぁ!
知ってるか、私の心は甘酸っぱい、なぜなら私は貴族だからだ!!」
(ちょ、アンタ! アンタがさっき挑発した麻薬中毒者が二人こっちに走ってきてるんだけど!?)
「ふむレスリング志望者か、こう見えても私はシャドーボクシングの達人だ、達人だぁ!」
「………ッッッ!!」「舐めてんのかてめぇ!!」
「喰らえキック……【:水:硬化:連射】」
(キックじゃないし! 馬鹿だし! アンタ最低だし!
しかも冷静に考えればこの人たちなにもしてないし!)
「ふふん、見よ! ナイフを腰に帯びているではないか!
これは人殺しの顔だ、これは人殺しの脚だ! 恐らく魚とか取っていたのではないか?」
(見るからに漁師だし、当然だし! アンタホントにアホなんだけど!?
あ、ちょ、ちょっと仲間みたいの来てる、来てるって、マジヤバいからアンタはやく……)
「……」
(なに詠唱してんの!? 馬鹿なの!? 目立つことは避けろって言ってるの!
アンタはやく走りなさい! 早く早く!)
「ふむ、戦略的撤退か……アイシャルリターン!」
(しちゃ駄目だし、ほらそこ、そこの通路、そこの白い壁の家の隣)
「ホワイトハウスか!!」
(なんでもいいから早く!)
そうして路地裏へと駆けていく二人、迷路のように入り組んだ港町の中を駆ける男の眼差しは淀んでおり、
口唇からは涎が滴り落ちている。見るからに関わり合いになりたくない。端的に言ってヤバい。
麻薬中毒者か酔っ払いか狂人か。あるいはその全てか。
駆けるクロックウッドを執拗に追いかけるのは気の強く、血気盛んな海の男たち。
海の匂い、塩の乾いた匂い、そして汗の匂いを漂わせ、生活の疲れと有り余るエネルギーとが組み合わさって爆発し、
見るからに暴力によって鬱憤を晴らそうと企んでいた。
「ちょっとヤバいって、絶対一〇人越えてるからねあれ」
「ハハハッ! 私が宇宙超戦士だった時のことを思い出すな!
見よ、この腕裁き! 【:反動力】」
「だから腕関係ないし! しかも無駄に凝った式! 能力の無駄遣い!
ああもうアンタホントにっ! もうっ!」
燦々(さんさん)と照りつける太陽、黄色い日射しが、白い屋根に反射し、その上を走るクロックウッドの目を焼いた。
そして屋根を疾走していたクロックウッドは見るも無惨に転落する。
落下しながらも外套を脱ぎ捨て、エリヤが巻き込まれぬように咄嗟の判断。
そして茅葺き屋根の、粗末な小屋へと身体から落ちていく。
「むむぅ、っく、この状況、何者かが遠距離攻撃を?
く、大王クラーケンの企み、っ! ……おお? 妖精!? 妖精? ……!! 妖精!!」
「……アンタ馬鹿でしょ、……いやいいわ、今更だし何も言わないで頂戴、ホントに……もうね!」
「最高か?」「最低よ!」
「ふふん!」
「褒めてないからね!」
そうして空中を漂う妖精。
緑の髪にこびり付いたその埃をいかにも面倒そうに取り、はたき、そして己の身に付けている羽衣に傷がないか見る。
手の甲には微かに発光する複雑な紋様。刺青にも見えるそれは婚姻証。
二人の契約の証である。不本意そうにその紋様を一瞥した後に、妖精は改めて己の夫を見やるのだ。
クロックウッドは相も変わらず貧相な外套に、既に何日も身に付けた上下の安布。
そして肩に担いだ、僅かな路銀と水、そして干し肉や、ナイフが入っている。
元来その場に理論魔道とは同一の霊素、即ち大地の母神ならば、大地の母神の霊素。
その息吹が大気に多く存在しなければ式や理論を活用できない。
砂地と草原の入り交じった帝国のステップ、そしてサバナを乗り越えられたのはエリヤの原始魔道による。
大量の父神の息吹、即ち水の霊素を集めて、飲み水へと変換したことエリヤの手腕があればこそ、
クロックウッドはかの草原を越えられたとも言えるだろう。
立ち上がり、身体を払いながら、ふらふらと首を揺らしながら、周囲をきょろきょろと探るクロックウッドを観察し、
無意識の内にその身の無事を確認していることにエリヤは気付いていない。
「で、此処は……」
「おおう、これこそが、これこそが!
ふむ? なんだこれは?」
「私が知らないわよ、石じゃないの?」
緑の髪を揺らして、猫のように瞳を細めるエリヤ。
小首をかしげて、おもむろにそれを舐めようとしたクロックウッドに対して、
エリヤは小さな磁器のような手を驚きに握り込んでその行為を止める。
細部まで模られた人形が、宙を漂い、蝶のごとき羽は僅かに差し込んだ陽光の下、虹色に光る。
クロックウッドは、わめき立てながら己の行動を静止するエリヤを、なんともなしに見る。
(ふむ、我が友、我が愛しのエリヤ、ふむ、ふむなんと美しいのか!
何か言っている、ああ何か怒っているがその顔も美しい!
ガマガエルのように心地よい鳴き声! 月のクレーターのように輝かしい顔!
そして母親のように信頼できるその頭! 頭? 頭……頭!!
そうだ頭だ、此処はそうだ、私の頭だ、ここは世界のコスモス!
秩序の秩序、おぉーん!! 素晴らしい風が、祝福の声が!
身よ世界が虹色だ! ハハハッ! いやはやエデンの林檎の君を、黄身と溶いて、君と一緒に食べるこのナンセンス!
最高だ! ハハハッ! 見ろ、世界がぐーるぐーる!
回るよ、カハハアハハアハハハハアハハッッッ!!)
「《水》」
「ハハハハッんぶ!? …………此処は、何処だ?」
「アンタ勝手に意識を飛ばさないでくれる?」
「何故、私はこのようなところに居る、此処は何処だ、誰の仕業だ、出てこい、妻よ、私が護るからな!!」
「……っえ? あ、うん…………、っじゃなくって、そんな所まで忘れなくてもいいのホント、アンタしっかりしてよね……っ!?」
「……何をしている」
厳めしい声とともに、白髪に青い瞳の老人が現れた。
疲れを感じさせない鋭く深い靑を湛えた眼差しとは裏腹に老いた肉体をもった老人。
かつては遙かに精悍でより強靭であったろう肉体は、しかし老いから逃れられない。それが摂理。
黒髪を揺らし、クロックウッドがそちらを見る。誰何の為か手が伸ばされ、そして手の甲に巻き付けられた布が揺らめく。
そそくさと羽を揺らして、その身をクロックウッドの頭部の後ろへと隠している。
半ば倒壊した小屋の中で、埃と木片の散らばる空間の中で、一人の男と一人の狂人と一人の妖精が出会ったのだった。
……
…………
「ふむ貴様がボスか、ここでお前を倒せば世界が救われるというわけか……」
「奇怪なことを言う、世界の巨悪は俺ではない、かの怪物こそが巨悪」
(えっ? 話通じてるの? マジで? なにそれ、怖い)
「ほう巨悪、ハハハッ! 貴様は知らぬのだな、真の巨悪は、ゴーントオブナイトメア!!
我が宿命により戦うことを宿縁付けられた怨念の悪鬼! 来るべき暗黒の日々には、
私の培った戦闘法が、未来を救うだろう! それまでは死なん!! カハハハ見よ!」
「ふむ、若いの、貴様が何を言っているかは分からない、だが一つ分かったことがある、
貴様もこの世界を救う為の重い責任を抱えているのだな……よろしいあいわかった」
「何がっ!? 怖い、アンタたちマジ怖いんだけど!? どうして話が通じてるんのよ!?
おかしいでしょ、マジで! ……あ」
「ふむ、妖精か、珍しい」
「あ、あれ?」
「そう怯えることはない、私が戦うべきはただの一匹の巨悪のみ。
可愛らしい緑の髪を持ったお嬢さん、ほら、小さな小さな巻き貝だ、頭に付けるとよい」
「……え、あ、はい、ありがとうございます?」
「ふむ、この可愛らしいお嬢さんは貴様のなんだ?」
「妻である! フハハッ! 見所があるなぁ、老いぼれの分際で、その義足は仕込み杖か!」
「……コイツは私の夫ですクロックウッドです」
「私はミドリムシの化身、ナイトメアオブゴーントと戦うことを宿命付けられた悪の超戦士だ!」
「ほう、頼もしい、市井が騒がしかったが、貴様らか?」
「そうだ、この町は危険である! 見よ、この太陽は偽物の太陽だ、これは人を狂わせる!
眩しさで人を殺す者が現れるとも限らない、異邦人の宿縁にも似た太陽に毒されている」
「分かるか、若いの、そうだこれも全て、かの悪の化身【白鯨】の仕業によるものだ!」
「怒りを覚える面妖な響き!」
「……好きにして、もう」
そうしてクロックウッドの頭部に座ったエリヤは、己の小さな服の乱れを直しながら、
顔を顰めながら、溜息を吐くのであった。
11
「そうか、路銀がないか」
「そうなのよ、船の当てはないかしら?」
「む、かもめだ、ハ、たかがカモメ、されどカモメ、ん? そこのカモメよこちらへこい!
何故来ない? さては先ほどあちらで見かけたぞ!!」
「無いわけではない……貴様らは悪と戦う宿命を背負った者たちなのだろう?
異なる眷属が夫婦となるのだ、父神の驚くような何事かが、あるかもしれないな。
詳しくは聞かないが」
「……はぁ、それで本題は」
「このカモメも来ない! こいつらはゴミだ! 白い宙を舞い続けるゴミだ! ゴミカスだ!
チンカスだ!! ひゃあぁ!! 見ろ、こいつらはかもめだ!! 私はかもめ!」
「君たちの力を借りたい……」
「……力?」
「フハハ! ほら【:大気:圧縮:連射】!【;連射】!
……うむ? こいつ避けるぞ? カトンボとはかぁくぅが違う!!」
「そうだ、奴と【白鯨】と戦う為の力が欲しいのだ」
「【白鯨】……ねぇ」
「ふ、く、こ、こやつ、わ!私の顔に糞を!! くっ! やるな!
貴様の名前は今からジョナサン! ジョナサンだ!」
「っ! ……うるさい!!」
「で、返事はいかがか?」
「……」
「受けるぞ、ハイヨ! ふむジョナサンが俺の肩から離れぬな!
話は聞かせてもらった、悪の大帝、ムーンオブザキングサン、キングさん?
ふむ? キングさんとは何者なのか? これは哲学的なビッグサブジェクトだな!
おそらくクオリアが関係してくる……むう?」
「あのねぇアンタ、勝手な真似しないで欲しいの? というか静かにしてなさい」
「いや、これは重要な問題だ、私は今だから言うが、この男とは前世で友に戦った仲のような気がしてならない」
「……偶然だな俺もだ、遅れたが俺の名はハンマー、この道四〇年の海の男だ!」
……
…………
「ここからの話は本当にねぇ! アイツが、ホント、クロックウッドの阿呆のせいで大変だったとしか言い様がないわ。
二つ返事で意気揚々と、盛り上がる狂人たち、え? ハンマーが狂人だったかって?
当然! 静かに狂っていたわよ! ちょ、あんたたち信じてないでしょ? ホントだからね!
ハンマーとクロックウッドは話が通じてたのよ? あんなの一周回って狂気に満ちてなきゃ不可能よマジで!
ヤバかった、なんというかもうね、ひどかった。
その後、海の男たちが落ち着いたらしいって聞いて、ハンマー行きつけの酒場、と言う名前の襤褸屋敷だったんだけど。
そこで一々素で酔っ払っているような二人の連中のただ中に巻き込まれたのよ?
ほらそこの神官に、魔導士! 露骨に嫌な顔しない!
私だって泣きたかったんだから! でもねそれはまだ我慢出来たの!
でも、本当の地獄はね、飯が不味い事! 死ぬほどね! バカかってくらい!
サイテイのサイサクよ! なんか多分蠅を生で囓った方がおいしいんじゃないかしら、多分。
え? 正規の船は探さなかったのかって?
考えてみれば都合が良かったのよね、お金はないし、三等の船室って人が押し潰し合うほどに密集してるらしいじゃない。
あたしもアイツもそこだと危険、でもバクの糞は金ならないし、アイツは本当にどうしようもないし。
それでしょうがないからねぇ、確か夜遅くまでアイツが酒を飲んでたの、その後で行く雰囲気になってたけど、
もうそれでいいかな? って。
え? よくない? どう考えても危険?
ま、まぁねぇ、あたしだってヤバいって思ったわよそりゃ、マジでさ!
いやでもねぇ、一応夫婦だったしねぇ、それになんか疲れてたから……もういいかなってなっちゃった。
で、地元の船付き場には関所があるから、それで家のクロックウッドが身分証を見せる。
まあ一応貴族だったからね、凄い訝しげに見られたけどね。
アイツあの調子で、しかも肩になんかジョナサンとか名前の付けたカモメをいつの間にか乗せて、
「私は導師です、此処を黄金の関所と名付けます、見てくださいレモンみたいな筋肉でしょう!?」
って自分の瞳孔を関所の人に見せつけて、その上の地元だと悪い意味で有名なハンマー船長までセットでしょ?
なんかもうサイアクな組み合わせでしょ? あ、そうかいやハンマー船長はすごいよマジでヤバいね!
一位を私の旦那とするなら、そうだねぇ二位に着けるかもしれない。
……あ、想像した? うんまあ、そうだねそういうこともあるよね……あれなんで涙が出てきたんだろう。
…………ふぅ、え、ええと何処まで話したっけ? あ、そう関税を抜けたところね。
で船着き場に着いたら、思っていたよりも立派でね、結構近い大陸までなら多分楽勝で行けるような大きな船があったの。
アイツは「鹿の角、ハハハッ、白いシーツが、宙を舞ながら踊っているぞ!」って煩かったわね。
でも嫌な予感したのよ、マジで、だってなんか一杯大砲付いてたし、しかも至る所に理論魔道の紋章とか付いてるの、
白い空、満天の靑空が、その時ばかりは不安の前兆に思えたのよ……はぁ。
それでね、乗組員を紹介されたの、確かルバチョフとか、キッシングとか、ロイスとか、モーリャンとか、そんな名前の人たち。
何がヤバいってどいつもこいつも目が逝ってるの……死を覚悟したわねあの時は…………」
12
貴方は船の船長だ。
今日は記念すべき六度目の決戦。
この日の為にかき集めてきた戦力は豊富で、丹念に訓練してきたチーム力もある。
精鋭揃いの六度目の航海。
どいつもこいつも、【白鯨】に親を殺されたものばかりだ。
あなたはそのことを頼もしく思っている。
船長のルバチョフ、四度目の航海からあなたの頼りになる相棒で、帝国外の難民出身の働き者だ。
小さくも頼りになる測量士のキッシング、赤毛のかぎ爪男だ。
ロイスは義眼の副船長兼航海士、大柄ながらも人なつこい頼りになる男だ。
そしてモーリャン、この日の為に手塩に掛けて育てた未だ若い、若すぎる操舵士だが、腕は一流。
怨恨を糧に、恨みを胸に、船は帆を張る。
総勢およそ六〇人、たいした数だ。
しかしこの内の何人が生きて帰ってこれるかが不安でしょうがない。
あなたは手を握りしめた、汗で濡れていた。
天空神が猛っている。日射しが強い、熱射病に気を付けなければならないだろう。
あなたは祈る、天空神に、そして父なる神、海の父神に祈るのだ。
そしてあなたは己の肩が揺れていることに気付く。
大商船の船長であった四〇年前に、初めての邂逅を果たしたあなたの宿敵はどうしているだろうか。
ふとあなたはそんなことを考えた。
あなたの脳裏によぎるのは、崩れ折れるマスト、荒れに荒れた大海へと叩き付けられる妻子の姿。
そして自分に助けを乞い、神に助けを乞い、運命に助けを乞い、最後に全てを呪った己の部下たちの姿。
あなたは僅かに立ちくらみを起こす。
これは宿命なのだと、己を納得させる。
あの日、あの時、あの黒い太陽の下、大嵐の中で、あれ――【白鯨】に邂逅した瞬間から、
あなたの脳裏にはいかにかの怪物を殺すか、それしか頭になかった。
あなたは柄にもなく迷った。
そしてマストを見て、遠く靄になりつつある陸を眺める。
塩の匂い、海鳥の鳴き声、海流に気を付け、海図を眺める幹部たち。
あなたは嘘つきとして通っている。
一人助かったあなたは詰られた、己だけが船長であるにも関わらず全てを見捨てて逃げてきた。と詰られた。
それだけなら良かった。それは事実であったから。
それはその通りで、かつてあなたは、怯えの余り、恐怖のあまり、逃げ帰ったのだ。
そのことは事実であると、あなたは納得している。
しかし認められないことがあった。
【白鯨】は嘘である。【白鯨】は作り話で、本当は座礁した船を、あるいは海賊に襲われた船から逃げ帰ったのだ。
それこそがあなたの罪であると、あなたはなじられた。
それは嘘ではない。あなたは【白鯨】を、その存在を力説した。
しかし認められない。あなたは船乗りとしての栄誉を何もかも失った。
一時は死罪にさえも処されかけた。
そしてあなたは街を追い出された。
街から街を彷徨った。
しかしあなたの話は、とうの昔に知れ渡っていた。
あなたに栄誉はない。
しかしいつしか貴方を信じる者たちが集まり始めた。
あなたと同じように【白鯨】と邂逅した、宿縁のものたち。
その中に富豪も、いれば戦士もいた、一流の船乗りも何人もいれば、
時に魔導士もいた、亜人もいた、魔獣さえも時に現れた。
そしてあなたは己の宿命を見つけた。
さあ銛を取れ、それをぶつけろ、さあ魔導を、式を身体に刻みつけろ。
さあさあ! あなたは戦う。あなたは戦い続けている。
そして六度目の航海。
あなたは迷いながらも、しかし結局は戦うのだ。
黒い太陽と嵐を背負った白い悪魔と、あなたは戦うのだ。
決意を再確認した貴方は、塩の匂いを吸い込みながら、
甲板の隅で一人佇んでいるように見える精悍な男を眺める。
服装こそ見窄らしいが、身形は気品に満ちている。
その黒い髮も、その顔立ちもおそらく貴族の血が混じっていることを窺わせた。
あなたはその一人の肩にもう一人、妖精が居るのを確認した。
とても可愛らしい、ちょこんとした15CMほどの大きさの妖精だ。
緑の髪には如何にしてか、あなたの渡した貝殻を飾りとして着けている。
僅かに透けている薄緑のベールは、噂に聞く妖精の羽衣か。
若草色の肢体に包まれた肉体はまるっきり子供であるが、しかし亜人の寿命は見た目では測れない。
あなたはそのことを知っている。
時折、あなたにも理解できない行動を行おうとする男に対して、
その肩に座る妖精の女は、声を荒げ、時に耳を引っ張り、時に水をぶつける。
あなたは僅かに微笑む。あなたにはわからない理由から夫婦として行動を共にしている二人。
恐らく出会ってまだ日は浅いのだろう、一週間ほどだろうか。
あなたはそう推測する、しかし同時にこうも思う。
その割には、大分仲がよい、と。
あなたはあの男、狂気に包まれているあのクロックウッドなる男が、至上の信頼をあの小さな妖精へと捧げているのがよく理解出来た。
そして表面的には嫌っているように見えるかの妖精も、信頼をしていない訳ではない。
若い、あなたはまた微笑む。
潮風に揺れる白髪をふと、見る。
自分の娘が生きていれば、あの男くらいの孫がいてもおかしくはなかっただろうと。
そしてクロックウッドの肩には一匹のカモメ。ジョナサンなる名前が付けられている。
もしかしたら、あのカモメも、これからあなたたちが何処に行くのか分かっているかも知れない。
ふと貴方は益体もなく、そんなことを考えた。
あなたは思う、同類とは惹き付けられるもの、と。
思えばクロックウッドなる男は、紛う事なき狂人であろう。
しかし半ば狂ってしまっているあなたは、あの男の言が理解出来なくともその想いは理解出来た。
少なくともあなたはそう信じている。
あの男は、何かに執着し、その為に生きてきた男の、成れの果てだと。
つまるところ同類であるのだと、あなたは確信していた。
それ故に魂の位階で、あなたはあの男と通じ合った。
あなたの狂熱に対する、あの男なりの、援助。
あなたはそれを受けた。そしてそれと同時にあなたは考えている。
もしも今回の戦いにおいて、船が沈みそうになれば、その時はあの男を、そしてその妻を逃がそうと。
あなた密かに心に決める。
海流が早くなり、霧が出てきたことにあなたは気付く。
船員の動揺と緊張が聞こえてくることにもあなたは気付く。
あなたは声を張り上げ、太陽を指し示す。
船員が息を呑む、雄叫びを上げるあの男。
怒りに目を光らせた船長のルバチョフ。
義眼を静かに撫でる副船長兼航海士のロイス
全身を震わせる測量士ギッシング。
そして次第次第に荒れ始めた波を見事な舵取りで捌いていく操舵士モーリャン。
霧は深い、しかしその中で、太陽だけは奇妙に見えてきた。
海の濃密な匂いが、強くなる風とともに立ちこめる。
あなたは太陽を指し示し、おして叫ぶ。
「来るぞ!」と。
あなたが指し示す先で、太陽が次第次第に変化していくのが窺えた。
太陽が、黒く、黒く、黒い円に浸食されていく。
おそらく金環日食に近いのだろうか、しかしそれはあなたにとってもっとおぞましくそして、唾棄すべきものに思えた。
波がいよいよ高まる、浸食される太陽、黒い太陽、時間もうすぐ正午。
「『真昼の暗黒』」あなたは呟いた。かつて聞いた事のある言葉。あるいは何かの一節だったか。
あなたは、そしてあらん限りの力で叫ぶ。
あなたを打つ雨にも負けず、波の高さにも、船の揺れにも、真昼の暗黒の醸し出す恐怖にも負けず、
あなたはあらん限りの声で叫び続けた、そして現れる白い鋼鉄のような皮膚を、あなたは見た!
13
船を轟音が襲った、エリヤは己の身体が吹き飛ばされるような衝撃を感じた。
船員が喊声を上げたのが聞こえた。あっという間の出来事であった。
白い波が、闇のうねりと化した激しい波浪の連撃とともに船へと襲いかかってくる。
一瞬で沈没しかねないこの船を支えているのはしかし下層に乗り込んでいる魔導士たちが、
天空神の風の魔素、そして父神の海の魔素を使って、水をいなし、風をいなしているからである。
【白鯨】の攻撃は未だない、おそらく小手調べであるだろうこの嵐と波を凌げるかどうかを見ているのだ。
(嫌らしい!)
下層よりの砲撃、そして弓、槍、銛が一斉に投げつけられる。
恐らく風の魔導を使い正確に、そして穂先に火の魔導が練り込まれているのだろう、
無数の爆風が、轟きとともに船を揺らし、【白鯨】へとぶつかっている。
エリヤは己の夫がいやに無口なのに気付く。
そして先ほどから無音である彼を見る。
彼は太陽を凝視していた。エリヤは愕然とする。そしてその魅入られたような雰囲気に僅かな不安を覚えた。
「なにぼさっとしてるの! アンタ、クロックウッド!」
「ハ、ハハハッ! わかっておるよマイワイフ!
どうすればいいのか、こうすればいい! ヒャー! 見ろ今日は鯨のステーキだ!
革靴にしてやる!! 【:火;風;水;火;火;火;光;光;】」
いやに長い詠唱、その間も、彼は己が自失していたことで生じた遅れを取り戻そうとするかのように、
妻の身を案じてか、彼女の身体をそっと、しかし苦しくない程度にはしっかりと握りしめた。
エリヤはくすぐったさと、安堵感を覚える、そして己の身に付けていた一枚の布。
股と胸の覆っていた一枚の若草色の包帯を取り外し、そして己の夫であるクロックウッドの薬指へとそれを巻き付け、
そして反対側の端を己の腹へと結びつけた。羽を巻き込まないように慎重にしっかりと背中と腹に何重にもそれを巻き付ける。
「絆! 愛! ああ無情! しかして見よ! この海を、この黒い邪悪な海を!
ハハハッ! なんということだ! こんな海があるなんて! あるなんてなぁ!」
「黙って、アンタも気張りなさい! うん! いいじゃない!! こんな時まで電波全開だと困るからね! それぐらいで」
いつもお願いしたい! と言おうとした瞬間、船が今まで一番揺れたのが感じられた。
霊素により最大限に強化され、硬化された船の横腹を【白鯨】が叩く音であった。
二人の船員が、大嵐の波、波浪と黒い太陽、白いもやの狭間へと飲み込まれていくのが見えた。
全ての船員が唸り、叫ぶ、しかしそれよりも大きな声で、義眼のロイスが叫び、
ルバチョフが冷静に猛った声で全てを威嚇する。
幾つもの霊素がクロックウッドの外套の前に集まるのが見える。
そして複合的に効果が重ねられる、瞬間的な計算と、詠唱の組み合わせ、そして彼の描いた魔法陣が組み合わされる。
【加速爆裂砲台】 かつて彼が考案したものの、余りの計算と詠唱の複雑さから実用的でないと一蹴された理論魔道。
精緻さと複雑さ、その上での重ねられる幾つもの霊素。
隣では風に煽られながらも、しかし懸命にしがみつきながら大気に意識を集中するエリヤの姿が見えた。
なんの義理もない戦いである。意味のない死闘である。
最初、【白鯨】など所詮戯言と、ハンマーの意見を容れたエリヤ。
(まあもし、いたならこの最低の夫をね! ちょっと亡き者にする機会だったりして)などと軽く考える程であった。
この男は、妖精の誓いに乗じて、異なる眷属の己を虜囚も同然の身に堕とした張本人。
狂気に囚われた身勝手で騒がしい夫、それでも彼には良いところもある。
エリヤは、少なくとも、【白鯨】にこの夫、行きずりの夫が殺されるのは嫌だった。
嫌になった。亡き者などになって欲しくなかった。
戦う義理もない、救う義理もない筈だった、しかしなぜだか、ここでこの身勝手だが優しい男が死ぬことは許せなかったのだ。
そうしてエリヤは、己と、己の夫のために、なぜだか、自分でも笑ってしまうことだが、戦う決意を固めていた。
集中される意識、霊素に意識を感応する。隣、夫の詠唱が途絶え、そして高度に圧縮された水の魔素が、炎を身にまとわせて、
恐ろしい速度で連射されていた。恐らく城壁でさえも数十秒の斉射で、跡形もなくなる大連射であった。
そしてハンマーの叫び声。ギッシングなる測量士が、何事かを叫びながら【白鯨】へと滑空し爆発した。
幾多の砲撃、そして【白鯨】のしつこい突進と、尾の一撃、船を耐えさせている魔導士がどんどんと集中力を切らしていくなか、
シャツを脱ぎ捨て、全身に刺青を入れたハンマーが、数人の部下を引き連れて、甲板の縁へと走り寄る。
数多の揺れ、波浪の激突、横殴りの刺すような風を凌ぎきる操舵士モーリャンの神懸かった舵取り。
大気が振動したのがエリヤには理解出来た。
静かながら途絶えることのない、隣、夫の速射、濡れた夫の服、そして立ち上るクロックウッドの匂い。
それに包み込まれる形でエリヤは、意識をさらに集中させる。
轟く喚声、悲鳴にも似た戦慄の叫び声、エリヤは集中を完成させ、瞼を開ける、
見れば、【白鯨】の背中から潮が噴き出し、その頭上にある数多の雨、数多の波、それらを塊として集合させている。
おそらくエリヤが行使するものと同じような原始魔道。
先ほどの叫び声は、あれを見て起こったのだろう、ハンマーが叫ぶ。
「槍が来る、槍の雨が!!」そして螺旋を描き、無数の水の塊へと分裂しながら、硬化した水が船を襲う。
エリヤは予め掌握した船上の霊素、そしてその周囲の全てを集め、大気の風を作る。
「マジでね! やらせないからね!! クソッタレ!!」
「口の悪いカミさんもらうと後が大変だぞぉ!!」
嬉しそうな声が、ハンマーから届けられる。
それに応えるように、それまで無数の砲塔による連射という形を取っていた高速砲台が、
一点へと集約を始めた。
まさに巨砲とでも言うべき風と僅かな灯火と、それらを内包した巨大な水塊が現れる。
「ハハハッ! 水は水、鯨には鯨、さあさあもうすぐ素敵なステーキ!
そいじゃ一丁、ふふふ、ふふふふふ! さあさあ!」
そうして彼らが乗り込む船、それこそ二五M四方の巨大な激流が火を湛えながら【白鯨】へと飛びかかる。
それは【白鯨】の発射した無数の水塊さえも飲み込み、その魔素を包み込みさらに膨れあがった、
そしてまたエリヤの原始魔道によりその巨大な激流は加速し、圧縮され、 そのまま【白鯨】の背中へと突き刺さる。
西海中に響き渡るだろう叫声が、つんざくような轟音が船員を襲った。
肉を抉る鋭い槍が突き刺さり、内部へと爆発する水を送り続ける。
連続する爆発音、そしてハンマーはその隙をついて先ほど出来なかった攻撃を再開する。
数人の部下、中にはルバショフ、その他にも屈強な肉体を持った無数の男たち。
砲弾が尽きた部署の男たちも、直ぐさま甲板へと躍り出て、そこいらに立てかけられた弓をひたすらに放つ。
中には全裸のハンマー集団へと加わる者もいる。中にはオーガらしき亜人も、ゴブリンらしき男も。
あるいはリザードマンらしき男も、時にはエルフの美女、ホビットの少女、数少ない女性ドワーフさえも居るように見えた。
そして彼らは船のマストに身体を括り付ける。変わらす横から襲う雨粒、そして高い波、幾分緩まったとはいえ強い突風、
先ほどよりもなお激しく、ひたすらに動き続けるの【白鯨】の勢いに押され、幾人もの男たちが海へと転落していく。
恐らくここが正念場であろう、船を護っている各部分の魔導強化も溶けかかっている。
疲れと振動、中には頭を打ち付けて血を流しながら詠唱を行う者もいれば、頭蓋が陥没しているにもかかわらず死力を尽くして船を護っているものさえもいた。
そしてハンマーたちは括り付けたロープに命を託して、海へと飛び込んでいく。
転落防止の為の小さなロープではない、あるいは風や振動に凪ぎ飛ばされていった者たちの身に付けていたただのロープでもない。
魔獣の皮をなめし、金属の鎖とともに結びつけて結合した強靭なロープ。
製作に数年かかり、そしてまた材料と資金の問題からこの一組しか作れなかった特別製だ。
クロックウッド夫妻は集中と、精神力の回復のため、一度、術を止める。
その中、水練の熟達した二〇人近くの多様な眷属が、ただ一つの怨念と憎悪を的として一つにまとまっていた。
そしてエリヤは見た、幾人もの人々が高すぎる波に翻弄されて苦しむのを、
時には息継ぎが出来ず、哀れにも頓死する者さえも現れた。
しかしそれでも、幾人かは【白鯨】の背中に登り、その銛を傷口へと叩き付けて爆発させる。
そして最後には己が肉体を火薬剤として爆破し、【白鯨】を揺るがしていく、
苦しむ【白鯨】の開いた口に向けてハンマーを初めとした決死隊が飛び込んでいく。
ルバショフが背中へ残った最後の一人として、その銛を、何本も背負っていたその銛を丹念に何本も、
既に出来ている無数の傷口へと差し込み、それらに繋がる長い導火線を己の肉体に巻き付けて、そして最後に笑って、己の肉体を爆破させようとする。
しかしおそらくなんらかの【白鯨】の魔性であるのか、何かに身体を破壊されたかのようにルバショフは崩れ落ちた。
微動だにしないルバショフを苦渋に満ちた瞳で睨みながら、ロイスは爆破弓を構える。
放たれた矢は、豪風の中、奇跡的に揺るがず見事にルバショフを射貫き、そして無数の大爆発を【白鯨】の背中に巻き起こす。
煙が霧と合わさり、そして嵐により直ぐさまに晴れる。
唸りと轟音、【白鯨】の悲鳴、そして逃げようと潜水する【白鯨】の肉体は、背面の殆どの皮が剥げ、
さらにはその下の赤みがかった筋肉は抉れていた。まるで無数の穴が削岩されたかのような【白鯨】の身体が深い海へと沈んでいく途中。
大きく、大きく波が泡立ち、嵐と高波を突き抜けて水柱が上がる。
そして静寂が訪れた。
嵐は止んだ。エリヤはいつの間にかクロックウッドの首筋に抱きついており、
クロックウッドは狂気に淀みながらもそれを越えて、厳しい闘争心に彩られた眼差しで水面を眺めている。
「どうなったの?」「わからん、わからんのだ……エリヤ」
見る間に靄が晴れ、黒い太陽は通常の太陽へと戻っていく。
白く健全な日射しの下、風は通常の潮風に、そして高波も絶えて、久しく見ていなかったように感じられる穏やかな水面へと変わっていった。
「ハハァ! 見ろ、見ろサンシャインだ、ほらジョナサンも帰ってきた、いや違う?
ハハハッ、糞あの暗黒大魔王の死骸! 見ろ、鯨ステーキの出番だぞ!! 涙なしには語れない、円熟のミディアムレア一丁だ!」
「や、何言ってるかわかんないけど、うん、言いたいことは分かるような気がする」
そして水面には、白い鯨の死骸がぷかぷかと浮かぶ。
さらにはその死骸に仁王立ちする一人の男、老体に鞭打って、満面の笑みを浮かべて微笑む一人の男が居た。
肩にはジョナサンを留まらせて、船の上の人間へと浅く手を振っている。
「名誉の回復、悲願の成就、ハハッ! 無数のエビチリを煮詰めたような混沌の競争に打ち勝ったか!
いや、いや! なんとも素晴らしい、なんとも麗しい、なんとも悔しい! カハハッ!」
「クロックウッド? ……アンタ、ホント、バカなんだから……まったくもう」
はぁと息を吐いて、濃密な闘争の時の終わり、そして結局のところ何事もなく、
この苦難を乗り越えることが出来たことに、満面の笑みを浮かべるエリヤ。
太陽はどこまでも澄み切っていた。




