とろける
第一回目のテーマは『アイスクリーム』です。
「ちょっと、大丈夫?」
がちゃ、と勝手に部屋のドアが開けられる。
無遠慮に人の部屋にあがりこんできた女は、更に無遠慮に俺が寝ているベットまでずんずんと歩み寄ってきた。
そして、サラサラの黒髪を耳にかけながら、熱が高くてぐったりと寝ている俺の顔を覗き込む。
「熱出したんだってね。さっきおばさんに聞くまで知らなかった。早く呼んでくれたらよかったのに」
そう言いながら彼女、夏生は、不満そうに頬を膨らませる。
なぜ怒っているのか、意味がわからない。
「いや、別に来てもらわなくてもよかったんだけど…… てか、普通お隣さんだからって、高校生の野郎の部屋に勝手に上がりこんで来るってどうよ」
「え? ダメだった?」
「普通、おかしいだろ。襲われるぞ」
「襲うの?」
夏生はなぜか大きな瞳を更に大きくして、俺のことをじっと見つめた。丸い瞳がきらっきらと輝いている。
……おいおい。そんな目で見ないでくれよ。
てか、このシチュエーション、身悶えして羨ましがる野郎が大勢いるんだろうなぁ。
なんて、ぼんやりとした頭で考える。
でも、だ。
そんなに羨ましがられるシチュエーションでもないんだな、これが。自営業で留守がちな我が家の事情を知った上で、幼馴染という立場上、こいつは俺を気にかけてくれてるだけなんだから。
「お、襲わねえよっ。病人に何を言わせてるんだ」
「あはは。そうだよね。今更私のことなんか襲わないか」
口元を隠すようにして笑う彼女を、俺は布団を鼻のあたりまで引きよせてちらりと盗み見る。
小さなころは俺の後ろに隠れるようにして、いつも後をひっついて回っていた彼女は、いつのころからか俺なんていなくても一人で歩くようになっていて……
その上、頭もよくて美人ときている。
いつの間にやら同級生の中でも、かなり競争率の高い存在となってしまっていた。
いつだって後ろをついて回っていた彼女は、今では俺の遥か先を行っているような気さえする。正直、ちょっと悔しい。
両親も仲良しで、長い間家族ぐるみの付き合いをしてきたお隣さんの夏生。
『今更私のことなんか襲わないか』じゃなくて、今更襲うタイミングもクソもあったもんじゃないだろう、が正直なところ。
第一、今更そんなことをされても心底困るに違いない。
だからここは俺としてはこう言っておくしかないんだ。
「……当然だし」
「当然だとか言わないの!! これでも私だって女なんですけどっ」
夏生は再びぶうっと頬を膨らませる。
……女扱いして欲しかったのか? 自分は俺のこと、これっぽっちも男だなんて考えてもいなくせに。これだから女心は分からない。
とにかく、なにやらぶちぶち愚痴っている夏生はスルーするのが一番だ。声の掛け方を間違うと、また余計に怒らせかねない。
大体、俺は病人なんだぞ。なんだって勝手に上がりこんできた隣人に気を遣う必要がある!? 気を遣われたいのはこっちだっての。
ぶちぶち言っていた夏生が、大きくため息をついて、そして俺の方を見た。
「で、具合どうなのよ」
腰に手を当てて俺を見下ろしてくる彼女はちょっと残念な感じで、とても男子生徒のぎらぎらした眼差しを一身に集めているようには見えない。おばさんくさい……
「見たとおりだよ、最悪。じゃなかったら、日曜日に布団に包まって寝てるかよ」
「ふうん。熱でもなけりゃあ、じゃあ何してたの?」
なぜか夏生の声には棘があって……なんでだ?
「なにって、部活に決まってんだろうが。県大会が近いんだから」
そう答えると、今度はぱああっと顔を綻ばせる。……だから、何なんだよ。
「ああ、そうか。そうだよね。彰人レギュラーだもんね。応援行くから、絶対に試合に出てよねっ」
両手を胸のあたりで握りしめ、嬉しそうに笑いながらベットの傍に座り込む彼女。うーん、あんまり近づかないでほしいなあ。
一応、男だってこと、忘れてほしくないんですけれど。
「とにかくさ」
ごほんとわざと咳をしながら俺は話を変える。
「寝てればすぐに治るし、心配しないで結構です」
そう言いながらごそごそと、彼女に背中を向ける。
うん、これ以上微妙なお年頃の男女が、狭い空間に二人っきりってのは、精神衛生上良くないと思うんですな、はい。だからできることなら、夏生には申し訳ないけれど、出て行ってもらった方がありがたい。
なんて考えていたら……
「っ、ぬわっ!!」
首筋にひんやりとしたものが触れて、俺は思わず飛び起きてしまっていた。
すぐそばから最初は密かな、それから爆発したような笑い声が聞こえてきた。
ベットのすぐわきで、夏生が涙を流しながら大爆笑中。
「……あの。病人に何してるんだ、おまえは」
「……ひ、っふふっ……ぬ、ぬわっ!! だって……く、ふふふふ」
あんまりにも面白そうに笑われて、腹が立つってよりも呆れてしまう。
しかも何なんだ、この低レベルないたずらは。
俺は熱があるんだぞ。
くそう、余計な体力を使ってしまったじゃないか。
俺は大きなため息をついて再び横になった。さっきと同じように夏生に背を向けて。
夏生といると、うまく言えないけれど、なんだかこう……疲れてしまうんだ。昔はこんなことはなかったんだけれど、いつの頃からか妙にぐったりしてしまう自分を自覚してしまった。
きっとそれからだな。
幼馴染という曖昧で親密な関係から一歩引いてしまうようになったのは。
でも彼女は変わらなかった。
俺が一歩引いてしまっても、夏生は幼馴染の二人の関係をずっと引き摺ろうとしている。
いや、実際ずっと引き摺っているんだ。だからこんな風に軽々しく俺の部屋に上がり込んだりしてくるんだから。
「あ、あの……っ、彰人? ねえ、その、お、怒った……の?」
ふと背中からうろたえたような夏生の声は、途切れそうなほどに細い。
いつも自信満々な夏生からは想像もできないほど、困りきったような不安げな声に、つい驚いて体をひねって彼女を見た。
ベットに上半身を預けるようにしてじっと俺をうかがっていた夏生と、信じられないほどの距離で見つめあってしまう。
一瞬フリーズ。時間はストップ。
「ば、ばか!! おまっ、近づきすぎだろうがっ!!」
動揺してすごい勢いで飛び起き、夏生から離れるように壁に背中を押しつける。
そんな俺を、彼女はきょとんとして見ていた。大きな丸い瞳で。昔から知っている『幼馴染の夏生ちゃん』の瞳がそこにあって、俺は急に居心地が悪くなってしまった。
パーソナルスペースを完璧に侵すほど近くにいたからって、そうだ、今更こんなに動揺する必要もないじゃないか。
俺と夏生は俗に言う男と女じゃなくて、幼馴染なんだから。
男と女には決定的にある何かが俺と夏生にはきっとなくて、普通の男と女には決してない何かが俺と夏生の間にはある。
それは妙に優しくて、妙に懐かしくて、妙にまどろっこしくて、妙に面倒臭くて、妙に信頼に溢れた何かで……
いうなれば、柔らかな緩衝材のような何か。
男と女の間にある壁よりもずっと薄いけれど、確実に存在する壁よりも厄介な何か、だ。
壁よりもずっと自然にあるものだから、壊す気にもなれない。けれどずっと消えないそれ。
壊したいのか? ……俺。
「彰人?」
ぼんやりとしてしまった俺に、夏生が声をかける。
はっとして目を上げたときには、再びすぐそばに彼女の整った顔があって……不意に伸ばされた手が、俺の額にそっと触れた。
「熱、高いね? ちゃんと休んでなきゃ」
大人びた笑顔に心のどこかがぐっと音を立てた……気がした。
確かに野郎どもが騒ぎたくなるのもわかる……かも。
夏生に促され、再びベットに横たわる。夏生がにこにこしながら布団をかけなおしてくれた。
「ねえ彰人。アイスクリーム食べようよ」
そう言いながら夏生は、持ってきたコンビニの袋からカップのアイスクリームを取りだした。
なるほど、さっき首筋を直撃した冷たいものの正体はこれだったか。
「いや、悪いけど、今はなにも食べたくないような……」
遠慮がちにそう言ったものの、夏生は俺の言葉なんか聞いちゃいないかのように、カップアイスを木ベラで掬っている。
そして掬ったそれを、満面の笑みで差し出してきた。
「ほら、彰人。あーんしなさい。はい、あーん」
あーんて……
しかもアイスクリーム、微妙にとけてきてるんですけど。
「ほらっ、早く口を開けるのっ。落ちちゃうでしょう」
木ベラから今にもとろけたアイスがこぼれ落ちそうになっていて……俺は仕方なく口を開けた。途端に口の中に甘くて冷たい感触が広がる。
それは意外にも……
「うまい」
「そうでしょ? 熱のあるときにアイスクリームいいんだから」
「なっ、夏生っ!?」
あろうことか、夏生はさっき俺が口にした木ベラでとろけたアイスを食べている。ぽってりと赤い唇に挟まれた木ベラが、羨ましいと思ったなんてことは内緒だ。
……じゃなくて、何をしてるんだ!!
「な、夏生。か、風邪がうつるだろ!?」
いや、本当はそんなことを心配してるんじゃなくて、なんて言うのかその、いくら幼馴染だからって、さっき俺が口にしたものを何の迷いもなく口にするか? 普通。
それほどまでに俺は男として意識されてないってことか……盛大に落ち込むんだけれど。
がっくりと肩を落とした俺に、嬉しそうな夏生の声が聞こえた。
「やっと……久しぶりに名前、呼んでくれたね」
「へ?」
項垂れていた顔を上げると、さっきとは比にならないくらいに夏生の顔が間近にあって……
状況が飲み込めないまま、柔らかくて冷たい感触が押しつけられる。
唇、が、触れた?
ほんのりと甘いアイスクリームの香りがする。
「彰人の風邪なら、全部私が貰ってあげる。だから、他の子にはあげないで」
うるんだ瞳と、真っ赤に染まった頬の意味がいまいち飲み込めなくて。
「えっと、風邪マニア?」
とバカみたいなことを口にしたら、またキスされた。
触れるだけの、震えるキスを。
何かがとろけていく。
さっきのアイスクリームみたいに。
それもしかしたら、二人の間にあるって思っていた、柔らかな緩衝材?
とろけたアイスクリームの、口にしてみなくちゃ分からない甘さがあるように、口にしなくちゃ分からない何か。
凍らせてきた気持ちが、とろけだす。
「襲ってやろうか?」
照れ隠しに口にした言葉は失敗だったみたいで、俺は夏生の鉄拳を食らった。