婚約破棄は結構ですが、集団いじめの疑いで保護者をお呼びします
「セレスティア・フォン・ローゼンハイム! 今この時をもって、貴様との婚約を破棄する!」
王立アルトベルク貴族学園、卒業記念夜会。
楽団がぴたりと演奏を止め、大広間の百八十七人が一斉に壇上を見上げた。
壇の中央には、王太子レオンハルト。白の礼装に、金の髪。腕には男爵令嬢リリアーナ・ベルがすがりついている。
壇の下では、公爵令嬢セレスティアが一人で立っていた。彼女の周りだけ、人がきれいに引いて円ができていた。
エドガー・グレイヴスは、壁際で鶏の香草焼きを切り分けているところだった。
六十八歳。この学園で生徒指導主任を務めて三十年になる。夜会の見回りは毎年の仕事である。
「ガイ、罪状を!」
「はっ!」
騎士団長の息子ガイが、巻物を広げた。わざわざ紐で綴じてある。
「一つ! セレスティア嬢はリリアーナ嬢を、東階段から突き落とした!」
広間がざわめいた。
「二つ! リリアーナ嬢の教科書を破った! 三つ! 日頃からリリアーナ嬢を睨みつけ、心を追い詰めた!」
「以上の罪により」と王太子が声を張った。「この女を、未来の王妃とは認めない!」
取り巻きたちが拍手し、前列の何人かがつられて手を叩いた。
「殿下、わたくしにも一言」
「黙れ。言い訳は聞かぬ」
セレスティアは口を閉じた。
エドガーはフォークを置き、上着の内ポケットから黒い手帳を出して、手を挙げた。
「何だ、そこの年寄り」
「生徒指導主任のグレイヴスです。殿下、少し伺っても」
「よかろう。証人は多いほどいい」
王太子は寛大にうなずいた。
「突き落とされた件ですが、学園への届けは出ておりますかな」
「……届け?」
「生徒同士の揉め事は、生徒指導の窓口へ。入学の日にお渡しした冊子の、三頁目に書いてございます」
「届けなど出していない。私が直接、この場で明らかにするのだからな」
「なるほど。届けは無し、と」
エドガーは手帳に書いた。
「突き落とすところを、ご覧になった方は」
壇上が静かになった。ガイが巻物の裏を見た。裏は白紙だった。
「では、ベル嬢のお怪我は。保健室には行かれましたか」
「行っていません」とリリアーナが言った。「殿下が、証拠になるから行くなって」
「それは、お大事に」
王太子がリリアーナを見た。リリアーナは、何かまずいことを言ったのかしら、という顔をした。
「貴様、何の真似だ」
王太子は壇の縁まで進み出た。
「これは王家の問題だ!」
「婚約については、そうですな。破棄なさるかどうかは殿下とご両家のお話で、学園の管轄外です」
「そうだろう」
「ですが、生徒が生徒を突き落としたかもしれない、となると、学園の管轄内です」
「私はこの国の未来を背負う男だぞ!」
「ご立派です。では、その前に今夜のことから伺いましょう。未来は逃げませんので」
エドガーはセレスティアに向き直った。
「ローゼンハイム嬢。先ほど、一言とおっしゃいましたな。どうぞ」
セレスティアは少し驚いたように瞬きをし、それから背筋を伸ばした。
「婚約を破棄されることには、異論はございません」
広間がまたざわめいた。
「ただ、犯罪者として紹介される謂れもございません」
「貴様、罪人の分際で私を何だと思っている!」
エドガーは手帳の後ろをめくった。生徒名簿が貼りつけてある。指で上からなぞった。
「レオンハルト殿下。三年二組、出席番号七番。お間違いございませんな?」
王太子は口を開けたが、そこから先が出てこなかった。
「明日の放課後、生徒指導室へ。ガイ君、フィン君、マルク君、ベル嬢もご一緒に」
エドガーはガイに手を差し出した。
「その巻物、拝見しても」
「どうぞ! 徹夜で清書しました!」
「よくできていますな。日付も場所も、証人のお名前まで揃っている」
「ありがとうございます!」
「これなら確認が早い。お預かりします」
「……確認?」
エドガーは巻物を内ポケットにしまい、皿の前に戻った。香草焼きは、すっかり冷めていた。
◇
翌朝、職員室で茶を淹れていると、若手教師のノーラ・ベックが隣に来た。三年二組の担任で、提出物を一日で返すことで知られている。
「グレイヴス先生。昨夜は、大勢の前でずいぶん質問なさいましたね」
「必要でしたので」
「殿下も、たぶんそうおっしゃいます」
エドガーは茶を一口飲んだ。
「……今日からは、生徒指導室で一人ずつ伺います」
「はい。それがいいと思います」
ノーラはそれ以上何も言わず、自分の席に戻って採点を始めた。
◇
生徒指導室は、本館の北の端にある。窓は小さく、椅子は十脚。壁際の鉢植えは、エドガーが着任したころから枯れかけている。誰も水をやらないのに、まだ枯れきらない。
最初はガイだった。
「ベル嬢が突き落とされたのを、ご覧になった」
「悲鳴を聞きました!」
「突き落とすところは」
「見ていません!」
「では、なぜローゼンハイム嬢がやったと」
「殿下がそうおっしゃったからです!」
「殿下は、どなたから」
「リリアーナ嬢からです!」
「ベル嬢は、突き落とした相手をご覧になったそうですかな」
ガイは元気よく口を開け、そのまま止まった。
「……聞いていません!」
「では、まずそこから確かめねばなりませんな」
「はい!」
次はフィンだった。
「教科書が破られた件。破るところを、ご覧になりましたか」
「リリアーナ嬢から聞きました」
「では、伝聞ですな」
「伝聞でも、筋は通ります」
フィンは眼鏡を押し上げた。
「セレスティア嬢は学年一位です。頭のいい人間は、嘘も上手い。証拠が残っていないのは、頭がいい証拠です」
「証拠がないのが、証拠」
「論理的帰結です」
「ちなみに、フィン君は学年で何番目でしたかな」
「二番です」
「では、君の証言も、慎重に確かめねばなりませんな」
「……なぜです」
「一番の次に、嘘が上手いのでしょう」
フィンは眼鏡を押し上げかけて、途中でやめた。
「今の理屈は、撤回します」
最後はマルクだった。巻物の三つ目、睨みつけた件の証人である。
「ローゼンハイム嬢が、ベル嬢を睨んでいた」
「はい。確かに見ました」
「どんなお顔でした」
「……怖い顔です」
「何か、おっしゃいましたか」
「いえ、何も」
「ベル嬢の、どちら側から見ておられました」
「……正面からです。リリアーナ嬢は、廊下の掲示板の前に立っていて」
「掲示板」
エドガーは手帳に、掲示板、とだけ書いた。
「でも先生、皆が言ってたんです。セレスティア嬢はいつもリリアーナ嬢を睨んでるって」
「皆、とは」
「殿下と、ガイと、フィンと、僕です」
「それは皆ではなく、巻物の署名欄にいる人物ですな」
◇
最後に王太子が来た。
レオンハルトは座るより先に、懐から一枚の紙を出して机に置いた。王家の透かしの入った、上等の紙だった。
『王太子の名において命ず。卒業夜会に関する一切の調査を、本日をもって終了とする』
「これで終わりだ」
「殿下がお書きになった」
「そうだ」
「殿下が関わった件を、殿下が終わらせる」
「何が悪い」
「自分の件を自分で裁くのは、学園では認められておりませんでな」
エドガーは紙を手帳に挟んだ。
「夜会の件も、本当はそうでした。これはお預かりしておきます」
「返せ」
「卒業のときにお返しします。記念になりますので」
王太子は奪い返そうとしかけて、さすがにやめた。代わりに椅子に腰を落とした。
「先生は公爵家の肩を持っている」
「ローゼンハイム嬢からも、いずれお話しを伺います」
「あの女の話など、聞く必要はない」
「殿下。今は、生徒指導中ですぞ」
王太子は立ち上がり、扉の取っ手をつかんだ。
「父上の法務官を呼ぶ。王国でいちばん頭の切れる男だ。先生など三分で黙るぞ」
「それは心強い」
エドガーは本気でそう言った。
「調べに協力していただけるなら、大歓迎です。椅子を一脚、増やしておきましょう」
◇
三日後、生徒指導室の椅子が一脚増えた。生徒用の、背の低い椅子だった。
そこに、王家顧問法務官ヴィクトル・アーレンスが座っていた。四十五歳。黒い法衣に、王家の紋章入りの書類鞄。膝が机の天板の高さまで上がっている。
ノーラが小さな名札を差し出した。保護者側代理人、と書いてある。
ヴィクトルは名札を見つめ、黙って胸に留めた。
それから鞄を開け、紙を四枚出して、王太子と取り巻きの三人に配った。
弁論中の注意。
一、聞かれていないことを話さない。
二、見ていないことを見たと言わない。
三、相手を侮辱しない。
「誰に向けた注意だ」と王太子が言った。
「皆様にです」
「私は一番を守れます!」とガイが言った。
「今、聞いておりません」
ガイは紙を見下ろし、一番を指でなぞった。
「さて、先生」
ヴィクトルはエドガーに向き直った。
「殿下が軽はずみだったことは、認めます。ただ、それと集団いじめは別の話です。何人かで一人を告発したからといって、いじめになるわけではない」
「おっしゃるとおり」
「仮にローゼンハイム嬢が無実でも、殿下に悪意があったことにはならない」
「そのとおりです」
「婚約の解消を公の場で告げることも、王家では前例がある。褒められたやり方ではないが、禁じられてもいない」
「よくお調べですな」
王太子が、机の下で拳を握った。勝ち筋が見えてきた顔だった。
「法務官殿」とガイが手を挙げた。「睨みの件ですが、マルクがちゃんと見ています」
ヴィクトルは、ガイを見ずに言った。
「その件は、出しません」
「なぜです」
「出すと負けます」
エドガーはマルクを見た。
「マルク君。君がご覧になったのは、ベル嬢を正面から見ているローゼンハイム嬢でしたな。ベル嬢の後ろに何があったかは、ご覧になりましたか」
マルクはうなずいた。
王太子がマルクを見た。マルクは首を横に振った。
「マルク君」とヴィクトルが言った。「正直に」
マルクはうなずいた。王太子がもう一度見た。マルクの首は、縦と横のあいだで止まった。
「マルク君。今、君は何を否定しておられるのです」
「……どちらかを、です」
ヴィクトルは注意書きの紙を、マルクの前に置き直した。二番が上になるように。
「本題に戻ります」
ヴィクトルは声の調子を変えた。
「先生。夜会の晩、あなたは大勢の前で殿下に質問を重ねた。届けは出たか、目撃者はいるか、保健室に行ったか。まだ何も調べていない段階で。殿下が皆の前で人を問い詰めたことを、あなたは問題にしている。ご自分は、どうなんです」
王太子が、ゆっくりエドガーのほうを向いた。今度こそ、という顔だった。
「そこは、おっしゃるとおりです」
エドガーはあっさり言った。
「あの場で伺うべきではなかった。翌日、この部屋で、一人ずつ伺えばよかった。殿下には、お詫びします」
エドガーは王太子に頭を下げた。
王太子は、教師に頭を下げられたのが初めてだった。とりあえず胸を張った。
「では先生も、殿下と同じことをしたわけだ」とヴィクトルが言った。
「同じ過ちは犯しましたな」
「では、殿下だけを責めるのは不公平では?」
「ですから、私の落ち度は認めました。殿下の落ち度も、殿下ご自身に認めていただきたいのです」
「……なるほど」
「私が謝ったからといって、殿下のなさったことまで正しくなるわけではありませんのでな」
ヴィクトルは一瞬だけ目を閉じた。
「見たか」
王太子は立ち上がっていた。
「何人で告発しても、いじめではない。私に悪意はない。前例もある。先生も皆の前で私を問い詰めて、今、謝った」
王太子は指を折って数え、拳を握った。
「完全勝利だ」
エドガーは首をかしげた。
「……何に勝ったのです?」
王太子はエドガーの問いには答えず、法務官へ顔を向けた。
「勝ったのだから、話は早い」と王太子は続けた。「法務官、リリアーナとの婚約発表だが、卒業式の前日はどうだ。会場は大広間で、楽団は今度こそ」
「殿下」
「なんだ」
「まだ、何も終わっていません」
「勝ったのだろう」
「こちらの言い分が、いくつか通っただけです」
「つまり、勝ったのだな!」
ヴィクトルは手元の紙の余白に、一行書いた。依頼人、要注意。
ノーラの席から、その字はよく見えた。
「では次回」とエドガーは言った。「夜会の壇の上で、皆さんが何をなさったか。そちらを伺います。まだ一つも伺っておりませんので」
◇
翌週、同じ顔ぶれが生徒指導室にそろった。ヴィクトルは今日も背の低い椅子に座り、今日も名札をつけていた。外す許可が出なかったのである。
「改めて申し上げます」とヴィクトルは言った。「殿下には、言い分を十分に聞いてもらう権利がある。証拠もなく有罪と決めつけられない権利もある。結論が出る前に、加害者扱いの噂を流されない権利もです」
「どれも、そのとおりです」
エドガーは手帳に書き写した。
「異論はございません」
「これでわかっただろう!」と王太子が言った。
「ええ、よくわかりました。では、同じ権利をローゼンハイム嬢にも」
「そうか!」
王太子の顔が明るくなった。
「つまり、あの女もこの部屋に呼ばれるのだな」
「はい。お話を伺います」
「ようやくか。先生もわかってきたな」
「被害を申し立てる側としても、伺います」
王太子の笑顔が、そのままの形で固まった。
マルクがフィンに「被害って、誰の」と小声で聞いた。フィンは眼鏡を押し上げ、「論理的には、僕らが与えたほう」と答えた。答えてから、自分の論理に黙った。
「殿下」とエドガーは言った。「夜会の晩、ローゼンハイム嬢の言い分は、お聞きになりましたか」
王太子は答えなかった。
「証言を、確かめようとなさいましたか」
答えなかった。
「大勢の前で、あの方の名誉を守ろうとなさいましたか」
三度目の沈黙は、いちばん長かった。
「アーレンス殿は殿下のために、三日かけて前例を調べ、私の落ち度まで見つけてくださった。殿下も、あの方に同じことをなさるべきでしたな」
「あれとこれとは違う!」
王太子は机を叩いた。
「そもそも、あの女の言うことなど信用できるか!」
「殿下」
ヴィクトルの声が、思ったより早く出た。
「今のは、お控えください」
「殿下は正しい!」とガイが立ち上がった。「殿下は弱き者を守ったんだ! 騎士の家の者として」
ヴィクトルは、ガイを見ずに左手を上げた。ガイは手のひらを見て、座った。
「論理的に申せば」とフィンが眼鏡を押し上げた。「証言の信用性は、証言者の動機から」
ヴィクトルは、フィンの前に注意書きの紙を滑らせた。一番に指が置いてあった。フィンは黙った。
マルクは、両手を膝に置いて、まっすぐ前を見ていた。
ヴィクトルの肩から、ほんの少し力が抜けた。
マルクが、小さく手を挙げた。
「あの、法務官殿。何も言わないと、認めたことになるんでしょうか」
ヴィクトルの肩に、力が戻った。
「なぜ控えねばならん」と王太子が言った。
「殿下が、確かめもせずに『あの女は信用できない』とおっしゃるなら、向こうも、確かめもせずに『殿下は信用できない』と言えてしまう」
ヴィクトルは、そこで言葉を選んだ。
「それをやられると、私の仕事がなくなります」
「……公平というのは、不便なものだな」
「ええ。だいたいの依頼人が、そうおっしゃいます」
ノーラが、記録を取る手を少しだけ止め、そのまま書いた。
王太子は椅子に座った。ヴィクトルはペンのキャップを外した。
「殿下には、公平に調べてもらう権利があります」
「当然だ」
「証拠もなく、有罪と決めつけられることも許されない」
「当然だ」
「相手方にも、同じ権利があります」
「当然……」
「いや、待て」
エドガーは何も言わなかった。ヴィクトルも何も言わなかった。王太子は「待て」の続きを探して、見つからず、腕を組んだ。
「グレイヴス先生」とヴィクトルは言った。「殿下の代理人として、正式にお願いします。ローゼンハイム嬢に、十分に話す機会と、結論が出るまでの名誉の保護を」
王太子が、ゆっくり代理人のほうを向いた。
「……お前、誰の代理人だ」
「殿下のです」
ヴィクトルは書き終えた紙をエドガーに渡した。
「承りました」とエドガーは言った。「明日、ローゼンハイム嬢からお話を伺います。お一人で」
◇
セレスティア・フォン・ローゼンハイムは、生徒指導室の椅子に浅く腰かけた。扉は閉めてある。ノーラは隣の部屋で待っていた。
「話したくないことは、話さなくて結構です」
「承知いたしました」
階段の件は、その場にいなかったと答えた。その日の放課後は図書室にいて、司書が貸し出しの記録をつけている。
教科書の件は、知らないと答えた。
睨んだ件は、少し考えてから答えた。
「掲示板の前で、ベル嬢と向かい合ったことはございます。試験の順位が張り出された日です」
「何をご覧になっていましたか」
「自分の順位を。いちばん上にございましたので、一応、確かめておりました」
エドガーは、少しだけ口元をゆるめた。
「最後に、一つ。あの夜のことで、今おつらいことはありますか」
セレスティアは、すぐには答えなかった。窓の外を、下級生たちの笑い声が通り過ぎていった。
「婚約がなくなったことは、正直に申し上げて、つらくはございません」
彼女は膝の上で両手を重ねた。
「小さい頃から、殿下の婚約者でした。殿下が苦手な外国語の挨拶は、夜会のたびにわたくしが書きました。陛下へのご報告の文面を、殿下が叱られないように直したこともございます。殿下がわたくしを好いておられないのは、存じておりました」
声は少しも揺れなかった。揺れないように話していた。
「ですが、その殿下が、一度もわたくしに確かめずに、皆の前で、わたくしを罪人としてお呼びになった。一日でもわたくしの話を聞いてくださる日があれば、ああはならなかったと思います」
セレスティアは、そこで初めて目を伏せた。
「あの夜から、あまり眠れておりません」
「話してくださって、ありがとうございます」
エドガーは、それ以上何も書かなかった。
◇
翌朝、エドガーはノーラを連れて東階段へ行った。リリアーナが転んだという段に立ち、手すりの金具をのぞきこもうとして、足を踏み外した。
ノーラが上着の背中をつかんだ。
「……先生。突き落とされたと、申し立てますか」
「自分で踏み外しました」
階段の下から、掃除当番の箒を担いだガイが上がってきた。
「先生! 今、突き落とされましたか!」
「自分で踏み外しました」
「ですが、ベック先生が真後ろに!」
「助けたんです」とノーラが言った。
「そうでしたか!」
ガイは晴れやかにうなずいて、階段を上っていった。
「……確かめるところまでは、まだ行っておらんようですな」
「これからです」
その後、転んだとされる段の金具には、薄桃色の糸がからまっているのを見つけた。リリアーナはあの翌日、仕立て屋に薄桃色のドレスの裾の繕いを頼んでいたことも分かった。
教科書は、破られたのではなかった。窓際の雨漏りで濡れて、ふやけて裂けていた。用務員の日誌に書いてあった。
掲示板の前の睨みは、順位表を見ていただけだった。
最後に、リリアーナ本人に話を聞いた。
「わたし、殿下に相談しただけなんです!」
「相談するのは、悪いことではありません」
「ですよね!」
「では、どう相談されたのか、一つずつ伺いましょう」
「……一つずつ?」
「最初に、殿下に何とおっしゃいました」
リリアーナは天井を見た。
「『階段で転んじゃった』って」
「それから」
「『そういえば、セレスティア様がいた気がする』って」
「いらっしゃいましたか」
「……気がしただけです」
「それから」
「殿下が『突き落とされたのか』って。わたしは『そうかもしれません』って」
「次の日は」
「ガイ様たちに『突き落とされたかも』。その次の日は、フィン様に『突き落とされた』」
「『かも』は、どこへ行きましたか」
「……わたし、そんなつもりじゃ」
「夜会の前の日、殿下が『本当に突き落とされたのだな』と念を押されたそうですな。ガイ君もフィン君も、そばで聞いていた」
「……はい」
「貴方が突き落とされたとされる時刻、ローゼンハイム嬢が図書室にいらしたことはご存じでしたか」
リリアーナは、膝の上で指を組み直した。
「司書様から聞いていました」
「それでも、はい、とお答えになった」
「……殿下がわたしを選んでくださったんです」
リリアーナは顔を上げた。
「本当のことを言ったら、選んでいただく機会はもうなくなると思いました。男爵家の娘にこんな機会、二度と来ませんから」
◇
その日の夕方、エドガーは報告書の下書きを学園長室へ持っていった。
学園長オズワルド・ヘルツは、就任のときに「教育に、身分の門はない」と挨拶したことで知られている。その言葉は、正門の銘板に刻まれていた。銘板を寄贈したのは、王家だった。
学園長は下書きを二枚目まで読んで、手を止めた。
「この『集団いじめ』という言葉だがね」
「調べた結果です」
「王家のお名前に関わる。言葉を選びたまえ。そうだな、『集団による、不適切な意思表明』」
「中身は同じでは」
「印象が違う」
「『公開での断罪』の部分は」とノーラが聞いた。
「『婚約関係に伴う意見交換』」
「それでは、何が起きたのか誰にもわかりません」とエドガーは言った。
「むしろ誤解を防げる」
「事実も伝わりませんが」とノーラが言った。
「伝わらなければ、誤解も生まれん!」
学園長は胸を張った。名案だと思っているらしかった。
「誤解しないでくれたまえ。学園の独立は守る」
「もちろんです」
「ただし、王家とのよい関係にも気を配らねばならん。来年から、新しい講堂を建てる。お金の大半は、王家のご寄付だ」
「それは、独立していると言えるのですか」
「心はな」
「財布は」
「王家のだ」
学園長は、そこだけは正直だった。
「教室の雨漏りが、教科書を一冊だめにしました」とエドガーは言った。「その一冊で、公爵令嬢が罪人にされかけました」
「……文言は、もう少し考えよう」
「考えるのは結構です。その前に、保護者の方にお知らせを出します。処分の前には、保護者面談をする決まりですので」
「保護者」
学園長の顔色が変わった。
「殿下の、保護者というと」
「国王陛下ですな」
エドガーは学園の決まった用紙を一枚出して、空欄を埋めた。
保護者面談のお知らせ。
生徒、レオンハルト。三年二組。
保護者、国王陛下。
場所、三年二組の教室。
備考、当日は来客用の上履きをご用意しております。
「グレイヴス先生。その、上履きのところは」
「決まりですので」
エドガーは用紙を封筒に入れ、宛名を書いた。王宮、国王陛下。その下に、小さく、保護者様。
◇
面談の日の午後、三年二組の教室に国王が座っていた。
生徒用の机を二つ向かい合わせにした席だった。近衛兵が二人、教室の後ろに立っている。
国王の足元は、来客用の上履きだった。
明らかに小さかった。かかとが半分、外にはみ出している。国王は背筋を伸ばし、両手を膝に置き、王の顔で座っていた。
近衛兵が二人、国王の後ろに控えていた。
「先生」と国王が言った。「この上履きは、昔からの決まりか」
「いいえ。陛下が学生の頃は、外履きの泥を落とす決まりでしたな」
「そうだったか」
「陛下はよく、泥を落とさずに窓から入ってこられましたが」
「……近衛の前で、その話はよせ」
近衛兵の一人の喉が、小さく鳴った。天井から目は離さなかった。
「本日は、保護者としてお越しいただきました」
「わかっている。先生に呼び出されるのは、何十年ぶりだろうな」
「最後は、陛下が卒業なさる前の冬でしたな」
「覚えておらん」
「私は覚えております」
ノーラが記録用紙を広げ、エドガーの隣に座った。
「では、まず殿下の交友関係について。最近、特定の女子生徒との関係で、少々問題がございまして」
「うむ」
「ご家庭では、そういうお話はなさいますかな」
「国政が忙しくてな」
「陛下は昔から、都合の悪い話になると忙しくなられますな」
「……先生も昔から、こちらの忙しさを聞いてくれん」
「聞いておりますよ。聞いたうえで、後回しにしていただいております」
国王は咳払いをした。
「念のため伺います。殿下の担任の先生のお名前は」
国王は、少し眉を寄せた。
「学園長か」
「いいえ」
「では、先生か」
「いいえ」
ノーラが、静かに手を挙げた。
「三年間、担任をしております。ノーラ・ベックです。毎年、新年のご挨拶状を王宮にお送りしております」
「……秘書官が、処理しているはずだ」
「はい。毎年、秘書官様から、印刷のお返事をいただいております」
「では、殿下の得意な科目は」
「剣術だ」
「歴史です」とノーラが言った。
「……そうなのか」
「殿下は、私の歴史の授業で居眠りをなさらなかった数少ない生徒です」とエドガーが言った。「陛下とは、そこが違いますな」
「それは、初耳だ」
「学年末の面談で、毎年お伝えしております」とノーラが言った。「成績表にも」
国王は、ノーラを見た。
「学年末の、面談」
「はい」
「あれは……代理を」
そこまで言って、国王は言葉を切った。
生徒用の椅子。はみ出したかかと。名前を今日初めて知った担任。
国王は、自分が息子の学校に来たのは今日が初めてだと気づいた。
エドガーは何も言わず、手帳に挟んでいた紙を一枚、机の上に置いた。王家の透かしの入った紙だった。
王太子の名において命ず。卒業夜会に関する一切の調査を、本日をもって終了とする。
国王はそれを読み、額に手を当てた。
「……あいつ、こんなものを」
「陛下も三年生の冬に、補習を免除する勅令をお書きになりましたな。ご自分で、ご自分宛てに」
「あれは、どうなった」
「補習が三倍になりました」
ノーラが、記録用紙の上で一度だけ肩を震わせた。
「血は争えませんな」
「先生、それは褒めていないな」
「はい」
国王は紙を机に戻した。しばらく、それを見ていた。
「先生。あいつは、なぜ一度も疑わなかったのだろうな。自分が間違っているかもしれない、と」
「陛下は、殿下が小さい頃に間違えたとき、何とおっしゃいましたか」
国王は、すぐには答えなかった。
「王族は、人前で間違いを認めてはならぬ。認めれば臣下が迷う。私もそう教わった。だから、あいつにもそう教えた」
「陛下は学生の頃、誰にでも『そのとおりだ』とおっしゃる生徒でした」
「先生に、それをやめろと言われた」
「殿下はたぶん、誰にも『違う』と言われずに育ったのでしょうな」
国王は目を閉じた。
「私の落ち度だ」
「ええ。半分は」
「残りの半分は」
「殿下ご自身のものです。取り上げないでいただきたい」
国王は目を開け、上履きのつま先を見た。
「……厳しいな、相変わらず」
「陛下のときより、少し甘くなりました。年ですので」
◇
夕方、王太子が教室に呼ばれた。
レオンハルトは扉を開けて、父親が生徒用の机に座り、小さな上履きを履いているのを見た。扉を閉めかけて、また開けた。
「座れ」
王太子は、自分の席に座った。
エドガーは、調べの結果を短く伝えた。手すりの糸。雨漏りの日誌。掲示板の順位表。図書室の貸し出し記録。それから、リリアーナの「かもしれない」が、どこで消えたか。
「レオンハルト」と国王が言った。「お前は、セレスティアに一度も確かめなかったのか」
「……リリアーナが、泣いていたのです」
「泣いている者を守るのは正しい。だが、守るために、確かめもせず別の者を罪人にしてよいとは、私は教えていない」
国王は、少し言葉を止めた。
「教えていなかったのだ。それは私の落ち度だ。だが、お前の落ち度が消えるわけではない」
王太子が、父親を見た。
「王太子としての公務と権限は、本日をもって止める。王位を継ぐ資格があるかどうかは、一年かけて改めて見る。外遊は取りやめ。卒業式の答辞は辞退しろ。セレスティアとの婚約は、公爵家と話し合って解消する」
外遊。答辞。婚約。権限。継承権。
最後の一つで、王太子は膝の上の拳を握った。
「ベル嬢についても、王宮で処分を決めた。偽りと知りながら言い続け、王家の婚約に口を挟んだ。卒業後は王都への立ち入りを禁じ、男爵家の監督下に置く。 男爵家には、公爵家への償いを命じる」
国王はエドガーを見た。
「学園側の処分を伝えるように」
エドガーは、教員会議の決定を読み上げた。
レオンハルト、皆の前での糾弾を主導した者として、停学三十日。停学明けから卒業まで、大広間の清掃。
リリアーナ・ベル、偽りと知りながら申告を続けた者として、停学三十日。
ガイ、フィン、マルク、糾弾に加わった者として、譴責。卒業まで校内奉仕。
あわせて、レオンハルトとリリアーナ・ベルは、夜会と同じ大広間で、自分の口から告発を取り下げること。
「三十日」と王太子は言った。「卒業試験に、間に合うのか」
「明けてから試験まで、十日ほどございます」とノーラが言った。「補習の日程は、私と決めましょう」
「補習」
「はい。補習です」
国王が、小さく息を吐いた。
「先生。補習は、三倍にはしないでやってくれ」
「それは、殿下次第ですな」
◇
取り下げの日、大広間には、あの夜と同じ顔ぶれが集められた。
壇の上に、王太子が一人で立った。手には紙が一枚。巻物ではなく、紐もついていなかった。
壇の下の同じ場所に、セレスティアが立っていた。今度は、彼女の周りに円はできていなかった。
「卒業記念夜会で、私は、セレスティア・フォン・ローゼンハイム嬢を三つの罪で告発した。三つとも全て事実ではなかった。私はセレスティアに一度も確かめなかった。彼女の言葉を遮り、皆の前で罪人として扱った。私は彼女への告発を取り下げ、深く謝罪する」
王太子は頭を下げた。少し長く。
続いてリリアーナが壇に上がり、自分が何を言い、何を言わなかったかを読み上げた。最後の一文だけ、声がかすれた。
「訂正しないほうが、わたしに得だと考えたからです」
学園長が壇の脇に出て、ローゼンハイム嬢にかけられた罪はいずれも事実ではなかったと、学園として告げた。
セレスティアが一歩前に出た。
「謝罪は、承りました。お受けするかどうかは、卒業までに考えます」
誰も、手を叩けとは言わなかった。それでも何人かが、ためらいながら手を叩いた。
◇
停学が明けた朝、大広間に、モップを持った王太子が立っていた。
王太子は広間を見渡し、いつものように指を鳴らした。
「誰か。バケツを持て」
誰も来なかった。
侍従は、権限停止の日に王宮へ引き上げていた。近衛は門の外までしか来ない。広間には、用務員の老人と、もう一本のモップを持ったガイしかいなかった。
「ガイ。バケツを」
「殿下、私も奉仕中です! 自分の床で手一杯です!」
ガイは自分の担当の隅を、親の仇のように拭いていた。
王太子は自分でバケツを取りに行った。水を汲み、運んできた。思ったより重かった。
「モップは、もう少し絞ってください」と用務員が言った。「床がびしょびしょです」
王太子は両手で絞った。思ったより力が要った。もう一度絞った。
昼過ぎ、王太子は額の汗をぬぐい、広間を見渡して、堂々と言った。
「掃除とは、奥が深いな!」
「毎日やってますので」
用務員は、バケツの水を替えに出ていった。王太子は、自分のバケツを持ってその後を追った。
◇
同じ週、男爵家の屋敷に、仕立て屋から荷物が届いた。
「ご注文の品でございます。夜会の翌朝にご依頼いただいた分です」
白い絹のハンカチが、一ダース。どれにも同じ刺繍が入っていた。王冠と、リリアーナの頭文字。
「……返品は」
「刺繍入りのお品は、ちょっと」
店員は、請求書を男爵に渡した。男爵は額を見て、黙って娘を見た。
リリアーナは一枚を手に取った。上等な絹だった。刺繍の王冠は、細かい金糸で縫われていた。
「……汗を拭くのに、ちょうどいいわね」
◇
卒業式の前の日、セレスティアが歴史の準備室に来た。
「先生。卒業までに考える、と申し上げた件ですが」
「お決まりになりましたか」
「考えるのを、やめました。考えている時間が、もったいなくなりましたので」
彼女は一通の手紙を机に置いた。隣国の王立大学の封蝋がついていた。
「入学の許可をいただきました。殿下が外遊で行かれるはずだった国です」
「ほう」
「王妃教育で覚えた外国語を、自分のために使ってみようかと。今度は、挨拶文を自分の分だけ書けばよいので、ずいぶん楽です」
エドガーは手紙を読み、彼女に返した。
「ご両親は」
「父は反対しました。母が、父を説得しました。王太子妃にならないのなら、せめて王太子より遠くへ行け、と」
「頼もしいお母上ですな」
「わたくしも、そう思います」
セレスティアは、少しだけ笑った。この学園で、エドガーが初めて見る顔だった。
翌日の卒業式で、答辞を読んだのは彼女だった。
◇
卒業式から十日ほどたった晩、エドガーは王宮の奥の小さな居間に招かれた。
大臣も侍従もいなかった。国王は上着を脱ぎ、自分で葡萄酒の栓を抜こうとしていた。
「陛下が栓を抜くところは、初めて拝見します」
「息子が大広間でバケツを運んだと聞いて、私も一つくらい自分でやろうと思った」
「親子そろって、労働に目覚められましたか」
「目覚めたのはあいつだけだ。私はこの一本で、もう疲れたよ」
栓は、三度目で抜けた。
「あいつはな、あの命令書を、本気で効くと思って書いたらしい」
「陛下の補習免除の勅令も、本気でしたな」
「あれは半分、冗談だった」
「残りの半分は」
「効けばいいと思っていた」
国王は二つの杯に注ぎ、一つをエドガーの前に置いた。
「先生から見て、あいつは私に似ているか」
「陛下は、勅令を出す前に、私のところへ見せに来られました。殿下は、出してから持ってこられた」
「それは、褒めているのか」
「少しだけ」
国王は笑って、杯を空けた。
「そういえば、学園の報告書を読んだ。最後まで」
「保護者の方には、お読みいただく決まりですので」
「先生の名前で一件、『不適切』と書いてあったな。夜会で、皆の前で息子を問い詰めた件だ」
「書きました」
「私が在学していた頃、先生の『不適切』は、一件も記録になかったはずだが」
「当時は、私が書いておりませんでしたので」
「では、今回が初めての一件か」
「記録の上では」
「記録の上では、な」
国王は声を上げて笑った。エドガーも、杯で口元を隠したが、隠しきれなかった。
「先生にも、補習が要るな」
「三倍で結構です」
二杯目を注ぎながら、国王が言った。
「即位した年、国中の道を全部石畳にすると言ったのを、覚えているか」
「覚えております。教室の地図に、勝手に線を引いておられた。あの地図は、まだ歴史の準備室にあります」
「捨ててくれ」
「生徒に見せております。若い頃の陛下の計画として」
「……今、何割できたと思う」
「さあ」
「王都の、この宮殿の前の通りだけだ。三十年かかってな」
「私も最初の年は、受け持ちの生徒を一人残らず、正直者にするつもりでおりました」
「何人できた」
「今年、一人増えたかもしれません」
「あいつか」
「まだ途中です」
国王は、窓の外の、石畳の通りのほうを見た。
「あいつは、まだ道を一本も敷いていないのだな」
「ええ。これから何本でも敷けます。何本でも」
「……いいな、それは」
エドガーは何も言わずに、国王の杯に酒を足した。
「先生。あれは、いい王になると思うか」
「わかりませんな」
「私のときも、そう思っていたのか」
「ええ」
「それで、今は?」
「まだ、わかりませんな」
国王は苦笑いをして、酒を飲んだ。




