静かな評判と最初の波紋
鍛冶工房の屋根裏、俺の寝床兼作業場の扉が、遠慮がちに叩かれた。一度、二度。日中の喧騒が嘘のように静まり返った夜には、やけに響く音だった。
梯子を下り、軋む扉をわずかに開ける。隙間から見えたのは、見覚えのある若い男たちの顔だった。先日、リリィと同じパーティでゴブリン洞窟へ向かった新人冒険者たちだ。彼らは一様に緊張した面持ちで、互いに顔を見合わせている。
「……何か用か」
俺が低く尋ねると、先頭にいた一番体格の良い男が、意を決したように口を開いた。
「あんたが、リリィのプロテクターを作った人だよな? 俺たちにも、あれを売ってほしいんだ!」
その言葉に、後ろにいた者たちも堰を切ったように頷く。
「死にたくないんです! 金なら…いや、金はあまりないけど、何でもしますから!」
必死さが滲む声。彼らの目には、恐怖と、それを乗り越えようとする切実な願いが浮かんでいた。誰かを殺すためじゃない。自分が死なないために、彼らはここにいる。その単純な事実が、俺の胸の奥にある冷たい鉄を、わずかに熱くした。
「……分かった。作る」
俺の短い返事に、彼らは安堵の息を漏らした。
「ただし」と俺は言葉を続ける。「あれはまだ試作品だ。改良の余地がある。それに、代金は金じゃなくていい」
怪訝な顔をする彼らに、俺は淡々と条件を告げた。
「工房で使い道のない廃材や鉄屑。それを集めて持ってきてくれ。それでいい」
金儲けが目的ではない。俺が作るのは、誰も死なせないための鉄だ。そのための材料費と手間賃が、誰かの命を救う可能性のある廃材なら、これ以上の対価はない。彼らは一瞬戸惑った後、深く、深く頭を下げた。
数日後、まだ右腕に包帯を巻いたリリィが、ひょっこりと工房に顔を出した。脇腹の打撲もまだ痛むのか、動きは少しぎこちない。
「アキラ! すごいことになってるよ!」
開口一番、彼女は興奮した様子でそう言った。前回の生還劇の余韻が、まだ彼女の周りで弾けているようだ。
「ギルドの新人たちの間で、アキラのプロテクターの噂が広まってるんだ。『転んでも死なない防具』だって!」
「大げさだ」
「大げさじゃないもん! でもね」と、リリィは少し声を潜める。「古参の鍛冶屋さんとか、ベテランの冒険者の人たちの中には、面白くないって思ってる人もいるみたい。『まぐれ当たりだ』とか『安物で調子に乗るな』とか……」
心配そうに俺の顔を覗き込むリリィ。だが、俺の感情は動かない。
「……事実だ。気にする必要はない」
評価は、結果が決めればいい。俺はただ、やるべきことをやるだけだ。
注文が増えるにつれ、夜間の作業は避けられなくなった。昼間は見習いとしての仕事がある。俺が自分の作業に没頭できるのは、親方が寝静まった後だけだ。
その夜も、革を叩く乾いた音が工房に響いていた。その時だった。
「おい、アキラ!」
背後から突き刺さるような怒声。振り向くと、寝間着姿の親方が仁王立ちになっていた。以前から俺が何かしていることには気づいていただろうが、ここまで本格的な作業は目に余ったらしい。
「てめえ、いつまで遊び呆けてるつもりだ! 本業を疎かにする気か!」
「……遊びではありません」俺は手を止め、親方に向き直った。「それに、日中の仕事に穴は開けません」
「口答えか!」
「交渉です」
俺は静かに、だがはっきりと告げた。「工房の備品は、一切消耗させません。金槌も、金床も、火床さえも。材料は、親方が捨て置いている廃材だけを使います。これで、夜間の作業を黙認していただけませんか」
俺の真剣な目に、親方は一瞬言葉を失ったようだ。眉間に深い皺を寄せ、腕を組んで俺を睨みつける。工房に重い沈黙が落ちる。やがて、親方は大きなため息を一つ吐き出すと、背中を向けた。
「……好きにしろ。ただし、仕事に穴はあけるなよ」
背中に投げかけられた、不器用な許可。俺は短く「はい」とだけ応えた。
交渉は成立した。これで作業に集中できる。工房裏の廃材置き場に、新人冒険者たちが集めてきた革の端切れや、クッション材にするための藁をまとめて保管していた。約束の期日は近い。量産体制に入ろうと、その場所へ向かった俺は、足を止めた。
鼻をつく、油の嫌な匂い。
積み上げていた藁の山が、黒く粘ついた液体で汚されている。革の端切れも、半分近くが姿を消していた。意図的な妨害。その事実が、冷たい楔となって思考に打ち込まれる。
一瞬、視界が白む。だが、死に戻りという安易な選択肢は、もはや俺の頭をよぎることはなかった。何度も死を繰り返す中で身についたのは、極限状況での冷静さだ。
まず、被害状況を分析する。使えるもの、使えないもの。残った材料で、何が作れるか。
足りない。圧倒的に緩衝材が足りない。
俺は工房の隅に目をやった。そこには、俺が街のゴミ捨て場から拾い集めてきた、使い古しの丈夫な布の束がある。そして、記憶の片隅にあったもう一つの素材。以前、工房の裏を流れる川辺で見つけた、水に強く、しなやかで強靭な蔓。
布を細かく裂き、蔓で編み込んだ芯に巻き付けていく。藁よりも手間はかかるが、衝撃吸収性はこちらの方が上かもしれない。
「…これも、想定すべき失敗の一つだ。やり方を変えればいい」
静かな呟きが、薄暗い工房に落ちた。俺は汚れていない革の端切れと、川辺で刈り取ってきた蔓を手に取った。
「…これで、いける」
絶望ではない。新たな工夫の始まりだ。
約束の期日。俺は完成したプロテクターを新人冒険者たちに手渡した。以前の試作品よりも軽く、関節の動きを阻害しないよう、蔓で編んだ芯の配置を工夫した逸品だ。彼らはそれを手に取り、その軽さと作りの良さに驚きの声を上げた。そして、心からの感謝を俺に告げた。
工房に金銭は入らない。代わりに、廃材の山が少しだけ大きくなった。それで十分だった。
その夜、疲れ切った体で後片付けをしていると、リリィが水の入った革袋を手に、差し入れに来てくれた。
「お疲れ様、アキラ」
「ああ」
俺たちは言葉少なに、工房の隅に腰を下ろした。俺は、昼間の妨害の件をリリィに打ち明けた。彼女は顔を曇らせたが、俺は静かに続けた。
「問題ない。対策は立てる」
自分の作ったものが、誰かの命を繋ぐ。その事実が、確かな手応えとして俺の中にあった。静かだが、満たされた達成感がそこにはあった。
リリィが帰り、全ての作業を終えて一人になった。工房の裏口を片付けていると、見慣れない麻袋が一つ、壁に立てかけてあるのに気づいた。誰の忘れ物だろうか。
手に取ると、ずしりと重い。口を開けて中を覗き込み、俺は息を呑んだ。
そこに入っていたのは、先日盗まれたはずの革の端切れの一部。
そして、その上に一枚の羊皮紙が乗せられていた。
取り出して、月明かりにかざす。
そこには、見慣れない豪奢な紋章と、たった一文だけが、流麗な筆跡で記されていた。
『君の『安全』には、いくらの値がつく?』
ヴァルガス商会。その紋章が、どこかで見たことがあるような気がした。羊皮紙を持つ指先に、力がこもる。俺はただ、その文字を静かに見つめていた。




