死の記憶と、鉄の匂い
意識が途切れる直前、俺はホームの端に黄色い線があったことを思い出していた。連日の徹夜作業でふらつく足。身体が傾ぎ、視界が反転する。迫り来る轟音。何かが砕ける生々しい感触と、全身を駆け巡る激痛。それが、ユウキ・アキラとしての最初の死だった。
次に目を開けた時、そこには見知らぬ木組みの天井があった。
身体が妙に軽い。持ち上げた手は、記憶にあるものよりずっと小さかった。状況が飲み込めないまま小屋を出ると、目の前には鬱蒼とした森が広がっていた。
…なるほど。これが俗に言う、異世界転生か。
そんな他人事のような感想を抱いた直後、茂みから現れた緑色の醜い生物――ゴブリンに、俺は為す術なく腹を食い破られた。人生二度目の死は、一度目と同じくらい理不尽だった。
そして、俺は再び同じベッドの上で目覚めた。
「…死に戻り」
呟いた言葉に実感はなかった。最初は安堵した。やり直せる、と。だが、その考えが甘いことを、俺はすぐに理解する。
小屋の隅にあった粗末なナイフを手に、ゴブリンに挑んだ。三度目の人生。ナイフは奴の硬い皮膚に弾かれ、錆びた根元から呆気なく折れた。四度目の人生。今度は逃げた。だが、慣れない森で足をもつれさせ、崖から落ちて首の骨を折った。
死の瞬間の苦痛も、恐怖も、一切軽減されることはない。ただ、鮮明な記憶だけが、俺の精神に上書きされていく。
五度目の死に戻り。
俺はベッドから起き上がれなかった。目を閉じれば、ゴブリンの歪んだ笑顔が浮かぶ。耳の奥で、自分の骨が砕ける音が反響している。
一瞬、全く知らない石造りの街並みと、銀髪の少女の横顔が脳裏をよぎり、すぐに消えた。死の記憶が混濁し始めている。
もう戦わない。戦えない。
俺は英雄じゃない。ただの、死ぬのが怖いだけの臆病者だ。
この能力は救済などではない。ただ、地獄を繰り返し味わうための呪いだ。
どうすれば死なずに済むのか。
生きる術を探して街へ向かい、数週間が経った。俺は都市『エルドニア』の鍛冶工房で、見習いとして働いていた。親方に頭を下げ、日々の雑用と重労働の対価に、最低限の食事と屋根裏の寝床を得る。朝から晩まで鉄を運び、ふいごを踏み、親方の打つ槌音を聞く。肉体的な疲労はあったが、鉄を叩く単調なリズムと、火の粉の熱さが、死の記憶をわずかに遠ざけてくれた。
この世界に魔法はあるらしいが、俺には縁がない。身体能力は前世同様、平均以下。唯一、俺が持っているのは、膨大な『失敗の記憶』だけだ。
ならば、それを使うしかない。
俺は、武器ではないものを作ることにした。『安全』を作るのだと。
仕事が終わった深夜、俺は工房の隅で廃材の鉄屑を金床に乗せた。思い出すのは、四度目の死。ぬかるみで足を滑らせ、崖から落ちた時の、浮遊感と衝撃。
記憶を反芻するたび、頭の芯が軋むような痛みに襲われる。だが、目を逸らさない。
靴の裏に、小さな鉄の鋲を打ち付けていく。ただ、滑らないように。それだけを考えて。
次に、三度目の死。ゴブリンに頭を殴りつけられた時の、鈍い痛み。
鉄屑を何度も叩き、熱し、また叩く。強度が足りず、叩き直すこと数回。ようやく歪な椀型の鉄兜――ヘルメットと呼ぶにはあまりに粗末なものが出来上がった。魔物を倒すための剣でも、身を守るための鎧でもない。ただ、死なないためだけの、地味な鉄の塊だった。
工房の軒先に、その二つを並べて数日。誰も見向きもしない。
そんなある日、一人の少女が足を止めた。快活そうな、駆け出しの冒険者といった風情の少女だ。
「ねえ、これいくら?」
リリィと名乗った彼女が指さしたのは、俺が作った不格好な靴とヘルメットだった。
俺が値段を告げると、近くにいた他の冒険者が鼻で笑った。
「おいおい、嬢ちゃん。そんなガラクタ買うのか? 詐欺師に騙されてるぞ」
「鉄屑を丸めただけじゃねえか。そんなんでゴブリンの一撃も防げやしねえ」
嘲笑が突き刺さる。だが、リリィはまっすぐに俺の目を見ていた。
「……」
俺は何も言えなかった。ただ、彼女の視線から逃げなかった。
リリィは少しだけ逡巡したあと、革袋からなけなしの銅貨を数枚取り出した。数日間の依頼で得た報酬のほとんどだろう。生活費を切り詰めて捻出した、決して安くない賭け金。
「よし、買った! なんだか、すごく大事に作ってそうだから!」
彼女はそう言って、装備を受け取ると元気よく去っていった。
それから、数日後のことだった。
工房の扉が勢いよく開き、息を切らしたリリィが転がり込んできた。全身泥だらけで、あちこちに擦り傷を作っている。
彼女は俺の姿を認めると、その場にへたり込んだ。その腕には、俺が作った、泥にまみれた滑り止め靴と、大きくへこみ、ひび割れたヘルメットが大事そうに抱えられていた。
「……あったんだよ、ぬかるんだ洞窟で…ゴブリンに追われて…」
途切れ途切れに、彼女は語り始めた。
仲間たちが次々とぬかるみに足を取られて転んでいく中、彼女だけが、滑り止め靴のおかげで走り抜けられたこと。
逃げた先で起きた落盤で、頭上の岩が仲間の一人を襲ったこと。そして、彼女の頭にも岩が降り注いだが、このヘルメットが砕けながらも衝撃を受け止めてくれたこと。
「みんなに笑われたけど…」
リリィの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「でも、これがあったから、私、生きてる! 本当に…ありがとう!」
その言葉は、俺が繰り返した五度の死の痛みすべてを、洗い流していくようだった。
伝説の剣じゃない。魔法の鎧でもない。誰からもガラクタと笑われた、地味な鉄の塊が、確かに一つの命を救った。
俺は死に戻れる。だが、彼女は違う。一度死んだら、それきりだ。
……俺が作るべきは、誰かを殺す剣じゃない。誰も死なせないための、鉄だ。
リリィが帰った後、俺は彼女が置いていった、ひしゃげたヘルメットを手に取った。その冷たい鉄の感触を確かめるように、ただじっと見つめていた。
工房の片隅に広げた羊皮紙の上で、木炭が走る。描かれるのは、手足を守るための、より軽量で、衝撃を分散させるための構造図。次なる安全装備の設計図だ。
その頃。
都市エルドニアの商人ギルドの一室で、一人の男が眉をひそめていた。
「ゴブリン洞窟の新人パーティ。生存者一名。原因は…『滑り止め付きの靴』と『鉄兜』?」
男は報告書を弄びながら、冷徹な声で呟く。
「…ふん、愚かなことだ。私の計算を狂わせる」
彼の卓上には、エルドニア周辺の鉱物資源の流通を示す地図が広げられていた。その地図の上で、最弱素材であるはずの「鉄屑」の価値が、ほんのわずかに、しかし確実に、揺らぎ始めていた。




