触れられない距離 【悠真視点】
あの倉庫に来た時点で、嫌な予感はしていた。
動きが、早すぎる。
警察の踏み込みが、予定よりもずっと前倒しになっている。
誰かが、内部で動かした。
それが、緋依じゃないと分かっていても、
胸の奥が、ざわついた。
俺は、予定していたルートを変えて、屋上へ向かった。
証拠はもう処理した。
残るのは、俺自身だけだ。
非常階段を上がりながら、
聞こえてきた足音に、全身が固まった。
この足取り。
間違えるわけがなかった。
「……来るな……」
思わず、声が漏れた。
でも、その声は、風に消えた。
屋上に出る直前、
下から、はっきりと声が聞こえた。
「……悠真」
心臓が、音を立てて跳ねた。
呼ばれたわけじゃない。
でも、名前が聞こえた。
それだけで、足が止まった。
出て行けば、会える。
ほんの数歩で、
あの目に、あの声に、触れられる。
でも、出たら終わる。
俺が築いてきた三年分の距離も、
彼女が必死で守ってきた日常も。
全部、壊れる。
手すりの影に、身を寄せたまま、
俺は、ただ、息を殺した。
緋依が、屋上に出てくる気配がした。
近い。
近すぎて、痛い。
風に乗って、彼女の声が聞こえた。
「……待ってて」
その一言で、胸の奥が、完全に壊れた。
俺は、無意識に、一歩、前に出かけて――止まった。
この手で、触れる資格はない。
そう、自分に言い聞かせてきた三年が、
今、全部、俺を縛っていた。
結局、俺は、姿を見せなかった。
彼女が屋上を出て行くまで、
ただ、影の中で立ち尽くしていた。
足音が遠ざかったあと、
ようやく、息を吐いた。
「……くそ……」
声が、震えていた。
会いたかった。
抱きしめたかった。
大丈夫だって、言ってやりたかった。
でも、それをしたら、
俺はきっと、連れて行ってしまう。
この世界に。
血と嘘と裏切りの、戻れない場所に。
それだけは、してはいけない。
それだけは、約束だから。
屋上の手すりに、指先が触れた。
そこに、まだ、彼女の温度が残っている気がして、
思わず、拳を握りしめた。
あと、ほんの少し、遅ければ。
あと、ほんの少し、勇気があれば。
そんな考えが、頭をよぎる。
でも、それを選ばなかったのは、俺だ。
選べなかったのも、俺だ。
……どっちにしても、情けない。
俺は、ゆっくりと、屋上の反対側へ向かった。
追われる身として、
次の仕事が、もう決まっている。
止まっている暇はない。
でも、階段を下りながら、
胸の奥で、ずっと同じ声が繰り返されていた。
――もう一度、会いたい。
それだけは、どれだけ闇に沈んでも、
消えなかった。




