最後の夜、守ると決めた覚悟 【悠真視点】
最初から、間違っていたんだと思う。
緋依の隣に立った時点で、俺はもう、引き返せない場所にいた。
あの日、署に入った情報を見た瞬間、背中に冷たいものが走った。
神崎颯斗の事件と、同じ匂い。
裏で人が動いている。
しかも、警察の動きを把握した上で。
嫌な予感は、すぐに確信に変わった。
これは、偶然じゃない。
そして、俺は思い出してしまった。
――あの夜のことを。
血の匂いが、やけに強かった。
床に座り込んだ颯斗は、もう立てない状態だった。
それでも、俺を見る目だけは、はっきりしていた。
「……来るの、遅い」
冗談みたいな口調だった。
「すみません」
本当に、それしか言えなかった。
救急を呼ぼうとした俺の腕を、颯斗は掴んだ。
力なんて、ほとんど残っていないはずなのに。
「……無理だ。分かってる」
呼吸が、浅くて、不規則で。
それでも、必死に、言葉を絞り出していた。
「……俺のことは、もういい」
その目が、俺じゃなく、遠くを見ているのが分かった。
「……緋依を、頼む」
心臓を、殴られたみたいだった。
「……あいつ、強いけど」
息を吸うたびに、苦しそうに胸が上下する。
「……一人で、抱え込む」
俺は、何も言えなかった。
ただ、首を縦に振ることしかできなかった。
「……お前が、隣にいてやれ」
その手が、力なく落ちる直前。
「……守ってやってくれ」
それが、最後の言葉だった。
あの時の約束は、今も、俺の中で生きている。
だから、あの事件の匂いを嗅いだ瞬間、
俺はもう、迷えなかった。
颯斗が命を懸けて守ろうとした世界に、
緋依を近づけるわけにはいかなかった。
夜、部屋に向かう足取りが、やけに重かった。
本当は、行かない方が良かった。
顔を見たら、決意が鈍ると分かっていたから。
でも、どうしても、一度だけ会っておきたかった。
玄関のドアを開けた瞬間、
緋依がキッチンに立っているのが見えた。
あの、何でもない日常。
それが、もう二度と戻らないって分かってる自分が、
どうしようもなく情けなかった。
声をかける代わりに、俺は、抱きしめていた。
思っていたより、ずっと強く。
離したら、全部崩れる気がして。
「……どうしたの?」
そう聞かれて、答えられなかった。
今から、俺は人を殺しに行く。
君の兄が命を懸けて守ったものを、俺が引き継ぐ。
そんなこと、言えるわけがなかった。
せめて、最後に、記憶に残る温度だけ残しておきたかった。
離れた時、緋依は、いつも通りの顔で俺を見ていた。
何も疑っていない。
その目が、痛かった。
「……また明日な」
それしか言えなかった。
本当は、嘘だと分かっていたのに。
――現場に着いた時、もう戻る場所はなかった。
相手は、俺が来ることを想定していなかった。
だが、抵抗も、交渉も、する気はなかった。
俺は、躊躇わなかった。
ここで終わらせなければ、
次に狙われるのは、緋依だ。
それだけで、引き金を引く理由には十分だった。
終わった後、手が震えていた。
でも、止まらなかった。
立ち止まったら、全部が無駄になる気がして。
俺は、そのまま姿を消した。
警察としての自分も、
緋依の隣にいる自分も、全部置いて。
それが、一番安全だと、そう信じるしかなかった。
――なのに。
屋上で、緋依の声を聞いた瞬間、
心臓が、ひっくり返りそうになった。
「……悠真?」
振り返りたくなかった。
でも、振り返ってしまった。
そこにいたのは、
守ると誓ったはずの人。
俺は、反射的に銃を向けていた。
守るための、最低な選択。
「……来ないで」
声が、思ったより震えていた。
近づかれたら、全部終わる。
抱きしめてしまう。
連れて逃げてしまう。
それで、また巻き込んでしまう。
そんな未来が、はっきり見えた。
だから、突き放すしかなかった。
「君は関係ない」
本当は、関係しかなかったくせに。
緋依が泣きながら叫ぶたび、
胸の奥が、音を立てて壊れていく。
それでも、俺は動かなかった。
動いたら、全部、終わるから。
「……俺は、戻れない」
それは、脅しでも嘘でもなく、事実だった。
俺はもう、警察に戻る気なんてなかった。
緋依の世界に、戻る資格もなかった。
だから、逃げた。
追いかけると言われても、振り返らなかった。
振り返ったら、きっと、俺は――
連れて行ってしまう。
彼女の人生ごと。
それだけは、絶対に、してはいけなかった。
闇の中に消えながら、俺は、何度も同じことを考えていた。
これで、良かったのか。
それでも、他に選択肢はあったのか。
答えは、今も分からない。
ただ一つだけ、はっきりしているのは。
俺は、彼女を失う覚悟はしても、
彼女を危険にさらす覚悟は、できなかった。
それだけだ。




