追われる夜、兄に導かれた逃走の果てに
封筒の中のメモを読み終えた瞬間、悠真の表情が変わった。
今までの甘い空気が、一気に消える。
「……もう来る。」
そう言って、私の手を掴む。
「え?」
「説明は後。走れるか?」
答えるより早く、ドアが閉められた。
非常階段を駆け下りる途中、背後から響く足音。
一人じゃない。複数人。
「……早すぎない?」
「兄の言う通りだ。想定より、ずっと。」
外に出た瞬間、冷たい夜風が頬を打つ。
路地へ、裏道へ、迷路みたいな街の中を走る。
……なのに。
「……っ!」
乾いた音が、耳を裂いた。
パン、という音。
空気が裂ける感覚。
「撃たれてる……!?」
「狙撃だ、伏せろ!」
悠真に引き倒されるようにして、地面に転がる。
次の瞬間、私のいた位置に火花が散った。
心臓が、喉まで跳ね上がる。
「……っ、は……」
息が、うまく吸えない。
「緋依、見るな。俺だけ見てろ。」
そう言って、悠真は私を抱き寄せたまま、壁沿いに移動する。
……なのに。
足が、もつれた。
「……っ!」
転んだ瞬間、視界の端に、赤い点。
……レーザーサイト。
「……やだ……」
銃口が、私を向いている。
体が、動かない。
次の瞬間、視界がぐるりと回った。
悠真が、私を突き飛ばすように抱えて、転がる。
直後、私のいた場所に弾丸が突き刺さった。
「……っ、悠真……!」
「無事か!」
「……うん……」
震える声で答えると、悠真は歯を食いしばる。
「……ちくしょう……」
怒りと焦りが混じった声。
でも、すぐに私の顔を見て、表情を抑えた。
「……ごめん、怖かったな。」
……その言葉の方が、泣きそうになる。
「……怖いよ。でも……」
私は、ぎゅっと彼の服を掴んだ。
「……一人じゃないなら、走れる。」
悠真が、一瞬だけ目を見開いてから、小さく笑った。
「……ほんと、強くなったな。」
そう言って、私を引き起こす。
再び、走る。
兄のメモに書かれていたのは、街の名前だけだった。
「……ここからだと、車で二時間くらいか。」
そう言って、悠真はハンドルを握る。
いつの間に用意したのか、古いワゴン車。
目立たない色で、ナンバーも普通。
……こういうとこ、やっぱり慣れてる。
「……さっきの……」
私が口を開きかけると、悠真がすぐに言った。
「今は考えなくていい。ここから離れるのが先だ。」
優しい声なのに、視線はミラーから離れない。
エンジンがかかって、車が走り出す。
街の灯りが、少しずつ遠ざかっていく。
……なのに。
「……悠真。」
ルームミラー越しに、後ろを走る車が、同じ距離を保っている。
一台。
……いや、二台。
「……気づいたか。」
声が、低くなる。
「つけられてる。」
胸が、嫌な音を立てる。
「……っ、また……?」
「大丈夫。まだ確定じゃない。」
そう言いながら、悠真は進路を変える。
信号を一つ、二つ、わざと遠回り。
それでも、後ろのライトは消えない。
「……確定だな。」
ハンドルを切る手に、迷いはなかった。
「しっかり掴まってろ。」
「……っ、うん!」
スピードが上がる。
窓の外の景色が、流れるように変わっていく。
私は無意識に、シートベルトの上から悠真の腕を掴んだ。
「……大丈夫だ。」
そう言って、彼は一瞬だけ、私の方を見る。
その目は、さっきよりずっと強かった。
「今度こそ、守る。」
ハンドルを切るたび、タイヤが悲鳴を上げる。
後ろのヘッドライトは、まだ消えない。
「……しつこ……」
「山に入れば、向こうも無茶はできない。」
そう言って、悠真は細い山道へと車を滑り込ませた。
街灯は、もうない。
カーブの先は、闇。
……それでも、後続車はついてくる。
「……まだ、来る……」
「焦るな。もう少しだ。」
悠真の声は落ち着いていた。
でも、ハンドルを握る指には、力が入っている。
数分後――
急カーブを二つ抜けた先で、悠真は急に減速した。
「……今だ。」
そう呟いて、脇道へ一気にハンドルを切る。
ガタガタと揺れる未舗装の道。
私は思わず声を上げそうになって、唇を噛んだ。
数百メートル走ったところで、エンジンが止まる。
「……ここから歩く。」
「え……?」
「車は囮にしておく。」
そう言って、鍵を外してドアを開ける。
暗闇の中、二人で車を離れ、林の中を進む。
枝に服を引っかけながら、息を殺して歩く。
……どれくらい経ったのか、分からない。
やがて、木々の向こうに、影が見えた。
「……あれ……?」
建物の輪郭。
古びた、けれど崩れてはいない、二階建ての別荘。
「……兄の指定地点だ。」
玄関に近づくと、鍵は……開いていた。
「……誰か、入った形跡……ない?」
「……でも、用意はされてる。」
中に入った瞬間、ぱっと明かりがついた。
「……え。」
電気、通ってる。
部屋の中には、簡易ベッドと毛布、飲料水。
そして、テーブルの上にはノートパソコンと携帯用の充電器。
「……完全に、生活できる状態……」
「……誰かが、俺たちのために整えてる。」
その“誰か”が、誰かなんて、考えなくても分かる。
「……兄……」
名前を口にした瞬間、胸が少しだけ、緩んだ。
……逃げているのに、
ちゃんと導かれている感覚。
それに気づいた途端、緊張が一気に抜けた。
足の力が、抜ける。
「……っ……」
ふらっとした私を、悠真がすぐに支えた。
「……緋依。」
そのまま、抱き寄せられる。
「……今日は、よく頑張った。」
その声が、あまりにも優しくて。
「……今さら言われると……泣くから……」
そう言った瞬間、悠真の腕が、ぎゅっと強くなった。
「……泣いていい。」
その一言で、我慢してたものが、全部溢れた。
……でも、それは、次の時間の話。
今はまだ、
日が沈んで、やっと辿り着いたばかりだった。




