二つの名の間
ふっと体の力が抜ける。
その中で彼は目を覚ました。
――名前が思い出せない。
いや違う、“二つの名前が重なっている”。
「……ここは、どこだ。」
低い声が部屋に響く。
どこかの豪華な客室に彼はいた。
白い部屋は呼吸の音さえ響くように静かだ。
彼は自分の腕を眺めると、不思議そうに目を瞬かせる。
酷くゆっくりとした動作で閉じられた瞳は人形のようだった。
生まれたての赤ん坊のように、自分の手を握りしめては開き、その感触を確かめる。
ふいに彼の胸が酷く痛んだ。
それはなんの痛みなのかわからない。
胸の奥で何かが絡まるように締め付けているのを感じる。それは逃れられない契約のように、心臓に深く突き刺さった杭であった。
ただ息を吸うたび、体が重くなる。
「誰かおらぬのか。ティダウ。」
彼は呼び慣れた名前を口に出した。
こうすればいつでも駆けつけてくるはずだった。
しかし、いつまで経っても現れない。
そして、ふと気づく、自分が喋っている言葉が知らないはずの言葉だということに。
寝台の上から立ち上がるとふらふらと眩暈がした。
彼は近くにあった家具に捕まると姿勢を整える。
部屋を見渡すと厳かな鏡があった。
不確かな足取りで一歩一歩進んでいく。
前に立ち、自分の姿を確かめる。
その中の自分を見て、少し目を開いた。
母譲りの明るい薄水色の髪に毒の毛の色。
体調の悪そうな白い肌。
そこまでは記憶通りだったが、鏡の中の人物は記憶の中より随分と大人びて見えた。
そして胸まであったはずの自分の髪が短く切り揃えられている。
「状況を……確認せねば。」
抑揚のない冷たい言葉が響く。
それはいつも通りの自分の言葉のはずなのに、久しく使われてなかったように喉が裏返る。
不確かな記憶を辿れば、知らない女と若い男の顔が浮かんだ。自分の記憶にはないはずの誰かの記憶が傾れ込んでくる。
(これはどういうことだ。)
他人の記憶が胸に流れ込むたび、自分が考える権利が奪われていく。
まるで“借り物の体”に押し込められているようだった。
*
風の音が窓から聞こえる。
記憶を整理していると扉が叩かれた。
返事をする前に扉が開かれる。
「体調はどうだラガル。」
「見舞いに来てやったよ。」
「だ、大丈夫……じゃないですよね。」
「気分はどうかしら、ラガル。」
記憶の中に出てきた人物たちがこの記憶の持ち主の名で俺を呼んだ。
ラガル、と呼ばれた瞬間、胸が軋んだ。
その名に反応したのは自分ではない“誰か”だった。
「問題はない。」
外傷、体調ともに異常はないという判断だったが、明らかに彼らの目が曇る。
「ラガル、どうしたの?」
桃色の毛の女――メフェルが尋ねてきた。彼女は俺に近寄ろうとする。けれどそれ以上は入られてほしくなかった。
「近い、そこに直れ。」
「ラガル?」
彼女の瞳が揺れる。黄色い星のような瞳が俺を見上げた。
「グロードと言ったな。貴様、王族ならば部屋に入るとき扉を叩け。」
目線を流す、それだけで赤髪の男グロードは体を強張らせた。
静かに周囲の温度が低くなる。
霜が降り始めていた。
「ラガル冗談じゃ……ないのよね?」
メフェルがもう一度近寄ろうとする。
俺は一歩身を引いた。
「寄るな、無礼者。」
ただ事実だけを突きつける。
メフェルの肌に霜が這った。
シーナという少年が震えながらミムラスという小人の女を庇っている。
「お前、誰だ。」
イーヴァが警戒を露わにした声で尋ねる。
男はゆっくりと視線を彼に向けた。
ただその表情には何もなく、虚無だけが残っている。
「名乗る名などない、好きに呼ぶがいい。」
淡々と告げ、男は立ち上がる。
足取りは静かで、無駄がなく、ラガルではなかった。
「情報を探す、邪魔立てするな。」
そう言い残し、部屋を出ていく。
閉じられた扉の前で四人は立ち尽くした。
「ラガルじゃ……ない。」
そうメフェルは呟く。
それは涙が出る直前の、恐怖と喪失の混じる震えだった。




