不可思議少女と影法師
ラガルはイーヴァに頼まれて何か軽い昼食を買いに来ていた。賑わう街の中、財布を握りしめる。
(あの野郎。)
話を終えるとイーヴァは急に病人のフリをして倒れ込んだ。
そしてお駄賃をラガルに預けると、何か買ってこいと抜かしたのである。
(まあ、いい。俺も腹が減ったところだ。)
イーヴァの奢りで飯にありつけるならなんでも良かった。
早くどこか露店に行こうと店を探す。
そのとき、視界の隅の物陰で誰かが男数人に絡まれているのを見た。
「だから、嬢ちゃん。何か言うことはないのか⁉︎」
「ご、ごめんなさい。」
プルプルと震える白いワンピースの少女。
黒く長い髪を抱き寄せて胸の前で手を握っていた。
「ごめんなさいで済むことじゃないだろ!」
その瞬間、少女の黒い瞳とラガルの瞳が混じり合う。
一瞬、空気が止まった。少女の瞳の奥に“何かが潜んでいる”ような気がした。
少女は目を見開くと、ラガルの手を取った。
「お兄ちゃん!」
掠れた少年とも少女ともつかないような声が聞こえて、グッと引っ張られる。
少女の切り揃えられた前髪がひらりと靡いた。
「兄貴だぁ?お前、こいつの知り合いか!」
「は?知らない。」
ラガルは突然腕を引かれて焦る。
腕を振り解こうとしたが、少女とは思えない力で押さえつけられた。
「お兄ちゃんでしょ!今までどこに行ってたの!みんな心配してたよ!」
少女の声は演技だとは思えない震えを持っている。
必死の形相で少女がラガルを引き留めた。
ラガルは瞬間、悟る。
(コイツ、俺を巻き込むつもりだ。)
「俺に妹なんかいない、コイツは知らないやつだ。俺を利用するな。」
腕を思い切り振る。すると少女は体勢を崩してその場に倒れ込んだ。
しばらくして肩を振るわせると、大声で泣く。
「お兄ちゃんのバカァああああ!」
わんわんと泣く少女。
だがラガルにはその瞳がわずかに“笑っている”ようにも見えた。
次第に周囲に人だかりができていく。
「おい、やめろ。」
近くに衛兵の姿も見えた。
「やばい、衛兵だ。ズラかるぞ。」
男たちが去っていく。
ラガルと少女の元に衛兵が来るのが見えた。
亜人と人間の泣いてる女。この組み合わせは絶対に疑われる。
急いで少女を立ち上がらせると、ラガルは腕を引っ張った。
少女はキョトンと目を丸くする。
(なぜ驚く?巻き込んだのはお前だろう。)
二人は人混みの中に紛れていくのだった。
「痛い、痛いよ。お兄ちゃん。」
そして、甘い香りの漂う露店の前でラガルは立ち止まると乱暴に少女の手を離す。
そこで果物乗ったパンを一つ買うと少女にズイと突き出した。
「これやるから泣くのやめろ。」
少女は渡されたパンとラガルを見比べて、笑顔でパンを受け取る。
その笑顔は、さっきの涙を一瞬で忘れたように明るかった。
作り物のような、しかし妙に刺さる笑顔だった。
「ありがとう、お兄ちゃん。」
そう言った声はどこか年齢不詳の低さを帯びた気がした。
「あーん。」
パクリと少女はパンを頬張る。
この世の物とは思えないほど目を輝かせて、必死に齧りついた。
(……そんなにか?)
「お兄ちゃん、これ美味しいよ!」
「その呼び方やめろ。」
「なんで?お兄ちゃんはお兄ちゃんでしょ。じゃあなんて呼べばいいの?コッコ?ルンルン?プープー?」
適当に並べたであろう言葉が少女の口から出てくる。
その無邪気さと、不自然な軽さが噛み合わない。胸の奥に微かなざらつきだけが残る。
「まずはお前から名乗れ。」
「えー?なんで?」
「じゃあ、俺も名乗らん。」
「そっか、じゃあお兄ちゃんだね。」
ニコリと少女は笑う。
その笑顔を見ると、どこか引っ掛かりを覚えた。
「ねえ、お兄ちゃん。口を開けて?あーん。」
少女がラガルの口に食べかけのパンを突っ込もうとする。
無視したラガルの頬にパンが押し付けられた。
「えへへ。」
(クソが……。)
イーヴァといいメフェルといい、自分のペースを乱す相手は苦手だ。
加えて昨日の寝不足が尾を引いていた。
「お兄ちゃんはこんなとこで何してるの?」
少女が尋ねてくる。
答える義務もないので無視を決め込んだ。
「ふん。」
「へー……無視するんだ。うーん、じゃあ買い物だ!ボクと一緒に回ろうよ。」
中性的な少女はその場で一回転すると、服の裾が膨らむ。
影が別の生き物のように舞い踊った。
影が風よりも早く揺れたように見えて、ラガルはほんの一瞬だけ眉をひそめた。
ラガルは断ろうとしたが、少女に腕を引かれて露店の通りに足を進めてしまう。
「あ、おい。」
「ここまでおいで!」
少女が手を引きながら笑った。
彼女の笑顔は無邪気そのものだ。
「お兄ちゃん、これ欲しい。」
「は?自分で買えよ。」
「お金なんて持ってないもん。」
店の主人がにこやかにネックレスを勧めて来た。
「買わない。」
「ケチくさいなぁ、女の子とデートするときはちゃんと買わなきゃ駄目だよ?本番は間違えないようにね。」
そう言って少女は次の場所へ向かう。
気づけば、ラガルは少女の歩くペースについていっていた。
引かれているのか、自分から進んでいるのかわからない奇妙な感覚だった。
走ると影が遅れてついてきた気がしてラガルが眉を寄せる。
そして見物が終わった頃、夕暮れの橋の上で二人は一休みしていたのだった。
「ふー、楽しかったぁ。」
橋の手すりの上に腰掛けた少女が言う。
ラガルも言葉には出さなかったが、名も知らない少女との一時は悪くなかったように思った。
「お前、帰らなくていいのか。家族が心配してるぞ。」
珍しくラガルが他人の心配をする。
少女は笑うと、足をパタパタとぶらつかせた。
「お兄ちゃんこそ、誰か待ってる人がいるんじゃなあい?」
「俺にそんな奴はいない。」
「嘘だぁ、家族くらいいるでしょ。弟とか、妹とか、そういうの。」
少女は後ろを振り向くとラガルの顔を見る。
ラガルは彼女の側に行くと、川に沈む夕日を眺めた。
「本当だ、俺に家族はいない。いたとしても忘れた。記憶がない。」
今日はやけに饒舌になれた。
隣で少女が呆気に取られた顔をしている。
夕日が川面に沈み、キラキラと輝く。幻想的だ。
「そんな、どうして。」
「知らん。」
「本当に覚えてないの?少しも?」
少女が悲しそうな目をしてラガルの顔を覗き込む。
その瞳は揺れていた。
「ああ。」
「そしたら……きっと、すごく寂しいね。」
「いや、全く。」
「違う、家族の方だよ。」
少女が石を蹴るように宙を蹴った。
その瞳は沈みゆく夕日に向けられている。
橙のその光が今、彼方に消えゆこうとしていた。
「考えたこともない。」
「あーあ、可哀想だなぁ。ねえ、最後に名前くらい聞かせてよ。なんて名乗ってるの?」
少女が欄干の上に立ち、ラガルを見下ろす。
夕日を背にして黒い影が二人を覆った。
「ラガル。」
――夕日の角度が変わる。
ティーの影が僅かに揺れた。
その影は“本来よりも細すぎる何か”に一瞬だけ形を変え――すぐに、何事もなかったかのように戻った。
彼の首元に細い影が触れかけていた。
しかしそれも瞬く間に消え、影は元の位置に戻っていた。
「そっかぁ、ボクはね。ティー。ただのティーソエル。よろしくね、ラガルお兄ちゃん。」
そう言うとティーは手すりから降りて、橋の上を歩く。
夕日に照らされた影が一瞬だけ長く伸びる。
「またね、お兄ちゃん。」
そう手を振り歩き去っていく。
ラガルはその背を見送って帰路についた。
(何か忘れてるような気がする。)
真っ暗な闇の中、ラガルは自身の過去に大きな空洞が空いていることを改めて認識した。




