祝福の雨
キースを睨みつける。
けれど、その反抗は長く続かなかった。
肩を強く押されるとトカゲは再び床に倒れ込む。
「一日だ、一日やる。そのうちに殺せなかったらお前も死ぬ。」
そうキースは言いつけると、宝珠を持って自らの寝室に消えていった。後にはトカゲだけが残される。
*
雪は音もなく降っていた。
トカゲの吐く息が、白く、儚く、消えていく。
小屋を出てふらふらとトカゲは歩いていた。
(あの日もそうだった。)
このアジトに来た日を思い出す。
行くあてもなく、何もなく彷徨っていたところをゼンが拾ってくれた。
その日も今日のように雪の降る日だった。
切れた口の端に雪が滲みる。
痛みだけが彼をまだ現実に引き留めていた。
ゼンを殺さなければ生き延びられない。
この灰境の外では生きられない。
結局、キースにも逆らえず、流されるままゼンの小屋へと辿り着く。
久々に来た場所は懐かしく、今でも暖かく仲間たちが迎えてくれそうだった。
「ん?なんだ、トカゲかぁ!」
間延びした声が聞こえてきた。
ずしずしと雪を踏み締める音が聞こえて来て、ジャンが姿を表す。
「何のようだ?コレオに見つかると面倒だからあっち……行け……よぉ。」
トカゲを追い払おうとした彼の腕が止まる。青あざを顔中に作った青年の姿は異様だった。
只事じゃないと察したジャンはすぐにゼンを呼びに行く。
その様子に”帰って来た“とトカゲは無意識に溜息をついていた。
いつでもここにはあの焚き火の夜がある。
肉を分け合って、暖を取り合ったあの日が。
「トカゲ!」
待っていた声がやって来た。
今一番聴きたくて、会いたくなかった彼だ。
「トカゲ、どうした!キースにやられたのか!」
いつもより張った声には動揺が隠せていなかった。
ゼンを見た途端、トカゲの中で何かが切れる音がする。
しかしその感情の名前などトカゲは知らない。
知らないからこそ、自分の表情のわけがわからなかった。
「まず、中に入れ。な。」
進められるがまま、トカゲは小屋の中へと入る。
ジャンはその姿を見送って席を外した。
「トカゲ、何があった。」
ゼンは椅子に彼を座らせると、火の近くへと勧める。そして優しくその頭を撫でた。
随分と剣呑な雰囲気を纏うようになっていたトカゲがそれだけで、何も知らなかった最初の彼に戻るようだった。
「なにも……ない。」
震える声でゼンに言う。
そんな嘘が通じるはずもないとわかっていた。
けれど今はそう言うしかない。
「そうか。」
ただ理由を聞かず、ゼンはトカゲの側に腰を下ろす。歳を重ねた厚みのある手は、静かにトカゲの肩を叩いた。
「だが、お前は耐える必要はねぇんだ。」
ゼンは微笑む。それは今のトカゲにとって一番苦しい光景。
「知ってるか。遠い火の国には、どこまでも冷たいトカゲがいるらしいんだ。そいつはどんな火にも耐えやがる。内なる情熱にもな。」
そう言ってゼンは青年の顔を見た。
腫れた顔は痛々しく、彼の内面を表しているようでもある。
ただそっと、ゼンは語る。
「お前はトカゲになる必要はねぇんだ。」
その言葉の意味を理解できなかったが、彼は改めて自分を問い直した。
(俺は……トカゲじゃ、ない。)
汚れ切った掌が赦されてしまうような錯覚に陥る。そして同時に、名前を与えられる前の不明瞭な自分に戻ってしまったような。そんな気がした。
灰境に縛られない、その前の名のない自分。
どこまでも続く白銀の世界を彷徨っていた自分。
あのときのように何処へでも行けるように思えた。
「ゼン、逃げよう。」
「え?」
唐突な彼の物言いにゼンは戸惑う。
しかし、何かを察したような顔をして向き直った。
「それは……できねぇよ。」
「駄目だ、駄目なんだゼン。」
「コレオにジャンに俺が守ってやらねぇといけねぇ奴らが沢山いる。」
窓の外を前は見る、そこには様子を見に来たコレオとジャンが遠くに見える。
ゼンの顔が緩む、彼らに手を振ると向こうも気づいて振り返した。
「あいつらはもう孫みたいなもんだ。置いてけねぇ。」
その声は安らかだ。まるで自分の運命を受け入れてるように。きっとゼンは気づいているのだろう、彼がここに来たわけを。
「お前一人で逃げちまえ。なに後を追うやつは俺が蹴散らしてやるさ。」
そう言ってゼンは立ち上がる。
青年は今このときも迷っていた。
ただ、俯いて、胸の内の言葉を探すばかり。
だから気が付かなかった。
「ん?なんだ、様子がおかしい。」
ゼンが窓に駆け寄る。
コレオとジャンが小屋に向かって走って来ていた。
そしてすぐに爆発音と木の燃え上がる匂いが鼻をつく。
明らかに異常事態だった。
「お前はここにいろ!」
戸惑う青年を一人残して、ゼンは外に出ようとする。
けれどすぐにゼンは引き止められた。
「待て!俺もいく……おかしい!」
空気のひりつく感覚を彼は察知する。
今もそれはザワザワと存在感を増していく。
巨大な力の渦が場を覆っているような感覚に包まれていた。
『祝福されし、世界樹の力よ。我が名の下に矢となり弓となりて、敵を穿て。』
空気が震え、世界がざわめく。
呪文のような声が聞こえた気がした。
次の瞬間、轟音と共に小屋が吹き飛んだ。
叫びを上げる暇もなかった。光の矢が二人の頭上を掠め遠くに消えていく。
それは突然のことだった。
あまりのことにゼンは言葉を失う。
半壊した小屋から外を眺めるとそこは焼け野原だった。アジトからは悲鳴が上がり、燃え上がる小屋から女子どもが逃げ出している。
「なんだこれは……。」
ゼンの呟きはすぐに掻き消えた。
先程の声と共に次の矢が飛んで来たのだ。
今度は複数人の声が灰色の空に響き渡る。
『祝福されし、世界樹の力よ。我が名の下に光の槍となり、雨を降らせ。』
声が止んだかと思うと、空に無数の槍が現れて大地へと降り注いだ。
逃げられない、瞬間二人は察知した。
ゼンは呆然と空を見つめる彼に腕を伸ばし――。
降り注ぐ槍の雨をその身に引き受けた。




