黒の手駒
気がつけばトカゲは寝台の上にいた。
暖かな熱も、凍えるような寒さも感じない。
その代わりに身を切る静けさだけがあった。
まだ鼻には鉄錆の匂いが残る。
半身を起こすとトカゲは辺りを見渡した。
すぐ側にはゼンが目を瞑って座っている。
ホッと、緊張が解けるのを自分でも自覚した。
「ゼン。」
彼の名前を呼べば、いつものように人好きする笑顔がそこにあると確信できた。
それが今のトカゲにはどうしようもなく有り難かった。
「うん……なんだトカゲ起きたのか。」
どうやらゼンも寝ていたようで寝ぼけ眼で応答する。
大きな体を伸ばすと、トカゲに向き直った。
「お前、魔族だったんだな。」
ゼンの青い瞳がトカゲの淡い紫の瞳を撃つ。
だがトカゲには何の事かわからなかった。
ゼンは拍子抜けしたような顔をするトカゲに苦笑すると、彼の頭の上に手を置く。
一瞬その手を見てトカゲは怯んだが、ゼンの手に危害がない事がわかると体の力を抜いた。
「お前みたいな色のウレラは見た事ねぇ、どっかの少数部族だろうな。」
ぐしゃぐしゃとトカゲの頭を撫でる。
それがくすぐったくて、でもやめて欲しいわけでもなくてトカゲは曖昧な気持ちに心地よさを感じた。
「だがなぁ、魔法を使っちまったのは不味かったかもしれねぇな。」
そう言ってゼンはトカゲから手を離す。
魔法と言われて、自分の手を見つめるトカゲは何も知らない子ども同然だった。
ゼンが”キースの野郎が目をつける“そう呟いたか否か、そのときだ。
部屋に乱入者が現れた。
「よ、元気かぁ?トカゲ。」
キースがそこにいた。
靴音を響かせながらトカゲの側へやってくると、ゼンを押し退けるように、トカゲの前へ座り込む。
その音を聞いたとき、確かにどこかで誰かが同じ音で近づいて来たのを思い出す。
けれど、その顔はどうしても思い出せない。
代わりに思い出せないことに、安堵している自分がいた。
ニコニコと上機嫌な顔をするキースに比べて、ゼンは張り詰めたような表情に変わっている。
「お前、魔法使えるんだってなぁ。今どき魔族でも使えるやつが少ねぇのに。」
「魔法……。」
言葉を拾うように反復するトカゲにキースはニッと葉をみせて笑った。
「おうよ、それはお前の才能だぜ。使いこなせれば戦力になる。」
キースの黒い瞳は底なしの欲望を浮かべていた。
その瞳に不安げなトカゲが映り込む。
ゼンは何か言いたげだったが頭領の前では何も言えず黙り込んでいた。ただじっと、手を握りしめる。
「どうだお前、直々に俺の部下にならねぇか。」
それまで笑っていたキースが突然、真顔になった。
捕えられた獲物のようにトカゲはその場から動けなくなる。きっと、栄誉ある事なのだろうが彼には微塵も興味はなかった。
ただ、この場はどう切り抜けるのが正解なのかだけを思考する。
「断るわけねぇよな。」
トカゲの瞳が揺らいだのを見て、キースが低い声で念押しする。ゼンの方を見ると彼は、まっすぐトカゲを見ていた。
どうやらトカゲ自身の答えを待っているらしい。
しかし、物を言わさぬキースの迫力の前に、トカゲは断る勇気を持たなかった。
一瞬の沈黙のあと、頷くように項垂れる。
それを了承と取ったキースは今まで以上に機嫌が良い表情で笑う。
「それじゃぁ、そう言う事だからな。コイツ借りてくぜ、ゼン。」
この日を境にトカゲはキースの手駒となったのだった。
*
時は流れて、数年が経った。
街道を通る荷馬車を灰境団は眺める。
キースが合図を出した。
トカゲは息を吸い込むと吐き出すように手を構える。
氷が燃え盛るように這い、目的のモノへと向かっていく。道を行く荷馬車の車輪を凍てつかせると、馬車は音を立てて横転した。
「よし、オメーら行くぞ!」
キースの号令で崖の上に身を潜めていた団員たちが一斉に姿を現す。荷馬車に群がるとあっという間に、そこは戦場に変わった。
血が流れ、鉄の音が響き、悲鳴が上がる。
トカゲは護衛の男を押し倒すと迷いなく喉笛を掻き切った。
ひゅっと乾いた音がする。
それから、背後に立つ男の背に氷柱を突き刺す。そして横からの斬撃の盾にした。
殺すたびに、倒すたびに、自分の手の感覚が足の感覚がわからなくなる。
――手慣れたものだった。
目に付く敵を全て殺し、気がつけば辺りが真っ赤になっている。その道の上にトカゲはいた。
死体の目を見つめる時間などもう久しくない。
血の上に白い雪がふる。
そして消えた。
「今回も働いたなぁ、トカゲ。」
キースが嬉しそうに話しかける。ニヤリとトカゲは笑うと、金貨を一つ手に取ってキースに投げた。
「女はいなかった、賭けは俺の勝ちだ。」
キースは投げられた金貨を受け取ると眺める。面は裏を向いていた。
「参ったな。お前には敵わねぇよ。」
くつくつと笑うように言うと、キースは声を張り上げた。ズラかるぞ、短い命令が駆け抜ける。
盗賊の男どもは武器を肩に担ぐと各々戦利品を持って寝ぐらへと帰った。
そして夜の静けさが訪れる。
アジトはいつも通り、雑然としていて吐き気を催すような最悪だった。
昼間から飲んだくれた老人、床に伏して動かない男、目に付くもの全てに当たる女。
混沌とした様相を見せていた。
そこに遠征という名の強奪作戦から、帰ってきた男たちが現れる。
灰境団は陰鬱とした雰囲気から賑やかさを取り戻していった。
「いやぁ、トカゲ様様だな。」
帰ってきた男の一人が言う。両手に持った麻袋には財宝がたんまりと詰められていた。
そばかすだらけの男、コレオがそれを聞いてチッと悪態を吐く。
「なんだよ、あいつなんかただのキースの犬だ。」
そう言う彼の表情には明らかな軽蔑があった。その顔は憎んでいるというよりも、苛立っているに近い。
噂のトカゲが姿を見せても、その態度を隠そうともしなかった。
トカゲの長い髪が風に靡く。
涼やかな目でコレオの方をチラリと見ると、気にしないふうに通り過ぎていった。
「くそぉ。あいつゼンさんに世話になってたって言うのによぉ!」
後ろからコレオの声が聞こえたが、トカゲには関係なかった。どこ吹く風でその場から離れていく。
気がつけばトカゲはキースの一派となっていた。
そのことに何かを覚えるというわけではなかったが、以前より開いてしまったゼンとの距離に心の穴が空いたような、そんな感情を覚える。
そんな事を考えていたからだろうか、目の前にゼンが現れたことにトカゲは気が付かなかった。
「おう。」
声をかけられて、ようやく彼は気づく。
その背丈は変わらないものの前と比べて少しやつれたようなゼン。
トカゲは目を丸くした。
「ゼン……。」
なんと声をかければ良いのかわからなかったが、少し強張っていた表情が軽くなるのを感じた。
アジトの中でも会う機会が少なくなっていた彼に出会えたことは嬉しかった。
「元気かトカゲ。今日も大活躍だったらしいじゃねえか。」
「ぼち……ぼち。」
こういう時にどんな表情で何を言ったら良いのか彼にはわからない。けれど、懐かしいその声にかつての自分が戻るのはすぐだった。
「俺はいけねぇが、オメェが頑張ってくれるおかげでなんとか食っていけてるよ。」
そう言うとゼンは近くの椅子に腰を下ろす。よっこらせと言うゼンは、見た目はあまり変わっていないのに歳をとったように思えた。
「ゼン、体の具合が悪いって本当か。」
「ああ、ちっとな。気にすることじゃねぇ。」
噂で耳にした話を確かめる。
ゼンは少し前から体調を崩していた。
「今年で180だからな。人間でいやぁ、60の爺だ。ガタもくるさ。」
そう言いながら自分の膝を叩くゼン。
少し白くなった髭を見てトカゲは言い得ぬ不安に襲われる。いつかゼンはいなくなってしまうのだろうか。
「魔族だったらもっと長く生きられたんだろうがよ。あいにく母親は人間だからなぁ。」
その言葉に哀愁はなかった。
トカゲはただ口を噤む。
彼がいなくなってしまう事を考えたこともあったが、寿命による別れを想像したことはなかった。
生命はいずれ老いる。
その現実が僅かに胸を軋ませた。
「まぁ、そんな顔すんなよ。お前の方が先に死にそうな顔してるぜ。」
トカゲの変化を察したゼンが不器用に笑って見せる。
けれどその姿も見られなくなると言うのが、トカゲにとって苦しい事だった。
そうして話していると黒い影が姿を現す。
キースがやってきたのだ。
ゼンの影が一瞬消えたような気がした。
キースは薄く笑いながら二人に話しかける。
「何話してんだ?俺も混ぜろよ。」
そう言って笑う男の声は仄暗かった。




