焚き火の夜
森を抜けて霧が晴れたあと、3人はどっと疲れ果てていた。誰もが口を聞かず、淡々と野営の準備を始める。
メフェルはラガルに泥で濡れた服を脱ぐように言ったが、彼は拒む。
しかし、体は冷え切っており、ラガルの顔は青白い。
「凍えてしまうわよ。」
そう言って泥に塗れたラガルの服にメフェルは手を伸ばす。泥は冷たかった。触れた部分からじわじわと熱を奪う。
「服を脱いで、焚き火にあたって。」
メフェルの声は細かった。懇願するように服を握りしめる。水気を含んで重くなった服から水が滴り落ちた。
「死んでしまうわよ。」
声が震えた。自分の手のほうが先に凍えているのに、ラガルの冷たさはそれよりもずっと深く――まるで心の底にまで氷が降り積もっているようだった。
手を伸ばせば届く距離なのに、そこにはどうしても踏み込めない境があった。
青くなったラガルの唇。いつもよりずっと低い体温にメフェルは恐怖する。このままでいればきっと彼は死んでしまう。
氷のような手を取って、メフェルは炎の側へと連れていった。
その手の温もりが夢に見た女の温もりと重なる。
シーナを気にするような視線を送るラガルに、メフェルは優しく大丈夫と告げた。そしてそっとラガルの首巻きに手をかける。
「……自分でやれる。」
服を脱がそうとするメフェルにラガルは短く答えた。一瞬、手が迷ったが首に手を伸ばすと巻いていた布を外す。
そして下に現れたのは無骨な銀の首輪だった。
焚き火の音が一度だけ、はじけた。
シーナが息を呑む。
その瞬間、時間が止まったようだった。
炎の光が首輪に反射して、淡い銀がちらついた。
シーナはラガルをまじまじと見つめてしまう。
屈辱に顔を歪めるように、ラガルは口を結んだ。
(そうだ、あのときも。)
ナザレムの門でラガルは首巻きに触れられるのを嫌がっていた。あれにはこういう意味があったのかとシーナは理解する。そしてメフェルとラガルの関係について察してしまうのだった。
(ラガルさんは……奴隷?)
いや、違う、そんなはず――。
けれど、そう思ってしまった自分が怖かった。
胸が締めつけられた。
あの強い背中の奥に、こんな鎖が隠れていたなんて。
それもきっと彼女の。だからいつもラガルはメフェルに強く出れないのだとシーナは考える。
ラガルは下を向いたまま服を脱ぎ、下につけていた鎖帷子を外して脱ぎ捨てた。そのまま下着も外す。
その肌は常人とは違い、滑らかな青紫色の鱗で覆われていた。炎の光を受けて、まるで夜空が割れて覗いたように輝いている。美しくも、どこか悲しかった。
シーナは目を見開く。
「まさか黄金竜の腕輪の呪い!?」
シーナが声をあげる。メフェルは普通の顔をしていたのが、不思議だった。
ラガルは怪訝な顔で、目だけがシーナを射抜いた。
ラガルの縦に割れた瞳孔はあのときの竜のようだった。
「違う、元からだ。」
下も脱いだラガルはメフェルから布を受け取ると、ゆらめく光に背を向けて寝そべる。腕から背中にかけてを覆う、その鱗はよく見れば竜ではなく蛇の鱗だ。
シーナはどう反応していいかわからず、隣のメフェルに顔を向ける。彼女はすでに火に当たっていた。
シーナもメフェルに倣って温もりに身を寄せる。
体に熱が染み渡っていった。
赤い灯の前で、シーナは唇を噛んだ。
何かを言わなければと焦るのに、言葉が浮かばない。
「……過去の光景を見ました。」
シーナはポツリと呟く。何を喋ればいいかわからずに選んだ言葉だった。炎がちらちらと瞬く。
「僕、それでも前に進まなきゃって思ったんです。」
木の焼ける匂いが鼻を刺す。真っ直ぐすぎるその気持ちは闇夜には明るすぎる。
「もっと知りたいんです。お二方のこと。」
赤い光は少年の顔を照らして、ほんの一瞬燃え上がった。影の中に彼の輪郭がハッキリと浮かび上げる。メフェルはシーナが少し眩しく見えた。
「そう、強いのね。」
シーナは、と言いかけてメフェルは口篭る。そして行き場を失った言葉は夜の中に溶けていった。
それから誰も喋らなかった。
ただ、赤い粒の揺らぎを追っていた。
ラガルは燃え残る火の赤に背を向けて、暗い森の中を覗いていた。
(あれは……俺の過去だったのだろうか。)
森の中で見た夢を思い出す。
いつかあったことのようにも、そうでないようにも感じた。まるで他人事のように。
(思い出せない。)
ラガルは目を伏せる。心にポッカリと穴が空いたように、遠い過去のことは少しも記憶にない。
シーナの言葉が胸で渦巻く、知りたいのは自分の方だ。
(俺は何者で、どこへ行くのか。)
その問いに答えるものは誰もいない。
自分の運命は女主人に握られている。そうわかっているのに、行き先が気になった。
(過去……か。)
意識が遠のく、暗がりに引きずり込まれていく。背の熱とは反対に表は冷え切っていた。
瞼の裏で見えないはずの赤が滲む。
森の幻はまだ終わらない――そんな予感がラガルの心を裂いた。




