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2話 ある夏の一日


夏休みの、それも夏期講習の始まる前の午前中はほとんど人がいない。校舎の外から聞こえる部活の声や時おり廊下を通る生徒らの声も、いっそ清々しく気分が良い。


湊はそんな悦に浸りながら誰もいない廊下を我がもの顔で闊歩する。


ふふふんと上機嫌に鼻歌などを織り交ぜながら。イヤホンから流れる音楽が陽気さを増していくほど、湊のリズムもまた激しくなっていく。



だからかもしれない、彼がそのハイテンションっぷりを静めることは鉢合わせるまで終ぞなかった。そして鉢合わせた相手がつい先日に知り合ったばかりの彼女であったことも、少々まずかった。


「お、おはようございます」


先に挨拶をしたのは彼女、神崎空だ。湊はしばし動きを止めたあと、目をぱしぱしと瞬かせた。


そしてゆっくりと口を開き、第一声は「聞いてないよな……?」縋るように問いかけた。


「……聞いてない」


「嘘がへたっ!……いっそ笑ってくれ」


目を右往左往とさまよわせながら、気を遣ったように返した空に湊はかえって背中がぞわつくような気恥ずかしさを覚えた。


「その……素敵なハミングだったと思います!」


空は精一杯のフォローとして投げかけた。


「俺もう死ねるな……」


これが仲の良い男友達などであれば、いっそ笑うかそもそも気にかけすらされない。湊も大して気にもしなかっただろう。


ただ一端の男子高校生としては、顔見知り程度の女子相手では羞恥心を抱かずにはいられないのだ。


「その……いまのことは忘れてください」


「は、はい!頑張ります」


ぎゅっと拳を握る彼女に、いっそ湊の方が笑った。





「別にここまでしてもらわなくても誰かに言ったりとかしないよ……?」


空は恐縮したように、言った。


「俺もそこは疑ってないよ」


湊は苦笑いしつつ、言った。


廊下での遭遇から、空が湊に連れられて来たのは学食だ。


「ただ変なとこ見られちゃって、それを忘れるように言うんだからさ。貸しひとつじゃん?」


「貸し?」


「そっ。これは俺のプリンシプルみたいなもんだけど。とりあえずなんかで返しておきたいなってさ。そっちのが俺の気が楽なんだ」


湊は食堂内に設置されたアイスケースをじろじろと見ながら、言った。


「プリンシプル?」


「信念みたいな意味。なんとなく好きなんだよ、この言葉。頭良さそうだろ?」


得意げに笑う。その姿に空も思わず、小さく声を漏らして笑った。


「あ、嫌じゃなかったらだけどね。こういう、もので買収みたいな?」


おどけたように言う湊に、空も頬を緩める。そして同じようにアイスの並んだケースを眺めながら「お言葉に甘えさせてもらうね」と言った。


「どれがいい?」と問いかけた湊に、しばし悩んだあと「これ」と指を差す。空が選んだのはふたつに分けて食べるタイプのアイス。


「半分こにしてもらえると、私の罪悪感も減るというか」


「ずいぶんと優しいチョイスで。それじゃあ、ありがたく」


湊はそのままケースから取り出すとレジを通す。会計を済ますと「これ、もう割っていい?」と問いかけ、空は「お願い」と返した。そのままぱかんと分けると、片方を空に手渡した。




「この時間だからさ、校舎に人なんていないと思ったんだよ」


食堂内の椅子に腰掛けた湊は空に向かってというよりも、独り言のように、呟くようにして言った。


「忘れてくれって話だったのに……汐瀬くんが掘り返すんだ」


空はぽかんと、意外そうに言った。湊はそれに「たしかにね」と、思わず笑ってしまった。


湊は誤魔化すように親指で自身の唇を撫でながら、話を続ける。


「冷静になるともういいかなって。あのままだったら俺、足でステップとか刻んでたし。それ見られなかっただけ勝ちだわ」


「じゃあもう少し、遅れて出てくればよかったかも」


空も朗らかに笑った。



夏休みの食堂、それも午前中は驚くほど人がおらず、この広い空間はいまふたりだけのものだった。それに加え、目の前のこの男は意外なほど穏やかで話しやすく、本来あまり異性が得意ではない空も不思議と居心地の良さを感じリラックスして過ごしている。


話がずいぶんと伸びてしまったのはそのせいかもしれないな、と空は後になってそう振り返る。



「ああそうだ。ずいぶん引き留めちゃったけど、時間とかは平気だった?」


「ううん平気だよ。夏期講習は午後からだから」


「ならよかった。俺もちょうど午後からなんだよ」


湊はちらりと時計を見ると、ぐっと凝った背を伸ばす。とっくに空っぽになったアイスの袋を咥えながら、運動部がだらだらと練習しているようすを眺めた。


「午前中は……ほんとになんとなくな。誰もいない教室ってのも雰囲気があるからさ。気分転換でもって」


「わたしもこの空気好き。同じ場所なのに、全然違うように見えるの」


湊は喜色の滲んだような表情を、空はむしろ寂しそうな表情をする。


そんねふたりの間に、ブーっとバイブ音を鳴らしたのは、空のスマホだった。ピロンという通知音と、着信音が鳴る。ちらりと見上げるように湊を見れば「どうぞ」と促される。


空は湊に「ごめん」と断ると、通話に応じた。


湊は空の通話中の仕草がどうにも緊張したような、違和感を覚えたが黙って視線を自身のスマホに落とした。



「お友達がもう学校来ちゃったらしくて。悪いんだけど……」


言い淀む空に、湊は身振り手振りを交えつつ「いいって。むしろこんなに相手してもらってありがとう」と贈る。空は怒ったり、不満そうな顔をされなかったことに安堵し礼を告げると、「またねっ」湊に手を振って駆けて行った。



空が教室に着いたとき、友人らとあまり関わりのない男子の数名が座っていた。空はその光景に少しだけウッっと引ける思いがした。


「あ、空!どこ行ってたの?てっきり教室だと思ったのに」


「ご、ごめん。ちょっと外してて」


謝りつつ空は自身の席に腰を下ろした。なぜか空の真横の席に腰掛けた男子に、わずかに身を縮めつつ。


「てか空、今日の課題やった?」


「うん、一応は」


「やった!見せて見せて!やるの忘れちゃってさぁ、わざわざ夏休みに講習なんて受けるのだってだるいのに、課題まで出さなくてもいいじゃんね」


空がおずおずと課題をカバンから取り出すと、友人はひょいと取って早速写し始める。友人らが課題を写すのに必死になると、自然と会話は減る。空はその時間に少しだけホッとした。


「神崎さんってほんと真面目だよな。それにめっちゃ優しいし」


言葉の主は隣に座る男だった。空は「あ、ありがと」と返す。


「ほんと、なんでこいつらと仲良くしてんのかわかんねえ」


必死に課題を写す友人らを指差す。彼女らは心外だと言わんばかりの顔をして男を軽く睨んだ。


「私らが不真面目で優しくないみたいじゃんね?」


「お前らは真面目じゃないし、優しくないだろ。ほんとこの神崎さんのお淑やかさを見習った方がいいぞ」


半笑いで、きっぱりと言い切った。彼女らも冗談っぽく「なにそれ、うざいんだけど」と笑ってはいるが、空はひどく居心地が悪かった。


「彼氏とか作んないの?」間の悪いこの男は空の内心など理解するつもりもないらしく、立て続けに問いかけた。


「そういうの、あんまり分からなくて……」


空はますます身を小さくして答えた。


「でも……」と男が言いかけたところで、「空にはまだそういうの早いからね」と口を挟んだのは友人だった。


「だって空は私らの天使だし」


「ねー?」と軽くハグをされながら、空は小さな苦笑いだけを贈った。その後の会話はあまり覚えていない。なんとなく男が何かを発しては、友人が応じ空は相づちを打つ。そんな繰り返しだった気がする。




空は、昔から嫌われないように、いい子であろうと努めてきた。高校入学後はいっそうそれが顕著で、とうとうついたあだ名は天使ちゃん。優しく穏やか、そしてピュアだからと、友達の誰かが呼んだものだ。


気が弱く、押しに弱く頼まれごとを断れない質。空はそんな自分をひどく嫌悪してしまう。



キンコンカンと鳴ったチャイムがようやく彼女をこの居心地の悪い空間から解放することとなった。


ちょうど課題を終え、友人は「それじゃあ私ら行くわ」と男に言い残す。席を立つ友人らの後ろを追いかけるかたちで歩いた。空は小さく息を吐いた。







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