第三部
「……直接、お話ししたくて。このあと、少しお時間いただけますか?」
俺は――時計を見た。
壁掛けのアナログ。針は、午後6時3分を指している。
いつもならこの時間には、YouTubeを開いて会社の数字を“分析してるフリ”をしながら、
世界史の事件や再発しそうな政治問題のドキュメンタリーを――再生しているところだった。
でも……今日は違う。
目の前にいるのは、単なる情報ではなく……“予測できない存在”だ。
「……あまり長くは無理かもな。電車、逃したくないからさ。」
口から出た言葉は――現実的な判断。
いや……正確に言えば、“この空気”から一歩引くための――逃げ道だった。
俺は主人公じゃない。
満開の桜の下で恋に落ちるような夜を引き寄せるタイプの男じゃない。
――現実をよく知る、ただのサラリーマンだ。
けれど、出原真澄は……そういう“安全なロジック”を、決して許さない。
「……じゃあ、もし話が長引いたら、私のアパートに泊まっていってください。」
その一言は、まるで――「近くの空いてる駐車場、使っていいですよ」とでも言うかのような自然さだった。
だが……その意味は、
タイミングと相手を間違えれば――三章分の恋愛ドラマを生むレベルの破壊力を持っていた。
俺は……目を細めた。
無意識に――身構えていた。
この世界は、“簡単すぎる好意”に……何度も裏切られてきた。
だから、こういう時こそ――疑ってかかるべきだ。
「……まさか、会社の秘密とか抜け穴とか、そういうのを聞き出そうとしてるんじゃないだろうな。」
「興味ありませんよ、そういうの。」
――即答だった。
あまりにもあっさりしていて……逆に怪しい。
そう感じるくらいには、俺の人間関係センサーは……摩耗していた。
だが――その時、彼女はふと笑って、俺のモニターを指差した。
「……待ってますね。だって、あともう少しで仕事、終わるみたいですから。」
え……?
思わず――画面を見返す。
残っているのは、あと12行の報告欄だけ。
いや、それだけじゃない。
このあと俺が……ファイルを保存して、閉じて、システムからログアウトする――
そんな一連の流れまで、どうして……彼女は知ってる?
俺は……ゆっくりと、彼女に目を向けた。
彼女の微笑みは――微動だにしていない。
出原真澄は……やはり“普通の女性”ではない。
少なくとも――それは博士号のせいじゃない。
ようやく席を立ち、デスクを離れた時。
一瞬だけ……“非常階段から逃げる”という選択肢が頭をよぎった。
が、振り返る間もなく――彼女はすでに俺の背後にいた。
「……行きましょう、先輩。近くに小さな公園があります。
飲み物と食べ物も、ちゃんと買っておきましたから。」
俺は……ゆっくりと頷いた。
納得したわけじゃない。安心したわけでもない。
ただ、この夜に限って、
頭の中で渦巻いていた“論理的な反論”たちが……まるで意味を失ったように感じられたからだ。
そうして俺たちは――夜の東京の歩道を、並んで歩き出した。
静かで、どこか……不思議な夜だった。
街灯は、少し霞んだ光を落としていた。
空には雲が浮かび……夜風には、近くのコンビニから漂う焼きたてパンの匂いが混ざっていた。
公園は――小さくて目立たない場所だった。
けれど……大人の喧騒からほんの少し逃げるには、十分すぎる空間だった。
俺たちは、少し錆びた長いベンチに腰を下ろした。
もちろん……俺は距離を取る。
そういう本能だけは、まだ残っている。
出原は隣に座ると、静かにブレザーを脱いで、パンの包みを開けた。
中には白いシャツ一枚……
それは、普通の男なら“不健全な想像”を始めてしまうくらいの組み合わせだった。
だが……俺はあえて視線を外した。
公園の照明に焦点を合わせる。――それが俺なりの“生存術”だ。
「……普段は仕事が終わったら、そのまま帰ってゲームするだけさ。」
そう言って、俺は缶のお茶を受け取った。
「でも今日は……君のせいで足止めを食らってる。」
「ふふ。先輩って、意外と優先順位がはっきりしてるんですね。」
「……単に、人混みが苦手なだけだよ。
少なくともゲームは、残業の愚痴を言わないし、給料で人を判断もしない。」
彼女は小さく笑って、もう一本の缶を俺に差し出した。
「……先輩も、私と同じ大学だったんですよね?」
「そうだな。でも……君みたいにちゃんと勉強はしてなかったよ。」
「それはどうでしょう。」
出原はそう言いながら、パンを一口かじった。
その所作には、どこか“訓練された上品さ”があった。
たとえ場所が公園のベンチでも……彼女の動きは一切、だらしなく見えない。
俺は……お茶の缶をゆっくり開けた。
手が――少し震えていた。
風のせいか、会話の“温度”のせいか……自分でも分からない。
「……先輩。」
彼女は、ふと空を見上げたまま――口を開いた。
「……この道を選んだこと、後悔したことありますか?」
俺は――彼女の方に顔を向けた。
彼女はまだ……空を見上げていた。
その表情は穏やかで、まるで……星に語りかけているようだった。
だが、俺には分かっていた。
それは……俺への問いかけだ。
「……毎日だよ。」
そう言って、少し間を置いた。
「でも……人間ってさ。完璧な選択肢があるから生きてるんじゃない。
“選び直せないから”――生きるしかないんだと思う。」
彼女は……何も返さなかった。
けれど、その唇には――小さな笑みが浮かんだ。
今度の笑顔には……笑い声がなかった。
感情を押し殺したような、意味を読み解くのが難しい――“無音の表情”。
「……いかにも先輩らしい答えですね。」
囁くようにそう言ったあと、しばしの――沈黙が落ちた。
自販機の機械音。
それに、風がジャケットの裾をさらう音だけが……夜の隙間を埋めていた。
彼女が何を求めているのか……正直、分からない。
報告書の話ではない。
そして――泊まる泊まらないの話でも、きっとない。
ただ一つ、確かなのは……
この女性は、“何か”を試している。
「……先輩、今の生活に、満足してますか?」
その質問は……決して強くはなかった。
けれど、まるで花束に紛れ込んだ針のように――じわりと刺さってきた。
「……“幸せ”なんて、過大評価されすぎてるよ。」
俺は、そう答えるまでに――少し時間がかかった。
「飯は食えてる。温かい缶コーヒーもまだ飲めるし、
今のところ人事部にも呼ばれてない。
この時代にしては……まあまあマシな方だろ。」
彼女は、うっすら微笑んだ。
「……先輩が素直にそう言ってくれて、ちょっと安心しました。」
そして――続ける。
「だって私たち、日本人ですから。
いつだって、“顔を二つ持て”って教えられてきましたよね?」
その声は……まるで、静かに撥を弾く三味線のようだった。
優しく、穏やかで……それでいて、胸の奥まで響く。