第二部
あれは……“興味”の笑顔じゃない。
“理解している者”が、“分かってない者”に対して浮かべる――優越感の笑み。
少なくとも、この分野において……彼女は俺よりも、上だった。
そして、噂が――流れ始めた。
オフィスとは……Wi-Fiより早く情報が伝播する場所。
美人で、しかも頭もいい。
それだけで、この沈滞した職場に――新しい重力の中心が生まれるには十分だった。
経理部の男子たちは、やたらと我が部署の給湯室に“偶然”立ち寄るようになり、
上の世代の社員たちは、急に“フレンドリー”を演じ始めた。
果ては……あの人付き合いゼロの総務の佐藤までもが、髪型を整え出す始末。
いや……もう無理だろ。
その後退は、もう“経済不況レベル”にまで到達してるぞ。
ある日の昼、彼女がコーヒーをかき混ぜながら――尋ねた。
「……神田さん、なんだか最近、みんなの視線が気になるんですけど。」
「そりゃあ……君がこの“死んだ空間”には、あまりにも眩しすぎるからだよ。」
彼女は、少し微笑んで――言った。
「それとも、私が“生きすぎてる”だけかもですね。」
そのまま、彼女はカップを口に運び……さらりと続けた。
「神田先輩も、そうですよ。あまりに静かすぎて、この世界に馴染んでるように見えない。」
今度は……俺が黙った番だった。
それが褒め言葉なのか、皮肉なのか……あるいは警告なのか判断がつかなかった。
そして、この時――俺は確信した。
出原真澄は……ただの新人OLじゃない。
東大のインテリ女子?――違う。
彼女は、“常に中心にいること”に慣れきった人間だ。
彼女は、自分が魅力的であることを理解していて、
それをどう使えばいいかも……完璧に分かっていた。
しかも――決して安っぽくは見せない。
まるで、自らの人生を小説に綴る――天才作家。
そして俺は……その一ページ目に、たまたま登場してしまった脇役にすぎない。
もし人生がウェブ小説なら、俺が主人公じゃないのは……明白だ。
でも、せめて――“正直な語り手”くらいにはなれると思ってる。
一方で、出原真澄。
社内システムを一日足らずで把握し、完璧に適応し、的確に動き出す――新人。
その順応力の高さと効率性は……むしろ不安を覚えるほどで、
気づけば、俺自身の存在意義すら……どこか薄れていくような錯覚に陥っていた。
彼女が投げかける質問には、すべて真面目に答えた。
だが……彼女は、メモも取らずにすべて記憶していた。
あれは……博士号の副作用なのか?
それとも――単に俺の脳が、会社のWindows7並みに古くなっただけなのか。
時間は……いつも通り、無慈悲に過ぎていく。
夕方になると、オフィスは少しずつ静かになり、
社員たちが次々と弱々しく「お疲れさまでした」と呟きながら――帰っていった。
今日の生産性が、エクセルのタブ一枚分しかないくせに。
俺は……そのままデスクに座り続けた。
モニターには、信じるに値しないグラフと、
役員向けプレゼン資料にしか使われない数字の羅列が――表示されている。
いつものように、俺は――残業をしていた。
他の連中に期待しても……意味がないから。
同僚たちは、LINEの社内グループで“存在アピール”するのに忙しくて、
肝心のタスク処理なんて、二の次なのが現実。
キーボードを打つ手を……ふと止め、辺りを見回す。
静かだ。――いつも通り。
それが、この職場の“平常”だった。
夜のオフィスは……まるで、ポストアポカリプスの世界のようだった。
静かで、薄暗くて、倒れきれなかった人間の残骸だけが――漂っている。
「ハーモニー」とか「企業文化」とか……そんな言葉がよく飛び交ってるけど、
俺には――それがただの“停滞”を綺麗な包装紙で包んだだけのものにしか思えなかった。
FAX、何度もプリントされる同じ書類、三部にわたって押させられる“濡れたハンコ”。
この国で“効率”という概念は……おそらく、都市伝説の一種だ。
あるいは――俺が皮肉屋すぎるだけか。
いや……むしろ、“無邪気に受け入れられるほど純粋じゃない”だけかもしれない。
そして――その時だった。
声がした。
静かで、柔らかなイントネーション。
押しつけがましさは一切ないのに……不思議と、人の手を止めさせるような響き。
「……まだ帰ってないんですか、先輩?」
振り返ると――出原真澄が、扉の前に立っていた。
黒髪は……肩にかかるほど流れ、会社のネクタイは――少しだけ緩められていて、
手には、ホットの缶コーヒーが一本。
しかも……安物じゃない。
選び方を――知っている人間のチョイスだった。
「……ありがとう。」
俺はそう呟き、缶を受け取る。
指で……表面を叩いてみる。
熱い。
ちょうどいい温度だ。――少なくとも、俺のキャリアよりは。
「……いつものことさ。昇進を目指すなら、努力あるのみってね。」
そんなことを言った。
いや……言葉というより、皮肉に近かった。
だが、彼女は――それをきちんと拾ってきた。
当然だ。この子は、そういう“種類”の天才だ。
「……神田先輩って、そういうタイプじゃないと思いますよ。」
彼女は――静かに答えた。
「それに先輩が、私に“あの質問”をした理由も……なんとなく分かる気がします。」
彼女の視線は――鋭かった。
だが……不快ではない。
その微笑みも穏やかで……
だが、その奥に、「君が思ってる以上に、私は知ってるよ」という――確信めいた何かがあった。
その一瞬だけ……俺の集中が切れた。
――まずいな。
「……ただの世間話だよ。」
そう言って、俺は視線をモニターへと戻す。
「それより、出原。今日は君の初日だろう?
早めに帰って、ゆっくり休んだ方が――いいんじゃないか。」
「……先輩が帰るのを、わざと待ってました。」
彼女の口調は――変わらない。
まるで……なんの感情も込められていない一文。
それなのに、どこか――“揺さぶられる”響きがある。