表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/20

第十九部

「なあ、こうして大金で俺を買おうとする姿……まるで高級料理を注文してるみたいじゃないか?」

「欲しいもののためなら……私は何だってするわよ、先輩。」

その一言と共に、彼女の視線が――妖しく揺れた。

その色気に……ほんのわずか、俺の決意がぐらつく。

「とりあえず……少しだけ考える時間をくれ。」

「いいわ。でも、“未来”は――そんなに待ってくれないのよ、先輩。」

そう言いながら、彼女は再びベッドに横たわった。

俺の思考は……今もまだ、ぐるぐると渦を巻いていた。

こんな“人生を変える提案”なんて――二度と来ないだろう。

そして時折、伊豆原は俺の方に視線を送ってくる。

「隣で寝てもいいのよ?……私は気にしないし。」

いや……言っておくが、どれだけ冷静を装っていても、

俺は“ごく普通の男”だ。……欲望くらいはある。

「いや……ちょっと考えたいだけだ。」

「先輩のこと、変な目で見たりしないわよ?

――それに、こんなことする勇気があるわけないでしょ?

首相の一人娘に、手を出すなんて。」

そう言われてしまっては……もう何も言い返せない。

結局、その夜――俺は一睡もできなかった。

翌朝。街の風景は……いつも通りだった。

ただ一つだけ違ったのは――俺が“ほぼ徹夜明け”で職場に向かっていたこと。

別に……残業のせいじゃない。

あの夜、眠れなかった理由――それは、一人の美しい女性と、

“人生そのものを変えるかもしれない提案”のせいだ。

伊豆原真澄。

ミステリアスな後輩。

そして――現首相の娘。

いつの間にか、俺の人生のリズムを……完全に握っていた女だった。

その朝――俺が彼女の部屋を出ようとしたとき、

伊豆原は……ベッドからこちらを見つめていた。

髪はほどけ、肩は……無防備にさらされている。

その視線に……心臓が少しだけ、速く打った。

「先輩。」

「ん?」

「もし……私が“首相の娘”じゃなくて、ただの普通の女の子で……

ただ、“あなたのことが好きなだけ”だったら――それでも、先輩は私を拒んでたの?」

……答えられなかった。

沈黙だけが――俺の返事だった。

なぜならそれは……簡単に答えられる問いじゃないからだ。

彼女は、ほんの少し……微笑んだ。

その目には……言葉にはできない、静かな決意のような光が宿っていた。

「やっぱり……権力なんかじゃ、先輩は動かせない人だった。」

「でも……それが逆に、確信になったの。」

「私……もしかしたら、

あなたという存在に――“運命”を見つけてしまったのかもしれない。」

その日、俺は……いつもより少し早く出社した。

オフィスの朝は……何も変わらない。

少なくとも……他人から見れば。

だが、俺にとっては……もう世界は、昨日と同じ場所にはなかった。

伊豆原真澄は……まるで“何もなかったかのように”振る舞っていた。

笑顔で挨拶し、仕事にも協力的で……

ちょっとした恥じらいすら見せる、完璧な後輩のふるまい。

まさに――“男性社員たちが妄想する理想の後輩像”そのものだ。

でも……俺にはわかっていた。

その笑顔の奥には――

俺の言葉一つひとつを鋭く観察する、冷静な目があることを。

そこには、サインがあった。

言葉にできない“合図”が……確かに、存在していた。

さりげない言葉の中に――

明確な“誘い”が……隠れていた。

「先輩……今夜は、すぐに帰らないでね。」

「まだ……私が理解できてないこと、少し話したいの。」

「これ、コーヒー。……ちょっと苦めのやつにしてみた。

先輩、こういう味の方が……集中できると思って。」

「ねぇ……先輩って

“強気な女”の方が――好みだったりする?」

最後の一言で……思わず、むせそうになった。

だが……彼女は、まるで何も言っていないかのように、

微笑みだけを残して――視線を外した。

……分かってる。これは恋愛感情なんかじゃない。

俺は“狙われている”んじゃない。

“選ばれている”んだ。

彼女の人生だけじゃない。

たぶん……“この国の未来”ごと。

俺とのパートナーシップに――賭けようとしている。

まるで昨日のことが……夢だったかのように。

全てが、当たり前の顔をして――続いていく。

その夜、オフィスは……驚くほど静かだった。

エアコンの音。

キーボードを叩く指のリズム。

それだけが……空気を揺らしていた。

やがて……聞き慣れた、軽やかな足音。

――伊豆原真澄が現れた。

オフィス用のブレザー、

ラフにまとめた髪、

そして……全てを語らない微笑み。

「先輩……今日も元気そうですね?」

そう言って、俺のデスクに――コーヒーの缶を二本置いた。

一本は……冷たい。

もう一本は、温かい。

どちらが俺用か……もう聞くまでもない。

彼女は、そんな些細な違いすら――決して見落とさない女だ。

「少なくとも……俺は“大きな変革”を起こすつもりなんてないけどな。」

半分冗談めかして……そう返した。

彼女は隣の椅子に腰を下ろすと、脚を組んだ。

夜の空気に溶け込むように……彼女の香水――どこか大人びた、優しく甘い香りがふわりと広がった。

「父が……今週の土曜なら時間が取れるって言ってたわ。

だから、先輩も準備しておいてね。……何か買い出しでも行く?」

「待て、今のって……

まるで“プロポーズの段取り”みたいに聞こえたぞ?」

少しむせそうになった俺をよそに……彼女はただ、静かに笑った。

その目は――いつも通り鋭くて、でも……不思議なほど俺を信じているようだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ