第十八部
「沈黙」――
そう、俺は結局、また“黙っていること”しかできなかった。
だって、予想外の展開には、いつだって……弱いんだ。
ましてやそれが、こんな美貌に包まれていたら……なおさらだ。
彼女はベッドの上で身体を少し傾けながら、
柔らかく、そしてどこか挑発的な声で――再び口を開いた。
「“伊豆原”は母方の名字よ。表の動きでは、そっちの方が目立たないでしょ?」
「でも、本当はね――
私、日本でこの十年間、ずっと首相の座にいた男の、実の娘なの。」
もちろんだ。
もちろん、そうだとも。
なぜって?
もう……何が来ても驚かない。
たとえ明日、彼女が「未来から来たタイムトラベラー」で、
「日本経済を救うために派遣されたの」と打ち明けられても――俺は信じる自信がある。
目を閉じた。
たった数秒の――静寂。
それは、自分の置かれた現実を受け止めるための、唯一の猶予だった。
ついさっきまで、彼女のリビングで経済政策と日本の未来について議論していた女性が、
実はこの国の……“最高権力者の娘”だったなんて。
で、俺はというと――35歳、平凡なサラリーマン。
薄給、残業常連、睡眠時間5時間。
趣味は……ソシャゲのガチャ回し。
学生時代に書いた古臭いレポート一つだけで、なぜか拾われた――
そんな、どうでもいい存在。
俺の頭に浮かんだ言葉は、たった一つだった。
「……なんで俺なんだよ。」
「だって先輩は、“未来”を自分の目で見てる人だから。」
「机上の経済理論じゃなく、実際の感覚で未来を感じ取れる。
そういう人は……ほんの一握りしかいないの。」
「だから私は――最初から先輩を私の“長期計画”に組み込むつもりだった。」
天井を見上げた。
この部屋のライトは、やたらと明るい。
まるで、今自分がいる世界が――
“底辺の人間”にはまぶしすぎる場所だと告げてくるようだった。
「じゃあ……ここまで俺を喋らせたのは、最初から“それ”が目的だったのか?」
「それだけじゃないわ。」
「だって、これはまだ――“序章”に過ぎないんだから、先輩。」
彼女は――微笑んだ。
それは、
“女”の笑みであり、
“政治家”の笑みでもあった。
氷のように冷たい――
それでも、なぜか心臓を早鐘のように打たせる、そんな微笑みだった。
「つまり……これ全部、俺を“利用する”ための布石だったってことか?」
「いいえ、私はそんなに浅はかじゃないわ、先輩。」
「前にも言ったでしょ? あなたには“才能”があるの。」
「だから――決めたの。
これからの私は、神田吉兵に……私の右腕になってほしい。」
「右腕って……どういう意味で?」
「もちろん、“顧問”として。」
「あなたの先を見通す力と、私の人脈。
それが組み合わされば――この国、日本を少しずつ、でも確実に
『私たちが望む方向』へと変えていける。」
俺は……思わず笑ってしまった。
「残念だけど、たぶん無理だな。
俺はもう……リスクを取る勇気すら残ってないんだ。」
エアコンの音が、静かに――部屋を満たす。
伊豆原は一拍置いてから、落ち着いた声で言った。
「……すでに全部、用意してあるわ。」
その声は、感情をほとんど感じさせない――
逆に、それが怖かった。
「口座。契約書。新しい住居。報酬。
あなたの今の給与の……十倍ね。」
彼女が机の上に置いた小切手は、まるで――“ファウストの契約書”だった。
空白のまま、そこには……どんな金額でも書ける。
仮にそこに「一億円」って書いたとしても――きっと、目の前のこの女は瞬きすらしないだろう。
「……冗談、じゃないよな?」
目を細め、彼女の表情に“わずかな綻び”を探そうとする。
でも――伊豆原真澄は、もう笑っていなかった。
そこにあるのは、ただ一つの表情。
……覚悟。
それは、テレビの討論番組でよく見る“政治家の目”であり、
年末ボーナスのために会社を救うと誓う、“欲に塗れたCEO”の目でもあった。
でも――伊豆原は違う。
彼女はCEOじゃない。政治家でもない。
そして、当然……“普通の女の子”でもない。
そのすべてを、完璧なバランスで併せ持つ存在だった。
「神田吉兵。
世界なんてどうでもいい、常に冷めてて、皮肉屋で、どこかあきらめた目をしている。
そんな先輩が……私にこう思わせたの。
“日本はまだ、救えるかもしれない”って。」
「だから、私はあなたを“利用する”んじゃない。」
「私は――あなたにとっての“賭け”であり、
……あなたも、私にとっての“賭け”なのよ。」
――いつの間にか、この部屋が暑く感じられた。
頭上のエアコンは……ちゃんと動いているはずなのに。
俺は、もう一度――小切手を見た。
その次に……彼女の顔を見つめた。
「……もし、俺が断ったら?」
「それでも、私はやるわ。」
「時間がかかっても、道が険しくても――
絶対に“試みる”つもり。」
――やっぱりな、と思った。
この子、外側では平静を装ってるけど……根っこは、だいぶ狂ってる。
「……じゃあ、もし俺が受けたら?」
「その瞬間から――全てが動き出すわ。」
「もう……後戻りはできない。」
「あなたは、ただの下っ端サラリーマンじゃない。
あなたは――“思考という名の武器”になる。」
「……武器、ね。」
皮肉混じりに眉を上げると、彼女は――
一歩踏み込んだ声で、はっきりと言い切った。
「思考の武器。論理。叡智。
腐りきった古い構造を……根底から壊せる存在。」
俺は、思わず――小さく吹き出した。