第十六部
まだ“民営化”とか“官僚機構の削減”とか、……本気で言い出す前だったのに。
こっちはまだ、ソフトなジャブだったんだぞ。
でも、もう何を言っても――彼女の眼差しは“完全にロックオン状態”だ。
「……はいはい、分かったよ。
今のは“週次会議で官僚のプレゼンばかり聞かされてる人間”の口癖だ」
僕がそう言うと、彼女は――一歩、近づいてきた。
「先輩。
私はね、“デジタル・トランスフォーメーションの加速”なんて言葉で、
……誤魔化される一般市民じゃないのよ」
「だから――今すぐ“本音”を話して」
……深く息を吐いた。
なぜだろう。
まるで――寝間着姿の検事に取り調べられているような錯覚に陥る。
美しいはずなのに、逃げ場が……まるでない。
「……じゃあ、何が聞きたい?」
その言葉は、もはや“告白”じゃなかった。
どちらかといえば、
――「この尋問、まだ続くのか」
という諦めのような響きだった。
「……僕は政治家でもないし、戦略家でもない。
ただの、考えすぎて止まらなくなった……一般人にすぎない」
彼女は脚を組み直し、ゆっくりとした動作で……僕を見据えた。
その目が、淡く光る。
ああ……完全に“優位”に立った時の顔だ。
「でも――そういう人間こそ、“資質”があるのよ、先輩」
「だから、はっきり言って。
“現実と折り合いをつけてきた男・神田吉兵衛”が、
最後に見せる“ずる賢さ”……私は、そこを知りたい」
……ちくしょう。
ここまで見抜かれていたとは。
僕は、乾いた笑みを浮かべる。
疲れと、認めざるを得ない感情と、……少しの敗北感が混ざっていた。
「……もちろん分かってるでしょ?
もし、君の考える“本当の解決策”を実行すれば――
“誰が、何を失うか”くらいは」
僕は小さく笑い、首を振った。
……そうだ、分かっている。
会話をすればするほど、僕は……彼女の掌の上に沈んでいく。
だが――それでもいいと思ってしまうのは、
僕たちが“ただの男女”じゃないことを……知っているからだ。
そして、今夜のこの会話が、
あまりにも心地よく、……抜け出せない罠だから。
いやでも、好きでも嫌いでも――正直に言わなきゃいけない。
この子を……納得させるために。
肉体的な意味じゃない。
――精神的な意味で、だ。
彼女の欲求は……「答え」を求めている。
彼女の呼吸は――「分析」でできている。
まるで、ロジックがすべて整理されないと眠れない……タイプの女の子みたいだった。
「……はいはい、分かったよ。言うよ。」
俺は深く息を吸った。
コーヒーはもう……とっくに空っぽなのに、ようやく舌が熱くなってきた。
「……日本の現実は、実はとてもシンプルなんだ。
この民主主義は、“年齢”という数字に……人質に取られてる。」
「今、65歳以上の高齢者が――有権者の多数派だ。
特に地方では……顕著だよ。」
「それに、日本の選挙制度は“人口”より“地域”を重視してる。
つまり――過疎地の一票の方が、都市部の若者の二票より……重く見られることもあるってわけ。」
「農家。農協。そして古い省庁……そういうところが権力の土台になっていて、
みんな“現状維持”にとにかく敏感で――保守的なんだ。」
伊豆原は……口を挟まなかった。
でも、その唇は――わずかに開いたままだった。
たぶん、俺が少し“黒い口調”になったからだろう。
「……いいわね、その調子よ、先輩」
彼女を“満足させる”には、……思った以上に頭を酷使する。
まったく――燃費が悪すぎる。
「……こうなると、大きな改革はどれも――ブレーキをかけられるさ。
年金制度の再設計も、農業の無駄な補助金の見直しも、
外国資本の参入も、国有資産の民営化も……全部ね。」
俺は、彼女をまっすぐ見た。
今度は、ただの……疲れた大人の顔じゃない。
将棋の歩を――ついに敵陣の最奥に進めた、そんな表情だった。
「……だから俺は、ずる賢い手を使うよ。
いつものように、正面からじゃなく――遠回りする。」
「“外側から”……このシステムを批判させるんだ。」
伊豆原は、下唇を噛んだ。
もう、手はラップトップにかかっていない。
その代わりに……まっすぐ俺を見つめていた。
そして、無言のまま、小さく頷いた。――続けろ、という合図。
「……まず第一に、補助金を一気にカットしたり、いきなり増税したりするんじゃない。」
「代わりに、効率的な農家には――インセンティブを与える。
効率の悪い農家を“罰する”んじゃなく……“報いる”ことで競争を促すんだ。」
「……外資との正面衝突を避け、静かに改革する。
これは“革命”じゃない。――“競争”という名の、静かな制度改変さ。」
その言葉を口にした時、俺の声には……どこか疲れが滲んでいた。
だが――伊豆原は、逆に目を輝かせた。
すぐさまラップトップを開き、パチパチとキーボードを打ち始める。
その音が、……夜の静けさを切り裂いていく。
そして彼女は再び顔を上げ、
まるで――憧れの教授に出会った天才生徒のような眼差しで、俺を見つめた。
「……次は?」
はぁ……。
この子、やっぱり――面倒くさい。
「……次に、インフレ率を年間2〜3%程度で安定させる。
名目は変わらず、でも実質的には……“借金の価値”をじわじわと下げる。」
「その間に、国民は“購買力の低下”という形で――静かに税を払うことになるんだ。」
「給与が少しずつでも上がって、物価が大きく跳ねなければ……文句は出にくい。」
伊豆原は――ニヤリと笑った。
「……すごいわね。まさか“野心ゼロ”を自称してた先輩の口から、
ここまで悪どいプランが出てくるとは思わなかったわ。」
「……ちょっと待て、それじゃまるで――俺がアニメのラスボスみたいな言われ方じゃないか。」
「だって実際、そう聞こえたもの。
……ただし、イケメンのラスボスね?」
「……それ、全然フォローになってないぞ、伊豆原さん」
俺は椅子の背に身体を預け、……深く息を吐いた。