第十五部
けれど、それが“現実”だった。
「……他国に助けを求める? ――無理だよ」
「日本経済は、独自のモデルで世界と繋がりすぎてしまった。
……ここまで“世界市場の深層”に入り込めたのは、日本だけだった」
「だから、どんな選択をしても、――結局は」
「“税”が……上がり続けるしかない」
「それが“福祉”と呼ばれる幻想を保つための、
……最低限の支出だから」
「でも、その実態は――ただ延命を続けるだけの“ゾンビ経済”に過ぎない」
その瞬間、伊豆原がラップトップを静かに閉じた。
金属の“カチン”という音が、まるで……幻が終わる合図のように響いた。
彼女は深く息を吸い込み、目を閉じたままソファにもたれかかった。
その姿には、どこか――もうこれ以上、言葉はいらないとでも言いたげな、静けさがあった。
「……これが、“変えることのできない真実”を知るってことなのね」
彼女がそう呟いたとき、僕は――何も返せなかった。
なぜなら、その言葉には……“答え”など存在しないからだ。
その瞬間、僕は気づいた。
今の僕たちはもう、
アナリストでも、インテリでも、論者でもなかった。
ただこの国の――終わりなき終末を、
……静かに見つめるだけの“二人の大人”だった。
沈黙を切るように、伊豆原が再び口を開いた。
その声は、柔らかかった。
だが――その内容は、まるで経済学のメスのように鋭かった。
「……これは、完全な悪循環よ、先輩」
「投資家たちは、低金利の円を借りて、
利回りの高い海外資産に資金を移す。
――日本は円安と輸出利益のために、
超低金利政策を続ける」
「……でもその裏で、庶民は輸入インフレに苦しむ」
「財政赤字を埋めるため、
――政府は消費税を引き上げる」
「……でも、税負担が重くなりすぎれば、内需は冷え込む」
「そして――経済は、また停滞する」
「……そしてまた、同じことの繰り返し」
「そうでしょ? ――先輩」
僕は、微笑を浮かべながら小さくうなずいた。
「……しっかり聞いてたんだな、僕のかわいい後輩は」
彼女は僕を見据えた。――まばたき一つせずに。
その目には、もう“女”としての感情はなかった。
ただ、どんな欺瞞も許さない……冷徹な知性の光が灯っていた。
「……結局、答えは二つに一つ」
「私たちが“変わる”か。
それとも――“時代に喰われる”か」
「……正直、吐き気がするわね、この選択肢」
僕は、ふぅと静かに息を吐いた。
「まあ……少なくとも、僕たちは“ネットで文句を言ってるだけ”の人間じゃない」
「何が問題なのかも知らずに、
誰かを一方的に叩いて終わるような――そんな無責任な群れには、なりたくないからな」
伊豆原は、僕の言葉に……苦笑いを浮かべた。
「……結局、掘れば掘るほど全部が“理にかなっている”ように見えるから怖いのよね」
その一言が、慰めになることはなかった。
なぜなら僕は――ただの会社員にすぎないからだ。
頭の中にいくらメモを溜め込んでも、
それを変えるだけの“立場”も“影響力”も……ない。
正直なところ、オフィスの猫一匹だって、
僕のスプレッドシートには見向きもしないだろう。
そんな僕をよそに、伊豆原はまた口を開いた。
「……私の知る限り、こういう構造って“明治維新”みたいな、巨大な衝撃がないと変わらない」
「でもね――私は“混沌が調和を生む”って理論には、あまり賛同できないの」
僕のくだらない返しに、彼女が引き下がるはずもなく。
「……残念だけど、問題の“根本”を理解するだけじゃ……みんな安心して眠れるようにはならないのよ」
「で? 本当は知ってるんでしょ? ――答え」
「ねぇ、先輩……」
その問いに、僕は疲れたように笑った。
「……ちょっと待てよ。
それを答えるんなら――見返りがないとな」
その瞬間、彼女は脚を組み替えた。
そしてまるで、“天使の仮面を脱いだ悪魔”のように――
唇に……冷たい笑みを浮かべた。
「ふふ……いいわよ。
あなたが答えてくれたら、
“とっておきの情報”を――教えてあげる」
「ねぇ、先輩……
きっと、後悔はさせないわよ?」
その視線は、獲物を前にした……猫のようだった。
好奇心、挑発、そして少しだけ、何か甘い毒。
賢い後輩と議論するのは、
……白黒テレビに“色”の概念を教え込もうとするようなものだ。
――結局、僕は折れる。
いつものことだ。
中年男が降参するのは、論破されたからじゃない。
……それを続ける意味が、もうないと分かっているからだ。
「……分かったよ」
僕は背筋を伸ばし、少しだけ姿勢を正した。
「でもな、伊豆原。
これだって、そんなに簡単にできる解決策じゃない」
「やるべきことは――山ほどある。
たとえば、“税以外の財源”に依存する方向へ構造を変えていくとか……」
「具体的には、国営企業の改革と最適化。
あるいは、これまで放置されていた“眠っている国有資産”の――マネタイズ化とかさ」
……予想どおり。
彼女の目つきが、一気に変わった。
鋭い。
――本気で、喉元に噛みついてきそうな目だ。
「……先輩」
声が、低い。
「それ……ウソよね」
部屋の空気が、一気に凍りついた。
「……あれは、選挙のときだけ使われる“おとぎ話”」
「誰も、本気で実行する気なんて――ない」
「だから……」
「次に、もう一度でも“綺麗なウソ”を吐いたら――今度はもっと、強く、たくさんつねるから」
くそ……。
この女、本当に“上品な嘘”に対して……容赦がない。