第十二部
いや、違う。
……沈黙というより、“固まった”。
まるで一時停止したかのように、彼女の指が、タイピングの途中で――宙に浮いたまま動かなくなる。
ぽつりと、吐息のような呟きが漏れた。
「……だから、外務省への圧力があんなにも異常だったのね」
僕は思わず、顔を向けた。
「……外務省?」
その瞬間、彼女は――ハッとしたように目を見開き、すぐに表情を閉ざした。
「……何でもないわ。続きをお願い、先輩」
そこには――確かに“何か”があった。
けれど僕は、それを無理に暴こうとはしなかった。
……今はまだ、その時じゃない。
早すぎる。あるいは――危険すぎる。
だから、僕は続きを話した。
「……もしFRBが利下げを加速させれば、キャリートレーダーたちが得られる利回りのスプレッドは――一気に消えてしまう」
「その結果、アメリカ国債――USトレジャリーへの需要が鈍化する。
しかし、今まさに彼らは、前例のない規模で国債を――借り換えしようとしている最中なんだ」
「日本の投資家たちは……アメリカ国債の最大級の買い手なんだ。
キャリートレードと、高いスプレッドの利回りがあるからこそ――成り立っていた」
「だけど……そのスプレッドが消えたら、インセンティブも消える」
「じゃあ――誰が、低金利でリスクの増したアメリカ国債なんかを買う?」
僕は、伊豆原を見つめた。
彼女は黙ったまま、背筋を――伸ばしている。
だが、その身体には……明らかな動揺が走っていた。
「……もし日銀が利上げして、FRBが量的緩和をしない。
それでいて、市場には――十分な買い手が残っていなかったら」
「その時――債券市場の混乱は、もう避けようがない」
……これは脅しではない。
事実を、淡々と述べたに過ぎない。
金融の言語で言えば――ただの“前提の確認”だ。
伊豆原は、そっと目を閉じた。
そして、息を潜めるように……呟いた。
「……先輩」
「ん?」
「どうして、あなたが――権力の座にいないの?」
その問いは、静かに――けれど、確実に胸に刺さった。
今までの説明よりも、遥かに――疲れを感じさせる一言だった。
「……たぶん、あそこに座る人たちは、僕みたいな声を――聞きたくないんだろう」
僕の返答に、彼女は――小さく笑った。
その笑いに、幸福の色は――なかった。
「先輩……これ全部、ただの雑談と、わずかなデータから話してるの?」
彼女は背中を――ソファに預け、僕を見つめた。
その目は、どこか半信半疑……でもそれ以上に、好奇心に満ちていた。
まるで、こう言いたげな瞳だった。
『もしこれがフィクションだとしたら……人生で一番、美しくて恐ろしい物語ね』
「……まぁ今のところは、そんなところかな」
僕は、苦笑いしながら――答えた。
「やっぱり、先輩は……サラリーマン向きじゃないわね」
その直球すぎる一言に、思わず――小さく笑ってしまった。
別に、誇らしいわけじゃない。
……ただ彼女が、あまりにも正直だから。
「残念ながら、それが“運命”ってやつなのかもな」
「……続きを聞かせて。
先輩の頭の中には、きっと――それだけじゃないでしょ?」
――確かに、その通りだ。
厄介なことに、僕の脳内には“つづき”が――いつもある。
なぜなら、世界の金融システムという名の扉を一つ開けるたび、
……そこには、誰も報じない千の暗闇の回廊が広がっている。
メディアにも、世論にも、ましてや政治家にも決して触れられない、“本物の現実”が。
冷めかけたコーヒーを――ひとくちすする。
味は変わっていたけど……苦さだけは、変わらなかった。
そして、再び口を開いた。
「……今のアメリカは、言ってしまえば――“危機の真っ只中”にいる。
国債は売れない。
投資家たちは、より高い利回りを――要求している」
「……でも、売れなければ――リファイナンスそのものが頓挫する」
「一方、日本も……似たような状態だ。
我々の国債も、もはや――簡単には捌けなくなってきている」
「日銀は、長らく続けてきた量的緩和を終了し……今はQT=量的引き締めに移行中だ」
「……2025年からは、毎四半期あたり4,000億円ずつ購入額を削減していく。
この動きは2027年3月まで継続予定だが……市場次第とはいえ、方向性は明らかだ」
「さらに――FRBの金利が3%台で据え置かれると予測され、
同時に日本の金利が上昇すれば……“ジャパン・キャリートレード”という仕組みは、もはや――維持できない」
伊豆原はまた、タイピングを始めた。
……だが、その動きは先ほどまでとは――まるで違っていた。
指先が、かすかに――震えていた。
「……それが、最悪のケースなの? 先輩」
僕は、ゆっくりと首を振り、背もたれに身体を預けた。
……まるでこの国の罪を、次の世代に告白するような気分だった。
「残念ながら……まだ終わりじゃない」
「このシステムを延命させるには、たった一つの条件がある」
「――アメリカの金利が、常に日本の金利よりも高くあること」
「その“金利差”――スプレッドこそが、キャリートレードの命綱だ」
「……もしそれが崩れたら、この世界の金融秩序は――一気に瓦解する」
僕は、彼女を見た。
伊豆原の表情には、確かな――緊張が浮かんでいた。
だが今の僕には……止まる理由がなかった。
「投資家たちは、アメリカ市場でのポジションを閉じ、
資産を――現金化し、そして資金を日本へ戻す」
「その際、ドルを円に換える必要がある。
結果として――円の需要が急増し、為替は円高へと振れる」
「それが意味するのは……キャリートレーダーたちにとっての――甚大な損失」
「レバレッジで積み上げられたポジションは……芋づる式に――崩壊する」
「そして――最終的に起きるのは、
日本だけでなく、世界規模の……“クラッシュ”だ」
その言葉に――伊豆原の表情が、一瞬で青ざめた。