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第十一部

「俺たちは、実のところ、ひどく脆いシステムの上で生きている。……外からの、ほんの一吹きの風でも、それは簡単に崩れ落ちるんだ」

「アメリカは、いわば――世界的な実験場だ。……だが、多くのケースでは、そう簡単に影響は広がらない。ただし、ある三つの要素が同時に重なったとしたら――話は別だ。そのとき、アメリカですら2008年を超える危機に陥るだろう」

「……その危機こそが“ジャパン・キャリートレード”に対する――トリプルヒットだ」

その言葉を口にした瞬間、

伊豆原の目が――わずかに見開かれる。

空気が、変わった。

……そこには、ただの興味でも、作り笑いでもない。

確かに“何か”を察した者だけが見せる、静かな緊張があった。

「もしそれが起きれば……日本は崩れる。そして、世界も共に巻き添えになる」

彼女はしばらく、口を閉ざしたままだった。

手にしていたラップトップを開くと、素早く新しいタブを開き、何かを打ち込み始める。

――真剣そのものの横顔。

その表情は、薄く塗られたルージュすら霞むほど、驚きに染まっていた。

「……教えて、先輩」

その声は、鋭く――そしてどこか切実だった。

「忘れないでくれ。……この最悪のシナリオが成立するには、“トリプルヒット”が同時に起こる必要がある。だが――その兆候は、もうすでに見え始めている」

僕は――背筋を正した。

もう、コーヒーにも、ビールにも手は伸びない。

「……一つ目、円が急激に高騰すること」

「二つ目、日本銀行が政策金利を引き上げること」

「三つ目、FRB――つまりアメリカの中央銀行が利下げを開始すること」

彼女は静かに、うなずいた。

口をわずかに開け、言葉を差し挟もうとしたようだが……結局は、何も言わなかった。

そのとき、僕はようやく気づいた。

伊豆原がこちらを向けている視線が――まるで別物だったことに。

……ただの好奇心ではない。

その目には、飢えがあった。

情報に対する、強烈な渇望。

「……ようやく」彼女はぽつりと呟いた。

「バラバラだった不安のピースが、形になり始めた気がするわ。――続けて、先輩」

――正直、少しだけ怖くなった。

今の彼女の目は、もう仕事仲間としてのそれでもなければ、女が男を見るまなざしでもない。

……まるで、銃を手にした相手を見つけて、静かに問いかける者のようだった。

『この引き金、あなたは――一緒に引いてくれるの?』

「まず……円高になれば、キャリートレードを行っているグローバル投資家は、一気に損を抱える」

「円で借りて、それを他国で投資している者たちは……円高になると、返済コストが跳ね上がる。

――つまり、円を買い戻す時に、為替差損が直撃する」

「……その時点で、利益はすべて吹き飛ぶ。

それどころか、追証マージンコールの嵐が巻き起こり、彼らのポジションを――崩壊させる可能性がある」

伊豆原の指が、信じられない速さでキーボードの上を滑っていく。

……もはや彼女の全身が、“情報吸収装置”と化していた。

「次に――日銀が利上げに踏み切れば、円建てでの借入コストが跳ね上がる」

その言葉が、まるで空気を刺すように――部屋に響く。

豪奢な室内に響くのは、伊豆原のノートPCが奏でる、チクチクとした打鍵音。

……それは、世界経済の理性が、目の前で静かに切り刻まれていく音だった。

そして今夜、なぜか僕は――その屠殺人の役を買って出ている。

……まるで、誰も聞きたくなかったドキュメンタリーのナレーターのように。

「貸出金利とリターンのスプレッドが縮小していく。

つまり――利ざやが消え、キャリートレードの旨味がなくなる」

彼女はうなずきながら、なおも――タイピングの手を止めることはなかった。

……それでも、ちゃんと聞いている。すべてを、逃さずに。

「三つ目――もしアメリカ、あるいは他の主要国の中央銀行が、利下げに踏み切れば」

僕は――一度、深く息を吸った。

……ここからが、本題だ。

「その瞬間――ジャパン・キャリートレードの利益構造が、一気に崩れる。

投資家たちは、ポジションを清算し始め、

……世界中のあらゆる資産から資金が引き上げられる」

「――そして、そこから始まるんだ。日本を中心とした、連鎖的な崩壊が」

伊豆原は――沈黙した。

それは“聞き流し”でも“考え込む”でもない、

……言葉の一つひとつを噛みしめる、静かな沈黙だった。

やがて――低く、だが確実に響く声。

「……続けて、先輩。あなたの頭の中にあるもの、すべてを教えて」

その声音には、不思議な圧があった。

命令のようでいて――どこか懇願にも近い。

いや、まるで――恋人が、“他の誰にもその思考を渡さないで”と懇願するような、

……そんな所有欲すら混ざった色をしていた。

僕は、視線を合わせた。

――近い。

彼女との距離が、あまりにも。

そして、その視線が――あまりにも真っすぐで逃げ場がない。

緊張で喉が詰まるのを感じながら、

……僕はそれでも、口を開いた。

「仮に――その三つの条件が同時に揃ったとしよう。

その瞬間、世界の投資家は一斉に“ジャパン・キャリートレード”から撤退し始める」

「……だが、問題はそれだけじゃない。

そのタイミングでアメリカ政府は、莫大な規模で国債の借り換え――“リファイナンス”を進めている真っ最中なんだ」

「……まさか、話がここまで飛ぶとは思ってなかったわ」

そう言った彼女は、ほんの少しだけ――得意げな笑みを浮かべた。

このタイミングでのその表情は……挑発か、それとも――自信か。

「もし私がFRBの議長だったら、たぶん……いや、確実に慌てるわ」

「利下げなんて、そんな軽々しくやれるものじゃない。

インフレ? 雇用? ……そんなものは、正直どうでもいいのよ」

「……本当に怖いのは、外的要因――“ジャパン・キャリートレード”という名の爆弾」

言葉を一度――切った。

「それを不用意に揺らせば……アメリカ国債市場の安定基盤が傾く。

その揺れは――やがて、世界の金融システムそのものを壊しかねない」

思っていた以上に、彼女は――黙った。


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