第十部
「だから……もう一度聞くわ。
この問題、先輩なら――どう解決する?」
正直に言おう。
この問いは……今までのどんな面接質問よりも、重く、危険だ。
なぜなら――今回かかっているのはキャリアなんかじゃない。
“無関心を装って生きてきた”俺という存在そのもの……なのだから。
俺は、視線をそらした。
消えたテレビの黒い画面に……答えが浮かぶことを願って。
だが、画面には……何も映らなかった。
映っていたのは――年老いて、迷いを浮かべた自分の顔だけだった。
俺は……ゆっくりと口を開いた。
「低金利という“安いお金”の流動性……
それは日本人の貯蓄文化が生んだ――副産物だ。
本来なら、その資金は……国内経済を救う力になれたはずなんだ。」
少し間を置き、続けた。
「だが現実は……政府がそれを“マネーグリッチ”のように扱い、
安く借りては、利回りの高い海外資産に――流してきた。」
伊豆原は……少しだけ身を乗り出した。
わずかだが、彼女の香りが――空気に混ざり、俺の感覚を侵食する。
「ふぅん……つまり、先輩は――このシステムがまだ“持つ”と信じてる?
少なくとも……私たちの世代が終わるまでは。」
その瞳は――瞬きもせず、俺を見つめていた。
言葉は、まるで極細の糸のように……静かに、でも確実に俺を絡め取る。
俺は……視線を落とした。
奪われたままのビール缶に……目を向ける。
だがそれすらも、逃げ場所には――ならなかった。
「でもね、先輩。私には、そんなに浅い思考をする人に……見えないの。」
彼女の指先が、そっと――ノートパソコンを開く。
数回のタップの後、画面に現れたのは……
グラフ、統計、金利、債務比率――
深く経済マクロを理解する者だけが読める、暗号。
そのまま、彼女は口元に――微笑を浮かべて、静かに言った。
「ねえ、先輩。……正直に教えて?」
その微笑みは――美しくも、悪魔的だった。
目を閉じて……全てを委ねたくなるほどに魅惑的だが、
彼女が狙っているのは――俺の身体ではない。
俺の「思考」だ。
そして彼女は、分かっている。
俺が……彼女には嘘をつけないことを。
俺は、肩をわずかに――すくめた。
それは、「疲れた」という……無言のサイン。
「日銀はもう、マイナス金利を解除し始めた。
2008年以来……初めて、本格的な方向転換に入ってる。」
「政府も量的緩和を停止した。
つまり、今の日本経済は……地面のない綱渡りをしているようなものだ。」
「下にあるのは、安定した土じゃない。
Japan Carry Tradeが支え続けた……二十年分の“不確実”という名の、深い深い奈落だ。」
伊豆原は……何も言わなかった。
ただ、ノートパソコンの画面を――指さす。
そこに映っていたのは、急落するグラフ。
いくつもの金融機関からのレポート、
そして――国内経済の将来予測。
どれもが、同じ一点を示していた。
“それ”は、もはや「起きるかもしれない」ではない。
……「確実に起こる」。
「先輩。もう、この国は――その段階に入ってるのよ?」
俺は、目を閉じて……静かに言葉を紡ぐ。
「ああ。俺も、そこまで来ていることは分かってる。
だが、あれは……始まりに過ぎない。
災厄はもっと深く、もっと長く、続く。」
彼女は――ゆっくりと俺の方を向いた。
さっきまでの“興味”とは……違う。
もっと根源的な、“真実”を求める眼差し。
「……教えて、先輩。」
求めているのは、技術的な分析じゃない。
ただの数字や用語では……ない。
彼女が欲しているのは、“勇気”から生まれた――“本音”。
そして俺も、分かっていた。
次に俺が語る言葉は――この夜の「意味」を変えるかもしれない。
あるいは……俺の「人生」すらも。
まるで、部屋全体が……罠で埋め尽くされているようだった。
何を言っても、“何も起きない”なんて結末には――決して辿り着かない。
……沈黙を選ぶこともできた。
だが――伊豆原の問いは、逃げ道を一つ一つ……燃やし尽くしていく。
残されたのは、ただ一つの道――
……前に進むこと。
それが、“解放”になるのか、“共倒れ”になるのか。
……分かりはしない。
「鍵は……アメリカ合衆国だよ、伊豆原さん。」
その言葉が――口からこぼれた瞬間、
もう……取り消すことはできなかった。
彼女は――再び、甘く微笑む。
この女……本当にこういう“愛情表現”が得意すぎる。
「へぇ、先輩。それって……ただの馬鹿な憶測?
でも――どうして、そこまで知りたがるのかしら?」
伊豆原は――脚を組み直し、目を細めた。
その表情は、非難ではなく……“選別”だった。
「アメリカ、か。
たしかに、今の状況は……悪くないとは言えないわ。
でも、外からの衝撃じゃなくて、内側の問題だと思ってたの。
だから……そこまで深く考えてなかった。」
彼女の声が……わずかに揺れる。
珍しいことだった。
今夜、初めて――俺が“1ポイント”を取った瞬間だ。
「たいていの破壊は、“過小評価されたもの”から始まる。」
そう言いながら、俺は……彼女の視線を真っすぐに受け止めた。
「歴史を見れば分かる。
すべての経済危機の発火点は――アメリカだった。」
「サブプライムローン、ドットコムバブル、ブラックマンデー……
世界恐慌ですら、アメリカ発だった。」
「それでも――今の君は気づいていない。
今、日本は……そのアメリカの“圧力”に押し潰されようとしてる。」
彼女は――ほんの少し、身体を傾けた。
口を開きかけて……だが、結局は――何も言わなかった。
「……ほう。続けて、先輩。」
囁くような声が、部屋の空気を――わずかに揺らす。
僕は――静かに、続きを話し出した。