第一部
2025年。
俺、神田吉兵衛、――35歳のサラリーマンだ。
給料は……高すぎて死ねるわけでもなく、低すぎて生きる希望が湧くわけでもない。
言うなれば、資本主義が一番好む“都合のいいレンジ”に、きれいに収まっているってことだ。
働くには従順すぎて、逃げるには貧しすぎる。――まさに資本の養分。
朝はいつも……デジタルコオロギの鳴き声、つまりスマホのアラームで目が覚める。
ここは、東京郊外の小さなアパート。――住んでいるのは、俺一人。
別に……一人が好きってわけじゃない。
ただ、この社会が俺に――「お前に恋愛喜劇のエンディングは用意されていない」と宣告してきただけだ。
テレビから流れる朝のニュースでは……作り笑いのキャスターたちが、どうでもいい話題をさも大事そうに語っている。
例によって――「景気は回復傾向にあります」とか言ってるけど、
何故か卵の値段は月に三回も上がったし、最近じゃ……米まで高騰し始めた。
「デジタル革命の真っ只中」と言いながら……提出書類は未だに紙とハンコ。
皮肉だよな。――でも、そんな皮肉だけが、今の俺を「まだ生きてる」と実感させてくれる。
少しゆるくなったネクタイを直しながら、駅へと向かう。
朝の満員電車……そこは、パーソナルスペースという概念が完全に消滅した空間。
香水、汗、そして――絶望の匂いが混ざり合った、メトロポリス独特の香りに包まれる。
この人の海の中で、俺はふと考える。
「……この中に、本当に幸せな人間っているのか?」
まあ……そんな問いの答えなんて、重要じゃない。
なぜなら、皆が――「平気なふり」をして生きているからだ。
それが、現代日本という“演技社会”の――生き方。
職場に着くと、俺は形式的な笑顔で挨拶した。
もちろん……その笑顔は目に届かない。
返ってくるリアクション?
――まあ、同じく空っぽな笑顔だった。
でも、まあ……これが人生ってやつだ。
このオフィスは、まるで歌舞伎の舞台。
皆が「働く人間」という役を演じていて――
その台本は、PDFの開き方すら知らない時代の老人たちによって書かれている。
席に着き、相変わらず遅いパソコンの電源を入れ……空っぽのスプレッドシートを眺める。
今日は月曜日。――人類の天敵とも言える曜日だ。
だが……今日は少し違った。
白髪が40%、人生への失望が60%でできたような上司が、俺のデスクに近づいてきた。
「神田、その子、もう来てるぞ。さっそく教えてやれ。」
眉が……少し動いた。
ああ、そうだ。東大から来た新人だ。
日本最高の大学を卒業した、輝かしき希望の星。
それを、俺が――“俺のような存在”へと育てる?
「……了解です、部長。」
二音節の返事。
いかにも日本的な上司の言い方――説明はしないが、全ては理解されている前提。
俺はそのまま彼に従い、無機質な廊下を歩いて……待機室へと向かう。
この職場の空気は、いつだって冷たい。
――それは、エアコンのせいじゃない。
誰もが「いかに自分が重要な存在であるか」を装うのに……忙しいからだ。
扉が開かれた瞬間、俺の眉が――また少しだけ動いた。
そこには、一人の少女が座っていた。
この……コーヒーと残業とエクセルだけで構成された空間には、あまりにも若すぎる存在。
だが、その瞳は――違った。
静かで、鋭い。
まるで……語らずとも全てを見透かしているような目だった。
「紹介しよう。君の後輩になる、出原真澄だ。
もう博士号を持ってる。――あとは察してくれ。」
博士号?……この年齢で?
俺なんか――昨日ようやくプリンターを自力で繋げて、
ひとりで勝利のガッツポーズしたばかりだぞ。
「……はい。」
短くそう返事をすると、彼女は――すっと立ち上がり、静かにお辞儀をした。
その所作は、柔らかく……それでいて一分の隙もない。
まるで……ファッション業界には頭が良すぎて、
この蛍光灯に照らされたオフィスには――美しすぎる存在。
「出原真澄と申します。二十九歳です。
どうぞよろしくお願いいたします、神田さん。」
その声は、優しく……それでいて決して弱くはなかった。
音の一つ一つに、上品さと余裕が滲んでいて――
それは無垢さから来るものではなく……明らかに、理解と達観からくるものだった。
「……後は任せたぞ。」
上司が――言う。
「出原さん、神田はな……実はかなりの切れ者だ。分からないことがあったら、何でも彼に聞いてくれ。」
切れ者?
褒めてるのか?――それとも皮肉か?
まあ……どっちでもいい。そういうのは受け流すに限る。
「……承知しました。」
彼女の返事は――簡潔で、それでいて端正だった。
上司が部屋を出た瞬間……空気が変わった。
静かになったはずなのに、どこか“密度”が――増したように感じる。
俺は椅子に腰掛けた。
プロっぽく振る舞おうとしたが……椅子は平成時代から使われてるボロさで、
いつギシギシ鳴るか――分からない。
少し間を置いて、彼女に問いかける。
「……ひとつ、聞いてもいいか。出原さん、本当にこの――息が詰まるような職場で働きたいと思ってるのか?」
彼女は……すぐには答えなかった。
代わりに、静かに足を組み替え、俺をじっと見つめた。
その視線と――薄い笑みは、礼儀正しさと軽い挑発の間。
まるで……俺の反応を計っているようだった。
「……選択肢なんて、ないと思いますから。」
そう呟く彼女の声には――乾いたリアリズムがあった。
「そもそも、私たちの世代って、“選べる理由”なんて、どこにもありませんよね。神田先輩。」
“先輩”と呼んだその瞬間……声がほんの少し低くなった。
たった半オクターブ――下がっただけ。
けれど、そこには微妙な揺さぶりがあった。
まるで……男という存在の重心を、ほんの少しだけズラす方法を、
彼女は――最初から理解していたかのように。
俺は……答えなかった。
いや、答える必要なんて――なかった。
どんな返答を返しても、立場を悪くするだけだ。
だから、最も安全な道を選んだ。
――つまり、すぐに研修の内容に入ることにした。
少なくとも……エクセルは、彼女みたいな目で俺を見てこないから。
だが、その研修は――決して静かなものではなかった。
彼女は、情報を驚くほど早く吸収した。
いや……“早すぎる”と言ってもいい。
まるで……既に全部知っていて、ただ「知らないふり」をしているだけのような感覚。
役を守るために。空気を読むために。
「……これが、うちの社内報告システムだよ。」
そう説明すると、彼女は頷きながら――言った。
「へえ……なるほど。ちょっと古いですね。でも、許可さえもらえれば、もっと効率的なものに作り直せますよ?」
その瞬間、彼女は――まっすぐ俺の目を見た。
まだ、笑っていた。
でも……もう分かる。




