第61話 ガチ百合サラブレッド
【前回のあらすじ】
琴緒「五侯爵も倒したし、マキナも帰って来た……けど何だ? この胸騒ぎは」
琴緒の視界を闇が覆い尽くしていた。
視界が、視界そのものが、蠢いている。
やがて、それがどこまでも深く黒く、あまりにも巨大な怪物であったと気づく。
翼を広げ、後ろ脚で立ち上がった、黝き竜。
『明治家琴緒よ、貴様は暴れすぎたのだ。余が自ら手を下さねばならぬ程に』
吐き出された竜の一息が、灼炎となって琴緒の全身を呑み込んでいく。
なす術もない、敗北。
そして、抗えぬ――死。
『余は魔王エムロデイ。貴様という後患の根を絶ち、地球を統べる者――』
終焉を知らせる声が、琴緒の耳底に生々しく響いていた。
*
カーテン越しの光に目を細めながら、琴緒はベッドの上で放心していた。
どうにも目覚めが悪い。内容はすっかり忘れてしまったが、嫌な夢を見た気がする。
五侯爵との激戦からすでに一週間が経つ。疲労も抜けきったつもりでいたのだが。
(おかしいな……幸せな気分で眠りについたはずなのに)
昨夜は舞魚の新作ギタープレイ動画を三十周も鬼リピしてしまった。可憐なビジュアルに心を奪われていたが、激しい曲調だったのが災いしたのだろうか。
(しゃーねーな。どうせ日曜だし、徐々にギア上げていくとすっか)
不哀斗は空手部の朝練だし、レもんも相変わらず物探しだか人探しだかに出歩いているはず。家には琴緒一人だ。
そう思って、寝間着のまま一階に降りると、珍しく母親がリビングにいた。
「あれ? 帰ってたのか」
「おはよう。琴緒はお寝坊さんね。取引先からお肉頂いたんだけど、食べる?」
めいじや楽器店の社長様々だ。
「肉!? 食いたい!」
「それじゃ、朝ご飯作ってあげるから。着替えてらっしゃい」
身支度を済ませた琴緒がダイニングに移ると、エプロン姿の母がテーブルに食事を用意してくれていた。
「わたしは朝ご飯もう済ませたから。さ、召し上がれ」
メインディッシュは熱々のステーキ。ぱっと見、五百グラムはありそうだ。
「やっぱ朝メシといえばコレだな! いっただっきまーす!」
フォーク一本で持ち上げた肉塊に、琴緒は夢中でかぶりついた。口の中が肉汁で満たされ、頭の中は脳汁で溢れ返る。
サイドディッシュも華やかだった。ハーブの香りがほのかに漂うオニオンスープや、バルサミコ酢の効いたルッコラとトマトのサラダは、ステーキとの相性も抜群だ。
しかし何といっても、みずみずしく香ばしい白米との組み合わせこそ、王道にして至高である。
(美味ぇええ……!! 今日一日を生きる活力が無限に湧いて出やがるぜ……!!)
恍惚感に酔い痴れながら、琴緒はふとテーブルの向こうに目をやる。
母は目を細めて娘を見守っていた。
「どうしたの? 遠慮せず食べていいのよ?」
柔らかな眼差しが、どうにもくすぐったい。
「マ……母さん、最近オレに優しいからさ。何か調子狂うんだよな」
琴緒が答えると、母は肩をすぼめてうなだれる。
「ごめんなさいね。日に日にあの人そっくりに成長していくあなたを見ていられなくて、素っ気ない態度を取ってしまっていたわ」
愛する人が失踪したつらさを思うと、母を責めることはできなかった。舞魚という恋人を得た今、琴緒はなおのこと実感する。
「別に謝られるほどのことじゃねーって。それより……ずっと聞きそびれてたけど、オレの父親のこと教えてくれよ」
琴緒が意を決して切り出すや、母は目を丸くした。
「父親? あなたに父親はいないって、随分昔に言ったはずだけど」
「ガキん時の話だろ。オレも分別のつく年頃だし、どんな事情があったって驚きゃしねーよ」
母は少し考え込んだ後、腑に落ちたような面持ちで口を開いた。
「どうもわたしの言い方が悪かったみたいね。琴緒にいるのは父親じゃなくて、もう一人の母親よ」
「何だ、そっちかぁ…………………………は?」
今度は琴緒が目を丸くする番だった。
*
琴緒の母――明治家和音は、幼い頃から誰もが認める優等生だった。
高校のクラスに、やたらと親しくしてくるヤンキー女子がいた。初めは疎ましく思っていた和音だったが、いつの間にか彼女の真っ直ぐな人柄に惹かれていった。
やがて二人は恋人として交際を初め、将来を誓い合うまでになった。
「錬金術ってのは、俺たちの子どもまで作れんのか」
「わたしが大学を卒業したらの話よ。あなたさえよければ、だけど」
「いいに決まってんだろ。娘が出来たら名前は『琴緒』にしようぜ」
人造人間の素材となる髪を、彼女から受け取って間もなく、別れは訪れた。
彼女が働く建設現場での事故だった。
落下する鉄骨に巻き込まれようとした歩行者たちを、彼女は身を挺して助けた直後、いなくなってしまった。
目撃者は多数いたにもかかわらず、何の手がかりも見つからず、行方知れずのまま。
一人残された和音は、彼女が消えてから三年後、かねてからの約束を実行する。
*
「で、オレが生まれたってわけか」
「寂しさを埋めるためのエゴだってことは自覚していたわ。それでもあの時のわたしは、あの人との約束を果たすことでしか、生きていく意味を見出せなかったの」
そう語る母の表情は決して暗くはない。
母が今を生きていく支えに、自分が少しでもなれていればいいなと、琴緒は思った。
「話してくれてありがとな。それから、ごちそうさま」
「お粗末さま。言っておくけど、わたしは全然悲観してないわよ。あの人はきっとどこかで生きてるって、信じてるから」
母の愛した人が、人助けを厭わないヒーローでよかった。
「オレも信じるよ」
*
朝食の腹ごなしも兼ねて、琴緒は部屋でベースの練習をしていた。
スマホに着信が入る。電話の相手はマキナだ。
元気かい、琴緒クン――いつもの気の抜けた挨拶から会話が始まる。
「昨日は連絡つかなかったけど、また何かトラブってんじゃねーだろな?」
『すまない。少しばかり交渉事が難航してしまってね。計画を練り直していたところさ』
このところマキナが忙しくしているのは、琴緒も知っていた。パルヴェークから生前贈与された不動産などの手続きがあるらしい。
ちなみに、出海西高校の旧校舎を破壊した件もマキナに仲介してもらった。結果的に解体費用が浮いたので、琴緒たちの暴挙については不問となった。
「そっか。あんま心配させんなよ」
『ふふっ。ワタシも愛されてるねぇ。嬉しいよ』
「バーカ。あんたに何かあったらバイト代入んなくなるだろーが」
そんな他愛のないやり取りで終わればよかったのだが。
『そうだ。バイトの件で話があったんだ』
「もしかして、三公爵とかいう奴らが動き出したのか?」
琴緒の勘は当たっていた――この時点までは。
『ご明察。そこで一つ、キミに提案があるんだが……』
「何だよ。勿体ぶりやがって」
『琴緒クン。次の戦い、あえて負けてみる気はないかい?』




