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ダイヤモンド

作者: 李苑隆之

暗めの話が多いです。

「ここは、どこ?」

目を開けると、ガラスのような透明な窓に囲まれた部屋にいた。窓の外には何も見えない。ただ明るい青空が広がるだけで、地も海も雲さえも見えず、まるで空の孤島にいるかのようだった。

白い服を着た少女は、手をついて立ち上がる。


ピー

電子音が突如鳴った。

「なに?」

その問いに答えるように、どこかから途切れ途切れに電子的な声が聞こえてきた。

『さき・・・すすん・・・そこか・・・出て・・・』

「だれ?」

電子音は答えることなくぷつりと音を閉ざした。


「だれ、かはわかんないけど、とりあえず、ここから、出ればいいんだね。」

少女は何もわからないまま、ただそのことに特段何も感じることもなく、ただゆっくりと目の前に見える扉へ向かう。水色の扉は窓の外の空と同化し、白いドアノブが浮いているように見える。


「ん、開かない。」

鍵がかかっている。


何かないかと後ろを振り返ると、その部屋には異質な石像があった。同じ背丈ぐらいの高さの、ただの人が石化したような像だった。

前から見ると、見覚えのある顔をしていた。

「これ、わたし?」

少女は顔をゆがめることもなく、少女自身の石像を見た。足元には何かその題のようなものが書いてある。


『わからないまま朽ちていく少女』


「?よく、わからない。」

ふと何かを思い、少女はその石像の頬に触れた。

「冷たい。」

ガチャリ

向こうの扉の、鍵が開く音がした。

「開いた?」

何がトリガーなのかはわからない。わからないまま、少女はそれを気にも留めず、扉を開け、次の部屋へと足を踏み入れた。




目前に現れたのは灰色の壁だった。開けた扉は独り手に閉まり、鍵の閉まる音がした。

「もどれない」

先程の部屋とは一転して、全面灰色に染まっている。そのせいか部屋は暗く、壁は少女の行く手を迷わせ、先の見えない道が続いている。

「とりあえず、こっちにいこう。」

少女は右へ進んだ。壁に片手を当て、伝いながら適当に曲がっていく。

正解なんてわからない。けれど、なぜかこの道で合っているような気もした。


ひらけた場所に出た。

次の道はどこにもない。行き止まりだ。だが、ここにもまた、石像があった。

「これは、だれ?」

少女より一回り背の高い男性の像。会ったことはないと思うものの、断定はできなかった。彼は呆気にとられたような顔をして立っていた。


足元の題を読むと、そこには、

『どうして、』

と書かれていた。


「どうして?」

少女がその題を声に出して読んだ直後、その石像が音をたてて壊れた。

「えっ」

石像の中から出てきた、赤い目をした彼は血塗られたナイフをかまえて、少女の前に立ちはだかった。


『どうして?「にげ・・・」どうしてどうして』

電子声に途中彼の肉声のようなものが挟まった。

少女は何もわからないまま、彼の言う通り、来た道を引き返す。


『どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして』


たわごとのように同じ言葉を繰り返しながら、彼はナイフを振り回して追いかけてくる。風を切る度に、灰色の壁に赤い液体が飛びつき、じわと染みついていく。


少女は走った。すぐ後ろにいるのはなんとなくわかった。後ろなんて気にしていられないと、何も思わず、何もわからず、ただ走った。


ふと、白いドアノブが視線の先に見えた。

「あっあそこだ」

少女は追いつかれぬように慌てて、次の部屋への扉を開けた。途端、身を囲っていた灰色の壁が霧散した。それと同時に少女を追いかけていた彼も粒子となって、少女の頭へ飛び込んできた。

「なに?」


~~~~~~~

「ただいまー」

先程まで少女を追っていた男性は、スーツを着て自宅へ入った。

「あ、あなた、おかえり。」

「ああ、ありがとう。」

綺麗で、優しそうな女性が彼を出迎えた。


「今日は、どうする?お風呂、入る?」

「んー、今日はいいかな。お酒も飲んできたし、今から入ると危ないような気もするから。」

「そう。じゃあ、いつもみたいに、温かいお茶、入れて待ってるね。」

「うん、ありがとう。」

彼はその女性の頬にそっと口づけをして、自分の部屋へ向かった。


パジャマに着替えていると、開きっぱなしのドアをノックする音がした。

「ん?どうした?」

「あなた、着替えてるの?あ、そのままでいいわ。」

不思議そうな表情を浮かべながら、彼はシャツを着て、そして、自分のシャツが真っ赤に染まっていることに気づいた。


「え?」

お腹が熱い。身体をまさぐると、ナイフが刺さっている感触がして、その場で嘔吐した。

かろうじて後ろを向くと、彼女は今まで以上の笑顔を浮かべていた。

「どう、して」

「あら、どうしたの?そんな驚いた顔して。」

笑顔のまま彼女は首を傾げた。


「君は、本当に、君なのか?」

「まあそうねぇ、驚くのも無理はないわね。でも、ざんねん、私なのよ、あなた。いやぁ、やっぱり、この表情が溜まらないのよね。信頼して愛していた妻に殺される夫。うーん、快感!気持ちいいわぁ、濡れてきちゃう。」

恍惚としている彼女の顔を見れば、もう驚き以外の感情は浮かんでこなかった。


「どう、して」

答えはもう聞いたはずなのに、問いばかり尋ねてしまう。

「あら、しぶといわね。今回はちょっと刺し方、間違えちゃったのもあるのよね。もう一刺しいこうかしら。ばいばい、あなた。」

その言葉を最期に、朦朧とした意識は二度目の凶刃を迎えて落ちた。

~~~~~~~


「はっはぁはぁはぁはぁ」

あまりの現実感に驚き、少女は膝に手をついた。記憶の片隅で何かがリンクした気がして、頭痛がした。少女の目の前には、血塗れた男性の透明な姿があった。


『どうして、』

彼の姿は今度こそ、かき消えた。まるで少女に何かを伝えるという役目を果たしたかのように。壊れた石像を尻目に、少女は次の部屋へと足を踏み入れた。




「なにここ、あつい」

陽炎のように景色が揺れて見える。太陽の姿は見えないが、壁面が橙一面なこともあるのか、体感温度が高いように思う。夏の暑さのように、じりじりと少女の長髪が焼け、床の鉄板のような熱さが早くここから出たいと思わせる。


扉が揺れて見える。少し遠いようにも見えてくる。少女は死に物狂いで歩いた。

「ふぅふぅ」

吐息が漏れ、汗が滴り落ちていた。先へ進むにつれて地に落ちた汗がじっと消えていく。なのになぜか喉の渇きは生まれない。

「あ、あった」

もはや見慣れた石像があった。衣服をはだけた、髪の短い女性がそびえたっていた。

この暑さを物ともしていないのに、彼女は顔をしかめている。


「ふぅ、やっとついた」

少し疲れて題の前に座り込んだ。こんなに暑いのに意識が朦朧とすることはない。

熱い息を吸って決心をすると、少女は横の題を読んだ。


『何もかもをゆるせない』


目の前の石像から爆音がしてガラガラと崩れ、中から真っ赤な顔の女性が現れた。突然の大音量に少女は肩をひっこめて驚いた。爆音の源がこれだけ近いのに爆風がいつまで経ってもこないことを不思議に思っていた。


じっと見上げる少女には目もくれず、彼女が口を開いた。

『ねぇ、私の何が悪かったの?そんなの、だめじゃん、なんでそんなことするの?』

虚ろとした目で空に語りかけている。


彼女は少女の前に立ち、口を開けた。

「に、げ、て」

そういった動きをしている気がした。少女はそういわれることがわかっていたかのように、熟れたりんごのように顔が赤くなっていく女性に背を向けた。


『愛してるって言ったのに、なんで私の元から離れていくの。幸せでいいねって言ったのに、なんで私から幸せを奪うのよ。笑わないで、私を、笑わないで!』

言葉が放たれ爆発する。耳が割れんばかりの音を出しながら、彼女は少女にゆっくり近づいていく。


『ゆるさない。ゆるせない!何もかも、進くんも真帆も、そして、私も、ゆるせない』

追いつく気配はない。早足で追ってくるような気配もない。だが、少女は後ろを振り返らず、焦げそうな熱さの中、死に物狂いでドアノブを掴んだ。その瞬間、頭に何かが飛び込んできて、意識は埋め尽くされた。

「こんどは、この人の?」



~~~~~~~

「とうとうあんたも幸せ者になったんだよねぇ」

「うるさいわよ、もう、でも、進くん、すごい優しいんだよね。」

いつもの喫茶店。人通りが多いのに店内が閑散としているのは今が、平日の午前だからか。目の前にいる真帆は大学の頃からの友人だ。クラブも一緒で、大学生活はほとんどずっと一緒にいた気がする。彼女はすでに結婚していて、幸せな日々を過ごしている。


「で?私を呼んだのは、惚気を聞かせるため?」

「なわけないじゃん、真帆。いやぁ、私にも彼氏、できたでしょ?ダブルデートしない?土日でも全然いいからさ。」

「もちろん、いいよ。どこにする?あ、待って、ちょっと後でもいい?私、今から彼に忘れ物届けにいかなきゃいけなくて。」

「ええ、そういうとこあるよね、別にいいけど。」

「ごめんねっ行ってくるっ」

そう言って真帆は荷物を持ってそそくさと喫茶店を出ていった。止める間もなく彼女は行ってしまった。


携帯を触って数時間。何杯目かのコーヒーもすっかり冷めてしまった。彼女も全然戻ってこないし、メールを打っても何も帰ってこない。けれど、彼女に至ってはこんなことはざらにある。一応、と電話をかけてみると、息を切らした様子で「ごめん、今はちょっと」と返ってきた。待ってるんだけど、とそう思いながらも、我慢する。こういう状況はこれまでにも何回かあった。


「またか、こんなことさえしなければいい友達なんだけどなぁ」

人に会う前に、やらなければいけないことは済ませておくのが普通なんだろうけど、彼女はそれが苦手なのだそうだ。そういわれれば仕方がないとしか言いようがなくなる。

私は無意味な時間を過ごした喫茶店を後にして、帰路についた。


「あれ?」

駅に向かう途中、繁華街を通っていると、視線の先に彼氏である進くんがいるのが見えた。

喫茶店で待っていたと言ってもまだ午後2時。仕事が終わるには早すぎる。

そう思って、目を凝らすと、隣には先程まで一緒にいた友人真帆の姿があった。

「え、なんで?」

私は信じたくないことを確かめるため、強気で彼らの元まで歩いて行く。


迫りくる人混みを避けてただ彼らだけを狙って歩いていくその様は、傍から見れば不審であった。そのせいか、彼らは自分たちに近づいてくる存在に早くに目が付き、進くんはなぜか焦った様子を見せていた。

「真帆。こんなところにいたんだ。進くん、二人で腕組んで何してるの?」

「ち、違うんだ!聞いてくれ、こ、これは」

進くんの言い訳を遮るように、真帆が口を開いた。

「ごめんね、また、奪っちゃった。」

進くんに目を向けると、顔を逸らしていた。その状況に耐えきれなくて、私はその場から走って離れた。


「ねえ、なんで、離れていくの?愛してるって言葉は嘘だったの?ねえ、なんで奪うの?幸せじゃんって言葉は何?」

そうつぶやいて走っていると、腸が煮えくり返るほどの怒りが込み上げてきた。

「どうして私だけがこんな目に合わないといけないの!真帆が、進くんが、悪い!何もかも許せない。」

気づけば、涙の混じっただみ声で、人目を気にせず叫んでいた。心から溢れ出る強気が、私の踵を返し、顔を真っ赤に染めていた。


「何もかも、許さない。」

~~~~~~~~


「ゆるさない。」

少女はそうつぶやいた。彼女の怒りが移っていた。


ドアノブを掴んでいただけだったはずなのに、気づけば次の部屋に足を踏み入れ、扉が閉まりかけていた。前の部屋の温度は急速に冷め、窓も床も天井も全て透明に変わり、いつの間にか彼女の姿も霧散して消えていた。





「涼しい。いや、ちょっと寒いぐらいかも。」

どこかから冬の、少し冷たい風が吹いている。先へ進む道はまた暗闇だが、曲がり角に篝火が置いてある。ほんのりと足元を照らし、火のそばは少し温かい。


一歩足を踏み出すと、ガコンッと奇妙な音が鳴り、目の前を少女の顔の数倍大きい鉄球が勢いよく通り過ぎた。

「わぁっ!」

少女は急な出来事に驚いた。鉄球が返ってこなさそうだと感じ、少女は慌てて前に進んだ。


「びっくりしたぁ。」

以降も、ナイフが落ちてきたり、落とし穴に落とされかけたり、当たれば死ぬ罠が無数に設置されていた。少女はそれに臆することなく、時折驚きながら淡々と進んでいった。


「こんどはなんだろう。」

ひらけた場所の端っこに、うずくまった少年の石像があった。目を凝らさなければ、暗がりのせいで気づかないほどに存在が薄い。少女は罠を抜けたときと何も変わらない速度で、それに近づいていった。もはや恒例となっているこの石像。


「どうしてこの人たちはこんなところにいるんだろう。」

その問いも誰かに当たり跳ね返ることもなく、宙に消えていく。

「えーと、」

少女は石像の題を読む。


『やめて!お母さん、やめて!』

音もなく石像が崩れてその場にうずくまる少年がいた。

「だ、大丈夫?」

少女は少年の怯える姿を見ていられなくなって、少年に恐る恐る声をかけた。


『ヤメテ!オカアサン、ヤメテ!」』

機械的なノイズが入ったようなしわがれた電子音が言葉を成す。

少女はそんな少年を心配そうに見つめ、何に彼は恐れているのかと戸惑いながら、ゆっくり近づいていく。


「大丈夫?」

『クルナ!ヤメテ!ウ、アアアアアアアアアアッ』

身体に触れるほどに近づいた瞬間、少年の姿が掻き消え、少女の意識に飛び込んだ。



~~~~~~~

「おまえの教育が!悪いからこうなったんだろ!え?何、泣いてんだよ!許してねぇぞ、クソ女がっ!」

鈍い音が部屋に鳴り響く。僕は居ないふりをしてふすまの裏に隠れることしかできない。ただお母さんがお父さんに殴られ蹴られているのを見ることしかできない。いや、もう、あんな人、お父さんなんて親しい者じゃない。いつからこんなつらい日々になってしまったんだろう。

「もうやめて!」

聞きなれた阿鼻叫喚があがる。情けなく思う。玄関の扉が乱暴に開くたびに、肩が震えるようになってしまった。だが、お母さんはまだ、あの人が優しかったお父さんにいつか戻ると思い続けている。あんなに痛いのに、これが夢じゃないことをわかっていない。


「次やってみろ、殺すぞ」

そう言って男は家を出ていった。それがいつもの捨て台詞だった。毎度毎度本当の殺意を向けられている気がして身震いしてしまう。

「お母さん、大丈夫!!」

僕はいつものようにお母さんに駆け寄った。血の滲んだ傷の処置にももう慣れた。慣れたくはなかった。桶にお湯を入れ、常備しているガーゼを持ってくる。

僕は濡れたガーゼをお母さんの傷に当てようとした。


お母さんはどこかいつもと違っている気がした。

「ねぇ」

「ん?何?お母さん」

僕は手を止めた。それは虚ろな目でうつむいていたはずのお母さんが、血走った目で僕を見ていたからだ。


「なんであんたは殴られてないの?」

「え?」

「あんたがいるから!あんたがいるから、あの人は変わったんじゃない!なのに、なのに、なんであんたは殴られてないの!」

強い言葉が僕を襲った。心を殴られたような感じがした。


「あの人が優しい人に戻らないのも、全部あんたのせいじゃん!」

お母さんは涙を流しながらそうわめいていた。

「あんたが!」

僕は頬に衝撃を受けた。お母さんに初めて殴られた。彼女のその形相は、あの人と同じだった。


彼女は膝立ちで、ひたすら僕を殴った。

「あんたが!お前が!お前が、いなければ!」

「うぐっ」

その目はもう僕を見ていなかった。


「やめて、」

僕はかすれた声で訴える。

「やめてよ、お母さん、戻ってよ、優しいお母さんに。」

そう言った瞬間、お母さんのあの人への思いを理解した。そして、もう僕は変わってしまったお母さんに恐怖し戻ることを願うことしかできないことも理解した。


「お前がぁぁ!いなければ、いなければぁ!」

「やめて、お母さん、やめて!」

僕の声はもう喉から出ていなかった。声になっていなかった。


やめてよ


そう思うことしか、もうできなかった。

~~~~~~~


「いたいっ・・・。あ、いや、終わった?」

恐る恐る目を開けると、少年の姿さえ消えていた。脳裏に彼の母の面影が強烈に残っていた。

気づけば、石像があったところに扉が現れ、勝手に開かれていた。


少女は後ろを振り返る。間一髪で避けた無数の罠を見て、初めて怖いと感じた。あれに当たっていたらきっと、と思い、少女は身を震わした。


次は誰のどんな物語を見るのか、とそう思いながら少女は次の部屋に足を踏み入れた。




そこはただ広い空間だった。何もない、いや、ただ真ん中にぽつんとお墓があるだけだ。何も供えられていない。扉も見えない。墓前にはわびしい背中を見せる初老の男性が石の上に座り、墓に語りかけているように見える石像があった。


「石ばっかり」

その様子が寂れた雰囲気を醸し出していた。静かに近づき、石像の題を読んだ。

『また、忘れていた』

「何を?わかんない」

石像が崩れた。


『お嬢さんが一人で、こんなところに来るなんて珍しいね。』

語りかけられたようで、少女は驚いた。


「おじいさん、喋れるの?」

『お嬢さんに、私の、どうしようもなく寂しいお話をしてあげよう』

どうやら少女の声は聞こえていないようだった。おじいさんはこちらを向くこともなく、その電子音で喋り出した。勝手に脳裏に映像が流れ出し、少女は優しい声に誘われて目をつむった。



~~~~~~

机の上に置いていた電話が鳴った。

「はい、もしもし」

『あ、こちら、木田様のお電話でお間違いないでしょうか?砧市警察署の者です。』

「あ、はい、間違いないです。」

聞き慣れない、若い女性の声が耳に刺さる。身に覚えのない用件で、少し慌てる。


『木田良枝様の身内の方でしょうか?』

「あ、はい、夫です。」

良枝は今朝散歩に行ったきり帰ってきていなかった。いや、病院か?息子夫婦の家だったかもしれない。いずれにせよ、警察の厄介になるなんて、そこまで彼女がボケているはずはない。


『木田良枝様の遺留品が見つかりましたので、近いうちにお尋ね願えませんか?』

「遺留品?何を言ってるんだ!良枝はまだ死んでない!今日もいつものように、朝早く散歩に行って、それで・・・」

『辛いお気持ちはわかりますが、その旨お伝えしましたので、何卒お願いします。失礼します。』

迷惑なことだけを言って、電話は切れた。

「なんだ、これだから最近の若い者は」

私は今の愚痴をいい話ができたと手に提げ、部屋の仏壇に向かった。


写真の向こうで良枝が笑っている。

「さっきな、良枝が死んだと、お前の遺留品が届いてるって警察から電話がきたんだよ。良枝、死ん・・・」

そして私はまた忘れていたことを思い出す。

「ああ、そうだった。良枝はもういないんだった。あの日、散歩に行ったまま津波が来て、それで、ああ・・・。」

誰にも届かないため息が漏れる。忘れたことを思い出すこの瞬間、自分が生き続けている理由を見失う。


「ああ、良枝の忘れ物を見つけて向こうに持っていくために、生きてるんだった。」

私は仏壇に手を合わせ、立ち上がった。

「警察へ行こう。」

私は鳴りやんだ携帯を手に取り、息子へ電話をかける。留守電でもいい。そう思って、電子音が喋り出した瞬間に私は口を開いた。


「もしもし、この伝言を聞いたら私に折り返し電話をしてほしい。良枝の遺留品が見つかったから警察へ行ってくる。私はまた、忘れているかもしれない。頼んだ。」

『おかけになった電話番号は現在使われておりません。』

虚しい時間がその場を支配した。


~~~~~~~~


夢から覚めた少女は涙を流していた。記憶にないという悲しさが身近である気がして、少女は自分を疑っていた。


「わたしは、どうしてここにいるんだろう。なにか、おもいだせないなにかがあるってこと?」

本来なら最初の部屋で抱く疑問を、少女はここで感じた。


石像はすでになく、視線の先に扉があった。

「とりあえず、すすもう」

首を傾げながら、少女は次の部屋へ足を踏み入れた。


「いったいわたしは、どうしてすすんでいるの?」

その問いは誰に当たるでもなく霧散した。





部屋に入ってすぐ右に机がある。机の上にはどくろマークのある紫色の液体が入っているびんが3つあった。

「毒?」

『それ、飲んでよ、かわいいお嬢ちゃん。』

どこからか、若い女性の声が聞こえた。声のした方をきょろきょろと探すと、黒い革のソファに若いお姉さんが足を組んで座っているのが見える。よく見ると、床はフローリングで、ここはどこかの家の中のようにも思えた。


「え?こわいよ」

『そう?じゃあ、私が飲ませてあげる。』

そう言って彼女は近づいてくる。


「石じゃないの?」

『何を言ってるの?あなた。』

彼女は机にある毒の瓶を無造作に1つ取って、蓋を開ける。目線の高さまでしゃがみ、少女の頬をぐいっと掴んだ。一つ一つの動作が荒かった。


『飲めよ、なあ、飲めよ!』

「こわい」

ふと、彼女のポケットに小さい紙が入っているのが見えた。少女はどうしようもなくそれが気になって、毒を飲まされずに紙を取ろうともがいた。


『嫌でしょ!ねぇ?嫌でしょ!ほら、泣き叫びなさいよ、嫌だと!』

「いや・・・。わからない。こわい」

『なんでわからないの?あなたも私と一緒の思いをするのよ!』

彼女は瓶を逆手に持ち、少女の口に押しやった。少女は必死に口をつぐむ。


「んん」

気づけば彼女は涙を流し、その涙は床に落ちて石のように割れていた。少女は口の中に流れてくる毒を飲み込むまいと息を止めながら、かろうじて紙を奪い彼女の題を暗唱した。


『嫌だって言えない自分が嫌だ』

毒も彼女の姿も圧迫された感じも消え、少女は意識を奪われた。



~~~~~~~

「フ~~~~!!」

パーティー帽子を被った男が、ミラーボールの照らす部屋で、ソファの上に立って腰をくねらせている。外に漏れているのではないかと不安になるほどの大音量のダンスミュージックが、耳を馬鹿にする。私は肩を組み踊り狂っている彼らを見ながら、一人ため息をついていた。


「どうしてこんなところに来ちゃったんだろう。」

元々私は大学の友人と飲み会に参加していた。大学こそは華々しい生活を、と思い立って、週1で遊びに出かけるサークルに友人と入ったものの、私にはやはり合ってなかったと最近思うようになった。でももう遅い。今更やめるとは言い出せず、今日もまた二次会に来ている。今日は何かの記念日だそうで、一緒にサークルに入った友人も先輩に連れられてここに来ていた。


「どう?優ちゃん、楽しんでる?」

「え、まあ、はい。」

大して喋ったことのないチャラそうな先輩が話しかけてきた。優ちゃんなんて呼ばれたこともない。馴れ馴れしい彼にやめてというのも場を壊す気がして、何もツッコめなかった。


「どう?踊んない?ほら、こっち、来なよ」

誘われて部屋の真ん中の方へ行く。友人が「あら、優、どこにいたの?」なんて、身体を揺らしながら声をかけてくる。

「ほら、こっちこっち。踊ろうよ。」

金髪ピアスの彼が私の腰に手を回し、身体を揺らしだす。微妙に触れている手に違和感を感じながらも、この場をやり過ごそうと身体を横に揺らした。


「さぁ、お待たせしました、みなさん!ここで、特製ドリンクを配りまーす!」

サークルの部長が、マイクを片手に、彼の言ったドリンクらしき紫の液体を片手に、乾杯の音頭をとる。

「行き渡ったー?まだまだ夜は終わらなーい、はい、かんぱーい!」

男女の浮かれた乾杯の声が聞こえる。隣の男も「ほら、優ちゃんも、ほらほら」と言い、毒々しいドリンクを渡してくる。

「はい、どうぞ、ほら、乾杯」

「あ、はい」

グラスを合わせる。得体のしれないこの液体を何の抵抗もなく飲めるほど、私の頭のネジは外れていなかった。


「ほら、飲みなよ」

「あ、ちょっと、後で喉乾いたときに飲むので。」

「あ、そう?じゃあ、ほら、踊ろうよ。」

音楽に飲み込まれて私の声すらあまり聞こえない。断り切れない自分に嫌気がさしていた。


目に焼き付く蛍光色の残滓が、今もミラーボールから照らされる蛍光色と重なって目が痛くなってくる。その向こうで、友人が「ちょっと熱くなってきた、はぁ」と艶めかしい声をあげている。彼女のドリンクはすでに3分の1しか残っていなかった。友人の横にいた先輩が、彼女にひっそりと何かささやいている。それに納得したのか、友人らはそっと部屋を出ていった。数人の男がそれを見て、後をついていった。


「え、あれって・・・。じゃあ、これは・・・」

友人を助ける気持ちより、自分も同じ目に会うかもしれないという不安の方が高かった。

「ねぇ!優ちゃん、聞いてる?」

先輩から話しかけられていたことにやっと私は気づいた。


「ドリンク、早く飲みなよ」

彼のその目は血走り、もはや正気ではなかった。

「え、い、いや、」

「飲まないの?」

「あ、あの、」

嫌だと言うのは今なのに、口からその言葉が出ない。


「部長、先輩、ちょっと手伝ってもらっていいですか?」

先輩は近くにいた数人の男を呼び、私の頬を掴んだ。

「なぁ、早く飲めよ。あ、先輩抑えててください」

抵抗できないように手足を掴まれる。片手で頬を掴んだ先輩が、逆手で私のドリンクを持ち、私の口にねじ込んだ。


「んんん!」

口の中に液体が入ってくる。私は必死で飲まないように息をとめた。

「こいつ、息を止めてるな、先輩お願いします。」

その言葉を聞いた直後、お腹に鈍い衝撃が走り、私はうめき声をあげる。

「や、やめて、嫌だ、嫌だ!」

「言うのが遅いよね、やっと飲んだ。先輩、じゃあ俺はちょっくらこいつをあの部屋に持っていきます。」

「オッケー、後から行くわ。」

意識のかすれる向こうで彼らの軽い言葉が聞こえた。視界は靄がかかったように薄暗くなり、正気を保てなくなった。

~~~~~~~


少女は息を大きく吸った。口に流れてくる何かも毒の瓶も彼女の姿ももうそこにはなかった。

「はぁはぁはぁ、こわかった」


部屋に入るたびにいろんな人の辛い記憶を体験すること。これからも続くかもしれない、次の部屋も心がかき乱されるような、頭に歪な音が鳴り響くような、そんな感情を抱くかもしれない。もう嫌だ、怖い、とその思いが少女の足をその場にとどまらせる。


次の部屋への扉の前で、少女は考える。

「でも、しりたい。わたしがなにをわすれてるか、なにか、たいせつなこと」

その決心が足を突き動かす。少女は何かを知りたい一心で、新しい部屋に足を踏み入れた。





「え?なにここ」

少女は横断歩道の真ん中にただ立っていた。信号は赤。ただ一人の男性がこちらに手を伸ばして、何かを叫んでいるかのように口を大きく開けたまま固まっている。否、毎度のように、彼は石像になっていた。

時が止まったようなこの世界には、少女と彼しかおらず、少女に猛前と向かう途中のトラックにも人はいない。


「あの家・・・いたっ」

横断歩道の先、茶色の屋根の一戸建てに少女は見覚えがあった。と同時に、頭痛がした。かすかに蘇る記憶の中にあった。

「わたしの家だ」

それを見ても何も感じられない。けれど、少女はその扉の向こうがとても気になった。


少女は男性のことを無視して、家の方へ足を進めようとして、何かにつまずきこけた。

「これは、」

題があった。まるで少女が石像を放って家の方へ歩き出すことがわかっていたかのような場所に、題があった。


『もし、動けていたら』

男性の手が少女に勢いよく伸びてきた気がした。



~~~~~~

赤信号の横断歩道の真ん中で真っ白な服を着たかわいらしい少女が佇んでいる。

僕はあまりの異質さに少し見惚れていた。


「あっ」

現実に引き戻されるように、その少女めがけてトラックが走ってくる。トラックの運転手でさえも、まさか、逃げることもなくただそこに少女が立っているなどとは思わなかったのだろう。スピードは緩まる素振りすら見せず猪突猛進にその交差点へ入ってくる。

「待って」

声がかすれた。


今僕が少女に手を伸ばして、向こう岸まで、あるいはこっちまで引き連れていけば間に合う距離だった。

お嬢ちゃん、とそう呼んでもきっと気づかれない。何て呼ぶのがいいのだろう。いや、そもそも、もし何かあって僕まで死んじゃったらどうしよう。


僕は迷いだした。飛び出す勇気がなくて身体が動かなかった。

その間もトラックはとどまることを知らない。

「あぶない」

無理矢理絞り出した声も小さくマスクの中に消えていくだけだった。


僕は今何をしているのだろう。傍から見れば、トラックに吹っ飛ばされて死んでいく少女に手を伸ばしながら見る変態か何かか。幸い、いやもはや不幸なことに、ここには誰もいなかった。いるのは少女と僕とトラックだけだ。

僕は迷いを切って、改めて息を大きく吸い込んだ。


「あ!あぶない!」

されど、そのセリフはトラックのクラクションにかき消された。少女はトラックが来ることを予感していたかのように、その方を向いてふっと笑った。


その光景は一瞬だった。


気づけば、もう少女の姿はなく、トラックはそのままの勢いで歩道の柵を壊し、僕に激突していた。

「ああ」

もう何も言えなかった。もしあの時少女を助けられていたら、僕は少女とともに助かったのかもしれない。もしあの時、少女を見捨てていたら、僕だけでも助かったのかもしれない。


僕の脳裏に少女の乾いた笑みがよぎる。あれは僕を笑っていたのかもしれない。堂々巡りで結局何もしない僕に呆れていたのかもしれない。

思えば、こんなことばかりだった。”もし”を考えて何もしない。そんな短い人生だった。一瞬なのに長いこの瞬間で流れた走馬灯には、理想を諦めた自分の姿があった。


それを見て僕はふっと笑った。意識は途切れた。

~~~~~~


少女は確信した。

「わたしだ」


あの家が確かに自分の家であるのを。

今のように、少女は横断歩道の真ん中に立っていたことがあるのを。

危ない、という声がどこかから聞こえた覚えがあることも。


家の扉が独りでに開いた。いつの間にかトラックは少女を通り過ぎ、歩道に激突していた。男性の石像は、その破片が光の粒に変わり消えていく。


「ただいま」

少女はそう言わなければならない気がした。見覚えのある廊下が続く家の中に、少女は恐る恐る入った。





扉を閉めたら景色が変わった。

ウサギやクマのぬいぐるみがピンク色のかわいらしいベッドの上に座っている。

「ここ、わたしの部屋だ」

机の上には書きかけの宿題があり、床には自由帳が白紙を開けたまま置いてあった。

その部屋の真ん中に、見覚えのある女の子の石像があった。


「これは、もしかして、アンちゃん?」

彼女は机の上でノートに何かを書いていた。石像になっていた。

「アンちゃん、だよね?」

少女は彼女に近づいた。


『レイちゃん?』

「そう!そうだよ、アンちゃん!」

少女は自分がレイという名前であることを思い出した。同時に、アンが自分の幼いころからの親友であることも思い出した。


「どうしてわすれていたの」

『レイちゃん、あの頃は楽しかったね』

「え?あのころ?」

視界がセピア色に変わり、意識も変わった。



~~~~~~

「アンちゃん、このゲームやんない?」

レイちゃんが、至極うれしそうにゲームのパッケージを見せてそう言った。

「いいね!やりたい!あ・・・でも、まだ宿題終わってない」

「あとで手伝ってあげるから、ほら!」

「うん、わかった!やろう!」

レイちゃんが満面の笑みを浮かべる。うれしそうだ。このうれしそうな顔をずっと見ていたいと思ってしまう。


「ね、これ、どこで見つけてきたの?」

「うーんとね、お母さんが、これどう?って」

「そうなんだ、おもしろそうだね」

「だよね、私もそう思って」

ダイヤモンドの絵が描かれたゲームだ。説明は何も書かれていない。どこか不気味で楽しそうだった。


「パソコンでやるんだって」

「へー、じゃあやろっか」

レイちゃんはお母さんがゲームを作る人だそうで、よくこんな感じでゲームを持ってくる。持ってくるゲームは全部面白くて楽しい。レイちゃんは私と同じ小学生なのに、パソコンを大人のように容易く使える。


「すごいよね」

「え、なにが?」

「ううん、なんでもない。準備できた?」

「うん!やろう!」

パソコンの画面が暗くなり、ダイヤモンドの文字とその下に絵が現れる。

「どんなゲームなんだろ」

「あ、始まった」

白い服を着た少女が透明なガラス張りの部屋にいる。部屋には少女と同じ見た目をした石像もあった。


「楽しかったねー」

「なんかちょっと怖いゲームだったよねー」

ゲームを初めてから数時間。ようやくゴールにたどり着けた。心がじーんとしていた。

「まさか、ダイヤモンドがそんな意味だったなんてねー」

「うん、ほんとそう。あ、今日も夜ごはん、うちで食べてくよね?」

「え、いいの?ありがとう!アンちゃん」

「じゃ、一緒にご飯作ろ」

「いこいこ!」

レイちゃんがウキウキなステップを踏んで部屋から出ていった。私は彼女の笑顔を見られてずっと心が温かかった。

~~~~~~


「これは、アンの思い出?」

その問いに答えてくれる親友はすでにいなかった。ただ青い扉が、部屋の窓があったところにできていた。


「待って、この思い出のゲーム・・・。最初の部屋、私が最初にいた部屋だ。」

レイは、はっとした表情を浮かべてつぶやいた。

「透明なガラス張りの部屋、私の石像、そこからゲームでは何が起きていたっけ?」

記憶の糸を手繰り寄せる。


「ダイヤモンドの意味、今まで出会ってきた石像、生まれた感情、」

そしてレイはたどり着く。


「私は今、ダイヤモンドの中にいる。石像はみんな、何か傷を抱えていた。大切な何かを失い、絶望して心をダイヤモンドの中に閉じ込めた。そのときもっていた感情と一緒に。そして、私はその体験をすることで、その感情を手に入れてきた・・・」

レイはかぶりを振る。その長髪が右に左にと揺れる。


「いや、それだとおかしい。アンは何も失っていないはずだし、最後の思い出は幸せだった。それに、どうして負の感情ばかりを私は手に入れてきたんだろう。」


レイはその場に立ち尽くし考える。その背丈には似合わない、かわいらしい部屋で、おもちゃのように小さい椅子に座って、考える。情報が少なすぎて、何も浮かんでこない。


「きっと何かがあったんだ。」

そしてその答えはこの扉の先にある。そんな気がしていた。


レイは颯爽と立ち、青い扉を開けた。扉も少し小さいように感じた。





足を踏み入れると、透明な、ガラス張りの部屋がそこにはあった。最初にいたところだとわかったのは、そこにあった少女の石像を見たからだ。


「あれは、やっぱり、私だ」

『やっと、もどってきた』

少女が喋った。ガラス窓に反射するレイの姿は、いつのまにか背が伸び大人になっていた。着ていた白いドレスだけは依然身に纏っていた。


「あなたは、昔の私?」

『そう。そして心の中の私でもある。つまり私は全てを見てきた。あなたが笑っているときも苦しんでいるときも』

「苦しんでいる、とき・・・」

少女は深くうなずき、何も喋らなくなった。きっとこれが最後の部屋なのだろう。が、やることは変わらない。少女の石像の題を読むだけだ。


「確か、最初は『わからないまま朽ちていく少女』だったような。変わったのかな?」

そう思い、レイは石像に近寄った。少女は凛とその場に立っていた。


『目覚め』

意識は暗く深い過去の記憶へと沈んでいった。



~~~~~~~

私にはアンという親友がいる。アンとは中学生の時に知り合って以来ずっと遊んでいた。

出会いは、アンが私を助けてくれたことだった。私が同級生の女子からいじめられていたところを。泣かされるたびに、アンに泣きついていたような気がする。そんなアンは、私が笑顔に変わるのを見て、よかったと笑顔を浮かべるのだ。そんな、親友だった。


「あら?あんた、レイじゃない?」

私はその声にひどく驚き肩を震わせた。聞き覚えのある声、身にこびりついたその声に、条件反射で怯えていた。

「あんたはっ!」

「は?あんた?そんな言葉遣い、許した覚えないけど。レイ、お前、高校行って私たちと離れて、生意気になった?今から、ちょっと顔貸しなよ。」

「え、でも、アンと・・・」

と言い訳をしようとして決意した。私はいつも押し切られてはっきりと断れないこの性格のせいでいじめられて、結局アンに泣きついてきた。久しぶりに会ったいじめっ子とはいえ、もう高校も違う。そう思って私はきっぱり断った。


「いや!もう、言う通りにはしない。私これから用事あるから。」

そう言って彼女に背を向けた途端、髪の毛を強く引っ張られ、硬いアスファルトに押し倒された。

「やっぱ生意気になったよね。」

彼女はそう言って、私の顔を踏みつぶした。悪夢がよみがえる。久しぶりの慣れた痛みに身体が震え出す。


そこからは何も覚えていない。気づけば、身体がきしむほどあちこちに痛みが走り、唇から血が出ていた。彼女は去り際、笑いながら衝撃のセリフを残していった。

「あ、そういや、アンって言った?あの子とまだ一緒にいたんだ。知らなそうだから言っとくね。」

彼女は私の耳に口を近づけ言葉を吐いた。

「あの子だよ、あんたをいじめてって私に言ったの。そうじゃなきゃ、あんたなんかおもちゃにしなかったし。」

「え?」

時が止まった気がした。だとしたら、アンは、私をいじめから助けたのは自作自演だったことになる。


「いや、そんなわけない!」

強く否定した。だが、否定よりもその根拠を肯定する理由の方が出てくる。そういえば、私を助けた時、私をいじめたあいつらの顔には戸惑いが広がっていた。そういえば、あいつらが私をいじめ始めたタイミングは少しおかしかった。あいつらと接したこともなく、クラス替えの時期でもなかった。いつもでは気にならないようなそんな綻びが、私の心を不安にさせる。


「でも、本当にそうだとしたら、」

携帯が鳴っている。きっとアンだろう。待ち合わせの時間を思いきり逃している。ラーメン屋のダストから香る脂っこい匂いの下で、痛い体を抱え寝ころび続ける。

「本当にそうだとしたら」

平気に笑う表情も、泣きついた私を慰める行為も、今までの思い出も全部もはや怖い。歪んだ私への愛情で、全て説明がつきそうで怖い。そして、ゆるせない。


そこからどうやって家に帰ったのかもわからない。気づけば留守電の溜まる携帯を手に、布団の中にくるまっていた。どうせ親はずっと家にいない。そのときばかりはアンが家に来ないことを願っていた。


学校を休み、一日中一人で家にいるうちに、徐々にアンへの嫌悪感が生まれてきた。親友だと言い合ったあの日々全てに嫌悪した。この家には、自分の部屋には、特にアンとの思い出が詰まっている。だからこそこの家に反吐が出る。私は一日中疲れ果てるまで暴れ回った。部屋中のものを壊してまわった。


ピンポーン

家のチャイムが鳴った。恐れていたアンが来た。

「レイーー!どうしたのーーー?入るねー」

そう言って彼女は持っている合鍵で私の家に入った。そのまま部屋の前まで来る足音がする。

コンコン

「レイ?何があったの?」

私は無言で布団の中にくるまる。彼女の声さえもう聞きたくなかった。


「話したくないんだね。わかった、聞いてるかわかんないけど、ここで話すね。」

そう言って彼女は扉を背もたれにしてそこにすとんと腰を下ろした。


「私ね、レイには言ってなかったんだけど、中学生の頃、いじめられてたんだ。同じやつ、あいつらにずっとひどいことされてた。ある時、そのいじめが急にちょっと和らいだの。どうしてかな、私の反応が薄くて飽きたんだと今なら思うけど、その時は助かったって思ってた。でも、いつだったか、あいつらが人を嘲笑ってるのを見かけたんだ。ついていって見ると、レイが私と同じことをされてた。ゆるせなかった。標的を他の人に変えたのも、それを知らなくて助かったって思ってた私もゆるせなかった。でも、そんなことを思う前に、気がつけば、足が動いていた。いじめられてた頃の恐怖で震えが止まらなかったけど、なぜか足は動いたの。そこからは知っての通り。私も結構殴られたけど、なんとか助けることができた。」


彼女はそこで一息ついた。

「急に何言ってんだろ。レイ、私もあんたにいっぱい助けられてるの。レイの笑顔、見るだけでなんか悩みも吹っ飛ぶ気がして。だから、また、私にそのかわいい顔見せてね。今日は帰るね、またね」

嵐のように去って行った。私は慌てて扉を開けるが、そこに彼女の姿はなかった。追いかけることすらできなかった。虚空へ伸ばした手は何を掴むでもなく、ひっこめた。


部屋の電気をつけると、私が今朝暴れ回った痕跡が至る所に傷として残っている。

「私は、何してたんだろ。憎いあいつらの言うこと信じて、親友のアンを信じきれなくて。変に疑ってゆるせないって怒って、勝手に嫌って、あげくまた慰められて。ほんと何様だよ。」

アンに合わせる顔がなかった。勘違いで彼女を恐れ嫌った、少し前の自分を殺したくなった。彼女の話を聞いて後悔をした今の自分を殺したくなった。裏切ったのは私の方だった。


気づけば、そのまま何も考えず家の外に出ていた。


横断歩道。信号は赤。マスクをつけた若い男が手を伸ばして何か叫んでいる。彼の見ている方に目をやると、猛スピードでトラックが近づいてきている。今走って逃げれば命は助かるはずだった。

「でも、もういいや、ごめんね」

乾いた笑みを浮かべ、トラックに向き直った。


クラクションが鳴り響いた。宙に跳ね上げられ、意識はすぐに途切れた。

~~~~~~~


「何してんだろ、私。」

目の前の、石像が崩れていく。その中から、黒い服を身に纏ったそのままのレイが現れる。

「アンがここにいたのは、私を失ったから、か。幸せな気持ちとともにダイヤモンドに吸い込まれたんだ。」

『そう。私の身勝手な感情が彼女をそうさせた。だからこの中にとじこめた。』

黒い姿のレイが口を開く。歪な鏡を見ている気分だ。


「アンと出会ったのは中学生の頃。こんな子ども染みた姿じゃなかった。」

『彼女の妄想だ。傷も何もない幸せを彼女は最も望んだ。』

「彼女に会えたら謝ろう。」

『果たして、本当にここから出られるのか?』

黒服のレイが覚悟を問う。


『このダイヤモンドの中で、感情が暴走することは決してない。ここにいれば、彼女を傷つけることも自分を傷つけることもない』

まっすぐにレイを見つめ、そして心に視線を移す。

「でも、それじゃあ、喜びが、この幸せがアンに伝わることもない。そんなの悲しすぎるよ。なんて言われてもいい、嫌われてもいい、ごめんね、ありがとうと、ただそれだけを彼女に伝えたい・・・!」

目と目が合う。

『ならば』

そう一言だけ置いて、黒服のレイがどこからか出したナイフを手にした。


『私から逃げろ。このダイヤモンドの中から出るのだ。』

今までもそうしてきた。逃げて、逃げ続けて得られるものがあった。黒服の言葉を聞いた瞬間、レイはなりふり構わず走り出していた。透明でガラス張りの部屋、先程までは外への出口すら見えなかったのに、気づけば扉の輪郭が浮き出ていた。


後ろは振り返らない。ここに戻ってくることもない。だが、きっとこの黒服のレイは、現実で生きるレイの心をこれからも見ていくことになるだろう。


扉の前に立ち、ドアノブを回した。外の景色は青空が広がっていた。床も地面もないその空へ、レイは一歩を踏み出した。


「ありがとう、私」

黒い服を着たレイは最後に小さく笑い、ダイヤモンドの中へ散っていった。





目を開けると、見慣れた、でも会いたかった、アンの心配そうな顔があった。

「レイ!」

起き上がる暇もなく、彼女は首元に抱きついてきた。

「アン・・・」

私はその顔を見てひどく心が苦しくなった。と同時に、なぜかほっとしていた。


「アン、ごめんなさい。」

「レイ!よかった、生きててくれてほんとに、ほんとによかった」

涙で声がしゃがれてしまう。頬を伝った涙はダイヤモンドのように、透明で澄んでいた。


「アン、ありがとう」

私はそう返して、彼女を抱き寄せた。肩に顔を乗せ、彼女のセーターに涙がにじむ。窓から見える青空の向こうで何かが光った気がした。


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